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2011/07/21

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  • 熊谷市名勝「星溪園」木霊鎮祭

    本年5月25日に熊谷市名勝「星溪園」で行った木霊鎮祭の様子を動画撮影し、YouTubeで配信しています。翌日に実施した作業は無事に終了しました。どうぞご参照ください。 日時 令和2年5月25日午前10時30分 場所 熊谷市名勝「星溪園」(熊谷市鎌倉町) 祭典 赤城久伊豆神社禰宜 篠田孟宣 主催 星溪園・庭園文化研究会 共催 熊谷市鎌倉町有志 協力 株式会社 森緑園

  • 動画「SEIKEIEN Japanese Park」の配信

    熊谷市名勝「星溪園」について紹介している動画も配信しております。表題と文字解説を英語で表記しているバージョンです。ご参照いただけたら幸いです。「星溪園」には昨年のラグビーW杯の際も多くの外国人観光客がお越しになりました。外国人に愛着の持てる庭園となるためには、身近な市民の皆様にも親しみいただける文化財名勝になる必要があると考えます。 現在、新型コロナウイルスにより6月中の室内利用を中止し庭園のみの見学が可能ですが、事態の収束後は多くの皆様にご来場いただけますようお待ちしております。

  • 熊谷は水車のまちだった

    写真 昭和10年頃(上押切) 荒川は熊谷の土地と自然を産み、市の歴史と文化にも大きな影響を与え続けています。荒川と深くかかわりながら、現在では全く消滅した「水車」取り上げてみました。かつて熊谷の産業を支え、自然エネルギーを上手に利用し風土景観に潤いを与えた熊谷の水車に興味をもってくれたらと考えています。 埼玉県の水車については1980年代に埼玉県史編編さん室が総合調査を行った「荒川」の報告が基礎的な研究報告と思いますが、その後の研究はほとんど進んでいない状況です。荒川の水車は熊谷の水車なしでは語れないと思い、簡単な紹介を以前行っています『熊谷市公連だより 第8号 第11号 第14号』(※こちらも、ぜひお目通しください)。 熊谷の水車の特徴は次の点にあります。 1 荒川の水量・水勢を分水した六堰用水路を利用し、市域の集落まわりに水車施設が展開していた。なお、荒川中..

  • 星溪園から世界に向けたメッセージ

    熊谷市名勝「星溪園」は新型コロナウイルス拡大防止対策により6月30日までの室内利用は中止となります。新型コロナウイルスの感染状況も改善し埼玉県も緊急事態措置が解除されていますが、新たな生活様式への変化を含む感染防止のためにご理解をいただきますようお願い申し上げます。なお、庭園につきましては9時から17時まで見学可能ですので、散策をお楽しみください。 星溪園では皆様の利用が再開されたときに備えて、室内外の清掃や庭園の管理等を日常的に行っております。本日は熊谷市の文化財保存修理事業のPR大使を務め、イタリア国立ピアチェンツァ音楽院に留学しているソプラノ・レッジェーロの土田彩花さんが星溪園を訪れ、自身の安全、医療従事者やエッセンシャルワーカーへの感謝の意を込めたメッセージ動画を撮影されました。 今後、音楽院のサイトなどで世界に配信されるとのことです。コロナの収束とともに..

  • 星溪園での「木霊鎮め」の儀式

    木霊鎮めの儀式 伐採作業の様子 熊谷市鎌倉町にある熊谷市名勝「星溪園」には高木のケヤキがあり、台風や暴風などで倒木する危険性があることから樹木を伐採する事業を実施しました。樹木の伐採にあたり立木伐採の祓いとして「木霊鎮め」の儀式が執り行われ、翌日作業に入りました。「木霊鎮め」はケヤキが鎌倉町で愛されていた樹木であったことに鑑みて地元関係者有志によって実施されました。赤城久伊豆神社の篠田孟宣禰宜が神事を担当しました。翌日の作業は安全無事に終了しました。祭典の様子は後程、動画として公開する予定です。

