兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
若人(わかうど)よ、起ちて野にいでよ。野には今わか葉のかをり満ち漂ふにあらずや。新装成らんとする林の樹々動くことなくして炎のごとくしきりに躍る。小川に蛙むれ、大空に雲雀くるふ。光やはらかに風はかるし。ああこのみどりの野にそむきて、人くさき衢(ちまた)の息(いき)に蒸され、もろもろの騒音に耳をかすなどは、余りにも心なきわざならずや。友よ、地の果よりの歌をなんぢは聴かずや。永遠を、神を、なんぢは思はず...
神に対する我らの信頼は屡々彼によって試みられる。何処まで我らは彼を信頼し、何処から彼を疑ふべき乎。我ら彼を信ずると称しながら、大抵その信頼の極限をもつて居る。或る種の甚だしき問題が起れば遂に神を疑はざるを得なくなるはその証拠である。併しながらほんたうの信頼とはどんなものであらう乎。いはゆる「皮をもて皮に換ふる」までは忍び得るも「骨と肉とを撃たるる」に至ては誼ふのほかなきが如き心が真実の信頼であらう...
秋たけて霊感ますます豊かである。一夜月下に靄ふかき武蔵野を歩んで、感恩のおもひ尽くるところを知らず、衣も装も滴るばかりに冷き夜つゆを浴びて帰つた。私の感謝は主として患難の経験にある。私が若し僅少ながらそれらのものに遇はなかつたならば如何(どう)であらう乎。神は涙の谷に於て最も鮮かに御自身を私に顕はしたまうた。イエスは私を誘うて荒野にみちびき、其処にてみこころの深きところを私に語り給うた。私は患難の...
かくて各々己が家に往けり。されどイエスはオリブの山に往けり。――ヨハネ七の五三、八の一――何人の筆ぞ、無雑作なる一抹のスケッチの中に斯くも大なる真理を現はせるは。宮に於ける一日の活劇は終りて、人みな其帰るべき所に帰り往いた。但し各々は己が家に、イエスは独りオリブの山に。誠に彼には枕する所が無かつたのである。併し乍ら此世の家に代へて、彼には静かなる山があつた。オリブの樹蔭、ヱルサレムの街を眼下に望む所、...
偽善なる教会と其信者とに対して絶えず強烈なる反抗の声を挙げ来りし者は自由思想家であった。而して彼は之等の自由思想家に対して深き同情を有する。彼等の正直と勇気とは彼の如何にしても愛せざるを得ざる所である。若し共に偽善なる正統派信者の前に立つならば、彼と自由思想家との之に対する態度は外的にも内的にも殆ど一致するであらう。併しながら其故を以て彼は自由思想家の友となる事が出来ない。偽善に対する感情を均しく...
斯の如く彼の立場は全然聖書本位である。然らば彼は所謂正統派(orthodoxy)に属するものであらうか。若し此語を本来の意味に解釈するならば、彼は確かにその一人であると信ずる。併し乍ら歴史的の意味に於ては、彼は果して此名称を以て呼ばるべき者であるかどうか甚だ疑はしい。少くとも正統派の教会に重んぜらるる神学者教役者若くは平信徒の言説行動等にして彼の共鳴を促すもの極めて乏しきは如何ともすべからざる事実である。...
而して聖書に対する信頼は勿論その全体に対する信頼である。聖書旧新約六十六巻、前後千五百年に亙り、数十人の記者によりて、各々特殊の場所と境遇とに於て記録せられしもの、然るにその目的その精神その主題に於ては首尾一貫、整然として一大有機的組織を成し、全体を以て間然する所なく永遠の真理を伝ふるは、誠に驚歎すべき偉観である。即ち天地の創造より新天地の出現に至るまで、人の救贖と万物の完成とに関する神の経綸は、...
彼は自己に就て語る事を少しも好まない。出来るならばその見苦しさより免れたく思ふ。併しながら兎に角一個の公人として自己の信仰的立場を一応明かにするの必要だけは彼も之を認めて居る。彼の立場を表はすに最も簡単にして且明白なる語を選ぶならば「聖書本位」といふが其れであらう。旧新約聖書を以て彼は己が立つべき唯一の根拠と為すものである。但し彼は決して聖書の権威を外より吹き込まれて何でも之には従はざるべからずと...
