広島城は堀も広く、建造物も石垣も多く、天守閣も見応えある城郭。だがしかし超有名な原爆資料館、原爆ドームのある広島。高校の修学旅行見学の地に「広島城」は無かった…
亡き妻の実家で懐かしく義弟夫婦らと談笑して、名残惜しく浦賀の地を後にする。今日の宿は娘夫婦孫の待つ鎌倉へ。コロナの影響で、この間浦賀にも鎌倉にもなかなか来れな…
館山市の館山城へ。山の上の模擬天守は高さ70㍍ほど。海が! 相模湾が一望!天守は小田原城がモデルという。天守からの海。山城の天守から大海原が望める景色が城めぐ…
投稿して2週間も連絡なし。ボツか…「仕方なし」とあきらめていたところへ連絡が。「ホホ、やった!」あな嬉し! さらに待つこと2週間、5月末の地元タウン紙に載った…
間宮林蔵の生家・墓所を訪ねた日の夜。久々近藤勇ゆかりの地・流山にて旧友Kと邂逅 、昨年秋に逝去した旧友・竹内整一東大教授を偲びながら献杯す。▼流山の近藤勇陣屋…
「なにも京都や奈良へ行くこたぁねぇじゃんかよ!」「すげぇなぁ信州!」友人を信州の名刹・三重塔を案内した時、こんな感嘆の声が。然り!というわけで、早春三月に訪ね…
「この天守は岡崎城がモデルですか?」「そうなんです」大多喜城から西へ10キロほど、山城本丸に模擬天守を擁した久留里城。 駐車場から天守までたどり着くのがけっこ…
房総半島には天守をいただく城跡が多い。城の石垣は魅力的だが城門、土塀、櫓、そして天守。それが模擬天守であっても城跡を引き立てる。 大多喜市の大多喜城へ。 唐破…
「世界地図で唯一日本人名のついた地名、間宮海峡!」「間宮海峡」この印象は強かった、が、長く忘れていた。 茨城県龍ヶ崎市金龍寺の新田義貞墓所を訪ね、ここで初めて…
新田義貞への哀惜は、今も昔も変わらない。その無念さを晴らすがごとく各地に史跡・墓所が。常陸・龍ヶ崎の金龍寺義貞墓所へ。 昨年、群馬県太田市の金山城山麓に金龍寺…
「楯親忠(たてちかただ)さんの墓碑は群馬県にあると聞いてますが…」と、佐久市正法寺の方から情報を得た。 義仲四天王の一人楯親忠は、義仲とともに鎌倉軍との京都周…
●塔影礼讃3 伊賀・開化寺、湖南・国宝常楽寺、湖東・金剛輪寺
塔といえば三重塔と五重塔。その違いは?お釈迦さんの遺骨を塔の地下中央に納めてあることがそもそもの塔の存在。よって三重も五重も大きさも特に関係ないそうな。 私は…
素晴らしき本丸というか、岩殿山山頂でした。しかし、難攻&難攻、足が、膝が、爪が痛くて痛くて、泣いた!よくぞ無事に帰還出来たと(嬉泣)。 好天無風に恵まれ、こん…
新府城から、涙の森を経て、躑躅が崎の館を通りすごし…。勝頼一行は大善寺(甲州市勝沼)にその日の夜着到した。落ちる者多く、もはや二百人足らずになっていたとも。 …
「新府城から岩殿城、勝頼さんの悲しみの道を行くってのはどうだや?」今年も田んぼ畔草刈りや庭木の伐採などなど、もろもろ世話になる高校時代からのわが友リュウちゃん…
奈良・霊山寺(りょうせんじ・奈良市中町)。私はなんと寺そのものをまったく知らずにいた。いわんや三重塔をや!唐招提寺、薬師寺から西へ2㌔ほどの地。このあたり来た…
塔の立つお寺の風景がいつごろからか好きになった。塔の背に青空が、緑濃い木々が、碧き山々があれば、さらにまた美しく、素晴らしい! 東塔西塔といえば、奈良の薬師寺…
将軍に直訴した義民・佐倉惣五郎と同じく、我が信州には「加助騒動」の中心人物義民・中萱嘉助(多田加助)がいた。この際、ぜひぜひお見知り願わしゅう! 教科書は、「…
逆井城を後にして、千葉県成田へ。このところすっかり、まったく忘れていた義民として名高い佐倉宗吾郎(木内宗吾郎)の史跡を訪ねた。因みに我が地元の信州安曇野市には…
大学時代の友人の集まり(我々は四季の会と呼んでいる)の中心的リーダー、我が親友の亡き竹内整一東大名誉教授を偲ぶ会を埼玉県行田市で行った。みな大学時代の七人の仲…
