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2010/04/02

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  • ぎゃらりーたちばな ウエブ写真展 「秋日和 カラスの行水」

    秋時雨のやんだ翌日、思わぬ秋晴れに恵まれた河北潟干拓農地。収穫の終わった農地に大きな水溜まり、そこで思いがけずカラスの行水場面に出会いました。最近手に入れた野球に例えれば「凡打は多いがホームランも打つ」という評判の800ミリという超望遠レンズで撮った[カラスたちの行水]の写真。はてさて[凡打]か[ヒット]か[ホームラン]か、感想や判定はコメントなどでお願いします。ぎゃらりーたちばなウエブ写真展「秋日和カラスの行水」

  • 地球に一番近い月

    [ハンターズムーン]10月17日の夜の月はネイティブアメリカンの間では「ハンターズムーン(狩猟月)」と呼ばれる満月でした。アメリカ先住民は秋を迎えて脂肪を蓄え、冬を迎えるためにさらに餌を求めて動きが激しくなる野生動物の狩りを始める時としてこの月を「ハンターズムーン」と呼んだそうです。[ダイイング・グラスムーン]同じ月ですが「ダイイング・グラスムーン(枯草の月)」とも呼ばれていたそうです。季節が冬を迎える前で平野が枯草に覆われることから来た呼び方でしょうか。[スーパームーン]現在の日本で一番使われる呼び名は「スーパームーン」でしょうか。一年のうち満月が最も地球に近づいて大きく見える月で、このときの地球と月の距離は35万7400キロメートル。ちなみに一番遠くなるのは2月24日で40万6000キロメートル、この...地球に一番近い月

  • 街頭演説と14夜の月

    [声援に応える]旧北国街道でもある歴史を感じる町屋が並ぶ通りで国民が豊かで安心できる世の中を作り出すために、自民などの裏金政治を許さないと訴える村田候補に通行する人たちからも暖かな声援が。[信号と十四夜の月]街頭演説か終わるとはや夕まぐれ。「待ち宵月」とも呼ばれる美しい月がまだ明かりの残る東の空から上がり始めていました。[今宵は10月14夜]自宅に帰り食事のあと夜空を見上げると「待つ宵月」「子持ち月」とも呼ばれれる明日は15夜となるほぼ満月に見える大きな月が見えました。明日の早朝は「しんぶん赤旗」日刊紙の配達です、寝坊するといけないので緊張しています。突然の総選挙、私の住む石川一区(金沢市)の共産党候補街頭演説会のようすと月の写真三枚をアップしてブログ[写真師の新カメラ日記]更新しました。街頭演説と14夜の月

  • ようこそ河北潟へ 冬鳥さん

    [シーズン初のコハクチョウ]稲刈りが終わったばかりの田んぼで落ち穂を拾って食べているコハクチョウ7羽を見つけました。今シーズン初めて見かけた小集団で本格的に越冬する集団の先遣隊なのか、渡りの途中の休息なのかはわかりませんが・・・。気候変動の激しく、地震と豪雨に痛めつけられた能登半島に今シーズンも来てくれたことに感謝です。[ハシビロガモという冬鳥]フェラガモとも呼ばれるシャベルのような形の大きな嘴を持ち、春までこの地で冬を越す大型の水鳥です。[大型の鷹チューヒ]河北潟干拓地の上空をいかにも「鷹」らしいV字型の美しい飛形でテリトリーを旋回する絶滅が心配されている「チューヒ」と呼ばれる鷹です。チューヒは河北潟の留鳥ですが冬鳥の姿が多くなるとその鳥たちを狙う鷹などの猛禽が私のような素人バードウォッチャーでも見られ...ようこそ河北潟へ冬鳥さん

  • 秋霖 艶めく薔薇を

    [雫のなかに]「秋霖」という言葉で表される、秋の雨に濡れる我が家近くのバラ園で「ひとりリハビリ撮影会」、一年前は連れ合いのリハビリを兼ねて二人散歩の定番コースでしたが・・・、今は私自身のリハビリを兼ねてのカメラ散歩です。小雨の中のバラの雫のなかにもバラの映り込みが艶やかですね。[秋咲きアンネのバラ]バラ園の入り口近くには平和を願う象徴でもある「アンネのバラ」が春から次々と咲き続けています。画面右側の大きな黄色い花が「アンネのばら」で、この美しい花を見ているとナチスの犠牲となったアンネフランクがいまイスラエルという国が続けている武力での隣国への侵略やパレスチナ人への殺戮行為をどう見ているかと思うと悲しくなります。[秋雨のなかで]秋雨のなかで咲く薔薇の艶やかな魅力に惹かれる今日の一人撮影会でした。秋雨をうたっ...秋霖艶めく薔薇を

  • 60年代 わが青春のかけら

    [一冊の詩集]半年ほど前、事態が急変して亡くなった連れ合いを病院から自宅に迎えるために大急ぎで子どもたちに部屋などの整理をしてもらったときから何処にも見当たらなくなった一冊の小冊子です。「あなたたちにそしてぼくに」という詩集で著者の「立野久仁」は私の当時のペンネームです。参加していた地域の詩のグループの仲間に編集から活版印刷での製本までしてもらった一冊です。1964年から1969年にかけて同人誌などに発表した22編、45ページという私にとって最初で最後の小さな詩集になりました。その詩集の「あとがき」のなかの一節です。「・・・1968年は父の死を通して人間の生きることの意味、想像もできないような戦中戦後の苦しみのなかで育てられた息子がどう生きなければならないのか?そういうことを真剣に考えざるを得ない年だった...60年代わが青春のかけら

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