○真理に対する理解と熱情との衰弱は甚だしいかな。今の人は享楽を愛しスポーツを味ひ、経済を解し商売を好む。併し真理の貴ぶべく愛すべきを彼らは知らない。真理といふ声を聞いても、彼らは往年のピラトのやうに、「真理とは何ぞ」と言ひ棄て、ただちに踵をめぐらして去りゆくのである。○ただに世の人々のみではない。基督者とみづから称するものまでがさうである。否、真理に対する彼らの無感覚は却て一層烈しい。彼らに比べては...
親しかりし者の詛ひの中に船出したわが小舟よ、きのふの如く鮮やかなるその日も早や十年の昔とはなつた。わが棹は折れ、わが帆は破れた。わが妻は斃(たふ)れ、わが父は倒れた。私自身もまたいたく傷ついて。然れども十年孤独の航海、何ぞ祝福の豊かなりしや。夜な夜な無窮の大空に真理の星を仰ぎのぞむことの何ぞ楽しかりしや。その時永遠の国の光明は私を撃つた。その時私のさかづきは谷間の泉のやうに溢れた。その時私は舟を忘...
読者諸兄姉の同情ある祈のうちに記憶せられし彼女は遂に召されました。彼女なくして本誌はなかつたのであります。「来るべき者の来らん時まで、又はペンが著者の手より落ちん時まで」、とは創刊当時に於ける私の告白でありましたが、今や来るべき者の来らざるに先だちペンは一度び私の手から落ちました。本誌は茲に一先づその職分を終つたものと思はれます。併しながら私の霊は彼女と共に天に移されながら、私の肉はなほ地上に遺さ...
世には私の文章を何とかいふ人があるとのこと。曾て或る宗教雑誌は私を嘲笑していうた、「藤井さん、徒らに美辞麗句をつらねて人をごまかさうとしても駄目ですよ云々」と。失敬きはまる言分である。併し世間や敵などが何と言はうと、それは先方の勝手である。私は別に問題にはしない。ただ聞き流しにできないのは、友人たちの言である。或る友人は或るとき壇上に私を紹介して言うた、「藤井君の福音は文学的であつて美はしい」と。...
雑誌が何号を重ねたといひ、何年続いたといふことに、私自身は余り興味をもたない。それは一つには自分の心がいつも今日現在の事に集中してゐるからであらう。併しもつと大きな理由は自分の仕事に対する私の気持にある。目下のところ、『旧約と新約』の著述は私の唯一の事業であるが、私は曾て之を自分の仕事と思ったことはない。私は毎月「今度は是を書け」といふ声を聴いて、さうしてそれを聴いたままに伝へてゐるに過ぎない。さ...
私は読者の要求に応ぜんがために書かない。私は読者を慰めんがために書かない。勿論私は読んで貰はんがために書かない。私は書かざるを得ざるが故に書く。書けと神命じたまふが故に書く。真理の故に私は書く。私の書くところは或は読者の心に訴へるであらう、或は全く訴へないであらう。併しそれによって私の書くところは変らないのである。私の言葉は或は人を光明に導くであらう。或は導かないであらう。併しそれによって私の言葉...
私は日本人である、私は近代人である。而して私は肉に於て近代日本人と共通の多くのものを持て居る。併しながら霊に於て理想に於て、私は自分と彼等との間に殆ど交渉を見いだすことが出来ない。彼等の求むるところは私のねがふところと互に反対の方向に走る。彼等の笛は私を踊らせず、私の歎きは彼等を胸うたしめない。然るにも拘らず、日本は私のあこがれである。私の内にあるキリストの霊は日本をおもふ心をして私を食はしめる。...
朝風、膚にひややかに、虫声、野に満ちて雨のふりそそぐがやうである。天の国をおもふ思ひはさらに強い。讃美の心おのづから湧き起る。愛すべきは苦熱の後の新秋である。世の避暑客の知らざる更生的経験である。哲学を好むと称して思索することを知らず、宗教を喜ぶが如くにして信ずることを知らず、金銭を愛し、恋愛を愛し、形式的文化生活を愛し、不義と浅薄とに於ては何れの国民にも譲らざらんとする現代日本国民よ、汝ら人間と...
○我らに人の面を見て歩けと注意してくれる人がある。その親切を私は感謝する。併し如何せん、私のやうな者にとってそれは無理な注文である。私は人に対しては既に死者である。私の目は人には既に閉ぢられてゐる。今更にこれを見ひらいてまた誰の面を見ようや。乞ふ、徒らに死者を悩ますをやめよ。死者をして生者のお相伴(つきあひ)をさせないで下さい。無益です。藤井はもうそんな世界にはゐないのですから。○「我いま人に喜ばれ...
