茂木藩の陣屋が置かれた場所で茂木町役場の駐車場がある場所などが該当しますが遺構などは残っておらず、陣屋があったことを記す石碑があるのですがちょうどパトカーが駐車しており駐車場をウロウロしていると職質されかねないので止めました。茂木藩主細川家は細川藤孝の次男興元を初代とし、大坂の陣の功績により興元には常陸国筑波郡などにも所領が与えられ参勤交代の負担を軽減するため江戸から近い谷田部に陣屋を移し...
米沢聖ヨハネ教会の建物は昭和5(1930)年に建てられたもので現時点では特に文化財などになっていませんが申請すれば登録文化財になりんじゃないかなぁと外観だけ見る限りですが雰囲気のある教会です。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしけ...
上杉神社稽照殿は大正8年に発生した火災で上杉神社の建物が焼失したため米沢出身の建築家伊東忠太の設計で本殿などとともに新たに宝物館として建てられました。上杉謙信の遺品を中心に上杉景勝や直江兼続の甲冑、上杉鷹山の遺墨など国重文を含む上杉家関連の文化財・・資料を所蔵しています。また建物も国登録有形文化財になったいます。 上杉神社再興時に建築された宝物殿で,設計は伊東...
続日本100名城に選定されている米沢城は江戸時代は米沢藩上杉家の居城としてしられていますいますが、それ以前は伊達家の居城であり伊達政宗はここ米沢城で生まれています。...
丸窓と四角窓、縦書きに岡崎写真館の文字と配置が面白い岡崎写真館の建物も昭和初期に建てられたもの。こちらは残念ながら廃業されているようですが米沢を訪れたら撮影したかった物件のひとつでした。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版)...
「ブログリーダー」を活用して、けんさんをフォローしませんか?
茂木藩の陣屋が置かれた場所で茂木町役場の駐車場がある場所などが該当しますが遺構などは残っておらず、陣屋があったことを記す石碑があるのですがちょうどパトカーが駐車しており駐車場をウロウロしていると職質されかねないので止めました。茂木藩主細川家は細川藤孝の次男興元を初代とし、大坂の陣の功績により興元には常陸国筑波郡などにも所領が与えられ参勤交代の負担を軽減するため江戸から近い谷田部に陣屋を移し...
那須七騎のひとつで江戸時代は旗本であった千本家の菩提寺であった曹洞宗のお寺です。 山門(茂木町指定文化財) 千本家墓所那須七騎のひとつ千本家は那須資隆の十男為隆を初代とし、屋島の戦いで有名な那須与一宗隆はすぐ下の弟になります。那須七騎は各々が那須氏を旗頭にしてはいたものの各自独立性が強く場合によっては那須家に弓引く時も珍しくありませんでしたが、戦国時代...
江戸時代初期に火災で焼失した千本城の代わりに千本氏は城の麓に新たに陣屋を築きます。その後千本氏は一度は末期養子の禁に引っ掛かり改易され、千石余りの旗本として家名存続こそ許されましたが他の那須衆とは異なり参勤交代が許された交代寄合の格式のない江戸定府の旗本だったため数人の家臣が所領管理のためこの地に残り陣屋に詰めていたと思われます。茂木町の文化財指定を受けていますが標柱こそ建っていますが遺構は...
那須与一資隆の兄で千本氏の祖となる為隆が建久年間に築いたのが始まりとされる山城で、鎌倉時代から江戸時代初期まで千本氏の居城でしたが寛永5(1628)年に火災を起こし、また千本氏も最終的に家名存続こそ許されたものの一度は末期養子の禁に触れ改易され所領を大幅に削られたため(他の那須衆と違い交代寄合にも名を連ねていない)、以降は麓に陣屋を構え家臣数人が詰めていたようです。 現在は畑となっている辺りが屋...
浅草通りに面する角地に建つ。鉄筋コンクリート造で一階を店舗、地下一階と二階を倉庫、三階を居室とする。外壁は色モルタル塗で、縦長窓と丸窓を開き、緑色の瓦や高欄を廻し意匠性に富む。塔屋は反りの強い屋根を二重に架け、独創的な外観を形成している。(文化庁文化財データベースより) ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 ...