  • 湯殿神社サクラ苗木植樹

     先日5月18日、西別府にある湯殿神社境内南東において、サクラの苗木が神社総代の方々の手により植えられました。 この植樹は、昨年の今頃にお話をいただいていましたが、この地が国史跡「幡羅官衙遺跡群・西別府祭祀遺跡」にあたることから、現状変更には国の許可が必要でした。 植樹箇所は、熊谷市教育委員会による確認調査の結果、既に撹乱を受け遺構が存在しない所に植えることで許可がでました。 サクラの品種は「雅」で、大島系山桜と緋寒桜との自然交配の種で、現在の天皇皇后両陛下が御成婚された際に、皇后陛下の雅子様の「雅」をいただいて、当時「プリンセス雅」と名付けられたものです。 お話があってから約1年かかりましたが、元気に育ち、名のとおり優美な姿のサクラに成長することをお祈りいたします。 手掘りにて植樹箇所を掘削記念碑も建てられ植樹が完了

  • 石川 小松の旅ー多太神社を訪ねてーその2

    江戸時代の俳人、松尾芭蕉は「奥の細道」巡行の途中、多太神社を訪れ実盛の兜によせて次の句を残しています。 「 むざんやな 甲の下の きりぎりす 」 多太神社のパンフレットによると、この句は木曾義仲の家臣樋口次郎兼光が首を検めた時「あな無慚、実盛にて候」から来ており、きりぎりすは、今のこおろぎ(蟋蟀)、栄枯盛衰の情を哀切に詠った名句であるとあります。 多太神社の参道脇には、芭蕉の石像と句碑が並んでいました。 芭蕉が実盛を偲んで詠んだこの句は、熊谷でも親しまれています。妻沼聖天山の北側には、昭和54年に聖天山開創800年を記念して建立された句碑が建てられています。 また室町時代には、世阿弥が謡曲「実盛」を書き、歌舞伎の演目『源平布引滝』の中でも三段目の「実盛物語」はとくに有名です。 多太神社では、毎年7月下旬に実盛を偲ぶ「かぶとまつり」が開催され..

  • 石川 小松の旅ー多太神社を訪ねてーその1

    石川県小松市にある多太神社を訪れたのは、昨年の8月。お目当ては、斎藤別当実盛の兜です。 妻沼の聖天さまを開いたことで知られる斎藤別当実盛公。ここ多太神社には、実盛の兜、鎧の大袖、脛当が奉納されています。奉納したのは、信濃の武将、木曾義仲。 みなさんは『平家物語』巻7「実盛」で語られる、実盛と義仲の切ないエピソードをご存知でしょうか。 義仲が駒王丸と称していた2歳のころ、父・源義賢は大蔵(嵐山町)の戦いで甥の源義平に討たれます。危うく斬られるところであった駒王丸は、実盛に保護され木曽に送り届けられます。保元の乱、平治の乱では源義朝につき活躍した実盛は、その後、平家方との結びつきを強くし、源平合戦では一貫して平家方につきます。篠原の戦いに、老武者として侮られないようにと、白髪を墨で黒く染めて出陣した実盛は、木曾義仲の軍勢と戦います。実盛は疲れも重なり、木曾勢の手塚太郎光盛..

  • 『体と心 保健総合大百科<中・高校編>2020』の刊行

    少年写真新聞社『体と心 保健総合大百科<中・高校編>2020』が刊行されました。 同書には、現在の熊谷市出身で女性初の公認医師となった荻野吟子特集の壁紙新聞の縮刷版と解説コラムが掲載されています。同掲載内容の監修と解説コラムの作成を江南文化財センターで担当しました。通常、壁紙新聞は契約者のみの販売となり、一般購入の場合は本書をご利用ください。ご参照いただけたら幸いです。 刊行概要 『体と心 保健総合大百科<中・高校編>2020』 ISBN 9784879817006 出版社 少年写真新聞社 判型 A4 ページ数 288ページ 定価 3771円(本体) 発行年月日 2020年04月 内容紹介(同社ホームページから) 2018年度の 「中学保健ニュース」と「高校保健ニュース」、「心の健康ニュース」の掲示用カラー紙面、B3判特別紙面、指導者用..

