祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
この他にも、取り上げようと思っても取り上げられない事がたくさんあります。例えば、私たちはそれぞれの人生に対する神の御旨を知りません。神の御旨は一人一人に異なる形で触れます。神の主権的選びがあり、私たち一人一人のための場所と、私たち一人一人のための働きがあります。それは関連していて、全体の一部である一方で、それでも、神の都というあの偉大な宝石の一つの面です。神は私たちを取り扱って特別な形でご自身に...
朗読: 黙示録五・一~十四、七・九~十七。消極的な面 私たちは、霊的生活、霊的成長、霊的進歩の問題に関心を持っています。私たちは深く心を痛めています。長い年月を経てもなお、神の多くの子供たちは狭量さ、制限、弱さを抱えているからです。私たちは悩んでいます。回心者たちは前進せず、信者たちは成長していないからです。また、責任を負うことができ、常に「見守り」続けてもらう必要のない人がほとんどいないからです...
私たちの高い召命に対する積極的姿勢の必要性 さて、もしこれが真実なら、私たちはとても広い範囲にわたって、むしろ恐るべき結果を想定できると思います。私はあなたにこう述べたいと思います。私たちは、これらの事柄に関する、不吉で、邪悪で、中途半端な選択肢を、すべて排除しなければなりません。積極的な立場を取らなければなりません。主イエスは常に弟子たちを積極的立場にもたらそうとされました。「だれでもわたしを愛...
さて、主観的な面は、生来の私たちに関するかぎり、神はご自身のゼロ点に遡って働かれることを意味します。客観的な面は、私たちがそれをきっぱりと受け入れることです。客観的に私たちは言います、「キリストは私の唯一の希望です!キリストは私の唯一の義です!キリスト、キリストだけが私の救いです!自分自身には何もありません!」と。客観的に私たちは、キリストはその十字架によって私たちのために神にとってどのような方...
十字架の試金石 十字架は、あらゆることで、新しい開始です。十字架は終わりであり、旧創造はその最良の状態にあったとしても神の霊の事柄では成功できないことを告げるだけでなく、新しい始まりがここにある!とも告げます。十字架が試すことがわかります。十字架はあらゆる権威を試します。あらゆる経験を試します。あらゆる権威と経験の試金石は、十字架が決定的に内面的なものになっているかどうかです。何かが権威をもって与...
さて、愛する人よ、私たちの知識の性質というこの問題に取り組むことは、私たちにとってとても重要です。私はあなたにお尋ねします、あなたは主の事柄に関する知識をどのように知ったのでしょう?どのように知ったのでしょう?そう信じるよう育てられたからでしょうか、子供の頃そう教わったからでしょうか?集会に行くことにより、自分の聖書を読むことにより、キリスト教の一般的な指導・情報・伝授・教育によって、それを受け...
十字架は旧創造のゼロ点である 決着をつけなければならないことが幾つかあります。主イエスの十字架に根差して、私たち全員が決着をつけるべき第一のことは、人は完全に無能力である、ということです。これを心で理解するのが早ければ早いほど、私たちにとって良いのです。だれにも見えるよう、この十字架には次の文字が記されています。すなわち、人は生来、神の事柄に関するかぎり、全く無能力である、と。つまり、人は神の事柄...
ですから、愛する人よ、私たちが話すときに心がけているのは、たんに十字架についての技術、教理、教えを与えることではありません。大いに実践的なことを心がけているのです。私たちの霊的生活・成長・発達・度量の問題はみな、この問題と結びついています。私たちは常に、自分の霊的進歩の遅さ、自分の霊的容量の小ささに悩まされています。私たちはこれらの問題で自分自身について悩みますし、他の人々に対する責任を負ってい...
(b)主観的な面 しかし次に、もう一方の面があります。客観的な面で十分である、とあなたは思うかもしれません。しかし、十分ではありません。受け入れてもらうにはそれで十分であり、立場や地位のためにも十分です。しかし、その後、神が私たちを取り扱われる根拠が重要になります。十字架の主観的な面は、私たちの立場ではなく、私たちの状態と関係しています。客観的な面は、私たちがキリストの中にあること、キリストによっ...