天正18(1590)年に浄土宗の円誉道阿が湯島に庵を結んだことに始まり、慶長9(1604)年道阿への帰依篤かった徳川家康により寺領や寺号などが与えられ源空寺として創建されています。 本堂 伊能忠敬の墓(国指定史跡)全国各地を測量し『大日本沿海輿地全図』を手掛けたことで有名。師匠である高橋至時の墓近くに埋葬するよう遺言し、その通り師匠の墓の後ろ側に墓...
浄土宗のお寺で詳細な創建年次は不明ながら寺を開いた善蓮社貞誉上人は慶安元(1648)年に亡くなっていることから江戸時代初期に創建されたと思われます。 葛飾北斎の墓浮世絵画の大家として有名なので説明は不要だと思いますが、名前を度々変えた人です。墓石には画狂老人卍という晩年の画号、側面には“人魂で 行く気散じや 夏野原”という彼の辞世の句が刻まれています。 ★当ブログのまと...
元和元(1615)年蔵前にて新光明寺として創建された浄土宗のお寺で、大正15年に同じ浄土宗の西光寺を吸収合併した際に現在の光明寺に名を改めています。 鳥山石燕の墓水木しげるなどにも大きな影響を与えた妖怪画で知られる江戸時代の画家。今年の大河『べらぼう』では片岡鶴太郎氏が演じることが決まっています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用...
慶安2(1649)年に幕府役人であった香西晢雲が教誉上人を招き開いた浄土宗のお寺。香西晢雲は武田信玄の末裔とされますが治水家として名があり、大阪湾各所の水防工事や和泉国での開拓などに大きな功績を挙げた人物です。また朝鮮通信使のうち徳川将軍に謁見するため江戸へ向かう位の高い役人たちは大坂では北御堂を宿舎にしていましたが下級役人や水主などは大坂に留め置かれ、ここ竹林寺などを宿舎にしていました。 ...
何度か場所は移され現在は京セラドームの対岸側大正橋東詰に移築されていますが石碑には定期的に墨入れを行うよう後世の人々に託す一文が刻まれており、地元の人々によってその伝言は現在まで守られています。 碑には安政の大地震(安政の東海地震・南海地震)及び津波の事象や被害の様子、火災や津波の留意点などが事細かく刻まれているだけでなく、147年前に発生した宝永の大地震で大坂(大阪)も甚大な被害が出たにも...
大正9(1920)年にW・ウィルソンの設計により竣工、施工は数回前に紹介した大阪教会も担当した岡本工務店がほぼ同時期に担当した尖頭アーチ窓のゴシック様式にイギリス式煉瓦積みが特徴の教会となっています。95年の阪神・淡路大震災で被災し塔屋が倒壊するなど甚大な被害を受けましたが世界中の信徒らの浄財により元の姿を取り戻し今日へと至ります。 平成9(1997)年に国の登録有形文化財に登録され、平成21(2009)年...
安治川と木津川に挟まれた川口は元々幕府のお舟手関連の施設が建ち並ぶ地域でしたが勝海舟の進言により大坂舟手が廃止となり、その跡地に諸外国との条約締結により大坂も開市(のち開港)となったため外国人居留地が造営されることになります。 江戸時代最晩年の慶応3年には運上所(税関)が置かれ、明治時代初期に対岸の江之子島に初代府庁舎や市庁舎が設置されるなど国際貿易港に発展するかと思いきや、安治川河口か...
金光教玉水教会と同じ通りにある日本基督教団大阪教会は鉄骨とコンクリートと煉瓦を併せて用いて作られた建物で、設計はW・M・ヴォーリズと俗に言うヴォーリズ建築の教会になります。建物後方には塔屋も建ち大阪の街中に煉瓦造りのこの建物は今となってはかなりの異彩を放っている存在感抜群の建物です。国登録有形文化財ヴォーリズ設計の鉄骨・煉瓦・コンクリート混合造の教会堂で、背後に塔屋が建つ。ロマネスク...
江戸堀は近代的なビルから昭和の雑居ビル、そして国の登録有形文化財となっている様々な様式の建物が点在している地区です。和建築の金光教玉水教会もその中のひとつで国登録有形文化財に登録されています。木造平屋建、一部2階建とする裳階付きの大型の和風建物。入母屋造の大屋根平側に2つの千鳥破風をつけ賑やかに飾る。細部の意匠は全体的に伝統的な手法に則り構成される。堂々とした外観は風格がある。設計は池田...
