栃木県佐野市2:植野■2025年6月22日(日)【歴史】佐野プレミアム・アウトレットと東武鉄道佐野線の田島駅および佐野市駅に挟まれた植野地区は、江戸時代の後期に佐野藩の藩庁が置かれていた。5代将軍徳川綱吉の大老を務めた堀田正俊が1684年に暗殺された後、三男の正高に1万石が分与され、佐野藩が再興された正高は1698年に近江国堅田に移封され初代堅田藩主となったが、1825年に6代藩主正敦が藩庁を堅田...
長野県中野市■2019年7月28日(日)1:中野【歴史】戦国時代(16世紀前半)の中野は、北信濃の有力武士だった高梨氏の本拠地だった。高梨氏は清和源氏を名乗っていたが、実際の出自は不明である。高梨氏は武田氏が信濃に侵攻するまでは独立を保っていたが、武田氏の侵攻後は上杉氏を頼って落ち延び、上杉氏の家臣になった。居館跡は堀と土塁の遺構が良好に現存し、国指定の史跡に登録されている。居館の周囲は空堀で囲ま...
長野県小布施町■2019年7月28日(日)1:小布施【歴史】小布施は江戸時代の新田開発により誕生した町だった。小布施は千曲川の舟運と谷街道が通る交通の要衝で、商業が発達した市場町となった。なお、谷街道は善光寺街道の稲荷山宿から分岐し、小布施や松代を通り、飯山へ至る街道であった。江戸時代の小布施は天領に属し、18世紀前半の一時期には陣屋が設置されていた(後に中野陣屋に統合された)。陣屋跡は竹風堂の店...
長野県須坂市1:須坂■2015年12月13日(日)■2019年7月27日(土)【歴史】江戸時代の須坂は、須坂藩の陣屋町だった。須坂藩の初代藩主は、堀直政の四男である堀直重である。直重は関ヶ原の戦いの軍功で須坂を拝領し、大阪の陣の軍功で加増を受け、大名に列した(1万石)。直重の跡を継いだ直升は、須坂に陣屋(須坂陣屋)を建築した。陣屋の遺構として、時鐘を鳴らせた鐘楼が現存する。須坂小学校の北側の石垣は、...
長野県佐久市2:岩村田■2019年7月15日(日)【歴史】鎌倉時代から室町時代にかけて、岩村田は大井氏が治めていた。大井氏は信濃国の守護職を務めた小笠原氏の庶流で、小笠原長清の七男の朝光が祖と伝えられている。しかし、大井氏の宗家は1484年に村上氏に敗れ、滅亡した。大井氏が築城した大井城は、王城、石並城、黒岩城が谷によって分断されている平山城である。大井城は長野県指定の史跡になっており、王城のケヤ...
長野県佐久市1:臼田■2019年7月15日(祝)【歴史】旧臼田町の田口は、江戸時代中期から奥殿藩の領地で、田口には田野口陣屋が設置された。なお、奥殿藩の藩庁は奥殿(現在の愛知県岡崎市)にあった。しかし、奥殿藩の領地の大部分は、臼田を中心とした信濃国にあった。1863年、奥殿藩8代藩主の松平乗謨(のりあきら)は、藩庁を奥殿から田野口に移し、龍岡城(詳細は史跡①を参照)を築いた。乗謨は学才に優れ、洋学に...
長野県軽井沢町2:追分■2019年7月14日(日)【歴史】江戸時代の追分は、中山道の宿場町(追分宿)だった。追分宿は標高が1000メートル付近にあり、中山道で一番高い場所にある宿場町だった。また、追分宿の規模は中小クラスで、比較的旅籠が多かった。町の名前の通り、追分宿は中山道と北国街道(追分から越後国直江津を結ぶ街道)の追分があった。右に進むと北国街道、左に進むと中山道に進んだ。追分には、石碑、石...
