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  • 「御座の中央の小羊」第七章 十字架の主観的働き (2)

    この他にも、取り上げようと思っても取り上げられない事がたくさんあります。例えば、私たちはそれぞれの人生に対する神の御旨を知りません。神の御旨は一人一人に異なる形で触れます。神の主権的選びがあり、私たち一人一人のための場所と、私たち一人一人のための働きがあります。それは関連していて、全体の一部である一方で、それでも、神の都というあの偉大な宝石の一つの面です。神は私たちを取り扱って特別な形でご自身に...

  • 「御座の中央の小羊」第七章 十字架の主観的働き (1)

    朗読: 黙示録五・一~十四、七・九~十七。消極的な面 私たちは、霊的生活、霊的成長、霊的進歩の問題に関心を持っています。私たちは深く心を痛めています。長い年月を経てもなお、神の多くの子供たちは狭量さ、制限、弱さを抱えているからです。私たちは悩んでいます。回心者たちは前進せず、信者たちは成長していないからです。また、責任を負うことができ、常に「見守り」続けてもらう必要のない人がほとんどいないからです...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (9)

    私たちの高い召命に対する積極的姿勢の必要性 さて、もしこれが真実なら、私たちはとても広い範囲にわたって、むしろ恐るべき結果を想定できると思います。私はあなたにこう述べたいと思います。私たちは、これらの事柄に関する、不吉で、邪悪で、中途半端な選択肢を、すべて排除しなければなりません。積極的な立場を取らなければなりません。主イエスは常に弟子たちを積極的立場にもたらそうとされました。「だれでもわたしを愛...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (8)

    さて、主観的な面は、生来の私たちに関するかぎり、神はご自身のゼロ点に遡って働かれることを意味します。客観的な面は、私たちがそれをきっぱりと受け入れることです。客観的に私たちは言います、「キリストは私の唯一の希望です!キリストは私の唯一の義です!キリスト、キリストだけが私の救いです!自分自身には何もありません!」と。客観的に私たちは、キリストはその十字架によって私たちのために神にとってどのような方...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (7)

    十字架の試金石 十字架は、あらゆることで、新しい開始です。十字架は終わりであり、旧創造はその最良の状態にあったとしても神の霊の事柄では成功できないことを告げるだけでなく、新しい始まりがここにある!とも告げます。十字架が試すことがわかります。十字架はあらゆる権威を試します。あらゆる経験を試します。あらゆる権威と経験の試金石は、十字架が決定的に内面的なものになっているかどうかです。何かが権威をもって与...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (6)

    さて、愛する人よ、私たちの知識の性質というこの問題に取り組むことは、私たちにとってとても重要です。私はあなたにお尋ねします、あなたは主の事柄に関する知識をどのように知ったのでしょう?どのように知ったのでしょう?そう信じるよう育てられたからでしょうか、子供の頃そう教わったからでしょうか?集会に行くことにより、自分の聖書を読むことにより、キリスト教の一般的な指導・情報・伝授・教育によって、それを受け...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (5)

    十字架は旧創造のゼロ点である 決着をつけなければならないことが幾つかあります。主イエスの十字架に根差して、私たち全員が決着をつけるべき第一のことは、人は完全に無能力である、ということです。これを心で理解するのが早ければ早いほど、私たちにとって良いのです。だれにも見えるよう、この十字架には次の文字が記されています。すなわち、人は生来、神の事柄に関するかぎり、全く無能力である、と。つまり、人は神の事柄...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (4)

    ですから、愛する人よ、私たちが話すときに心がけているのは、たんに十字架についての技術、教理、教えを与えることではありません。大いに実践的なことを心がけているのです。私たちの霊的生活・成長・発達・度量の問題はみな、この問題と結びついています。私たちは常に、自分の霊的進歩の遅さ、自分の霊的容量の小ささに悩まされています。私たちはこれらの問題で自分自身について悩みますし、他の人々に対する責任を負ってい...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (3)

    (b)主観的な面 しかし次に、もう一方の面があります。客観的な面で十分である、とあなたは思うかもしれません。しかし、十分ではありません。受け入れてもらうにはそれで十分であり、立場や地位のためにも十分です。しかし、その後、神が私たちを取り扱われる根拠が重要になります。十字架の主観的な面は、私たちの立場ではなく、私たちの状態と関係しています。客観的な面は、私たちがキリストの中にあること、キリストによっ...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (2)

    十字架の二つの面 十字架の二つの面、すなわち客観的な面と主観的な面について、一言述べることにします。この二つの面のバランスを完全に保つ必要があります。一方を他方よりも重んじてはなりません。どちらかを重視するおそれがあります。概して、福音的キリスト教は、今も過去何世紀もの間も、十字架の客観的な面を強調してきました。その反動で、もう一方の面の途方もない重要性を認識するあまり、過度に強調するおそれがあり...