菅澤眼科は明治27(1894)年に堺で開業し3年後に現在地へ移り、国登録有形文化財に登録されている現在の建物は昭和3(1928)年に竣し、戦後すぐに改修が加えられています。 大阪市中心部の土佐堀地区に所在する病院建築。南東隅を四分一円として玄関ポーチを設けた平面で、外壁はタイル貼でアール・デコを基調とし、柱形を密に並べて縦長窓を配する。最上階ではアーチ窓とし、柱型に柱頭飾を施す。昭和初期の...
昭和10年に現オーナーの祖父児玉竹次郎氏によって建てられ、ヴォーリズが設計した建物の多くを手掛けた岡本工務店が設計および施工を行っています。そのため外観はスパニッシュスタイルながら和の意匠も随所に取り入れた和洋折衷の建物になっています。国登録有形文化財間口7.9mの南北に長い敷地に北面道路から退いて建つ。鉄筋コンクリート造、地上3階地下1階建て塔屋付きで、外観はスパニッシュスタイルとする。光庭...
吉祥寺のある高御堂の領主であった尾張藩鷹匠頭吉田家の菩提寺であった真言宗のお寺で、承和元(834)年弘法大師空海によって創建されています。 本堂吉田家は数人が主水正を称したようでネットで調べると家政は家澄と同一人物になっていますが、名古屋市篷佐文庫の資料を読むと家政の嫡男が家澄とあり、戦国武将には珍しくないことですが業績が混同されている可能性もありそうです。吉田家は元々は織田家に仕え家政...
南北朝時代に南朝に味方し足利氏に敗れ越中国から尾張へ移ってきた木舟城主石黒重行が菩提寺としてから創建したお寺で、戦国時代衰微するも重行の末裔である石黒重成によって再興され石黒氏の居城だった如意城跡の一画にお寺はあります。 石黒重成の墓重行から8代後の当主で小牧・長久手の戦いでは家康方に付き道案内をしています。この戦いでは弟重敦は豊臣方の...
熱田神宮前に店を構える昭和10(1935)年創業の和菓子屋で、店名は天明年間頃に熱田神宮内にあったきよめ茶屋と茶店が由来だそう。建物は昭和30年に建てられたもので名古屋市登録地域建造物資産になっています。 屋号の一部にもなっているきよめ餅は熱田神宮の門前には名物の餅菓子がなかったため初代が作り出したというもの。今では季節限定本店限定などもあります。 ★当ブログのまとめサ...
清州藩主となる松平忠吉が母西郷局(宝台院)の菩提を弔うため天正17(1589)年に創建した浄土宗の寺院で、忠吉が清州藩主となり清州に移転、その跡を継いだ義直が名古屋城を築いたことで現在の中門前町へ、そして戦時中に現在地へ移転しています。先の大戦で失われるまで山門などは国宝に指定されるなどしていましたが現在はビルに入居する形で注意して見ていないと素通りしてしまいそうになります。 松...
高速長田駅近くの新湊川沿いの場所に源平勇士の碑と呼ばれる一ノ谷の戦いを戦った源平両軍の武将の碑が一ヶ所にまとめられています。元々は旧西国街道沿いなどそれぞれ違う場所にあったのが道路拡張工事などに伴い移転され何度か場所を変えつつ現在地へと落ち着いたようです。一番大きいのが平知章の碑。父知盛を戦線離脱させるため郎党である監物太郎頼賢と2人でこの地に踏み止まって源氏方を迎え撃ち壮絶な...
村上天皇を祀る小さなお社。平安時代末期に琵琶の名手であった藤原師長が琵琶の技術を極めるため入唐を考え、京の都を離れて西へ向かっている途中須磨で休んでいると夢枕に村上天皇と梨壺女御が現れ琵琶の秘法を伝授されたという。目が覚めた師長はこの場所に自身が持っていた琵琶の名器獅子丸を埋め、京へと戻ったという逸話があり、この話をもとに能の演目『絃上』は作られました。お社も『絃上』の話が広がったこ...
「淡路島 かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守」源兼昌が詠んだ百人一首でも知られる歌ですが、その須磨の関所のあった場所と伝わる地に建てられた小さな神社です。 摂津国と播磨国の正確な国境は須磨浦公園の少し西側を流れる境川でこの川が畿内と幾外との境界でもあったため古代より関所が置かれていました。その関所のあった正確な場所は分かっておらず...