松本市・安曇野市などに配布される地元タウン紙「MGプレス」。ふだん歴史物の投稿エッセイはほとんど目にしない。「よってチャンス!なのか、よってダメなのか?」 い…
薩摩に、秀頼墓を訪ねた時にふと思った。家康は秀頼が一子、国松をも断罪していることを。その後、国松の墓所を知った。それまでは深く考えもしなかった。 秀頼は母淀君…
出雲・国宝松江城へ。7年前来たときはトントンと天守に登り、制覇したような気に。天守最上階から宍道湖を眺望してご満悦だった。今回は反省して天守に登らず、城内を巡…
「治部少(石田三成)に 過ぎたるもの二つあり …
大和郡山市の松尾寺へ。奈良盆地西の山際の高台に位置する真言宗の古刹。寺の門を入ると。 わわわ、長い石段! こりゃ難儀だ、帰りも恐いが、行く! すると、樹木に守…
ブログに大和三山についてあれやこれやとまとめている最中の数日前。信濃毎日新聞社の投稿欄の係の方から連絡が!「大和三山」載るって、ほほ、やったぁ!ブログアップは…
今冬、大和三山の一つ、畝傍山の頂を目指した。といっても200㍍足らずの山なのだが、昨夏は猛暑で麓にてダウン、しかも「まむし注意」の看板に怖気づいてすごすごと退…
九州西国行レポを中断して。寒い!寒い北アルプスからの寒風を避けて古都奈良へと向かったものの。奈良もけっこう寒くて!でも京都に比べ、観光客が少なくそれが嬉しい。…
長門の小次郎さんの墓から山陰道、日本海沿いへ。 石見の国、浜田市の浜田城。江戸初期に伊勢国から移された古田重治によって築城され、五万四千石を領した。その後幕末…
九州ともついにお別れ。関門海峡を渡って萩方面へ、山陰へ向かう。山口県阿武町にあるという佐々木小次郎の墓を目指す。「武蔵といえば小次郎!」なのだが、武蔵の墓はよ…
肥後人吉城からブーンと九州を北上縦断、豊後・大分県日田へ。江戸時代の私塾、広瀬淡窓が主宰した咸宜園へ。 文化14年(1817)開塾から明治30(1897)年ま…
鹿児島ともいよいよお別れ。もう来ることは、うーん、もうないだろうな…。 出来たら、そう出来たらば、あの俊寛さんが流された喜界ケ島へ行ってみたいな。俊寛さんの「…
特攻記念館で嗚咽しつつ、自筆の遺書を読む。ほとんどが二十歳前後の若者か…。 留魂録 第七九振武隊 昭和20年4月16日出撃戦死 岩手県出身 23歳 佐藤新平…
泣きたいから知覧へ行くのか。知覧へ行って、あそこへ行って読みたい遺書があった。鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館へ。 館内はかなりの見学者。 遺書………母上お…
「『天平の甍』を読んで感動しない人はいないでしょ!」大昔、強面の大学の先生の、この強い口調に押されるまま、古本屋へ。そのまま電車中で読み始めて…感動&感動! …
暗澹たる光景が次々、伝えられる。ただただ唖然の日々…。能登半島地震被災者に衷心よりお見舞い申し上げます 5年前2019年夏、能登半島先端、禄剛崎から少し内陸に…
鹿児島市南の郊外、谷山地区。「あの~、このあたりに秀頼公のお墓が…」「ええ、知ってますよ、クルマですか、この道を…」 そして、個人宅の敷地内へ。 門扉が設けら…
「吉之助さぁと一蔵どんは、最後までないごて、互いを譲れなかったのか」「西郷先生、なぜ大久保さんは、士族の息の根を止めようとするのか。幕末騒乱で命をはったのはお…
謹賀新年、明けましておめでとうございます。長く西国九州行のレポをせず、年を越してしまったが。本年2024もよろしくご愛顧ください。◆宮崎日向の国から、鹿児島薩…
2023令和5年。今年もまた、線香を携え各地の墓参へ。志半ばで散った無念の人がほとんどか、いや、皆そうか。 とはいえ明日から2024、皆さま今年も読んで頂きあ…
