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徒然なか話 https://blog.goo.ne.jp/np4626/

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話の書き綴りです!

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2009/09/19

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  • 桜灯籠2024

    本妙寺春の名物行事「桜灯籠(はなとうろう)」も今年で20回を数えた。3日前に来た時、はたして当日満開になるだろうかと心配したソメイヨシノもまるでタイミングを見計らったかのように見事に咲いた。熊本地震や新型コロナ感染拡大などで中止や縮小開催などが続いたが、やっと通常開催に戻ったようだ。出店も立ち並び、夕方6時のまつり開始の頃には仁王門から胸突雁木への桜馬場は絶え間なく人波が続いた。大本堂前や各塔頭では様々なイベントが行われ、コロナ前の風景が戻った。賑わう桜馬場日が暮れると桜と灯籠が幻想的な雰囲気を醸す大本堂前も竹灯籠とライティングで幻想的な雰囲気子どもたちも楽しい一夜となったようだ法皇閣前でライブを行うゴスペルチーム熊本coolchoir(クマモトクールクワイヤー)桜灯籠2024

  • 「御馬下の角小屋」番頭の話

    2008年に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」が今、NHK-BSで再放送されている。現在、篤姫が将軍家定へお輿入れするあたりまで進んでいる。先月、「津々堂のたわごと日録」さんが触れておられたように、このドラマではお輿入れのルートを船旅として描かれているが、実際は陸路ルートだったことがわかっている。薩摩藩の参勤ルートは江戸前期には日向細島港から船出する東ルートや川内川河口あたりから船出する西ルートなどの海路もあったようだが、江戸後期にはほとんど陸路を使っていたらしい。薩摩街道を北上すると当然熊本藩を通過することになり、しかも薩摩街道(豊前街道)は熊本城二の丸を通ることになるので、熊本藩士との間で一触即発ということもあり、街道を避けて脇道を使うこともあったようだ。もちろん篤姫のお輿入れの時は熊本藩も最大限の配...「御馬下の角小屋」番頭の話

  • 酒井先生の思い出

    先日まで行われた「春のくまもとお城まつり」などで熊本城二の丸広場に行くことが多いが、西大手門への通路の脇にある「歩兵第十三連隊の跡」記念碑を見る度に9年前に94歳で他界された酒井恭次先生のことを思い出す。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医で、亡くなられるまで年賀状のやり取りが続いた。亡くなられる数年前から、年賀状には必ず、戦時中熊本の「西部第十六部隊」に従軍された頃の思い出が書かれていた。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」の後身の部隊のことである。よほど懐かしい想い出だったのだろう。久留米ご出身の先生は横浜工場勤務が永かった。僕が東京勤務だった30数年前、横浜工場の酒井先生のところへ新医療システムの相談で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横...酒井先生の思い出

  • さくらさくら

    今日は快晴だったので桜の咲き具合を確かめようと本妙寺周辺へ。桜開花宣言はあったものの、まだソメイヨシノはパラパラといった具合だった。今週末には本妙寺参道一帯のまつり「桜灯籠」が行われるがはたしてどの程度開くだろうか。微妙なところだ。本妙寺大本堂前の桜の木が大胆に枝落とししてあった。枯死を避けるためか、落枝による事故防止のためか、やむを得ない処置とは思うが、開花を前に残念なことだ。昨年までの美しい光景は望むべくもない。柿原桃畑の桃の花はだいぶ咲いた。今週末には満開になるだろう。本妙寺塔頭・東光院のしだれ桜は今が見ごろ本妙寺大本堂のしだれ桜も満開柿原桃畑の桃の花は今週末には満開か花園中尾地区の四季花壇から阿蘇のけむりを望む過年度の本妙寺大本堂前参道の桜2015.3.27熊本城二の丸広場「春のくまもとお城まつり...さくらさくら