永正11(1514)年浄教上人が開いたとされる浄土真宗本願寺派のお寺で、現在の本堂は阪神・淡路大震災で倒壊した後2002年に再建されたものです。 現光寺のある場所が都を追われ須磨まで来た光源氏が住まいを構えた場所だとされ、本堂前にある立派な松の木の下で光源氏は月見をしたんだとか。もちろん『源氏物語』の話なので国文学者だった明石藩主松平忠国が明石城下の源氏物語史跡を選定したように、情景などが物語...
創建は古く天平年間に行基によって開かれていますがその後衰退、法然の弟子住蓮によって再興され以後は浄土宗の寺院となっています。 平通盛・小宰相の墓(供養塔)平通盛は清盛の弟教盛の嫡男、前回記事にした業盛の長兄になります。一ノ谷の戦いでは夢野口(山の手)を守りますがこの方面に義経が奇襲を掛けたことで平家は壊乱し総崩れとなり通盛も討たれました。小宰相は通盛の妻の一人で身籠っていました。前日に身...
会下山の麓にある天台宗のお寺で、大正6(1917)年に善光寺関西別院会下山寺として創建されました。 平業盛の墓平清盛の弟教盛の三男で剛力で知られていました。一ノ谷の戦いでは鵯越口を守っていましたが義経の奇襲などで平家方は懐乱・総崩れとなります。業盛は撤退の際に源氏方の泥屋(土屋)四郎吉安に組まれそのまま2人とも転がり古井戸に落ちますが上になった業盛が吉安の首を掻き斬ろうとした時、兄の一大事と弟...
浄土宗西山禅林寺派のお寺で寺伝によると大輪田泊経ヶ島建設に自ら志願して人柱となった大井松王丸の菩提を弔うため平清盛が創建したと伝わり、地元では築島寺とも呼ばれます。 松王丸の供養塔松王丸は讃岐の領主大井民部の息子で清盛の小姓として側に控えていました。都を京より福原に遷した清盛は福原のお膝元大輪田泊に日宋貿易の一大拠点となる大規模な港作りを計画しますが、地形上南東からの風で船が安全に入られない...
辰野金吾らと共にジョサイア・コンドルから建築を学んだ曽禰達蔵が設計を担当し、東京倉庫兵庫出張所として明治30(1905)年に竣工。曽禰にとって三菱では定年前最後の仕事となった建物です。丸の内の三菱の建築群設計を担当した曽禰作品らしい煉瓦造りの建物ですが、お化粧直しされたのか煉瓦の色が鮮やかでパッと見た限りだと明治時代の建物には見えません。神戸市景観形成重要建築物に指定されています。 ★当ブログのまとめサイ...
北前船や蝦夷地での漁場運営で財を成し、ゴローニン事件で自身もロシアに拿捕されカムチャッカへ連行されるも日露両国の仲介をしたことで知られる高田屋嘉兵衛が結婚を機に居を構え本店を置いていたのが兵庫津、現在の兵庫区西出町で北前船が日本遺産となったこともあって石碑と立派な案内板が設置されています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止し...
湊川の戦いを前に楠木正成は目印になるような大きな松の木を見つけ一族郎党をその木の下に集め、身に付けていた神仏の護符が自身らの血で穢れることを嫌い根元に祀られていた稲荷のお社に護符を奉納したと言います。これが松尾稲荷神社の始まりで700年の歴史があることになります。江戸時代より神社のすぐ近くには福原遊郭があり商売の神様お稲荷さんということで昼夜問わず賑わったのだとか。 ...
西出鎮守稲荷神社の歴史はよく分かっていませんが、後述するようにすぐ近くに本拠を構えていた豪商高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠が今も建っていることから江戸時代中期にはこの地に鎮座していたことが分かります。 平経俊塚平清盛の異母弟経盛の息子で平敦盛の異母兄になります。一ノ谷の戦いでは生田の森に布陣しますが源氏方に崩され敗走、最期は西出の浜で清盛の八男淡路守清房・清盛...
前回は一ノ谷の戦いで討ち死にした平忠度の腕塚を紹介しましたが、今回は胴塚です。腕塚と違い道沿いにあるのでこちらは分かりやすいかと思います。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版) ...