  • 講演「エリザベス・ヴァイニングと棚澤慶治―皇室ゆかりの米国人と熊谷を代表する歌人の交流をめぐって―」 動画配信

    1月に成田公民館で開催した講演「エリザベス・ヴァイニングと棚澤慶治―皇室ゆかりの米国人と熊谷を代表する歌人の交流をめぐって―」 (熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹)の様子をYouTubeで配信しています。 1949年(昭和24年)12月29日、少年時代の明仁親王(上皇殿下)の家庭教師を務めていたエリザベス・ヴァイニング氏が、熊谷市中西の歌人であり農家の棚澤慶治氏邸を訪れています。これは日本の農家や習俗の状況を視察するためのもので、迎春の餅つき風景などを見学しました。この経験はヴァイニング氏の『皇太子の窓』にも詳しく記されています。棚澤氏とヴァイニング氏との交流が戦後熊谷の文化振興に与えた影響などについて説明しています。どうぞ、ご参照ください。

  • 福島 喜多方の旅ー會津大仏を訪ねてー その2

    喜多方は福島県の西側に位置し、山形県と新潟県に接しています。県の内陸部なので、東日本大震災の影響はさほど無いように考えていましたが、実際には甚大な被害を受けていました。 たまたま、災害の前の年に、楼門、本堂、千佛堂の3棟が県の文化財指定を受けていました。そのため、修復費用の一部が県から出ていますが、寺も多くを負担しなければなりません。建物と仏像修復の総工費は、実に11億6千万円。気の遠くなるような金額です。願成寺を訪問した令和元年11月、被害復旧の工事と寄付金募集の活動が続けられていました。 楼門 本堂 千佛堂 堂内を一通りご案内いただいた後、庫裡でご住職様にお茶をご馳走していただきました。古い庫裡、崩れ落ちそうな壁。 「自分のことはどうでもいい。自分が生きているうちに寺を何とかしなければ…。」といつも住職が言っている。と案内してくれた秋葉さんが言っていました。感動しま..

  • 福島 喜多方の旅 ー會津大仏を訪ねてー その1

    福島県喜多方市にある願成寺を訪れたのは昨年の11月。現在進行中の源宗寺本堂保存修理事業の参考視察のため、当事業にご協力いただいている吉備文化財研究所の牧野隆夫先生から願成寺についてのお話を伺ってのこと。牧野先生は、「仏像の町医者」と呼ばれ、これまで全国各地で約300体もの仏像修復を手がけられています。牧野先生が修復を手がける仏像の多くは、国からの補助金が手厚く、きちんと保存管理されてきた国宝級の仏像とは違い、地方にあって、補助金も手薄で保存管理もままならず、放置されてきた仏像たち。 牧野先生が修復を手がけたうちの一つが、福島県喜多方市にある願成寺の阿弥陀三尊像です。通称「會津大仏」と呼ばれています。 現地では、ご住職様と寺院関係者の秋葉様が温かく迎えてくださり、境内を案内してくださいました。 光背の千体化仏で有名な阿弥陀如来座像を中尊とする観音菩薩像、勢至菩薩像の阿弥陀三..

