祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
キリストの変貌(マタイ一七1~13)この変貌は弟子たちのためだけでなく、キリストへの奨励であった。神は何時でも全く服従する時に、ご自身の栄光を顕わされる。すなわち弟子たちは、まず大体十字架を負う決心があったので、神はこの栄光を顕わされたのである。〔2〕キリストの容貌は、実に見苦しいお方であった。しかしこの時真実の栄光が顕われた(マルコ九3参照)。〔3〕エリヤは予言の中で大いなる人、モーセは律法を立てた人...
イエス自己の死を予言される(マタイ一六21~29)この出来事はあのペテロの告白と対照して見ると大いなる教訓がある。ペテロは「汝は活ける神の子なり」と言って、キリストからおほめを頂いたが、キリストが長老、祭司たちから苦しみを受けること、すなわちキリストが十字架にかかられることがわからなかった。イエスは弟子たちがご自分がキリストであることを悟った時に、十字架のことをお知らせになられた。弟子たちは、キリスト...
ペテロ、イエスの神性を認む(マタイ一六13~20)〔13〕はイエスの弟子の目の試験である。〔14〕の弟子たちの答は、世の人の目である。このような目を持つ者は地獄行きである。〔16〕はペテロのイエス観ではなくて、、聖霊のイエス観である。キリストとは、神から油注がれた者の義である。〔17〕キリストは明白な信仰を持っている者に報いを与え給うのである。文字通りならば、ペテロの上に教会を建てると解すべきであるが、これは...
目しいの癒し(マルコ八22~26)この出来事は、肉体の癒しの漸次的な実例である。時として神は段々御手を加え給う場合がある。だからわたしたちからかれこれと注文すべきものではない。これをまた霊的に味わうならば、心の目に適用することが出来る。心の目の盲目な者は、天の栄光も、地獄も、キリストも、永遠もまた神の存在も明らかに見ることが出来ない。勿論頭では合点していても、ハッキリしていない。しかしキリストの手すな...
イエスの四千人給食(マタイ一五32~39)〔32〕は先の先まで、見通し給う同情である。またここにイエスは、このことに関して弟子たちに、相談するような態度をとっておられる。わたしたちの同情はこのイエスの同情に同化されたものでなくてはならない。〔33〕弟子たちの不信仰と、神の恵みを忘れることが現われている。わたしたちも実際問題に出遇って、古い経験を忘れて祈っていると「我を信ぜよ」と、同じ聖声を聞くことがしばし...
イエス多くの人を癒される(マタイ一五29~31)この出来事はイザヤの予言の成就である。ここで注意すべきことは、多くの人が病人を連れて、イエスの許に来たことである。わたしたちもイエスの許に病人を連れて来ることは大切なことである。そうすればキリストは癒して下さる。聾唖者の癒し(マルコ七32~37)この出来事も同じく、祈りから始まった。三二節、三三節に、キリストはこの人を外へ連れて行ったとあるが、深い恵みを味わ...
イエス過越を避けてツロとシドンの地に行かれる(マタイ一五22~28)この出来事は過ぎ越しの祭りの時のように思われる。マルコ七24、25を見れば、彼がここに退かれたことが理解出来る。またヨハネ七1~2を見る時に、イエスは過ぎ越しの祭りを避けて、ツロとシドンに行かれたように思われる(ヨハネ六4参照)。マルコ七24を見ると、キリストは実に灯のようであり、また香のようであることがわかる。どうしても隠れることの出来ない...
パリサイ人に対する主の答(マルコ七1~23)このことは主イエスの伝道の一転機であって、ヨハネ六章のパンの御説教の時から、多くの人は彼を離れ、反抗の機は熟して来た。次にこの出来事はどこの出来事であるかはっきりしないが、多分カペナウムであろうとのことである。多くの人がキリストを離れて行くのに、キリストと談じるとはちょっと立派に見えるけれども、キリストに反抗する為であるとは実にわざわいである。ユダヤ人と言...