一ノ谷の戦いで敗れ西国へ逃れようとした平清盛の異母弟忠度ですが源氏方の岡部忠澄主従に追い付かれ忠澄と組み合いその首を獲ろうとしましたが主人の危機に駆け付けた忠澄の郎党に腕を切り落とされ討ち死にしました。 忠度の腕を埋めたと伝わる場所には十三重塔供養塔とお堂が建てられ今日まで地元の人々によって守られています。忠度の戦死地に関してはここ神戸の駒ヶ林と明石の2説あり...
佐々友房は熊本藩士の家に生まれ肥後勤王党に属した叔父佐々淳次郎に強く影響を受け水戸学に傾倒、また池辺吉十郎の門下となっています。西南戦争時は以前より西郷隆盛と気脈通じていた師匠の池辺が熊本隊を結成し武装蜂起すると友房も各地を転戦し最終的に中隊長となりますが、大口の戦いで重傷を負い官軍病院に担ぎ込まれます。その後、池辺たちが隊長ではなく一兵卒に過ぎないと庇ってくれたことで死罪を免れ投獄に留まります。...
明治10年に熊本商工会議所初代会頭や熊本商業高校のルーツである私塾素心吟社を創設した岡崎唯雄氏が営む岡崎酒類醸造場の酒蔵として建てられました。その後履物問屋を経て昭和29年に貸倉庫業の早川倉庫の所有となりトランクルームなどとして活用されてきましたが、熊本地震での被災を機にクラウドファンディングで母屋の一部がリノベーションされ文化発信の場としても活用されており、熊本市が新たな制定した熊本市歴史的風致形成...
肥後蕎麦の元祖と言われ藩主細川家の御用も務めていたという大石本店。営業していた頃に一度記事にしていますが、9代目だったご主人が体調を崩され2010年にお亡くなりになられたため廃業されましたが、昭和初期に建てられ空襲の被害も免れた京町家風の建物は熊本史歴史的風致形成建造物に指定されプレートも設置されていました。 隣が駐車場となったことで奥行きのある鰻の寝床のようになっていたことがよく分か...
慶長年間に加藤忠広正室崇法院(蒲生秀行の娘、家康の外孫)が江戸より釈誉上人を招き創建した浄土宗のお寺で、加藤家の後熊本に入った細川家の菩提寺のひとつになっています。井上大九郎正忠の墓加藤家二十将の一人にも数えられ、清正最古参の家臣のひとりと伝わります。元々は三木城主別所長治の家臣でしたが三木城落城後浪人となり各地を放浪中その秀吉の居城長浜城下の河原で寝そべっていたところ後に同じく共に清正に仕え角力で...
南北朝の時代に元より玄慶という楽人が来日しましたが時は南北朝の動乱の最中で音楽どころではない状況。玄慶を雇う者などなく失意の玄慶は帰国することを決めるも帰る途中、疲労からここ明石の八木の地にて持ってきていた楽器を埋め弁財天を祀り、またこの地に池を掘ったと言われます。池は玄慶の池と呼ばれ古くは玄慶という地名にもなっていたそうですが、現在周囲には次々住宅が建っている中、確かにこの場所だけは手が付けられ...
来迎寺の西側にはアン(庵)の井戸と呼ばれる弘法太子が掘ったという伝承を持ち干魃の時も水は枯れることなくこんこんと湧き続けた井戸があり、昔は酒造りにもこの井戸の水が使われたそうです。この辺りは水位が高く水が溢れるので囲いには穴が開いていて水を排出できるようにしているのだそう。 また来迎寺の東側にもコエの井戸と呼ばれる掘り当てたのは弘法太子とも来迎寺を開いた行基和尚とも言われる生活用の井戸も残っ...
養老元(717)年行基により創建されたという明石市内でもかなり歴史のある天台宗のお寺で、明石三十三ケ所第六番札所にもなっています。勅願寺時代は塔頭を複数抱えた大きな寺だったそうですが次第に衰退、南北朝時代に再興され信長の命による羽柴秀吉の別所(三木城)攻めでも秀吉方に放火されるなどしています。 御朱印は書き置きのみ常時4種類ぐらいを授与されています。以前は季節ごとに限定御朱印も枚数限定で出し...