十字架の二つの面 十字架の二つの面、すなわち客観的な面と主観的な面について、一言述べることにします。この二つの面のバランスを完全に保つ必要があります。一方を他方よりも重んじてはなりません。どちらかを重視するおそれがあります。概して、福音的キリスト教は、今も過去何世紀もの間も、十字架の客観的な面を強調してきました。その反動で、もう一方の面の途方もない重要性を認識するあまり、過度に強調するおそれがあり...
朗読: 黙示録五・一~十四、七・九~十七。 黙示録のこれらの章は、万物の最終的総括を見せています。宇宙全体がその中に含まれており、関係しています。万物のこの最終的な一大総括では、そのまさに中心に、十字架すなわち中心的・宇宙的意義を持つ十字架を物語るものが見られます。十字架は最後に彼処に見られるだけではありません。なぜなら此処で、神の当初からの御心にしたがって物事を見ることができるからです。神の御言...
こういうわけで、霊的進展・霊的歴史はすべて、命と死の戦いの進展・歴史なのです。試練の形や経験の性質がいかなるものであれ、それは常にこれに帰着します。敵の狙いは死で、霊的死で、私たちに触れることです。死で私たちを包み込んで、霊的死の重圧と力の下に陥らせることです。それをすべて許す主の御旨は、彼の命によって生きる方法、彼の命によって勝利する方法を、私たちに教えることです。それはみな、命のための戦いの...
あなたも私も、愛する人よ、もし彼の血による契約という根拠に基づいて信仰により自分の地位に就いているなら、もし神が御子の死によってなさったことを認識して受け取っているなら、私たちは永遠の命を受けているのです。これがすべてを保証します。そこで使徒は続けて言います、「今、永遠の契約の血による羊の大牧者である私たちの主イエスを、死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が、ご自身の目に喜ばれることを、イ...
永遠の契約の中に含まれる神の賜物 永遠の契約の偉大な要素は何でしょう?契約とは引き受けること、請け負うことであることがわかります。契約とは、その契約をする者が「私は事をなす用意があります!事をなそうとしています!私はこの契約・行為をなして、それにより与え、遺贈し、約束します……!」と表明することを意味します。神が契約を立ててなそうとしておられるこの偉大な事とは何でしょう?神が御子の血による永遠の契約...
(c)十四――十四日目 小羊は十日目に登場しますが、十日目に屠られたわけではありません。新しい要素が導入されますが、それについてはすでに述べました。小羊は専門家によって検査され、合格して証印を押されますが、依然として何らかの欠陥が生じるおそれがあり、それについてはだれにもわかりません。続く四日の間、小羊は厳重な観察下に置かれなければなりません。これは神の小羊を示すものであり、この期間は、ヨハネによっ...
さて、人には責任があります、これが要点です。そして、義に対する責任、義に対する責任感のゆえに、人は所与の状況下でありとあらゆることをします。しかし、人はどうすれば神を満足させられるのでしょう?ああ、働きによって、献金によって、十分の一や税や懺悔によって、人は神の義を満足させることができる、という思想に基づく宗教組織が生まれたのは恐るべきことです。堕落した被造物の働きをキリストにある神の義の代わり...
(b)十――十日目 次に、主は別の数を持ち出して、「この月の十日に、各自は小羊一頭を取らなければならない」と言われました。これはとても興味深い数です。この数は聖書の中に頻繁に出てきますが、常にある文脈で出てきます。十戒があります。マタイ二五章には十人の処女が出てきます。ルカ十九章には十ミナが出てきます。この数が登場する箇所はどこでも、人の完全な責任と関係していることがわかります。十戒――神に対する人の...
もし、神が鍛錬と懲らしめにより、訓練と錬成と養成により、私たちに対する取り扱いを開始される時、私たちが、「これはすべて私があまりにも悪いせいであり、私が受け入れられるようになるために、主は私になにかを行う必要があるのです」と言いだそうものなら、あなたは自分の立場を放棄したことになります。主があなたの中でどれほどのことをなさったとしても、あなたはより多く受け入れられるようにはなりません。あなたが受...
