祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (7)
永遠の御旨 この五つの節を黙示録二二章から取り出して、それを黙示録全体の冒頭に置くなら、この書に対する鍵が手に入ります。今、そうしてはどうでしょうか。この五つの節から成る小さな区分を取って黙示録の冒頭に置くなら、あなたはこの書全体に対する鍵を手に入れることになります。私は、いつこれが起こり、いつあれが起こるのか、あれやこれをどう配置すればいいのかに関する、預言の学徒たちの質問にすべて答えられるよう...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (6)
その僕たちは仕え、支配する ここにもう一つの句があります――「彼の僕たちは彼に仕える。そして彼らは彼の御顔を見る。また彼の御名が彼らの額にある。(中略)そして彼らは永遠にわたって支配する」。永遠にわたって支配するのです!私はこの意味に関する知的絵図を描きたいとは思いません。私は堅く確信していますが、それが文字どおりのものなのかどうかに、私たちはあまり関心はありません。私たちの心はパウロのささやかな句...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (5)
命の木 「その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、十二の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民のいやしのためにある」。これについて述べる必要があるのはただ、それは呪いを征服するということだけです。「もはや呪いはない」――文字どおりには「もはや呪われたものはない」です。創世記から始めて被造物の歴史全体を振り返って見さえすればいいでしょう。命の木からその葉や実が取られたことは一度もなく...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (4)
御座から流れる命の水の川 「御使いは、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた」。この象徴は明確に次のことを私たちに告げます。すなわち、神が御旨を達成される時、そして神が意図されたとおりに事が運ぶ時、その支配的特徴は朽ちることのない命なのです。神の宇宙全体にわたって、命、水晶のように透明な朽ちることのない命が、その特徴となります。これもまた永遠の御旨です。これが創造のときに神が宇宙に対して御心に抱い...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (3)
贖い主である小羊の御座 さて、その特別な意味を知りたいことでしょう。この章の前の方に「あなたはふさわしい」とあります。なぜでしょう?「あなたはほふられて、勝利し、あなたの血によって贖われました」。神と小羊の御座です!神は創造され、小羊は贖われました。神は小羊の血のゆえにご自身の地位と権利を獲得されました。これが数語で述べた物語の全容です。神の御座と小羊の御座!ですからこれは、小羊の血による永遠から...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (2)
創造者である神の御座 ここにいくつかの文章、いくつかの明確な句があります。「神と小羊の御座」です。これは、一言で言うと、ご自身の宇宙における神の完全かつ決定的な誉れある地位です。これが永遠の御旨です。これは、神は至高・全能の神になられるということではありません。神はこれまでずっとそうでした。なにものもこれを変えられません。歴史はこれになんの影響も及ぼしません。しかし今や、当初の御旨どおりになります...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (1)
「主なる神は言われる、『わたしはアルファでありオメガである。今おり、昔おり、やがて来ようとしている者、全能者である』(中略)私は彼を見た時、彼の足もとに倒れて死んだようになった。すると、彼は右手を私の上に置いて言われた、『恐れるな。わたしは最初の者、また最後の者、また生きている者である。わたしは死んだが、見よ、永遠にわたって生きている』」(黙示録一・八、十七~十八)。「最初の者また最後の者、死んだ...
神と小羊の御座T. オースチン-スパークス目次第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト第二章 神の七つの霊第三章 王国と小羊第四章 教会と小羊第五章 小羊の七つの目と七つの角オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「御座の中央の小羊」第八章 書簡における十字架 (11) 完
ピリピ書――十字架と聖徒たちの交わり ピリピ書:――そうです、今や私たちは教会の中にあります。ローマ書やコリント書のようにもはやたんなる個々の個人的問題ではありません。今や集団的問題です。あなたが教会の中に入る時、交わりの問題が生じます。間もなく、クリスチャンたちの間に交わりの問題が生じます。ユウオデヤとスントケの間に目的の不一致が生じます。どうやって交わりを顧みて、同じ会衆のクリスチャンたちの間の不...
ガラテヤ書――十字架と霊的豊かさ 思い出していただきたいのですが、これらの手紙を読み進んで行くと、次にガラテヤ書に、それからエペソ書、ピリピ書、コロサイ書に至りますが、そこであなたは十字架を物事の様々な面に関して取り上げて、物事を正し、あるべき領域の中に入れることになります。あなたは常に前進することになります。第一に立場が対処され、次に歩みが、その後で務めが対処されます。その後、ガラテヤ書に来ると、...
「キリストの愛がわたしたちを縛っています。なぜなら私たちはこう判断するからです。一人の方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。そして、彼がすべてのために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです。ですから私たちは、今から後、だれをも肉にしたがって知ろうとはしません。たとえキリストを肉にしたがって知っていたと...
二コリント――十字架と務め コリント人への第二の手紙に移ることにします。この第二の手紙で私たちは新しい局面を迎えます。この手紙を読み始めると、私たちはまだ第一の手紙から抜け出したわけではなく、むしろ第一の手紙から生じた苦悩、苦しみ、悲しみ、痛みの中にあることがすぐにわかります。敬虔な慰めを私たちにもたらす敬虔な悲しみのゆえに、神に感謝します。十字架が歩みを対処し、振る舞いを対処し、肉性を対処する時、...
この問題はどのような方法で対処されるのでしょう。そう、まさに同じ手段によってです。十字架が導入されます。この手紙の基礎となる大きな基調は、「イエス・キリスト、十字架につけられた方」です。十字架につけられたキリスト、これがこの状況を対処するための基調であり、基礎であり、手段です。これは常に同じです。信者たちは依然としてこうしたことをしでかす可能性があります。しかし、真に十字架を理解するとき、たとえ...