●綺羅星の如く家康家臣群 夏目吉信、鳥居父子、大久保兄弟、強右衛門…
「大河ドラマ家康」の夏目吉信にはすっかり泣かされてしまった。甲本雅裕さん、熱演だった。三方原合戦で、家康の身代わりとなって憤死した夏目吉信。かなり知られていた…
岡崎から北へ。豊田市の、今や何百(千)万石のトヨタ城下町のビル街、工場群を抜けて。豊田市寺部町の守綱寺。家康十六神将の一角「槍の半蔵」と敵味方に畏怖された渡辺…
今年も残り10日余り…、1年の総まとめを城郭巡りの回顧にて。きつかったなぁ…… 三峯城、佐和山城、佐伯城、思い起こしてもゥゥゥ…涙泪涕が。 尼崎城(兵庫県) …
今までの家康物のドラマの中で、家臣団と家康の物語がかなり詳しく描かれたこと、これがいちばん私は良かった! 特に「酒井忠次、榊原康政、井伊直政、本多忠勝」の四天…
「初代天皇は神武天皇」と知っていたが、そうか、生誕地は日向の地か。 奈良の畝傍山へ行った際、すぐ近くに「神武天皇陵」が、壮大にして静寂の中にあった。初めてここ…
4日ぶり、九州西国行レポへもどります。 一路、宮崎市内から都井岬の野生の馬へ会いに出陣。おおげさだけど、小学校以来の「ゆめ」だった。野生の馬を見ることが。「へ…
「おい、静かに、走るな、危ない!」孫たちの喧騒そのまま、みなで会場前へ行くも、場内のぞくと講演中にて静か、かなりの聴衆が。 ここは日比谷図書館文化館コンベンシ…
「赤松小三郎って、知ってる?」娘息子孫、友人知人…、何人かに聞いた。「ウーン…分からない、知らない」。私の「赤松小三郎伝」が載ってる拙著を持っていても、これで…
宮崎市から南へおよそ40㌔の日南市の飫肥の城下町。観光客がそぞろ歩きしている街並みを飫肥城の大手門へ向かう。 飫肥城は、戦国時代に島津・伊東氏が争ったが、秀吉…
10月1日レポです。所は九州、日向国。延岡城から佐土原城へ。今旅の最初、関ケ原古戦場で墓参したあの島津豊久が一時城主であったという城。復元された鶴松館御殿の前…
きのう(9月29日)、登城に喘いだ豊後・佐伯城。松本城主だった石川康長は、1614年に改易され、ここ佐伯城下へ配流された。昨2022年、康長公の位牌を安置する…
「本丸まで20~30分ぐらい」と地元の方。ウーン…、帰ってこれるかが不安。しかし、本丸の石垣を下から仰ぎ見ると、登ってみたい。 標高140㍍。「行くぞ‼」。 …
魔女様から万葉秀歌について、さまざま教えていただき。また奈良へ行かないとなぁ、などと思いつつ…、自分の寿命を思いつつ…。四国路をクルマを西へ走らせる。 今治城…
●「熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待てば…」の港は?
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」高校時代、古典の先生が天井を見つめながら、酔ったようにこの額田王の歌を…
屋島城で熱暑にうたれ、ホテルではバタンキューダウンだったが、翌日なんとか快復!西へ一路、四国中央市の川之江城へ。瀬戸内海が天守から一望とか。おぉ、模擬天守が碧…
九州へは四国の伊予・八幡浜港からフェリーで渡る予定にて、明石海峡大橋を通過、淡路島から四国へと向かう。 淡路島の、道の駅・あわじから美しい瀬戸内海を望むも、世…
旧友・整ちゃんの逝去にずっとこだわりながら…。取り残されたごとく自分は生きている、ズルズルダラダラ生きていくのか。旅の途中訃報に接した西国九州の旅レポ、もう旧…
旧友の急逝にあたり、ブロ友様各位からお悔やみ・励ましの言葉をいただきました。ありがとうございました。一つ一つ返信も出来ず、ダラダラと日を過ごして、すみませんで…
●南さつま市 鑑真上陸の地へついに来たのに、なんということか…!