○霊の糧を取らずして肉のパンを食(は)むは空し。○人の顔を見て神のみかほを忘るるは空し。○信ずることなくして口を開くは空し。○環境の整理によって罪を処分せんとするは空し。○朽つべきもののために労するは空し。○表面をつくろふは空し。○新しきを追ふは空し。○愛に報をのぞむは空し。○真理に打算を交ふるは空し。○伝道に数をかぞふるは空し。○映画とラヂオと婦人雑誌と教会とに空しからざる何程のものありや。○コーヘレスいは...
イエスは十字架上の苦難を味ひ尽したのち、大声にて「事畢(をは)りぬ」と呼ばはつた。それは偉大なる宣言であつた。人類の救贖、宇宙の完成の基礎となるべき「事」は既に畢つたとの意味である。勿論彼の全き服従の功績によつてである。従て彼に信頼する者の生涯は「事畢りし」生涯である。基督者にとつて未解決の問題は一つもない。すべてが定まつて居る。その霊性は完全に潔めらるべく定まつて居る。その身体は復活すべく定まつ...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ラオデキヤの教会(5) 完
「勝ちをうる者には、我さきに勝ちを得て我が父と共に、その位に座するが如く、我と共に我が位に座することを許さん」これは驚くべきことである。キリストは、すでに勝ちを得て、大権の右に挙げられ、父なる神と共にみ座に坐しておられるが、やがて再臨の時には、この世に主として臨まれる。そのキリストと共にみ座に坐し、私たちもまた王として世を治めることができるのである。今まで七つの褒賞が各教会にそれぞれ約束されていて...
「すべて我が愛する者は、我これを責め、これをこらす。このゆえに汝励みて悔改めよ」兄弟姉妹よ、これまで神がなぜあなたをこらしめられるかを、よく考えて見よ。どうにかして、あなたにほんものを握らせたいばかりに、神はあなたをこらしめられるのである。そこで悔改めるためには、励むことが必要である。この神の愛のご配慮を思って、励んで悔改めなければならない。「見よ、我戸の外に立ってたたく。もし我が声を聞きて戸を開...
「なんじら自ら我は富み、かつ豊かになり、乏しき所なしと称えて、実は悩めるもの、憐むべき者、また貧しく、盲、はだかなるを知らざれば」自ら欺かれていることを知らないのである。自分は大変に恵まれていると思っているが、その実自分ほどあわれなものはないのである。貧しく、信仰が欠乏しているのである。愛なく、知恵すなわち霊魂をとらえる知恵に欠乏しているのである。また、盲人であり、盲人とは愛がないからである。信者...
「いわく。われ汝が冷かにも熱くもあらざることを、汝の行為によりて知れり。我汝が冷かなるか、あるいは熱からんことを願う。汝すでにぬるくして、冷かにもあらず、熱くもあらず、このゆえに我なんじを我が口より吐き出さんとす」これはお互いにしばしば味わうところである。兄弟姉妹たちも味わってみよ。また説教で聞いたこともあろう。しかし、今一度このみ言を深く心にとめなさい。前にも言ったように熱い泉と冷たい泉とあった...
最後に出て来るのは、ラオデキヤの教会である。「ラオデキヤ」とは、「民を悦ばす」との意味の言である。言いかえれば、人のご機嫌を取ることである。ラオデキヤの教会は、時代的にいえば、現今の教会であるが、現今の教会は堕落して、昔のニコライ宗とは、全く反対で、民主的となり、人のご機嫌を取るようになった。教会の主は神、キリスト、聖霊であるべきはずであるのに、ニコライ宗のように伝道者が主になって教権をほしいまま...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ヒラデルヒヤの教会(4)
「勝を得る者をば、我神の殿の間の柱となさん。これより再び出ることなし。我また我が神の名と我神の都すなわち、天より我が神のところより降る新しきエルサレムの名および我が新しき名をこれに記さん」柱とするとは、なんと大いなる言であろう。私たちは皆召されて神殿の材料となったのである。隅の首石は、キリスト、基礎は使徒で、私たちは各自その材料である。天井板にされるもの、壁になるもの、床にされるものなどいろいろあ...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ヒラデルヒヤの教会(3)
「汝わが忍耐の言を守りしにより、我もまた汝を守りて地に住む人を試みんがために、全世界に臨まんとする試練のときに、これを免れしむべし」神の言を信じるとは、砂糖をなめるようなことではない。ここにある全世界とは、ローマ帝国をいう。ローマの大迫害のときにも、格別の神の守護が加わることをいったのである。またかのエルサレムの滅亡のときにも二〇万からの人々が死んだが、キリスト信者はただの一人も死ななかった。これ...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...