モノクロームフイルムで、そしてエクタクロームで撮った北の鉄道。 1966年から40年、北海道風景の記録。
ミートソースとナポリタンがスパゲッティだった。希少な料理かと言えば然に非らず、喫茶店や洋食屋の、デパートの大食堂の定番メニューであり、当然に家庭でも食されて即席製品も売られていた。マ・マーマカロニ社(当時に日本マカロニ)が1960年には発売したと聞く「ゆでスパゲッティミートソース」である。所謂乾麺では無く、茹で上げられた状態で袋詰めされ、それを袋ごと湯煎すれば良いのだった(残念ながら電子レンジの普及は197...
七飯村との表記は1879年の飯田村との合併に際して改めたもので、それまでは七重村と称した。函館湾岸には七重浜の地名があり、七重(七飯)の沿岸部ゆえの呼称と単純に思っていたのだが、どうもそうではないらしい。七飯村から七飯町は大野平野が尽きる内陸の地域であり、その区域が湾岸まで及んだことは無い。先住民の地名に由来するだろうが、生活や行動に重要な地点に名称を付した彼らが、確かに内陸から湾岸に及ぶまでの広域地名...
初めのうちは、謂わずと知れた「銀バコ」である。いやいや、それには前史がある。親父から初めて与えられたカメラ、リコーのオートハーフは付属のケースに収め、ご多分に漏れず首からぶら下げていた。家からさほどに遠くない手稲や、自転車で札幌市街地を横断して苗穂界隈の線路端に立っていた姿は、これであった。首下げは、NikomatFTに50ミリf2(当時には「5センチ」と言っていた)と135ミリf3.5(これも「13.5センチ」)の交換レン...
沼ノ端は和名には違いない。それでも、先住民族によるトゥンケスto-um-kes(=沼・尻・末端)の地名が在って、その意訳かと思っていたのだが、どうもそうでは無いらしい。研究者(探求者と云うべきか)によれば、この場合の「沼」であるウトナイ湖は、古い地形図にはキムンケトゥkim-un-ke-toと記されていると云う。古には沼の水面は南側にも広がっており(弁天沼がその名残か)、先住民はピシュウンケトゥ pis-un-ke-toと呼んだとされる...
北海道庁が1925年に発行した『北海道道路誌』が、いつの間にか国会図書館デジタルライブラリーに公開されていた。これと、1990年に全3巻で刊行の『北海道道路史』の通読に久々の国会図書館通いをしたのは、つい数年前のことだった。調べ物の意識は無く「読書」のつもりだったから、気楽に読めた。それでも書き取りメモは5センチ位の厚みにはなったものの、新たな疑問も生じてしまった。大抵の場合、道路は広義の交通路の意味におい...
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