キリストによる神の満足に基づいて、人は祝福されて受け入れられる 今、注目すべきは、アダムのこの地上での最初の日が安息日だった点です。神は六日目に人を創造されました。人が最初に丸一日過ごしたのは安息日であり、その安息日が人にとって最初の日になりました。新約聖書に移ると、神は主イエスにあって御業を成就・完成し、ご自身の安息に入られました。これが神の安息日であり、そこから私たちは始めます。神の安息――それ...
「七」の根底にある思想の全容 しかし、この七番目とは何でしょう、それは何を意味するのでしょう?何事も神の御言葉における最初の言及が、その後ずっとその事柄に対する鍵であることを、私たちはきわめてよく知っています。神は七日目に安息されました。それゆえ、神は七日目を聖別されました。その日、神は被造物に関して安息に入られました。万物が創造され、神は被造物を見て満足されたので、「はなはだ良い」と言われました...
この語の語源が示す契約の思想 この「七」という言葉は、もちろん、ヘブル語の「シェバ(sheba)」です。それは名詞です。しかし、それは「誓う」という意味の「シャバ(shaba)」という別の言葉に由来します。これは、創世記二一・二八~三一に記録されているアブラハムがアビメレクと結んだ契約によって示されていますが、とても助けになります。 「アブラハムは、羊の群れから雌の小羊七頭をより分けた。すると、アビメレクは...
(a)七――七日目、七月 第一に、七日目が一日目になります。イスラエルの民暦の七月が、彼らの宗教暦の最初の月とされます。「この月(七月)はあなたたちにとって最初の月となる」。 この過越の問題全体において、七という数字は大いに決定的かつ明確な地位を占めています。前の黙想で見たように、種なしパンの七日がありました。これは、天然の性質、すなわち古い性質、堕落した被造物のエネルギーをすべて、完全かつ決定的に...
「そして、エホバはエジプトの地でモーセとアロンに語って言われた、『この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる。それはあなたたちにとって一年の最初の月となる。イスラエルの全集団に語って言いなさい、「この月の十日に、各自は父祖の家ごとに小羊一頭を、すなわち一つの家族のために小羊一頭を取らなければならない(中略)あなたたちの小羊は、傷のない、一歳の雄でなければならない。あなたたちはそれを羊またはやぎの...
ああ、主の民の果てしない分裂と分断の悲劇!それが今も昔も続いています。人の知性が――ささいなことで――特定のキリスト教の真理を弄んでいるのです。人の知性のせいなのです。これは、基本的な種なしパンが実際にはないためです。天然の人が取り除かれていないのです。これがなされないかぎり、交わりを持つのは不可能です。種なしパンが交わりの祭りに不可欠です。しかし、神はほむべきかな、基本的にそれがなされているなら、...
新たに屠られた小羊 そこで、「種なしパンをもって」というささやかな句が、長子の分離という特定の文脈で取り上げられて敷衍されています。へブル人への手紙はそれが何かを私たちに告げます。「あなたたちは(中略)天に登録されている長子の教会に来ているのです」。この登録の意味は、黙示録を見ると、小羊の命の書と関係していることがわかります。小羊の命の書を見ると、御座の小羊はずっと屠られていたかのように見えます。...
さて、種なしパンの祭りが確立されないかぎり、死者の中から生かされた者として神に対して生きることはできません。これは、自分自身の意志、思い、願い、自分に属するものはみな、打たれなければならないことを意味します。転機を経なければなりません。何かがなされなければならないとはいえ、これは一つの行為で、一度かぎり、完全かつ決定的になされることではありません。なにかが砕かれて、その時以降、神は道を確保されま...
愛する人よ、私を信じてください、生き生きとした神の啓示を受けること、聖霊の啓示によって主を知ることは、神のすべての子供の生得権なのです。これはあなたの生得権です。ああ、すべてのクリスチャンがそうであって、それを持っていたなら、状況はなんと異なっていたことでしょう!神のすべての子供が、心の中に直接臨む主の啓示の光の中に真に生きていれば!啓示は御言葉を通して臨むかもしれませんが、それは私たちのもので...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...