  • 伝承遊びを伝える会著『囲碁』と国宝「歓喜院聖天堂」「琴棋書画」

    伝承遊びを伝える会著『囲碁』 国宝「歓喜院聖天堂」拝殿正面の「琴棋書画」 伝承遊びを伝える会著『囲碁』が刊行されました。 熊谷市妻沼の国宝「歓喜院聖天堂」にある彫刻「琴棋書画」などを紹介し、 囲碁の歴史を分かりやすく紹介しているガイドブックです。 画像の提供と説明内容の監修を行いました。 「琴棋書画」は、琴と碁と書と画を意味し、昔、現在の中国においてこれを四芸と称し、士君子の余技や風流人の嗜みとして尊ばれました。画題として好んで描かれ、日本でも襖絵、屏風絵などに多く描かれています。聖天堂では拝殿正面破風の下部にこの題材の彫刻が置かれています。 伝承遊びを伝える会著『囲碁』 概要 内容(「BOOK」データベースより) 伝承遊びのひとつである「囲碁」について、興味をもつきっかけになる本です。囲碁が長く愛されたのはなぜか、歴史上の偉人..

  • 熊谷西小学校からの埋蔵文化財等の搬出について

    本日は、熊谷西小学校から埋蔵文化財等を搬出する作業を行いました。 熊谷西小学校では空き教室を借用し、遺物の収蔵庫としていましたが、学校側で別途使用したいとの話があったことから、引越しすることになりました。 運搬業者に依頼し、トラック3台分に梱包済みのコンテナ300箱、報告書が入ったダンボール100箱を総勢、13名の方々に運んでもらいました。 コンテナには古代瓦や、石器が満載されているものもあり、運び出しに大変苦慮されていましたが、順調に搬出できました。搬出先は、江南文化財センターとくまぴあに分散し、保管することとなります。 教室内、搬出準備状況 トラック積み上げ状況

  • 伝承遊びを伝える会著『囲碁』と国宝「歓喜院聖天堂」「琴棋書画」

    伝承遊びを伝える会著『囲碁』 国宝「歓喜院聖天堂」拝殿正面の「琴棋書画」 伝承遊びを伝える会著『囲碁』が刊行されました。 熊谷市妻沼の国宝「歓喜院聖天堂」にある彫刻「琴棋書画」などを紹介し、 囲碁の歴史を分かりやすく紹介しているガイドブックです。 画像の提供と説明内容の監修を行いました。 「琴棋書画」は、琴と碁と書と画を意味し、昔、現在の中国においてこれを四芸と称し、士君子の余技や風流人の嗜みとして尊ばれました。画題として好んで描かれ、日本でも襖絵、屏風絵などに多く描かれています。聖天堂では拝殿正面破風の下部にこの題材の彫刻が置かれています。 伝承遊びを伝える会著『囲碁』 概要 内容(「BOOK」データベースより) 伝承遊びのひとつである「囲碁」について、興味をもつきっかけになる本です。囲碁が長く愛されたのはなぜか、歴史上の..

  • 両宜塾

    市内妻沼、歓喜院聖天堂にほど近い住宅街のなかに「両宜塾跡碑」があります。 両宜塾は、江戸時代の儒学者、寺門静軒が万延元年(1860)に開いた塾です。塾の名は、「私はこの家を得て宜しく老い、学ぶものは私を得て宜しく学ぶべし」との静軒の言葉が由来とされています。 慶応3(1867)年、静軒が妻沼を去った後も門人たちによって引き継がれ、明治5(1872)年まで続けられました。その後、老朽化に伴い建物は取り壊され、平成5(1993)年に跡地前に石碑が建てられました。 両宜塾からは多くの著名人が排出され、日本女医第一号の荻野吟子もそのうちの一人です。 静軒は、奈良村の吉田市右衛門家や鎌倉町の石上寺、大里の根岸家に身を寄せるなど、熊谷の偉人たちとも深い関わりがありました。

