2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
世間には、いろんな夫婦がいる。その中には、仲の悪い夫婦も少なくない。俺の親戚(おじ・おば)や友人、部下たちを見回せば、家庭内別居の夫婦なんてザラにいる。何年も口をきいていないとか、顔を合わせばケンカばかりとか、別室で生活していて普段は顔も合わせないとか、
かみさんが亡くなってから、それなりに月日が過ぎた。それなのに、俺はいまだに立ち直っていない。より正確に言えば、自分が立ち直っているのか、それともいないのかが分からない。俺には「立ち直る」という言葉がどういう状況を指すのか分からないのだ。・・・時間の経過の
ネクタイを締めて出勤しようかなぁ…と思えるほどに涼しくなった。網戸だけを閉めて室内にいると、気持ちの良い風が入ってくる。10月も終わりになって、ようやく秋らしくなってきた。かみさんの生前、秋には大きなイベントがなかった。春(ゴールデンウィーク)にはかみさん
平成22年4月30日のこと。かみさんが癌と診断された4日後のことだ。かみさんは不安だっただろう。自分の病気は治ると信じていたものの、それでも不安で仕方がなかったはずだ。もともと気丈夫で、何事にも前向きなかみさんだが、自分が癌だと診断されて、心が穏やかであるはず
現在10月26日の午前7時45分。いつもとは違い、休日出勤の途上でブログの記事を書いている。やるべきことが多すぎる。その大半は、「もっともっと偉くなりたい!」と考えている管理職のアイデア(というより経営陣に対する忖度)によるものだ。同じ管理職でも、俺たちのような
かみさんと俺は、いつでも「未来」を見据えていた。将来の自分たちの姿を想像し、語り合うのが好きだった。今度の週末は、どうやって過ごそうか。夏休みには、どこの国に遊びに行こうか。年末年始は、今年も北海道(かみさんの実家)に行こう。こんなふうに具体的なスケジュ
かみさんと俺は、約20年間にわたり、さまざまな感情や想いを分かち合って生きてきた。楽しいことや嬉しいことはもちろんのこと、辛いことや苦しいことも、悲しいことも、二人でシェアして生きてきた。かみさんの身に、何か楽しいことや嬉しいことがあると、かみさんは身振り
かみさんと俺は、どちらかが本当に辛いとき、必ず相手の傍らに寄り添っていた。お互いを支え、相手の苦しみを少しでも癒してあげたかったのだ。かみさんが原因不明の高熱を出したとき。俺は仕事を休み、かみさんの看病をし、病院にも連れていった。かみさんが人間関係で苦し
かみさんを喪ってから。それなりの時間が経った。当初の数年間、あまりにも激しい悲しみで、心身を引き裂かれたかのようだった。心にポッカリと穴が空いてしまった。周囲の世界がリアリティを失った。すべてが終わったかのようだった。すべてを失ったかのようだった。俺は自
日曜日の夜のこと。俺の心と身体は疲れきっていた。心は沈み、気分は晴れず、かなり重たい鬱(うつ)状態だった。身体はダルく、全身の血液がドロドロしているかのようだった。明日(月曜日)に備えて早く寝よう。心と身体に休息を与えてあげよう。夜の9時半。俺は睡眠導入
かみさんが元気だった頃。時間の経つのが速かった。一日も、一週間も、一ヶ月も、そして一年も、あっという間に過ぎ去った。楽しい時間は速く過ぎるという。かみさんが隣にいたときは、よほど楽しくて、うれしくて、とても幸せだったんだろう。かみさんが亡くなってから。時
死はタブー視されて、忌避されている。死を望むことは、否定されている。死が赦されないのなら、せめて生を輝かせるような世界であってほしい。死を望むことが赦されないのなら、せめて生きる意味や悦びを教えてほしい。だが、生を輝かせるための仕組みはない。生きる意味や
かみさんが亡くなってから。俺はいつ死んでもいい…と考えるようになった。むしろ早く死にたいと思うようになった。かみさんの後を追いたいと思った。理由は2つある。ひとつは、俺が死んだら、かみさんに会えると思ったからだ。もちろん「あの世」や「死後の世界」の存在を
かみさんが亡くなってから。俺の自律神経は狂ってしまった。交感神経が暴走しているのだ。俺は眠れなくなってしまった。より正確に言えば、真夜中に覚醒してしまうのだ。経験のない人には分からないだろうが、眠れない日々が続くのは本当に辛い。布団に入ったまま悶々として
全身が痛む。身体がダルい。いつでも疲れている。熟睡することができず、1日あたり4時間半くらいしか眠れない。心が重たい。いつだって物悲しい。何をするのも億劫だ。何をする気力も湧いてこない。そうだ。生きているだけで辛いのだ。その上、さまざまな雑事が降りかかり
ここ最近、俺は禁酒を続けてきた。先日の記事に書いたとおり、一度は挫折したのだが、その後は順調に禁酒してきた。だが、3連休にふたたび挫折してしまった。飲んだ酒はウィスキー、飲んだ量は3日間で2リットルほど。いくら何でも飲みすぎだ。そのせいだろうか。今朝(10