長野県軽井沢町1:軽井沢■2019年7月14日(日)【歴史】江戸時代の軽井沢は中山道の宿場町(軽井沢宿)だった。明治時代になると、中山道の道が、難所の碓井峠を通るルートから現在の国道18号が通るようなルートに変更になった。このルート変更により、街道が軽井沢宿を通らなくなったため、軽井沢宿は急激に衰退し、生活の糧がない状態になってしまった。しかし、明治時代に軽井沢宿は国際的な避暑地になったことで繁栄...
長野県小諸市1:小諸■2013年4月28日(日)■2019年7月13日(土)【歴史】江戸時代の小諸は、小諸藩の城下町だった。豊臣秀吉の小田原征伐の後、小諸には仙石秀久が5万石で配された。秀久は斎藤龍興、織田信長、豊臣秀吉に仕え、九州征伐の大失敗で一時改易されていたが、小田原征伐で大活躍したことから大名に復帰した。秀久は戦国時代に築城されていた小諸城(詳細は史跡①を参照)を近世城郭に改築し、小諸藩の藩...
富山県富山市3:八尾■2019年7月7日(日)【歴史】戦国時代の八尾には、浄土真宗の聞名寺が建てられ、門前町があった。寛永年間、井田川の洪水で流域の村々が大きな損害を受けると、人々は聞名寺のある井田川の河岸段丘上に移り住み、八尾の町が形成された。八尾の諏訪町本通りは「日本の道百選」に選定されてから町並みが整備され、道路が御影石の石畳で整備された。諏訪町本通りは長い坂を含むため、独自の景観となってい...
富山県富山市2:岩瀬■2019年7月7日(日)【歴史】岩瀬は中世から港町が発達し、岩瀬湊は三津七湊の1つに数えられていた。岩瀬は神通川の河口に位置しているが、1660年の大洪水で神通川の川筋が代わり、湊町が神通川の西岸(西岩瀬)から東岸(東岩瀬)に移った。江戸時代の岩瀬は、神通川の舟運と、加賀藩の参勤交代で使用される浜街道が両方通り、交通の要衝だった。そして、岩瀬湊は北前船の寄港地となり、廻船問屋...
富山県富山市1:富山■2014年8月23日(土)■2019年7月6日(土)【歴史】江戸時代の富山は、富山藩の城下町だった。関ヶ原の戦い後、加賀藩主の座を養子(弟)の利常に譲った前田利長は、戦国時代に築城された富山城を隠居城とした。しかし、1609年に富山城は火災で焼失したため、利長は高岡に移った。その後、一国一城令により、富山城は廃城になった。1639年、利常は次男の利次に10万石を分知し、加賀藩の...
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栃木県佐野市2:植野■2025年6月22日(日)【歴史】佐野プレミアム・アウトレットと東武鉄道佐野線の田島駅および佐野市駅に挟まれた植野地区は、江戸時代の後期に佐野藩の藩庁が置かれていた。5代将軍徳川綱吉の大老を務めた堀田正俊が1684年に暗殺された後、三男の正高に1万石が分与され、佐野藩が再興された正高は1698年に近江国堅田に移封され初代堅田藩主となったが、1825年に6代藩主正敦が藩庁を堅田...
栃木県大田原市2:大田原■2025年6月20日(金)【歴史】1545年に大俵資清は蛇尾川西岸の龍体山に大田原城を築き、自らの姓を大田原に変更した。資清および資清の先祖代々は、中世に下野国那須郡を中心に勢力を誇っていた那須氏の重臣だった。資清の孫の晴清は、豊臣秀吉の小田原征伐で那須氏やその一族および重臣が処罰を受ける中、戦中に秀吉と謁見していたことで所領を安堵された。その後、晴清は所領を没収された那...
