イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...
前の章で、私たちは「神の都」の特徴をいくつか見ました。 1.天的性質を持つ霊的な民。「神が私たちの主キリスト・イエスの中で立てられた、永遠の御旨にしたがって」――エペソ三・十一。 2.神の民における神の栄光。ご自身の性質を一つの民において啓示し実現すること。「彼は、尊く、際立って偉大な約束を与えてくださっています。それは、これらの約束を通して、あなたたちが神聖な性質にあずかる者となるためです」――二...
この都には一本の通りしかありません。「都のその通り(the street、単数形)は純金であって、透明なガラスのようであった」(黙示録二一・二一)。これは主の民の交わりを物語っているのではないでしょうか?交わりの唯一の道……御言葉の中で道がいかに交わりを示しているのかを見てください。 「水晶のように輝く命の水の川」(黙示録二二・一)。これは絶対的に透明な命の証しです。透明さは内側から始まり、次に、そのような...
隠し事によって前進は阻まれる この都は、そのようないかなるものとも一緒に進むことはできません。中心にある川から周辺の城壁に至るまで、すべてが徹底的に透明でなければなりません。こうした分厚い私たちの天然の命と、私たちの魂的要素はみな、邪魔して混乱させます。霊の絶対的透明性がなければなりません。霧がやって来るのは、私たちが神と人の前で全く透明ではないからです。クリスチャンの交わりはこれによって破られま...
透明性は、一方において、徹底的なものであり、いかなる段階もありません。いかなる段階も真理にはありません。真理に至る道に段階があるだけで、ある人々は他の人々よりも真理に近づいています。しかし、真理は徹底的・決定的です。ですから透明性に関しては、もしその中に少しでも混ざり物があるなら、それは透明ではありません。透明性に至る道には様々な陰影を帯びた段階があるかもしれませんが、暗闇の影が一つでもあるなら...
あらゆる点で透明であること 透明性はこの都のとても顕著な特徴です―― 「エルサレム(中略)その光は水晶のように透明であった」(黙示録二一・十一)。 「その都は純金であって、輝く(透明な)ガラスのようであった」(黙示録二一・十八)。 「その都の通りは純金であって、ガラスのように透明であった」(黙示録二一・二一)。 「水晶のように輝く命の水の川」(黙示録二二・一)。 確かに、透明性はこの都の性質そのもの...
苦難と尊さ 門はまた尊さを物語ります。「門はみな一つの真珠でできていた」。真珠はどのように形成されるのでしょう?カキの殻の開口に刺さった小さな一片の砂粒によってです。これがカキを傷つけて刺さり、カキは血を流します。この血が他の諸々の要素によって作用して、真珠が形成されます。しかし、それはまさに自分自身の命を与えて、この価値あるもの――真珠――を生み出します。 神の御言葉では、「真珠」は偉大な愛に関して...
聖なる都、新エルサレムは、究極的に完成・成就・栄化された神ご自身の民の性質であることを、私たちは見ました。 彼は今、十字架を通して、永遠の御霊によって、この都を建造されつつあります。ご自身のかたちに、御子のかたちに、個々の構成員を形造られつつあります。このために私たちは定められました(ローマ八・二九)。神の民はキリストを明確に示すものです(二コリント三・四章)。都の門 黙示録二一章では、この都の...
主が求めておられる民は、地とその諸々の道から切り離されて、ご自身との関係の中にもたらされた民です。彼らの愛情は地上にあるものではなく、天にあるものに据えられていなければなりません。コロサイ三・一、二――「もしあなたたちがキリストと共に復活させられたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでキリストは神の右に座しておられます」。 復活と昇天は一つの行為であることを思い出してください。ヨハネ二〇・十七を...
パレスチナとシオン パレスチナは、神聖な事柄の中に侵入する人の天然的知性です。パレスチナの人々は御言葉の中では常に無割礼の者と呼ばれています。十字架から離れて、神聖な事柄を把握する、人の天然的知性です。バビロンに、私たちは天然の人の努力を見ます。パレスチナに、私たちは神の事柄を把握してその中に侵入する人の理性を見ます。 言葉の知恵による十字架の宣べ伝えがありますが、言葉の知恵はそれを無効化します(...