ついに来た!ここへ来てみたかった!今、南さつま市にて書いています…。 何回も日本への渡航に失敗、盲目となっても頑強な意志でついに日本へきた鑑真和上。その鑑真が…
後醍醐天皇・南朝を強力に支えた四人の武人を、後世、略して「三木一草」と称し、讃えた。結城親光(ゆうきのき)、 名和長年(伯耆守のき)、楠木正成(くすのきの木)…
東日本大震災の翌年、長駆、石巻市の大川小学校へ向かった。児童・先生80名以上が犠牲となったという強烈な印象が残っていて、北上川河口近くの小学校へ行ってみたかっ…
新田義貞は、天皇・後醍醐天皇を信奉すべきか、いや武士たちの意向を酌むべきか、迷う。尊氏の武家中心・尊重もよくわかる、正成の純な気持ちもわかる、惹かれる…。迷う…
なぬぅ~? 新田義貞墓所が福島県棚倉町に?むむ、桐生市に首塚が! さらに驚いたのは、新田神社や生品神社のある新田義貞のふる里、群馬県太田市に義貞の弟・脇屋義助…
大リーグも、日本も野球はそろそろ終盤。大谷翔平選手にはなんとしてもホームラン王をとってほしい!と願う。そして日本では、我れ長年奉職した松本第一高校出身のDeN…
「どうする家康」で今や話題の岡崎城へ。かなりの人手。相方は初めてとあって大喜び、天守最上階にて両手を広げるポーズ、いいねえ。私は何度か来てはいるもののいつも新…
大河ドラマ『どうする家康』を見つつ、ふつふつと湧いていた思いが、義仲四天王の二人、根井行親・楯親忠父子の史跡を訪ねて以来、「よぉ~し!」。約10日間、熱を込め…
二俣城は、岡崎信康が自刃した城として有名だが、それ以前に武田方の城として守備していた城主・依田信蕃(のぶしげ)は、残念ながらあまり知られていない。依田信蕃、「…
遠州・二俣城、鳥羽山城へ。ブロ友・JOJOさんのレポにて、鳥羽山城をまったく知らなかったことを知る。 二俣城は大雨の中、かつてちょっと行った。その日は、岡崎信…
「けぇったら(帰ったら)、草刈り頼むわ」「任せろ、そんじゃぁ、いくぞ!」あいかわらず、元気はつらつな相方。恒例の、高校時代硬式テニス部(今はテニス部という)ダ…
南北朝時代はわかりにくい時代だ。大河ドラマ「太平記」(1992年放映)は面白かったが、人間関係のつながりが難しかった。昔からのなじみのある武将が極めて少なかっ…
伊勢市から西へ7キロほど内陸の、渡会郡玉城町。南北朝時代に北畠親房、顕信父子によって南朝の拠点として築城されたのが城の始まりという田丸城。 大手門橋から登城開…
●根井行親(ねのいゆきちか)、楯親忠(たてちかただ)って誰? 訪ねてトクした良かった!
「あのう、すみません、『楯親忠』の碑、さがしてるんですが…」「たて?❓ うー、たてろくろうかいのう?」「そうです、楯六郎、楯六郎親忠の館跡の碑を探してるんです…
新宮市から北へ30㌔ほど。すぐ近くが海とは思えない深山の熊野山中、熊野市紀和町の赤木城へ。海は見えないが、絶景の山並みを望む城跡があるという。 というわけでま…
鳥羽城から南へおよそ120㌔。紀伊半島の南岸をひた走る。海沿いとは思えぬほどトンネルが。目指すは新宮城。しかし今日は曇天、途中、こんな熊野灘を垣間見たのだが。…
鳥羽城からさらに志摩半島の先端、波切(なきり)城へ向かう。きっと素晴らしい海が待ってるはず。ところが意外とこれが遠く、しかも左右かなりの山道を走る。志摩市大王…
夏目吉信、鳥居強右衛門に、ここんとこ大河「どうする家康」では、泣かされてしまった。おぉ、こうなれば次は大河内政局(おおこうちまさもと)登場か!と期待したが。ち…
中岡慎太郎を『信州往来もののふ列伝』の連載に、早々書いたのは2010年3月。中岡が佐久間象山に教えを請うため、信州松代まで足を運んでいたことに感銘、はやく載せ…
伊勢、南紀へ行けば広大な太平洋を眺める城砦があるはずと出立。お伊勢様にお参りもせず、志摩半島の鳥羽城へ。伊勢市から東へ10キロほど。海に面した城とはいえ周囲は…