  • 女子アナの転勤

    熊本は今日、桜開花宣言があった。春は転勤の季節でもある。NHK熊本放送局のアナウンサー佐藤茉那(さとうまな)さんが広島局に転勤となったそうだ。彼女が熊本に初任配置されたのはたしか2020年6月だったと思う。僕が熊本に帰って以降、熊本局に初任配置された新人女子アナは、渡邊佐和子さん、池田伸子さん、近江友里恵さん、石橋亜紗さん、畠山衣美さんに続いて6人目だった。先輩方よりも1年ほど長い熊本勤務だったと思う。コロナ騒動などが影響したのかもしれない。彼女は着任早々のニュース読みなどもしっかりできていた。例えて大変失礼だが、今、お昼のNHKニュースなどを堂々と担当している池田伸子さんなどは、最初はとても危なっかしくて見ているこちらがハラハラしていた憶えがある。それに比べると佐藤さんは最初から落ち着いていて、物おじし...女子アナの転勤

  • 九州がっ祭2024

    昨夜は3月とは思えない大雨と強烈な雷鳴で何度も目が覚めた。明け方には小降りとなったので午前中に熊本県知事選挙の投票に京陵中学校へ出かけた。漱石記念緑道の早咲きの桜も雨に打たれてうなだれていた。午後はいったん雨が止んだので、今日が最終日となった「春のくまもとお城まつり」を見に行った。最終日のプログラムは「九州がっ祭2024」。九州を中心とした各地のYOSAKOIまつりなどが集合したイベントである。YOSAKOI系のまつりは正直あまり興味はなかったのだが、少女たちによる「美勝女隊」(福岡)などはエンタテイメントとして完成度の高いパフォーマンスを見せていた。雨のしずくを湛えた早咲きの桜美勝女隊(福岡)YOSAFUL連合(山口・宇部)九州がっ祭2024

  • SL人吉 ラストラン

    人で言えば「再雇用」のような形で「SLあそBOY」として、また「SL人吉」として頑張ってきたが、機関車の老朽化、部品調達や技術者の確保が難しくなった等の理由により、明日3月24日を以て「SL人吉」は101年の現役を終えることになり、今日ラストランが行われた。釜尾町の井芹川に架かる鶴野橋の上から見送ったが、汽笛を鳴らしながら去って行くSLを見ていると、僕の生きた時代が遠い彼方へ去って行くようで万感胸に迫るものがあった。SLの思い出で最も忘れられない一つが、高校1年(1961年)の夏、東京合宿で初めて上京した時、熊本―東京間を「急行阿蘇」で丸1日かかったこと。東京に着いた時はクタクタで顔は煤で真っ黒だった。下の映像は、その東京合宿の後のインターハイで、わが済々黌水球部が連覇し、熊本駅に凱旋した時のもの。(映像...SL人吉ラストラン

  • 式子内親王と藤原定家

    先日、学習院大文学部を卒業された天皇、皇后両陛下の長女愛子様は、卒業論文に「式子(しょくし)内親王」を取り上げられたとニュースで報じられた。式子内親王とは、後白河天皇の第三皇女で、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた「新古今和歌集」の女性歌人の代表といわれる。不勉強で式子内親王が詠まれた歌を知らないので「新古今和歌集」をパラパラとめくってみた。春の歌の中に次の式子内親王の歌があった。いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春に霞める世のけしきかな愛子様卒業のニュースを聞いて僕がまず連想したのは「定家葛(テイカカズラ)」(下の写真参照)のこと。「定家葛」の名は、式子内親王を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説に基づく能「定家」...式子内親王と藤原定家

  • 桜は まだかいな!

    昨夜は楽しみにしていた「熊本城薪能」が行われたが、尋常じゃない寒さに直前になって見に行くのを断念した。予定どおり行われたらしいが観客の皆さんはさぞや寒かったろう。今日は風もおさまって寒さも幾分和らいだので熊本城周辺を歩いた。当初の桜開花予想では今日あたりが開花のはずだったが、一部の早咲きの桜以外はまだ蕾の状態。2、3日後あたりに開花と思われる。毎年3月末土曜日に行われる本妙寺の「桜灯籠(はなとうろう)」は今年は30日に当たるので絶好の夜桜見物になるかもしれない。監物台樹木園前の道路から大小天守を望むKKRホテル熊本玄関前から大小天守を望む過年度の桜灯籠より〽端唄夜桜桜はまだかいな!