茨城県行方市1:麻生■2025年6月14日(土)【歴史】≪中世の麻生~麻生氏による治世~≫中世の麻生は麻生氏が治めていた。平安時代末期の行方郡は、常陸大掾氏の一族である行方氏が治めていた。平安時代末期に行方氏の当主だった行方景幹は1184年の屋島の戦で戦死したため、遺領の行方郡は景幹の4人の子供に分け与えられた。麻生は景幹の三男の家幹が継ぎ、麻生氏を名乗った。麻生氏が根城とした麻生城は現在は羽黒山公...
栃木県日光市4:藤原■2025年6月9日(月)鬼怒川温泉のある藤原には、幕末の一時期に高徳藩の藩庁が置かれていた。1866年、宇都宮藩家老の戸田忠至が宇都宮藩から1万石を分与され、高徳藩が立藩した。忠至は、宇都宮藩2代藩主戸田忠翰(ただなか)の弟である田中忠舜の次男である。そのため、忠舜は宇都宮藩戸田家の分家に当たる。忠至は山陵(天皇の墓)の修復事業を提言し、山陵奉行として事業を完遂させた。また、...
栃木県栃木市3:吹上■2025年6月4日(水)栃木市の市街地から北西に数Kmに位置する吹上地区には、幕末に吹上藩の藩庁が置かれていた。初代久留米藩主の有馬豊氏の三男である有馬頼次は、徳川忠長に仕え、1万石を給されたほどの重臣だった。しかし、忠長が改易されたことで、頼次も失脚した。その後、頼次の子孫は紀州徳川家に仕え、頼次から4代後の氏倫(うじのり)が徳川吉宗の側近となったことで出世し、1万石の大名...
茨城県結城市■2025年1月19日(日)【歴史】≪戦国時代の結城~結城氏の治世~≫戦国時代の結城は結城氏が治めていた。結城氏は、藤原秀郷の末裔である小山政光の三男の朝光が所領の結城を姓として名乗ったのが始まりである。朝光は鎌倉幕府を築いた源頼朝の側近として活躍し、1235年には評定衆にも任命された。晩年は出家し、自ら称名寺を建立したことから、朝光の墓が称名寺にある。結城氏は結城城を築城し、根城とした...
千葉県館山市■2025年1月12日(日)■2025年1月13日(祝)【歴史】≪里見氏の興亡~戦国時代から江戸時代初期までの館山~≫戦国時代の館山は安房里見氏が治めていた。里見氏は源氏の新田氏の分家と言われ、現在の群馬県高崎市榛名町の里見郷から里見氏を名乗ったと言われている。15世紀に鎌倉公方足利氏が上杉氏との戦いを有利にするため、里見義実を安房に送ったことが安房里見氏の始まりと言われている。安房里見氏...
千葉県鋸南町1:勝山■2025年1月13日(祝)【歴史】≪安房勝山藩の歴史≫江戸時代の勝山は安房勝山藩の陣屋町だった。安房勝山藩は、里見氏が伯耆国に配流されて館山藩が廃藩になってから10年後の1624年に内藤清政が勝山に封じられ、立藩した(3万石)。しかし、清政とその弟の正勝が相継いで亡くなると、正勝の嗣子の重頼がまだ2歳であったことから0.5万石に除封され、廃藩となった。なお、重頼の養子の清枚は初...
茨城県水戸市1:水戸■2015年9月27日(日)■2024年12月1日(日)■2025年1月5日(日)【歴史】≪中世の水戸から水戸徳川家の誕生まで≫鎌倉時代、大掾資幹が水戸に水戸城(詳細は史跡①を参照)を築城した。その後、15世紀前半に江戸氏(常陸国那珂郡江戸を発祥とする武士)が水戸城を奪取し根城としたが、1590年に佐竹氏が江戸氏を攻め滅ぼし、佐竹氏の本城となった。関ヶ原の戦い後に佐竹氏が出羽国秋田に...
