言いっぱなし。そんな風に気楽に放言させてもらいます。
いつまで生きていられることやら。今のうちに普段思っておることを書き散らかせてもらいます。
〈1〉聖書の心は忘れられやすい論語読みの論語知らず、という言葉がある。聖書を読んでも実は聖書を知らないことがある。聖書読みの聖書知らず、ということは大いにありえる。ファリサイ派や律法学者はそうだった。最も聖書を知っていたのに、聖書の心を知らず、来るべきメシアを迫害した。現代でも聖書や神学に詳しい者が、キリストが実際においでになると迫害するだろうことはありえる。聖書は心で読まなければならない。聖書の心・聖書の文底は忘れ去られやすい。イエス・キリストの愛の啓示は忘れられやすい。いつの間にか、イエスの神は恐ろしい神だ、というふうに変わってくる。愛の神ではなく正義の神、旧約時代の神となってしまう。神の清さを強調するために、人間の悪を極度に強調したヤンセニズムなどは大変厳しい神観を信者に植え付け、行き過ぎた畏怖の心を起こ...罪があふれるところに、恵みはさらにあふれる
ヨハネ福音書の有名な出だしに、「初めに言葉があった」というのがある。新約聖書はギリシア語が原語であるが、この出だしを訳すのは難しい。ギリシア語では「初めにロゴスがあった」となる。そしてこのロゴスという言葉は実にいろいろな意味があって「言葉」と訳すだけでは実に物足りない。ギリシア語のロゴスには「理性」「道理」「法」「宇宙を貫く真理」などいろいろな意味がある。当時のヨーロッパ哲学の中では特別な意味合いで用いられていた。聖書にもともとあった「言葉」の概念もあるが、ギリシア哲学、ローマ哲学に見られる有名な「ロゴス」の概念を、キリストを説明するものとして使ったような感じがある。ヨーロッパ世界の人々にはこれでピンと来たに違いない。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」そしてこの言葉(ロゴス)こそイ...キリストの神性
キリストによってさまざまな価値転換が行われた。ユダヤ人よりも異邦人が救われる。大人よりも子供たちのほうが天の国に入る。正しい人ではなく罪人を救うために来た。富んでいる人よりも貧しい人々が幸い。あとの者が先になり、先のものが後になる。旧約聖書の中でユダヤ人は神から選ばれた選民であった。キリストもユダヤ人であり、ユダヤ人の間で宣教したが、ユダヤ人が捨てられ、異邦人が救われるだろうという予言がなされる。といっても、初期のキリスト信者は皆ユダヤ人であったから、捨てられるといっても皆ではないが、ユダヤ人はキリストを死に追いやり、また、その後もユダヤ教の宗教指導者たちがキリスト教を迫害することになる。しかしいずれ、神はユダヤ人たちを顧みてくださる、とパウロは言っている。また大人ではなく、子供のような心を持つ人こそが天の国に...すべての人の救い
信仰によって救われるか、行いによって救われるか、過去から議論がある。結論から言うと、どちらともだ。イエスは、各自がその行いに応じて報いを受ける、とおっしゃっている。これだと「行い」になる。しかしパウロは「信仰によって救われる」と言う。両方だけれども、イエスへの信仰なしには救われない。そういう意味では「信仰による救い」になる。さて、旧約時代だと、正義の神に対して私たちの行いが重要だった。しかし実際私たちは自分の行いだけでは救いに達することはできない。自分では気がつかなくてもそれほど罪深い。だからキリストが私たちの罪を背負って死んでくださったことにより、救いが可能となった。私たちはこのキリストを信じることにより、罪が許され、神の子とされ、イエスの功徳をまとわせていただける。この意味からするとキリスト教は基本的に他力...信仰によって救われる
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