  • 高浜虚子と祇園の舞妓

    高浜虚子の「漱石氏と私」には、明治40年の春、京都で夏目漱石と一緒に過ごした祇園の夜などが書かれている。この時、漱石は、第三高等学校の校長を務めていた狩野亨吉宅に逗留し、職業作家として初の作品「虞美人草」を執筆中だった。ちょうどこの頃、漱石を第五高等学校に招いた菅虎雄も狩野宅に逗留していた。狩野は漱石が五高へ招いた人でもあり、五高ゆかりの人物が揃っていたわけだ。虚子は漱石を誘って、都踊りを見に行ったり、祇園の茶屋「一力」で舞妓たちと雑魚寝の一夜を過したりしている。ここに登場する二人の舞妓、十三歳の千賀菊と玉喜久は虚子の「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」にも登場する。千賀菊はなぜか、三千歳という名で登場する。「風流懺法」には舞妓たちが「京の四季」や「相生獅子」などを踊る様子が描かれている。この三千歳という舞...高浜虚子と祇園の舞妓

  • 黒鍬衆とあらしこ

    日頃ブログを通じてご好誼を賜っている「津々堂のたわごと日録」さんが昨日「黒鍬衆は隠密にては非ず」という記事を掲載された。黒鍬衆と言うのは戦国時代から江戸時代にかけて、専ら土木などの力仕事や汚れ仕事などで武士をサポートしていた軽輩のことだそうである。熊本にもそんな黒鍬衆が住んでいた「黒鍬町」という町があった(下地図参照)。現在は「黒鍬通り」という通り名だけが残っている。僕の祖母の生家はこの「黒鍬町」のとなり街で「一番被分(わかされ)町」といった(下地図の赤い点線の辺り)。生前、祖母の口から「黒鍬町」という言葉を何度か聞いたことを憶えている。津々堂さんの記事で「黒鍬町」という町名の由来を初めて知った。祖母が嫁いだ先が立田山麓の黒髪村下立田、泰勝寺の隣接地である。わが父が幼い頃、この泰勝寺に住んでいた長岡氏(細...黒鍬衆とあらしこ

  • 城彩苑13周年誕生記念祭

    桜の馬場・城彩苑は開業後13周年を迎え、誕生記念祭が昨夜来の雨の中、今日行われた。東日本大震災直後の開業に当初は先行きを不安視されていたものだが、徐々に来場者を増やし、熊本城観光になくてはならない人気スポットとなった。特に開業後5年の2016年に起きた熊本地震では熊本城内のほとんどが立入規制となる中、城彩苑が熊本城観光を支えた。今後もその存在価値はますます高くなると思われる。降り続く雨の中、観光客で賑わう城彩苑親水空間ステージでは各種イベントが。「ONEPIECEウィーアー」を踊る舞踊団花童必由館高校吹奏楽部による演奏2011年3月5日城彩苑オープンの日の様子城彩苑13周年誕生記念祭

  • 中村花誠先生と舞踊団花童

    今朝の熊日新聞・熊本ローカルのページに「舞踊団花童」を主宰する中村花誠先生がクローズアップされていました。これまでも度々メディアに紹介されたことがありますが、花誠先生が熊本で舞踊団を結成されて来年で25年、ご自身の還暦も重なり来年は特別の記念公演を計画されていると聞きます。来年が楽しみです。舞踊団花童の前身である「ザ・わらべ」の頃から応援を始めて14年。このブログでも何度か紹介させていただきましたが、10年前の紹介記事へのリンクを下に張りましたのでご参考まで。※ザ・わらべのこと。(2014.11.12)中村花誠先生と舞踊団花童