ユダヤ人の会堂での説教(ヨハネ六22~65)〔22~25〕どのように主が彼らに質問されたかを見ることが出来る。しかし主は彼らの心の動機を知っておられる。彼らは生命を得る為にイエスを求めたのではなく、肉欲を満足させる為に主を求めたことがわかる。そこでキリストは彼らに対して「朽つる糧の為に働かずして永生に至る糧すなわち人の子の与える糧の為に働くべし」と仰せられた。しかし肉のことだけ考えている彼らには、このキリ...
〔28~31〕「主よもし汝ならば我に命じて……」ペテロはここで、主だと聞いて嬉しくてたまらなくなってこのように叫んだ。これはペテロの特色であるが、また非常な教訓がある。すなわちペテロはここで主の答を待った。彼は祈ったのである。またペテロはあの海辺で甦えりの主に遇った時よりも沈着な態度を取っている。彼はこの時キリストの命令を待った為に、海を歩くことが出来たのである。もし彼が命を待たずに飛入りしたならば溺れ...
イエス水の上を歩かれた(マタイ一四22~33)〔22~23〕キリストは人々を帰えし、また弟子たちをも向う岸に渡らせ、一人で密かに山に行って祈られた。わたしたちは集会の前には祈るけれども、集会の後には祈らない。わたしたちもキリストのように祈りの人となりたいものである。この日主は非常に多忙であったことを知ることが出来る。わたしたちは二百人や三百人の集まりでも充分多忙であるのに五千人にも食物を与えることは、人間...
イエスの五千人給食(マルコ六31~44)〔31〕イエスの伝道がどんなに多忙であったかを見よ。わたしたちも働きに疲れた時イエスと共に休むべきである。しかしわたしたちはとかくイエスと共に休まない為に、肉に所を得られ、力をサタンに奪われることがある。そこでイエスは「我と共に」と言われる。〔36~38〕これは人間の考えである。あるいは今日の宗教家とも比較すべきか。彼らは自力をたのみとしている。「銀二百のパンを買い……...
バプテスマのヨハネの死(マルコ六14~29)〔14〕主の名の広まったことを見よ。〔16〕ヘロデは罪のない者の首を斬った為に、このように恐れたのである。これによってどんなに猛悪な人間にも、良心の存在するのを見ることが出来る。歴史によればヘロデとピリポとは腹違いの兄弟である。ヘロデには当時他の妻があった。それなのに彼はヘロデヤと不義を行い、ヘロデヤはピリポと離縁してヘロデと結婚した。これは原因がどのようなもの...
〔26〕何物も神の前には裸かで現われるものなので、人を恐れるのは愚かなことである。〔27〕これは密室の祈祷で神から聞いたことを公衆の前に証詞せよと言うことである。またこれは人に道を語る時、適用することが出来るのである。〔28〕人を恐れるなかれ、神を恐れよ。人間は身体を殺すことが出来るだけである。しかし神は人の霊魂を地獄で滅ぼす権威を持っておられる。それなのにわたしたちの着眼点は時々狂い易いので注意しなけ...
マタイ一〇16~421~15は信仰をもって出て行くべきことを示したものであって、16~23の一段は知恵と柔和とを示したものである。またこの中には忍耐をも含む。24~42、ここは大胆にキリストの証詞をするべきことを教えたものである。わたしたちはこの決心と大胆を要するのである。〔16〕どうしたらわたしたちは大胆に進むことが出来るか。この節にあるように「我汝らを遣す」の聖言にあるのである。ユダの獅子であるイエスが共に行...
十二使徒の派遣(マタイ一〇1~15)汚れた霊を追い出すとは、キリストの敵を追い出すことである。また彼らは病を癒やす権威をも賜わった。人はどうしても霊と肉体との救いを得なければ満足することは出来ない。〔5〕イエスはペンテコステ前は、ユダヤ人だけの救い主であった、だからこう仰せられたのである。「イスラエルの家の迷える羊に往け」キリストがいかにイスラエルを顧みておられたかがわかる。望みなく亡びに近づいている...
口の不自由な人から悪霊を追い出す(マタイ九32)悪霊の一つの働きは人間の口を不自由にすることである。神が人間に口を与えられたのは、神を讃美させる為、人の徳をたてさせる為である。悪魔はこれを閉して、神を讃美させないようにした。また人をおしゃべりにするのである。ある人は口の不自由な人はのどの器械が足りないのだと言う。しかし悪霊の働きであることがしばしばある。今日といえども、信仰によって主を働かせるならば...