伴侶や子どもを亡くした悲しみには「重さ」がある。世界でいちばん大切な人を喪った悲しみには「質量」がある。悲しみの質量は、あまりにも大きい。そのため巨大な「重力」を持っている。その重力が強すぎて、悲しみは自分自身を支えていることができなくなる。自らの質量に
1日に何度も仏壇の前に座る。そのたびに、かみさんの位牌や遺影を見つめ、かみさんに想いを馳せる。やっぱり俺は、かみさんのことが愛おしい。この「想い」はなんだろう。自分の「妻」に対する「想い」であることに違いはない。だが、そう単純に割り切れるような「想い」で
かみさんが亡くなった日から。かみさんのために続けてきたことがある。それは「1日に数回、線香をあげること」。そして「朝と晩にお供えをすること」だ。インフルエンザで寝込もうと、肝臓を壊して倒れようと、この2つの習慣だけは守ってきた。その習慣が、俺のかみさんに
俺を造った男がいる。それは普通、「父親」と呼ばれる。俺を産んだ女がいる。それは普通、「母親」と呼ばれる。俺は、その二人から虐待されて育ってきた。俺の自尊心は破壊された。俺は人間を信頼できなくなった。この二人は生物学的に見れば、俺の「親」だ。だが、子どもを
かみさんが亡くなってから。俺の心と身体は、急速に老化が進んでいる。心は弾みを失って、いつでも鬱(うつ)の症状に苦しんでいる。身体が重たくて、全身のあちこちが痛い。毎晩、熟睡することができない。疲れやすい上に、朝起きた瞬間から疲れている。家の外に出たくない
昨日、「現実逃避もできやしない。」というタイトルでブログを書いた。ここ最近の睡眠障害の苦しさについて述べた記事だった。あんな記事を書いたあとだ。今夜こそは眠れるだろう…と期待して寝床に就いた。だが、眠れなかった。睡眠導入剤を飲んでいるため、寝付きは良かっ
ここ数日、熟睡できない日が続いている。毎晩、睡眠導入剤を飲んでいる。そのため寝付きは悪くない。だが…3~4時間ほどで目が覚めてしまうのだ。まだまだ眠り足りない。もう少し眠らないと、翌日に差し支えてしまう。布団の中で目を閉じている。眠ろう、眠ろう…と思って
疲れて家に帰ったら、そこには家族が待っている。朝目覚めたら、そこには家族の笑顔がある。自分にとって、いちばん大切な人たちだ。その人たちも、自分をいちばん大切にしてくれる。こんなに幸せなことはないのだが、人間にとって、ごく当たり前の風景でもあるだろう。だか
死にたい…と思う。それができないのなら、死ぬまで眠っていたい…と思う。かみさんが死んだあとの余生は、確かに「最期の修行」なのかもしれない。その修行をやり抜くことが、俺の義務なのかもしれない。だが、毎日がとても辛いのだ。生きていることが、あまりにも苦しいの
身体にできた傷ならば、視覚で捉えることができるだろう。一方で、心の傷は目に見えない。想像力でしか捉えるができないのだ。脚を骨折して松葉杖をついている人を見れば、座席を譲ってあげよう…と思うだろう。皮膚が裂けて包帯を巻いている人を見れば、痛そうだな…と顔を
かみさんが亡くなってから。それなりの時間が経ってしまった。だとすると、たとえ鬱(うつ)であろうとも、強い不安感があろうとも、「かみさんが亡くなったことが原因です…」とは言いづらい。もし言ったとしても、誰も納得してくれないだろうし、下手をすれば苦笑されてし
逃げたいと思うことがある。今ここではないどこかに逃げ出したいと思うことがある。今ここは、俺のいるべき場所ではないのだ。今ここは、俺のいたい場所でもないのだ。かみさんが元気だった頃。俺には逃げることのできる場所があった。言うまでもない。それは、かみさんの隣
最愛の人を亡くした人々ばかりで作られた世界があるとする。その世界には、夫を亡くした妻、妻を亡くした夫、子どもを亡くした親たちだけが棲んでいる。誰もが皆、心に深い傷を負い、その激しい痛みに耐えながら、すべてが終わる日を待っている。誰もが皆、すべてを失って、
先日の記事にも書いたとおり、数ヶ月前から鬱(うつ)が悪化している。とりわけ平日の朝と休日の丸一日は、鬱で心が落ちている。その影響だろうか。先々週あたりから、俺は毎朝、「一線」を越えてしまいそうになる。一線を越えると言っても「自死」してしまおう…なんて考え
日曜日。朝から鬱がひどかった。鬱に加えて不安感もあって、心の中がザワザワしていた。座っていても落ち着かない。寝転がっていても落ち着かない。抗鬱剤と精神安定剤を飲んではみたが、心が乱れて発狂しそうだ。俺はウィスキーをしこたま飲んだ。酔っ払った頃を見計らい、
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2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
6月13日と14日。土曜日と日曜日で、仕事は休みだった。いずれの日も朝6時に目が覚めた。これまでであれば、目覚めた直後から酒を飲んでいた。カラッポの胃に流し込むウィスキーは、効果てきめんだった。すぐに酔いが回り、数時間後には意識を失った。しばらく眠った後、不快