一コリント――十字架とクリスチャンの歩み コリント人への第一の手紙に移って、別の文脈における十字架を見ることにします。しかし、もう一度序文に注目してください。 「神のみこころを通して召されたキリスト・イエスの使徒パウロ(中略)コリントに在る神の教会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別され、召された聖徒たち、それと共に、私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人へ。彼は彼ら...
さて、ここできわめて馴染み深い御言葉が思い出されます。というのは、十字架がここで導入されているのは、いま私たちを確立するためだからです。私たちが神の子供になるためではなく、神の子供として十字架によって確立されるためなのです。十字架によってでなければ決して神の子供になれないことは承知していますが、それはここでの論点ではありません。このローマ人への手紙は、未信者に宛てて彼らを救うために送られたのでは...
さて、私たちの見るところ状況はこのとおりだから、神はそれを容認される、と言うつもりはありません。神はこの状況を取り扱うためのある手段を用意されました。しかし、もしあなたや私が神の手段を用いないなら、私たちがどれほど真に主のものだったとしても、私たちはこのひどくぐらついた人生を送ることになるでしょう。決して真っすぐ進めないでしょうし、いつまでたっても決して堅固で頼りになる人にはなれないでしょう。で...
ローマ書――十字架とクリスチャンの立場 聖霊の主権的御手の下で配置された手紙の順序は、霊的な年代順です。まずはローマ書から始まります。その冒頭にこう記されています―― 「イエス・キリストの僕、召された使徒、神の福音へと選び分けられたパウロ。この福音は、神が彼の預言者たちを通して、聖書の中であらかじめ約束されたものであって、御子に関するものです。この方は、肉によればダビデの子孫より生まれ、聖別の霊によれ...
(b)警告の言葉 二番目に出くわすのは、霊的に成長して霊的完成という目標に至ることに関する、警告・戒め・勧めの言葉です。警告の中にはとても恐ろしい警告もあります。それらの警告を見ていくつもりはありません。しかし、荒野で滅んだイスラエルといった警告が、二つの手紙の別の場面で使われていることを、あなたは思い出すでしょう。あの素晴らしい使徒時代のクリスチャンたちが警告を受ける必要があったのです。しかも、...
朗読: 黙示録五章、七章。 この黙想では、新約聖書の様々な文脈における十字架について見ていくことにします。 使徒時代のクリスチャンについて知ることのできるすべての資料、すなわち、新約聖書の数々の手紙を取り上げると、主に三つのことに出くわすように思われます。使徒時代後期に関して見られる三つの点(a)驚くべき特徴 最初に出くわすのは――これはかなり驚くべきことですが――ほぼ至る所に霊的失敗が見られることで...
さて、十字架の主観的適用、力としての十字架、道具としての十字架、私たちの経験の中に働くものとしての十字架について、これまで述べてきましたが、私はあなたたちに思い出させなければなりません。これは私たちが受け入れられているかどうかや、私たちの立場や地位とは何の関係もありません。それは、私たちがキリストを受け入れる時、信仰に対して保証されます。これは私たちにおける神の御旨の働きにほかなりません。しかし...
聖霊は新しい機能を与えてくださる しかし、この命、この命の御霊は、聖霊によって私たちの霊の中に新しい霊的能力、新しい霊的機能が与えられたことを意味します。天然の状態では能力がなくて無理でしたが、今では神の霊の事柄を知ることができます。神の霊の事柄を受けることができます。閉ざされていた領域の中を、聡く賢明に進むことができます。この違いは実に巨大です。しかしこれは――言わば――かなり微妙な違いです。説明し...
新創造の性質――聖霊と新生した人の霊との結合 十字架の積極的な面は、再生されたもの、すなわち信者の新生した霊の中に聖霊が入って来られることです。神の霊の人の霊との結合によって、これまで被造物の中にはなかったような新しいタイプの存在が生じます。ああ、確かに、旧約聖書でも、聖霊が人の上に臨んで内側で働かれましたが、神の霊の人の霊との結合はそれまで一度もありませんでした。これこそアダムが得そこなったもので...
十字架と御霊 一つの例として使徒行伝十九・一~五を取り上げましょう。パウロは、ある地域を通過してエペソに来ましたが、そこである弟子たちを見つけて、「あなたたちは信じた時に聖霊を受けましたか?」と彼らに尋ねました。ある異常のゆえに、異常な又は正常でない事態のゆえに、奇妙な事態のゆえに、彼は明らかに困惑していました。ここに、自分はクリスチャンであり主イエスの弟子であると自称している人々がいました。しか...
(b)積極的な面 神の十字架の積極的な面とは何でしょう?それは、十字架が、神聖な事柄のための適性・能力・才能をすべて備えた有能な人のために、場所を設けることです。まさにこのとき、聖霊の意義と真価がすべて入ってきます。十字架が現実とならないかぎり、私たちは決して聖霊を知ることはできません。型においてであれ、本体においてであれ、屠られないかぎり、油塗りには至れません。ですから、パウロはコリント人たちに...
これは消極的な面です。もちろん、その内容は無数にあります。しかし、これは万事につけ次のことを意味します。すなわち、あなたと私に偏見や先入観はないということ、どんな点についても最終的立場に至っていないということです。それは、ある事柄について、私たちは依然として自分の立場をすっかり変えなければならないかもしれないことを意味します。確信しきっている事柄でも、依然として放棄しなければなりません。私たちは...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...