バビロンとシオン バビロンは、人の努力の産物であり、堕落した人の栄光です。「私たちは都を建てよう(中略)名を挙げよう」創世記十一・四。またダニエル四・二九~三〇「この大いなるバビロンは、私が自分の権力の力と、自分の権威の栄光とによって(中略)建てたものではないか?」。 ここに私たちは、天然的・宗教的な人の栄光を見ます。というのは、バビロンは常に宗教的であることを、私たちは知っているからです。黙示録...
エジプトとシオン ラハブは――エジプトです。天然の能力の象徴です。アブラハムは約束の地の中に入りました――そこは信仰による神の約束の地であり、信仰の最大の試練がそこで彼を待っていました。彼は異教徒がそこを占有しているのを見いだしました。彼らの偶像崇拝の祭壇が至る所にあり、その土地に大きな飢饉が起きました。そこで、彼は代わりにエジプトに向かいました。それは明らかに約束と矛盾することであり、約束を否定する...
特に教会のために書かれたエペソ書に移ることにしましょう。どれほどそれは「天上」について述べていることでしょう。エペソ一・三、二・六、四・十を参照。 主の民は、これが意味するところと代価を、なかなか受け入れません。私たちはあまりにも地上のものを欲しています。自分の労苦に対してすぐに見返りが得られる類のものを欲しています。感覚を満足させるもの、見えるものを欲しています。私たちを地から切り離して天的な...
黙示録二一・二二「私はその中に宮を見なかった」。なぜでしょう?この民は礼拝する民です――彼らが礼拝です。それは場所によらない霊的な礼拝です。 ヨハネ四・二〇「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたたち(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムであると言われます」。主は答えられました、「真の礼拝者たちが、霊の中で、また真理の中で、父を礼拝するようになります。そのような者たちを父は礼拝者として探...
第一の特徴は天的性質と霊性である それは「天から出て来」ます。それゆえそれは、天から出て来れるようになる前に、まず天の中にあったにちがいありません。 「彼らは天の都を探していました」。ヘブル十一・十「彼は土台のある都を探してしました。その建設者と作成者は神です」。 「私たちの国籍は天にあります」ピリピ三・二〇。 神の御言葉の中に、天の都のための材料について多く見いだされます。それが示唆するところは...
神の都は、私たちが行くことになる場所であるだけでなく、神の都でもあり、私たちはその一部です。 私たちは場所としての天に行くことになります。永遠に、無限の雲に行くわけではありません。むしろ、神の都、天の都、新エルサレムについて考えるとき、私たちは教会、キリストのからだについて考えようとしているのです。まさに、究極的事柄と関係しているあの都の性質と特徴を扱おうとしているのです。私たちは今、諸々の時や...
黙示録二一・九~十一「彼は私を御霊の中で、大きな高い山に連れて行き、聖なる都、新エルサレムが天から出て、神から下って来るのを私に見せたが、それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった。」黙示録二一・十八「その城壁は碧玉でできており、都は純金であって、透明なガラスのようであった。」黙示録二二・一「また彼は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。...
生活と奉仕との関連におけるケルビムT. オースチン-スパークス目次第一章 賛美の意義第二章 ケルビムの意義第三章 車輪――神の熟慮と御旨第四章 教会と生き物オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
十字架と神の都T. オースチン-スパークス目次第一章 究極的な事柄に関する考察第二章 都の門第三章 力、堅固さ、光、主権第四章 光の都第五章 神の都オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (11) 完
最終的に、あなたはこれをこの大会のメッセージとして受け入れるでしょうか?主に「あなたの負担を私の心の上に置いてください」と求めなさい……「これがあなたの負担であることを私に示してください」と求めなさい。主が話しておられることがわかるでしょう。それでも主は、ご自身の民、ご自身の僕たち、彼らのとりなしに頼らずに、それをしようとはされません。主が開始して、「私、私は黙っていない、私は休まない」と言われる...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (10)
「あなたたち、主に思い出していただく者たちよ、自ら休んではならない、彼がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを讃美とされるまで、彼を休ませてはならない」 「主に思い出していただく……」。これはどういうことでしょう?主に思い出していただくには、まず、主が求めておられるものを知っていなければなりません。情報を得て、知っていなければなりません。知っていて初めて、なにかを主に持ち出して、「さあ主よ、さあ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (9)