茨城県桜川市1:真壁■2013年3月2日(土)■2025年1月4日(土)【歴史】≪中世の真壁~真壁氏と真壁城~≫中世の真壁には真壁城があり、多気氏(大掾氏の惣領家)の分家である真壁氏が真壁城を根城に真壁を治めていた。真壁氏は最終的に佐竹氏の家臣となり、関ヶ原の戦い後に佐竹氏の出羽国秋田への転封に随行した。真壁家の墓所が遍照院にあり、約40基の五輪塔が建ち並んでいる。真壁城は堀、土塁、虎口など中世の山城...
茨城県かすみがうら市1:千代田■2024年11月17日(日)【歴史】石岡市との市境に接する志筑地区は、江戸時代に志筑(しづく)陣屋があった地区である。志筑陣屋は、領主の本堂氏によって、中世に築かれた志筑城跡に築かれた。本堂氏の出自は、和賀郡(現在の岩手県西和賀町)で勢力を誇っていた和賀氏の庶流と言われているが、はっきりしない。戦国時代の本堂氏は、現在の秋田県美郷町あたり一帯を支配する小大名だった。...
茨城県石岡市1:石岡■2024年11月17日(日)【歴史】≪古代の石岡~常陸国の中心~≫古代の石岡は常陸国の中心地で、常陸国の国府が置かれていた。常陸国府跡が石岡小学校の校庭から発掘された。また、奈良時代の石岡には国分寺および国分尼寺も建てられていた。国分寺跡の説明板が現在の国分寺の山門前にある。国分尼寺跡は府中小学校の北隣にある。古代の常陸国は朝廷の勢力の及ばない陸奥国と接していたため、陸奥国の蝦...
茨城県下妻市1:下妻■2024年11月4日(祝)【歴史】≪多賀谷氏の歴史~中世の下妻~≫中世の下妻は多賀谷氏が多賀谷城を築いて治めていた。多賀谷氏は武蔵七党の1つである野与党(現在の埼玉県加須市に勢力のあった武士団)をルーツとする一族である。関東の有力な守護大名だった結城氏に仕えたが、結城氏からの独立を度々画策したと言われている。多賀谷城の本丸跡が「多賀谷城跡公園」として整備されている。下妻第一高等...
茨城県筑西市1:下館■2024年10月27日(日)【歴史】≪水谷氏と下館藩の成立≫関東の有力な守護大名だった結城氏の家臣である水谷(みずのや)氏は、1478年に結城氏から下館の地を拝領し、下館城を築城した。下館城は勤行川が流れる崖と沼に挟まれ、四方を幾重もの壕で囲んだ城だった。本丸跡は城山八幡神社になっている。下館城は後の時代に下館藩の藩庁となった。出丸跡は下館公園になっている。水谷氏は出羽国から羽...
神奈川県箱根町■2024年9月29日(日)■2024年10月5日(日)【歴史】≪古代・中世の箱根~山岳信仰・地蔵信仰の霊場~≫箱根は古くから多くの山伏が入峰し修験道の修練を行った、山岳信仰の地である。箱根神社は757年に万巻(まんがん)が箱根山中で箱根権現を感得し、箱根権現を祀る神社を創建したのが始まりと言われている。鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて、地蔵信仰の流行を受けて精進池の周辺に数多くの石...
千葉県佐倉市1:佐倉■2015年10月31日(土)■2024年10月12日(土)【歴史】≪戦国時代から江戸時代前期の佐倉≫戦国時代の佐倉には、千葉氏の家臣である鹿島親幹が城を築いたと言われている。その関係で、馬加(千葉市幕張)にあった千葉氏の菩提寺である海隣寺が佐倉に移されている。佐倉藩がいつ立藩したかは諸説あるが、分かっていることは、1610年に佐倉藩に入封した土井利勝が鹿島親幹の築いた城を近世城郭...
千葉県市原市1:五井■2024年9月23日(祝)【歴史】市原市の中心地である五井は、古代の上総国の中心地だった。≪五井の古墳≫五井には、3世紀後半(古墳時代初期)に造られたと推定される神門古墳群があり、古くから有力な豪族がいたことが窺える。神門古墳群のうち、5号墳が県指定の史跡になっている。また、稲荷台1号墳からは「王賜」と刻印された鉄剣が出土した。稲荷台1号墳自体は宅地開発で消滅し、記念広場にミニ...