  • 「御座の中央の小羊」第六章 十字架 (1)

    朗読: 黙示録五・一~十四、七・九~十七。 黙示録のこれらの章は、万物の最終的総括を見せています。宇宙全体がその中に含まれており、関係しています。万物のこの最終的な一大総括では、そのまさに中心に、十字架すなわち中心的・宇宙的意義を持つ十字架を物語るものが見られます。十字架は最後に彼処に見られるだけではありません。なぜなら此処で、神の当初からの御心にしたがって物事を見ることができるからです。神の御言...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (12)

    こういうわけで、霊的進展・霊的歴史はすべて、命と死の戦いの進展・歴史なのです。試練の形や経験の性質がいかなるものであれ、それは常にこれに帰着します。敵の狙いは死で、霊的死で、私たちに触れることです。死で私たちを包み込んで、霊的死の重圧と力の下に陥らせることです。それをすべて許す主の御旨は、彼の命によって生きる方法、彼の命によって勝利する方法を、私たちに教えることです。それはみな、命のための戦いの...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (11)

    あなたも私も、愛する人よ、もし彼の血による契約という根拠に基づいて信仰により自分の地位に就いているなら、もし神が御子の死によってなさったことを認識して受け取っているなら、私たちは永遠の命を受けているのです。これがすべてを保証します。そこで使徒は続けて言います、「今、永遠の契約の血による羊の大牧者である私たちの主イエスを、死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が、ご自身の目に喜ばれることを、イ...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (10)

    永遠の契約の中に含まれる神の賜物 永遠の契約の偉大な要素は何でしょう?契約とは引き受けること、請け負うことであることがわかります。契約とは、その契約をする者が「私は事をなす用意があります!事をなそうとしています!私はこの契約・行為をなして、それにより与え、遺贈し、約束します……!」と表明することを意味します。神が契約を立ててなそうとしておられるこの偉大な事とは何でしょう?神が御子の血による永遠の契約...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (9)

    (c)十四――十四日目 小羊は十日目に登場しますが、十日目に屠られたわけではありません。新しい要素が導入されますが、それについてはすでに述べました。小羊は専門家によって検査され、合格して証印を押されますが、依然として何らかの欠陥が生じるおそれがあり、それについてはだれにもわかりません。続く四日の間、小羊は厳重な観察下に置かれなければなりません。これは神の小羊を示すものであり、この期間は、ヨハネによっ...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (8)

    さて、人には責任があります、これが要点です。そして、義に対する責任、義に対する責任感のゆえに、人は所与の状況下でありとあらゆることをします。しかし、人はどうすれば神を満足させられるのでしょう?ああ、働きによって、献金によって、十分の一や税や懺悔によって、人は神の義を満足させることができる、という思想に基づく宗教組織が生まれたのは恐るべきことです。堕落した被造物の働きをキリストにある神の義の代わり...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (7)

    (b)十――十日目 次に、主は別の数を持ち出して、「この月の十日に、各自は小羊一頭を取らなければならない」と言われました。これはとても興味深い数です。この数は聖書の中に頻繁に出てきますが、常にある文脈で出てきます。十戒があります。マタイ二五章には十人の処女が出てきます。ルカ十九章には十ミナが出てきます。この数が登場する箇所はどこでも、人の完全な責任と関係していることがわかります。十戒――神に対する人の...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (6)

    もし、神が鍛錬と懲らしめにより、訓練と錬成と養成により、私たちに対する取り扱いを開始される時、私たちが、「これはすべて私があまりにも悪いせいであり、私が受け入れられるようになるために、主は私になにかを行う必要があるのです」と言いだそうものなら、あなたは自分の立場を放棄したことになります。主があなたの中でどれほどのことをなさったとしても、あなたはより多く受け入れられるようにはなりません。あなたが受...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (5)