「私はあなたの城壁の上に見張り人を立てた、ああ、エルサレムよ、彼らは決して昼も夜も黙していない」 「私はあなたの城壁の上に見張り人を立てた……」。これは何を意味するのでしょう?この見張り人たちはなんのためにそこにいるのでしょう?彼らがそこでこのように熱心に警戒しているのは、異質な要素、邪悪な要素の侵犯・侵入からこれを守るためです。見張り人たちは警戒しています。警戒しているのは、なにがあってもこれを邪...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (8)
「あなたはもはや『捨てられた』と言われず、あなたの地は『荒れ果てている』と言われない。むしろ、あなたは『ヘフジバ』と呼ばれ、あなたの地は『ベウラ』と呼ばれる」 ヘフジバと何でしょう?これは述べたばかりのことの続きにほかなりません。ヘフジバは「私は彼女を喜ぶ」を意味します。私は彼女を喜ぶ。ああ、これを期待するのは行き過ぎでしょうか?これはあまりにも高い基準でしょうか?これが実現するという希望の根拠は...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (7)
「あなたは、主の口が名づける新しい名をもって呼ばれる」 新しい名です。新しい名です。どんな名でしょう?名は名声を意味します。あなたがどう呼ばれるか、人々があなたをどう呼ぶかによって、通常、人々はあなたを評します。イスラエルの名は名誉に欠けるものになっていました。諸国民はイスラエルを、あまりほめられたものではない名で呼ぶことができました。そして、主はここでこう述べておられます、「今、私は黙っていない...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (6)
「諸国民はあなたの義を見、すべての王はあなたの栄光を見る」 これは何を意味するのでしょう?「私は黙っていない。私は休まない、シオンの影響力と証しが世界に再び確立されるまでは。シオンがその地位と影響力を取り戻して、その証しが諸国民の間で認知・感知されるようになるまでは」。主の負担は、その影響力と証しが世界に感知される民、真に感知される民を得ることです――世人はその民からなにかを感じるのです。 全般的に...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (5)
これの示唆するところがなんとかわかるでしょうか?あのささやかな書であるルツ記では、贖いの問題、嗣業の贖いがかかっていたことを、あなたは覚えておられるでしょう。嗣業を贖う責任、贖う近親者として振る舞う責任を、ボアズは引き受けるのでしょうか?ナオミはルツにこう言いました、「私の娘よ、じっとしていなさい。あの人は、この問題に決着がつくまでは、安息がないでしょうから」。この問題に決着がつくまで、彼は休み...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (4)
回復のともしび、贖いのともしび これは何でしょう?回復された彼らの義というともしびです。これが希望です。見てください、主が述べておられるような内面の霊的状態に関する限り、まったく希望はありません。なんの将来も、なんの見通しもありません。なんの解放も、なんの救いもなく、なんの証しもありません。なにもありません。それに続くものはみな宙ぶらりんです。主が御心に適う民を、シオンが霊的に真に意味するところの...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (3)
「その義が輝きのようにあらわれいでるまで」 主は常にここから開始されます。主が常にどこから開始されるのかを知ることは重要です、きわめて重要です。開始する方法が少し先に示されています。主は常に、ご自身の民の内側の状態から開始されます。すべてがそれにかかっており、すべてがそれに続きます。これ――彼が関わっておられる民の内側の状態――に直面しない限り、どうにもなりません。その義、その内側の状況――その内側の状...
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イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...
〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...
〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...
ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...
キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...
ヘロデ党に対するキリストの答え(マタイ二二15~22、マルコ一二13~17、ルカ二〇20~26)この時において、キリストは実に種々の方面から難問をもって試みられたもうたのである。しかし試みられれば試みられるほど神の栄えが顕われたのである。〔15〕「彼を言い誤まらせんとて相謀り……」これは聖霊の筆である。聖霊は人の言葉ではなくて、人の心を見分けられるお方である。人の心は偽わるものであるから、理屈をつける時は言葉だけ...
婚宴のたとえ(マタイ二二1~14)このたとえはルカ一四16にあるたとえとは別である。主が十字架におかかりになる週間にお語りになられたものであって、その方はお語りになった目的も異なっている。すなわちルカによる福音書の方は救いへの神の招きであるのに反して、これは救いから更に一歩進めて聖潔の必要を説かれたのである。〔1〕「彼ら」信じないユダヤ人を指す。〔2〕「ある王」ルカ一四16には、神を「ある人」と呼んでいる...