千葉県市原市4:市原■2024年9月23日(祝)【歴史】旧市原町の菊間地区は、大政奉還後に沼津藩が移封し、藩庁を構えた地である。大政奉還で江戸幕府が崩壊した後、徳川宗家は静岡藩70万石に減封された。この減封に伴い、沼津藩は玉突き状に上総国に移封となった。*沼津藩の歴史は、静岡県沼津市の記事を参照。沼津藩主の水野忠敬(ただのり)は菊間の千光院を仮陣屋にした後、近くに陣屋を構えた。1871年の廃藩置県...
千葉県市原市2:姉崎■2024年9月16日(祝)【歴史】姉崎には江戸時代末期に鶴牧藩の藩庁が置かれていた。≪鶴牧藩の歴史≫鶴牧藩は1827年に安房北条藩主の水野忠韶が領地替えにより上総国に藩庁を移したことで立藩した。忠韶の家は、水野忠清(水野忠重の四男)の四男である水野忠増を祖とする家柄である。忠増の子の忠位(ただたか)は大坂定番に出世したことで大名となり、跡継ぎの忠定の代から安房北条藩の藩主となっ...
千葉県市原市3:南総■2024年9月16日(祝)【歴史】旧南総町の鶴舞地区は、大政奉還後に浜松藩が移封し、藩庁を構えた地である。大政奉還で江戸幕府が崩壊した後、徳川宗家は静岡藩70万石に減封された。静岡藩の領地は駿河国と遠江国になったため、遠江国の浜松藩は玉突き状に上総国に移封となった。*浜松藩の歴史は、静岡県浜松市の記事を参照。藩主の井上正直は原野だった桐木原を開墾して鶴舞陣屋を構えた。鶴舞陣屋...
神奈川県横浜市5:神奈川■2024年5月4日(祝)《神奈川の地名の由来》神奈川の地名の由来の1つに、かつて神奈川小学校東脇に流れていた上無川(カミナシガワ)が訛ったものという説がある。上無川は水量が乏しく、水源が定かでない川だったと言われている。関東大震災後の復興計画で埋め立てられ、現在は川の姿を見ることができない。江戸時代になると、神奈川は東海道の宿場町(江戸から数えて3番目)になった。当時、中...
神奈川県横浜市4:金沢■2024年4月21日(日)【歴史】《鎌倉時代の金沢~金沢北条氏と金沢文庫~》鎌倉時代の金沢には鎌倉幕府の外港「六浦湊」があったことから、鎌倉幕府の海路を通した玄関口であったと同時に、物流の拠点だった。また、金沢には北条実時が創設した金沢文庫があり、日本や中国の本が大量に収められていた。実時は北条氏の分家の金沢(かねさわ)北条氏の家柄で、2代執権北条義時の孫に当たる。寄合衆な...
神奈川県横浜市3:戸塚■2024年3月30日(土)【歴史】《東海道の宿場町、戸塚宿》江戸時代の戸塚は、東海道の宿場町(江戸から5番目の宿場町)だった。戸塚宿は起点の日本橋から約10里(40Km)の距離にあり、朝に江戸を発った旅人の一番目の宿泊地として最適だった。さらに、戸塚には大山道との追分もあり、大山に参詣する旅人にも利用された。そのため、戸塚宿は53ある東海道の宿場の中で10番目に宿泊施設が多...
神奈川県横浜市2:保土ヶ谷■2024年3月30日(土)【歴史】江戸時代の保土ヶ谷は、東海道の宿場町(江戸から4番目の宿場町)だった。保土ヶ谷宿は1601年に設置されたが、1648年に道筋が変わり、現在の天王町、岩間町、帷子町、保土ヶ谷町が保土ケ谷宿になった。旧古町橋跡は、この道筋の変更の歴史を今に伝えるものである。保土ヶ谷宿の江戸方見附(江戸方面の宿場町の出入口)は、シルクロード天王町商店街にあっ...