平成22年の6月17日。かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと。かみさんが俺に言った。めぐりあえて良かった・・・・・・かみさんは、俺と出会えて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺と一緒に暮らしてこられて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺とともに人生
この記事をスマホで書いている現在。6月14日の午前4時19分である。自宅のバルコニーから空を見上げている。どうやら晴れているらしいのだが、薄暗くて判然としない。まだ「日の出」の前のようだ。空が暗いからだろうか。それとも疲労が溜まってきたからだろうか。あるいは脳
インドで旅客機が墜落したとのニュースが流れていた。離陸してから、わずか30秒後の墜落だったらしい。乗客は242人だった。昨晩そのニュースを見たときは、乗客全員が亡くなったのだろうな…と思った。しかし、翌朝のニュースでは、イギリス人の男性1人が生存していたとのこ
毎朝5時半くらいに目が覚める。かみさんの生前とは違い、スッキリ目覚めることはない。頭の中に霞が掛かっているかのようだ。全身の血液がドロドロになっているみたいだ。心が奈落に堕ちてしまったかのようだ。かみさんが亡くなって以来。目覚めた瞬間の爽快感がなくなった
俺はかみさんを喪った。たった一人の家族を喪った。自分の家庭を失った。そして…最愛の人を亡くしてしまった。祖父母とも死別した。実父とも死別した。叔父や叔母の中にも若くして亡くなった人がいる。同年代の友人も、何人か死んでしまった。だが、かみさん以外の人々との
かみさんが俺の隣にいない。周囲を見渡しても、かみさんの姿は見えない。かみさんは、どこに行ってしまったんだろう…俺はとても動揺した。だが、かみさんはどこかにいるはずだ。かみさんが生きていることを感じる。かみさんの息づかいと気配を感じる。すると俺は気がついた
禁酒を始めてからも、毎朝5時半くらいに目が覚める。酒を断っているせいか、睡眠の質は悪くない。夜中に目覚めることもなくなった。だからといって、スッキリした目覚めというわけではない。心が重たいのだ。頭がボンヤリしているのだ。そのくせに、神経が鋭敏になっている
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は
まだまだ、やりたいことがたくさんあっただろう。見たいものだって、たくさんあったはずだ。聞きたいものだって、たくさんあったはずだ。食べたいものも、たくさんあったはずだ。行きたいところも、たくさんあったはずだ。死ぬということは、これらをすべて断念せざるを得な
現在6月14日の午前7時37分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。ここ2日ばかり、睡眠障害が悪化している。以前から悪化していたが、それ以上に悪化してしまったのだ。毎晩、睡眠導入剤を飲んでから寝床に入っている。だが、1時間半ほどで目が覚めてしま
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、自分たちの「死期」について、何度か語り合ったことがある。かみさんは、いつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね…二人で一緒に死ねたらいいね…俺は笑顔で応じた。そうだね…仲良く暮らしてきた二人。これからも仲良く暮ら
6月27日は、かみさんが俺を遺して逝った日だ。現在6月12日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。21日には、義母と2人の義弟が北海道から上京してくれる。22日の土曜日には、俺と一緒にかみさんの墓参りをしてくれることになっている。かみさ
ふとした瞬間、かみさんを想い出す。かみさんの満面の笑顔。かみさんの明るく元気な声。かみさんの仕草。かみさんと交わした何気ない会話。想い出した瞬間、俺はほんのりと幸せな気持ちになれる。かみさんと散歩をしたこと。かみさんと旅行を楽しんだこと。かみさんと食事を
先日のブログに書いたとおり、ここ最近、ずっと熟睡できていない。夜中の2時とか3時半とかに目が覚めて、その後は朝まで眠れない日々が続いている。そのせいだろう。いわゆる「睡眠負債」が貯まっているらしい。週末の日曜日のこと。いつものとおり、午前3時に目が覚めた
かみさんが元気だった頃。配偶者や子どもを亡くした遺族の話を聞いたことがある。遺族たちは、俺の身近な人々ではない。名前はおろか、顔さえ知らない人たちだった。テレビのニュースや新聞を見ると、誰かが死んで、誰かが最愛の人に遺されたという記事が頻繁に出ていた。そ