  • 令和元年度第2回 コンテンツ活用講座「妻沼の聖天さま〜地元に愛される埼玉県内唯一の国宝建造物〜」

    上映会と講演 トークセッション「妻沼の聖天さま 〜地元に愛される埼玉県内唯一の国宝建造物〜」 youtube SKIPシティチャンネルで配信中です。どうぞご覧ください。 2020年2月2日、埼玉県川口市の彩の国ビジュアルプラザで、熊谷市妻沼の国宝「歓喜院聖天堂」の映像作品「しょうでんさま 国宝 歓喜院聖天堂」の完成上映会が開催され、約300人が参加しました。 この作品は埼玉県と株式会社デジタルSKIPステーションが実施している映像コンテンツ事業として、昨年9月から12月まで聖天堂や地域の史跡などを撮影。委託先の株式会社ソニーPCLが制作し、1月に完成しました。 完成上映会では、映像公開の後、国宝指定に向けての調査研究に関わった熊谷市教育委員会の山下祐樹主任が「歓喜院聖天堂の美と信仰」と題して講演し、 聖天堂の彩色復元を担当した株式会社小西美術工藝社のデ..

  • 備前渠用水路

    以前、当ブログでも取り上げた伊奈備前守忠次。市内には、中条堤のほかにも、忠次の業績の跡が今でも残されています。 「備前堀」の愛称で親しまれる備前渠用水路は、慶長9(1604)年に忠次が江戸幕府の命により開削した、県内最古の大規模な用水路です。 市内八木田、備前渠用水沿いにある備前堀再興記碑。 備前渠用水は、天明3(1783)年の浅間山の大噴火により、岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がり、度々洪水となり妻沼地域では使用不能となりました。これを幕府に願い出て再興したことを記念して天保4(1833)年に建立したのが本碑です。 再興には、吉田市右衛門宗敏が、備前渠用水の復興のために奔走し、金200両の大金を寄付しており、碑文には吉田市右衛門宗敏への感謝の内容が江戸の名石工「窪 世祥」により刻まれています。 吉田市右衛門宗敏は、代々下奈良村の名主をつとめた吉田家..

  • シンポジウム「北関東社寺建築・彫刻の調査研究をめぐって」動画公開

    熊谷市西城の長慶寺で開催された「北関東社寺彫刻シンポジウム」の様子を動画で公開しています。 昨年12月、パネリストに、一級建築士の小島恵理子さん(群馬建築士会 歴史的建造物保全活用専門家・ヘリテージマネージャー)と、社寺彫刻研究者の今井玲子さん(NPOひがしこだいら理事)を迎え、長慶寺の安井俊隆住職とともに、妻沼地域の建築彫刻の系譜などについて語り合いました。コーディネーターを熊谷市立江南文化財センターの山下祐樹主任が担当しました。社寺の中で彩り豊かに形作られた精緻な彫刻に対する関心は高く、シンポジウムへの来場者も定員を超える人数が集まりました。現在は「ステイホーム」としてご自宅などで社寺彫刻に思いを馳せる方々も多いと思いますが、事態の収束後、実際に多くの彫刻群を目にできる日が一刻も早く訪れることを祈っております。本動画を予習用としてご参照いただければ幸いです。 ..

  • 熊谷の名工 林兵庫

    近世近代期の熊谷市の大工棟梁や彫刻師の手掛けた建物や彫刻を紹介してきましたが、まだまだ、名工と呼ぶべき人々がおります。その一人は林兵庫正清といい、妻沼に拠点を置いた大工棟梁林家の人物で幕府の作事方大棟梁の平内家とも関係が深いとされます。日光東照宮をはじめ幕府主導の建築物に関与しています。また、林家に連なる大工棟梁には三ヶ尻の内田清八もおり、市内の寺社建築を手掛けています。 妻沼といえば国宝建築となっている『妻沼聖天堂』がその代表的な作品です。建築は林兵庫正清と子息正信が主導し、彫刻は石原常八をはじめとする飯田家、小林家らの一門の彫刻師らが技を競っています。彩色は狩野派の絵師によるものです。林家はプロデューサーとして全体計画と各職人たち管理し指示しています。その後も林家をはじめ門弟たちや彫刻師らはチームを組むかのように三峯神社本殿・拝殿(秩父市)や箭弓神社本殿・拝殿(東松山市)、八..

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