神奈川県横浜市1:横浜■2024年2月3日(土)■2024年2月10日(土)【歴史】《横浜はかつて入り海だった》横浜は17世紀まで入り海だった。1656年に江戸の商人の吉田勘兵衛がこの入り海を埋め立て新田開発を行い、1667年に完成し、横浜村が成立した。当時は戸数100戸程度の農村で、村民は農業を主体に閑散期は漁業で生計を立てていた。《日米和親条約が横浜で締結された》横浜は1854年3月8日に江戸幕...
東京都武蔵野市■2024年1月20日(土)【歴史】≪中島飛行場の工場の進出≫1938年、武蔵野市には中島飛行機(SUBARU、日産自動車の前身)の工場『武蔵野製作所』が設立された。中島飛行機は1917年に中島知久平が創設した会社で、主に軍用機を製造していた。設立当初は陸軍用の軍用機を製造していたが、1941年に隣接した敷地に『多摩製作所』が設立され、海軍用の軍用機も製造するようになった。さらに、2つ...
東京都中野区■2024年1月5日(金)【史跡】①哲学堂公園1904年に井上円了が創設した公園で、2020年に国指定の名勝に指定された。井上は哲学者だったが、哲学館(後の東洋大学)を創設した教育者でもあり、生涯教育を提唱し全国を行脚し各地で講演会を実施した。哲学堂公園は哲学の世界を視覚的に表現しており、来園者が哲学について学べるような社会教育の場となっている点が大きな特徴である。なお、井上の墓が哲学堂...
東京都北区■2024年1月6日(土)【歴史】≪郡衙と豊島氏~古代から中世の北区~≫奈良時代の北区には豊島郡の郡衙が設置され、豊島郡の中心地だった。郡衙は行政の事務的な仕事を司る郡庁院、庶民から徴収した稲籾を納める正倉院から成り立つ組織だった。跡地は滝野川公園になっており、当時は武蔵国から下総国への最短ルート上にあった。11世紀頃になると、北区には平氏の一族である豊島氏が土着した。豊島氏が14世紀末頃...
東京都杉並区■2024年1月8日(祝)【歴史】江戸時代の杉並区には甲州街道が通り、宿場町(高井戸宿)があった。17世紀、高井戸宿は甲州街道の1番目の宿場町で、下高井戸宿と上高井戸宿の2つの宿場が半月交代でその勤めを果たしていた。しかし、1698年に内藤新宿が置かれると、高井戸宿を素通りする旅人も多くなり、高井戸宿の宿場町としての役割が減少した。なお、高井戸宿は半宿半農だったため、便所を旅人に開放し...
東京都江戸川区■2024年1月4日(木)【歴史】≪小岩市川の関所(渡し)~小岩地区~≫江戸川区の北東部に位置する小岩地区は、江戸川に面していることから、江戸時代に『小岩市川の渡し』と呼ばれる渡し場があった。渡し場があったことを証明するものとして、1839年に造られた常燈明が宝林寺に移され、現存する。小岩市川の渡しには江戸の防衛のため橋は架けられず、『小岩市川関所』が設置された。小岩市川関所のあたりは...
東京都墨田区1:本所■2023年12月17日(日)【歴史】≪本所の始まり≫墨田区南部の本所地区は、1657年の明暦の大火後に開発された地域である。明暦の大火では、千住大橋以外に橋が架けられていないことで多くの江戸町民が逃げ場を失い、10万人が死傷したと言われている。幕府は防災のため、武蔵国と下総国との間に橋を架け(両国橋)、徳山重政に本所の開発を命じ、江戸の町を本所に拡げた。徳山重政の屋敷跡には、徳...