ここんところ、大谷選手のホームランに憑りつかれ、食い入るように毎日中継を見ている。大谷選手が打席に立つと、ホームランを打つ感じがして、そして打ってくれるから。…
熱田を出た信長軍は、丹下砦を経て善照寺砦に。およそ二千を率いて着到した。十九日午前中か。『信長公記』は以下のように記す。 「(信長は)熱田より、もみにもんで懸…
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広島城は堀も広く、建造物も石垣も多く、天守閣も見応えある城郭。だがしかし超有名な原爆資料館、原爆ドームのある広島。高校の修学旅行見学の地に「広島城」は無かった…
十二年ぶりに、猛将福島左衛門大夫正則のふる里を訪ねた。尾張国海東郡二ツ寺村、現在は愛知県あま市二ツ寺屋敷、正則村ともいったそうな。 ●石臼を引きずって遊んでい…
佐原の街から犬吠埼の灯台へ。ここは本州東端の地。忠敬さんは、富士山・筑波山などが直接目視できるこの海岸で測量の精度を確かめる測量をしたという。犬吠埼の灯台。大…
伊能忠敬の地図作成への旅立ちは、常に富岡八幡宮(東京・墨田区)からだったという。10年前八幡宮で初めて忠敬さんの緊張した面持ちの旅立つ像を見た。いい顔していた…
志を得て、果敢に挑んだ平将門、その短き三十余年の生涯!将門のふる里、坂東の地を久々に訪ね歩き、改めてもののふ将門を想った…。 ◆平 将門(たいらのまさかど 9…
春四月、久々豪快な満開の義仲桜を仰ぎ見て、フツフツとまたも湧き上がってきた思いを、地元タウン紙に投稿した。なんとしても颯爽たる若武者旭将軍木曽義仲の姿を大河ド…
「おぅ!」 「おお、久しぶり!」関鉄常総線水街道駅にて、学生時代からの旧友Mと再会! Mは高校時代、抜群の数学成績トップ、しかも2番との差はいつもほぼ50点以…
筑波山神社から南へ10㌔ほどの小田城(つくば市小田)へ。「北畠親房が「神皇正統記」を書いた小田城」この関連・結び付きのみで記憶に残っている小田城、どんな城なの…
広大な関東平野にポツンと、いや悠々と浮かぶような筑波山。標高900㍍弱にして、日本百名山の一つという。水戸天狗党の挙兵の発端がこの筑波山中腹の筑波山神社での蹶…
信州の桜も、はや散りおさめ…。今年は運よく義仲桜の満開に訪れることができた。上田市丸子・宝蔵寺(岩谷堂)に樹齢八百年の「義仲桜」の巨木が立つ。この急な石段を登…
球春到来!我が孫Rちゃんが静岡高校野球部レギュラー入りして出場するという東海地区春季静岡県大会の応援に一路静岡へ向かった。夏の甲子園大会の前哨戦、シード確保の…
謙信公のレポを続けていたところ。なんと我が朋友が武田機山信玄公の甲冑を完成したと、地元タウン紙「市民タイムス」に報じられていた。写真右が旧友・山本隆一君。大昔…
我が孫の中学入学式ということで、久々に越後長岡へ。入学式、久しぶりの懐かしき景色、保護者も先生たちもみな緊張、新鮮だった。無事済んで話ガラリ変わって、一路能登…
関東へ赴くとなれば、あの謙信伝説の唐沢山城へは行かねば!実は友人と旧交を温めにいくのではあるが。謙信伝説とは。「殿、あまりに無謀! 本隊が着いてからでも遅うご…
今冬巡った大阪市・河内など大阪府南部一帯。菊水橋とか楠公町とか、楠木正成に因んだ地名に各所で出会い、信州では感じることのなかった「正成公への思い」が関西では浸…
1331年倒幕の挙兵後、後醍醐天皇は笠置山に立て籠ったものの苦戦をしいられ、追い詰められた。ある夜、笠置山行在所↑の南庭に立つ巨木の下に一人の武士が額いている…
大阪場所、大相撲優勝決定戦を見た。高安を応援、なんとか優勝を、初優勝を願った。 大関になるころの関脇高安が一番強く感じた…。亡き北の富士さんがそのころの高安と…
久々の投稿が地元タウン紙に載った。1年ぶりか、昨秋に二度ほど投稿したがボツだった(泣)。最近は集中力が無く、700字をまとめるに二か月近くも。すぐに飽きてしま…
やっと春が! 福寿草が! 四条畷神社から30分ぐらいで飯森山の楠木正行公像まで登れるという…。かつて東麓の楠寺までは行ったのだが…。 …