二人の目の癒し(マタイ九27~31)ダビデの子孫とはメシヤすなわち救い主の意である。彼らはイエスがメシヤであることを信じていた。「われこの事をなし得るや」と、イエスは信仰を要求される。そこでわたしたちが祈る時に神は、わたしにこのことをすることが出来ると信じるかと仰せられる。しかしその時主を見上げる者は「主よ然り」と言うことが出来る。ここに信仰の順序を見ることが出来る。さてわたしたちは肉体の目は開かれて...
長血を患った女の癒しとヤイロの娘の復活(マルコ五22~43)〔35〕「何ぞ師を煩わすや」このような望みのない時に悪魔は激しく働く。けれどもイエスは助けて下さる「恐るる勿れ唯信ぜよ」と。何と有難いことではないか。多くの場合悪魔は「駄目だ駄目だ」と言う、しかし主の言葉を信じて進むべきである。〔37〕「誰にも共に往くことを許さざりき」不信仰な人はいざと言う場合に何の役にも立たない。一緒にいることさえ障害となる。...
長血を患った女の癒しとヤイロの娘の復活(マルコ五22~43)会堂の司とは宗教上重い役目である。当時信者のすくない時、しかも会堂の司の中にヤイロのような信仰篤い人物を出したことは驚くべきことである。信仰には謙遜が伴うものである。「其足下にうつ伏して切々に求めいいけるは……」これは切なる祈りである。マタイによる福音書(九18~26)の方には「既に死ねり」とあるのを見れば、ここに矛盾があるようであるが、既に死ねり...
悪霊が豚に入る(マタイ八28~34)現在悪魔は、神の前に敗軍の将である。しかし個人から追い出される時は信仰する時である。これを飼主から見る時、豚が海に溺れたのは、大損害である。しかしユダヤ人より見れば、豚は汚れたものであって、律法で禁じられていた。だからイエスがこのようになされたのは当然のことである。パウロがピリピで悪霊を追い出した時も、金儲けの道を失った人が出て来た。マルコ五1~20レギオンとは連隊と...
イエス嵐を静められる(マタイ八23~27)イエスと共に舟で乗り出すことは大切なことである。次に注意しなければならないことは、イエスと共にいる時にも世の中の嵐は吹くと言うことである。このような場合神から捨てられたように、またこれは神の聖旨ではないなどと思うことがある。この時は実に心細く感じる。マルコ四35を見ると、水が舟に満ちたとある。その上その時は夕暮であった。弟子たちはどんなに心細く感じたことであろう...
隠された宝と真珠のたとえ(マタイ一三44~46)〔44〕このたとえを信者の側から見ないでキリストの側から見なさい。先ず第一にキリストは卑しいわたしたちを顧み、このわたしたちの魂を重んじて、これを求められた。すなわちわたしたちの魂を目がけて、天の栄えを捨ててこの地上に来られ、真珠のようにわたしたちを買い上げられたのである。これを土台として、人の側から味わうべきである。このようにして与えて下さるキリストの賜...
からし種とパン種のたとえ(マタイ一三31~35)このたとえには二つの解釈がある。一つは小さな福音の種が大いなる福音の実を結ぶことを示したものであると言うことである。他の一つは、小さな罪が非常に大きな罪となると言うことである。いずれも一面の真理であるが、前後の関係を見れば、後者すなわち罪のたとえと解する方がよい。わたしたちも知っているようにからし種は実に小さなものであるけれども樹木のように大きくなるもの...
毒麦のたとえ(マタイ一三24~30、36~43)天国とは神の国との意義に用いられた所もあるが、ここでは真理を説けばとの意である。〔25〕ここにあるように、悪魔は疲れた時、寝た時のように油断した時に、すきを狙ってひそかに悪の分子を投げ込むのである(マタイ一三36~44参照)。〔26〕この世には悪魔の子と神の子とがある。教会の中にもこのように二種の者のあることは注意すべきことである。〔27〕主人の僕とは伝道者のような者...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...