    キリストによる神の満足に基づいて、人は祝福されて受け入れられる 今、注目すべきは、アダムのこの地上での最初の日が安息日だった点です。神は六日目に人を創造されました。人が最初に丸一日過ごしたのは安息日であり、その安息日が人にとって最初の日になりました。新約聖書に移ると、神は主イエスにあって御業を成就・完成し、ご自身の安息に入られました。これが神の安息日であり、そこから私たちは始めます。神の安息――それ...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (4)

    「七」の根底にある思想の全容 しかし、この七番目とは何でしょう、それは何を意味するのでしょう?何事も神の御言葉における最初の言及が、その後ずっとその事柄に対する鍵であることを、私たちはきわめてよく知っています。神は七日目に安息されました。それゆえ、神は七日目を聖別されました。その日、神は被造物に関して安息に入られました。万物が創造され、神は被造物を見て満足されたので、「はなはだ良い」と言われました...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (3)

    この語の語源が示す契約の思想 この「七」という言葉は、もちろん、ヘブル語の「シェバ(sheba)」です。それは名詞です。しかし、それは「誓う」という意味の「シャバ(shaba)」という別の言葉に由来します。これは、創世記二一・二八~三一に記録されているアブラハムがアビメレクと結んだ契約によって示されていますが、とても助けになります。 「アブラハムは、羊の群れから雌の小羊七頭をより分けた。すると、アビメレクは...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (2)

    (a)七――七日目、七月 第一に、七日目が一日目になります。イスラエルの民暦の七月が、彼らの宗教暦の最初の月とされます。「この月(七月)はあなたたちにとって最初の月となる」。 この過越の問題全体において、七という数字は大いに決定的かつ明確な地位を占めています。前の黙想で見たように、種なしパンの七日がありました。これは、天然の性質、すなわち古い性質、堕落した被造物のエネルギーをすべて、完全かつ決定的に...

  • 「御座の中央の小羊」第五章 永遠の契約の血 (1)

    「そして、エホバはエジプトの地でモーセとアロンに語って言われた、『この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる。それはあなたたちにとって一年の最初の月となる。イスラエルの全集団に語って言いなさい、「この月の十日に、各自は父祖の家ごとに小羊一頭を、すなわち一つの家族のために小羊一頭を取らなければならない(中略)あなたたちの小羊は、傷のない、一歳の雄でなければならない。あなたたちはそれを羊またはやぎの...

  • 「御座の中央の小羊」第四章 種なしパンの祭り (10)

    ああ、主の民の果てしない分裂と分断の悲劇!それが今も昔も続いています。人の知性が――ささいなことで――特定のキリスト教の真理を弄んでいるのです。人の知性のせいなのです。これは、基本的な種なしパンが実際にはないためです。天然の人が取り除かれていないのです。これがなされないかぎり、交わりを持つのは不可能です。種なしパンが交わりの祭りに不可欠です。しかし、神はほむべきかな、基本的にそれがなされているなら、...

  • 「御座の中央の小羊」第四章 種なしパンの祭り (9)

    新たに屠られた小羊 そこで、「種なしパンをもって」というささやかな句が、長子の分離という特定の文脈で取り上げられて敷衍されています。へブル人への手紙はそれが何かを私たちに告げます。「あなたたちは(中略)天に登録されている長子の教会に来ているのです」。この登録の意味は、黙示録を見ると、小羊の命の書と関係していることがわかります。小羊の命の書を見ると、御座の小羊はずっと屠られていたかのように見えます。...

  • 「御座の中央の小羊」第四章 種なしパンの祭り (8)

    さて、種なしパンの祭りが確立されないかぎり、死者の中から生かされた者として神に対して生きることはできません。これは、自分自身の意志、思い、願い、自分に属するものはみな、打たれなければならないことを意味します。転機を経なければなりません。何かがなされなければならないとはいえ、これは一つの行為で、一度かぎり、完全かつ決定的になされることではありません。なにかが砕かれて、その時以降、神は道を確保されま...

  • 「御座の中央の小羊」第四章 種なしパンの祭り (7)

    愛する人よ、私を信じてください、生き生きとした神の啓示を受けること、聖霊の啓示によって主を知ることは、神のすべての子供の生得権なのです。これはあなたの生得権です。ああ、すべてのクリスチャンがそうであって、それを持っていたなら、状況はなんと異なっていたことでしょう!神のすべての子供が、心の中に直接臨む主の啓示の光の中に真に生きていれば!啓示は御言葉を通して臨むかもしれませんが、それは私たちのもので...

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