「忠孝の鑑」「もののふの鑑」と古来より崇められた楠木正成なれど、その生涯はわからないことが多く、逸話、伝承における姿が強く残って今に至っている感じだ。 父の名…
亡き妻の実家で懐かしく義弟夫婦らと談笑して、名残惜しく浦賀の地を後にする。今日の宿は娘夫婦孫の待つ鎌倉へ。コロナの影響で、この間浦賀にも鎌倉にもなかなか来れな…
館山市の館山城へ。山の上の模擬天守は高さ70㍍ほど。海が! 相模湾が一望!天守は小田原城がモデルという。天守からの海。山城の天守から大海原が望める景色が城めぐ…
投稿して2週間も連絡なし。ボツか…「仕方なし」とあきらめていたところへ連絡が。「ホホ、やった!」あな嬉し! さらに待つこと2週間、5月末の地元タウン紙に載った…
間宮林蔵の生家・墓所を訪ねた日の夜。久々近藤勇ゆかりの地・流山にて旧友Kと邂逅 、昨年秋に逝去した旧友・竹内整一東大教授を偲びながら献杯す。▼流山の近藤勇陣屋…
「なにも京都や奈良へ行くこたぁねぇじゃんかよ!」「すげぇなぁ信州!」友人を信州の名刹・三重塔を案内した時、こんな感嘆の声が。然り!というわけで、早春三月に訪ね…
「この天守は岡崎城がモデルですか?」「そうなんです」大多喜城から西へ10キロほど、山城本丸に模擬天守を擁した久留里城。 駐車場から天守までたどり着くのがけっこ…
房総半島には天守をいただく城跡が多い。城の石垣は魅力的だが城門、土塀、櫓、そして天守。それが模擬天守であっても城跡を引き立てる。 大多喜市の大多喜城へ。 唐破…
「世界地図で唯一日本人名のついた地名、間宮海峡!」「間宮海峡」この印象は強かった、が、長く忘れていた。 茨城県龍ヶ崎市金龍寺の新田義貞墓所を訪ね、ここで初めて…
新田義貞への哀惜は、今も昔も変わらない。その無念さを晴らすがごとく各地に史跡・墓所が。常陸・龍ヶ崎の金龍寺義貞墓所へ。 昨年、群馬県太田市の金山城山麓に金龍寺…
「楯親忠(たてちかただ)さんの墓碑は群馬県にあると聞いてますが…」と、佐久市正法寺の方から情報を得た。 義仲四天王の一人楯親忠は、義仲とともに鎌倉軍との京都周…
塔といえば三重塔と五重塔。その違いは?お釈迦さんの遺骨を塔の地下中央に納めてあることがそもそもの塔の存在。よって三重も五重も大きさも特に関係ないそうな。 私は…
素晴らしき本丸というか、岩殿山山頂でした。しかし、難攻&難攻、足が、膝が、爪が痛くて痛くて、泣いた!よくぞ無事に帰還出来たと(嬉泣)。 好天無風に恵まれ、こん…
新府城から、涙の森を経て、躑躅が崎の館を通りすごし…。勝頼一行は大善寺(甲州市勝沼)にその日の夜着到した。落ちる者多く、もはや二百人足らずになっていたとも。 …
「新府城から岩殿城、勝頼さんの悲しみの道を行くってのはどうだや?」今年も田んぼ畔草刈りや庭木の伐採などなど、もろもろ世話になる高校時代からのわが友リュウちゃん…
奈良・霊山寺(りょうせんじ・奈良市中町)。私はなんと寺そのものをまったく知らずにいた。いわんや三重塔をや!唐招提寺、薬師寺から西へ2㌔ほどの地。このあたり来た…
塔の立つお寺の風景がいつごろからか好きになった。塔の背に青空が、緑濃い木々が、碧き山々があれば、さらにまた美しく、素晴らしい! 東塔西塔といえば、奈良の薬師寺…
将軍に直訴した義民・佐倉惣五郎と同じく、我が信州には「加助騒動」の中心人物義民・中萱嘉助(多田加助)がいた。この際、ぜひぜひお見知り願わしゅう! 教科書は、「…
逆井城を後にして、千葉県成田へ。このところすっかり、まったく忘れていた義民として名高い佐倉宗吾郎(木内宗吾郎)の史跡を訪ねた。因みに我が地元の信州安曇野市には…
大学時代の友人の集まり(我々は四季の会と呼んでいる)の中心的リーダー、我が親友の亡き竹内整一東大名誉教授を偲ぶ会を埼玉県行田市で行った。みな大学時代の七人の仲…
松本市・安曇野市などに配布される地元タウン紙「MGプレス」。ふだん歴史物の投稿エッセイはほとんど目にしない。「よってチャンス!なのか、よってダメなのか?」 い…