悪しき農夫たちのたとえ(マタイ二一33~44、マルコ一二1~12、ルカ二〇9~19)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔33〕「ぶどう園」ユダヤ国民のことである。「間垣」他から攻めて来る敵を防御するもの。「酒ぶね」豊かな養いを指す。「塔をたて」これは地に豊かな養いがあるばかりではなく、彼らには予言者及び聖書のあることを指すのである。「農夫」祭司長、長老たちのことを指す。「他の国へ往しが」神が天におられるこ...
二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)これは同様に火曜日の説教である。〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によ...
イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)(火曜日の朝)祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人に...
イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録され...
イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であ...
イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを...
イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。〔3〕「己が頭髪にてそ...
ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...
もしあなたや私が、より多くの光、より多くの啓示を持っている、と主張するなら――そのような主張をすることを神は断じてお許しになりません!――しかし、もしそう思っているなら、その証拠・真価は――人々は私たちの中に他の人々よりもキリストを多く見ているのか?ということです。なぜなら、神は決して御子を超えて進んだりはされませんし、理論や教えや教理やいわゆる啓示に向かって進んだりもされないからです。ただ、生ける御...
クリスチャンの目的は地上でキリストを示すことである 私の見るところ、このような問いに対する神の御言葉の答えはただ一つです。それはイエス・キリストを示すこと、表すことです。主イエスを見えるようにすること、表すこと、実際に地上におられるようにすることです。それは、すべての人が彼を見ることができるようになり、すべての人が彼を知ることができるようになるためです。あなたたちはこう言うかもしれません、「そんな...
「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。「……愛する者の中で、神が私たちに無代価で授けてくださった、恵みの賛美となるためです」(エペソ一・六)。「……キリストの中で...
「私に与えられた神の恵みにしたがって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるか、各自は注意しなさい。なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら、それぞれの働きはあらわになります。なぜ...
勝利のうちに生き残るという私たちの確信を罪は弱める 私は、この確信を弱めるものを知っています。それを述べなければ、とても大事な点を見落とすことになります。生き残って、いずれあるいは最後には無事に切り抜ける、という私たちの確信を弱めるものは、自分自身の罪、自分自身の罪深さ、クリスチャンである自分自身の失敗に対する感覚もしくは自覚です。そうです、私たちはクリスチャンなのに罪を犯します。それを他の名で呼...
イザヤとエゼキエルの預言書を見ると、エルサレムは荒廃しています。エルサレムは荒れ果てています。ネヘミヤ記とエズラ記では、それはこの状況にあります。荒れ果て、荒廃し、その土地の人々は追放されています。これがエルサレムの有様であり、シオンの有様であり、イスラエルの有様です。エルサレムとシオンという言葉は、多くの場合、場所ではなく民に対して使われていることを、常に覚えておいてください。シオンの娘、エル...
キリストと正しい関係にあるものは勝利して生き残る さて、もう一言述べることにします。それは次のことです。すなわち、これらの土台は、もしくは、この土台――キリスト――と正しい関係にあるものは、勝利して生き残るのです。型・絵図であるエルサレムを見ると、それはとても良い例であり絵図です。ああ、この都にはなんという歴史があることでしょう。包囲され、攻撃され、蹂躙・破壊されてきましたが、それにもかかわらず、なん...
勝利の命の統合する力 次に、私たちは土台の統合する性質に、死に勝利する命の力によって統合する性質に進みました。ここでも私は追加の言葉を述べることにします。なぜなら、多くの啓示や多くの光・真理との不一致がこの方面で見られることがよくあるからです。私の時間の大半は、より多くの光を得た人々が他のクリスチャンたちに関して引き起こした混乱を解決することに費やされています。彼らは、からだに関する光、からだ・教...
キリストの堅固さ 第一章では、キリストは土台であり、堅固さの大きな要因であることを見ました。私たち全員にとって次のことは大いに明らかです。すなわち、もし私たちに真の霊的堅固さがないなら、もし私たちが堅固さと確信を持ち、霊的に頼りになる霊的にしっかりとした人々でないなら、もし私たちが一つ思いではなくて動揺している人々なら、私たちの土台、キリスト理解、キリストとの関係にはなにか大きな問題があるのです。...
「なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。」(一コリント三・十一)「土台が壊されるなら、義人は何をなしえようか?」(詩篇十一・三) 私たちは、永遠から永遠へと私たちを導く神の壮大なみこころと御旨について、膨大な量の教えを受けてきました。また、神のそれらの御旨に関する領域の多くに通じており、少なくとも知ってはいます。しかし...
イエス・キリストの霊は、あなたと私の中にこの同じことをなすために来臨されました。それは私たちが、自分の失敗や不完全さ、そして私たちを疎外し、引き離し、分裂させるあらゆる類のことのゆえに、やすやすと互いに離れ去ることのないためです。私たちは、自分たちと同じように見ていないからといって、他の人々を去らせることはできません。啓示を受けていないからといって、主の民を去らせることはできません。私が言わんと...
しかし、あなたと私が共有している命には、この宇宙のあらゆる破壊的な勢力を遥かに上回るなにかがあります。それらの勢力は主イエスの十字架に集中しました。破壊し、崩壊させ、分裂させ、散らそうとしていました。彼の復活において、この命はこれらすべての破壊的な勢力を遥かに上回ることが証明されました。ペンテコステの日に、その命が何を行ったのかを見ることができます。主が裏切られた夜、彼らはみな散らされました。ペ...
神はこの家族の上に建造される 土台に関しては、神は何の上に建造されるのでしょう?何の上にしか建造できないのでしょう?その答えは大いに明確です。神は命の上にしか建造できません。命の上にしか家族を築けません。私が思うに、神の御言葉、神聖な真理の中で、とても尊い点の一つは、まさに次のことです。すなわち、神の土台の霊的本質はこの家族である、ということです。私たちは、多くの事柄によって、またそれらの上に、建...
私は、詩篇四八篇の最後の句「この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる」が正確な訳ではないことに気づいて興味を持ちました。正確な訳は、「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。さて、「シオンを回り」、最後は「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。死に至るまでではなく、死を超え、死を渡らせ、死の向こう側に導いてくださるのです...
死に勝利する命によって構成された家族 さて、この土台の別の面に移ることにします。というのは、この土台自体は一つですが、多様だからです。黙示録から、この土台がいかに多様かわかります。土台にはあらゆる種類の宝石が使われています。次に、土台に関して少しのあいだ考えてみたいのは、この土台は命によって構成される家族の問題であり、その命は死を征服した命であることです。これは漠然とした言葉であることは承知してい...
「シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる。」(詩篇四八・十二~十四)「彼は土台のある都を求めていました。その建設者と製作者は神です。」(へブル十一・十)「なぜなら、据えられている土台...
イエス・キリストの霊とは何でしょう?第一に、堅固さの霊です。それは私たちの堅固さではないことを、神はご存じです。もし私たちに任されていたなら、私たちはとっくに流されていて、ここにはいなかったでしょう。私たちは学びつつあります、そうです、往々にして自分自身の失敗によって、挫折、失敗によってであり、試練や攻撃の下でです。私たちはキリストを学んでいるところであり、キリストを発見しているところであり、「...
キリストの堅固さを御霊によって自分のものとする必要性 もし主イエスが土台だとするなら、どのようにして彼は土台なのでしょうか?もし、これが彼の土台に言えて、それが私たちにも言えるようにならなければならないのだとすると――どのようにしてでしょう?私たちはあまりにも皮相的でした。私たちは、確かに、「据えられている土台以外のほかに、だれも他の土台を据えることはできません。この土台は、イエス・キリストです」と...
キリストの堅固さの秘訣 しかし、その秘訣は何だったのでしょう?それはたんなる人間的落ち着きや、偉大な魂の強さ、偉大な意志の強さではありませんでした。ある秘訣があったのです。彼の生活は、天におられる彼の父に深く根差していました。彼のお気に入りの言葉は――「天におられる父」でした。彼の生活はことごとく、天におられる彼の父に深く根差していました。あるいは、いつもの比喩を用いると、天におられる彼の父に基礎づ...
土台であるキリストの堅固さ ここで一つ、これまで述べてきたことと関連してすぐに浮かび上がってくることがあります。それはおそらく、土台としてのキリスト、そしてすべての正常な土台の第一の、最高の特徴です――すなわち堅固さです。土台はそうでなければなりません――堅固で安定していなければなりません。ああ、彼はなんと堅固だったことでしょう。この地上におられた時、主はなんと静かで、確信に満ち、毅然としていて、動じ...