  • 門出の春

    今日は日中20℃にも迫ろうという陽気で、桜のシーズンもすぐそこまで来ていることを感じさせた。熊本城二の丸広場周辺では振袖に袴という和装に着飾った若い女性のグループを何組も見かけた。どこかの大学か専門学校の卒業式帰りのようだ。すれ違う時、よっぽど「卒業おめでとう!」と声をかけようと思ったが、ヘンなオジサンと思われそうで自重した。彼女たちがどんな道へ進んで行くのかわからないが、それぞれの人生に幸多かれと祈りたい。毎年卒業式のシーズンになると聴きたくなる「仰げば尊し(原曲)」を今年も聴いてみた。仲間で記念撮影をするグループ護国神社の早咲きの桜柿原桃畑の花も開き始めた♪Songforthecloseofschool(仰げば尊し)門出の春

  • 一期一会

    京町の熊本地方裁判所に併設されていた京町拘置所は大江に移転し、建物は解体撤去され、更地となっている。ここの前を通る度に思い出すことがある。あれは10年前の秋のことだった。僕は京陵中学校での熊本市長選挙の投票を終えて帰る途中、一人の高齢の婦人に出逢った。京陵中学校のテニスコートのフェンス沿いに「すみれ程の小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句碑が立っている。その婦人はその句碑を撮影しようとカメラを構えていた。背中のリュックが旅行者を思わせた。通り過ぎて京町本丁の四つ角で信号待ちをしていると、追いついて来たその婦人に「壷川小学校はどちらの方向になりますか?」とたずねられた。僕は婦人の年恰好から壷川小学校まで歩くのは大変かなと思い、「バスで行かれたらどうですか」と答えた。しかし、婦人は「壷川小学校は幼い頃通学...一期一会

  • 山崎貴監督を祝して

    山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」がアメリカ映画アカデミー賞で「視覚効果賞」を受賞したことは大変喜ばしい。16年前、山崎監督の作品「BALLAD名もなき恋のうた」熊本ロケにボランティアスタッフとして参加させていただいた一人として心からお祝い申し上げたい。当時僕は「くまもとフィルムコミッション」に登録していたので、エキストラやスタッフとして3本ほど参加したが、エンドクレジットに名前を載せてもらったのは山崎監督の「BALLAD」だけ。そういう意味でも忘れられない映画となった。阿蘇を中心とした熊本ロケは2週間ほど続いたが、僕の仕事は毎日のエキストラの員数を確保すること。他のスタッフとともに、あらかじめ登録されているエキストラ希望者に電話をかけまくった。阿蘇では合戦シーンが撮影されたのでエキストラの集まりが悪い日は撮...山崎貴監督を祝して

  • 柳暗花明又一村

    今日は子飼へガソリンの給油に行ったが、浄行寺交差点のあたりが渋滞していたので、熊大脇から立田山の山裾を抜けて帰ることにした。途中、泰勝寺跡の前を通るのでちょっと立ち寄った。ひとつは昨年秋から干上がっていた池がどうなったか気になっていた。満水とはいかないがかつての池の半分くらい水が戻っていた。入門受付の方に聞くと2月に降り続いた雨によってだいぶ回復したという。マガモも戻ってきているのでさらに今後の雨に期待したい。泰勝寺山門跡茶室仰松軒水がだいぶ回復した池で泳ぐマガモわが父はこの泰勝寺境内に隣接するわが家の本籍地で生まれ育った。父が書き遺した備忘録には「この辺り一帯は数百㍍隔てて、彼処に一戸、此処に二戸と人家の点在する寂しい山里だったが、自然の眺めは四季を通じて素晴らしく、ことに春の風情はこの地を訪れる人に『...柳暗花明又一村

  • 花二題 ~菜の花と木瓜~

    菜の花まつだまみさんのFBに素敵な写真が掲載されていた。場所は菊池川玉名橋の少し上流左岸の河川敷。ちょうど今頃は菜の花が咲き乱れる映えポイントである。実はここは妻の実家から近く、毎年写真を撮ろうと出かけるのだがいつも天気が悪く良い写真が撮れない。今回はまみさんにお願いして写真を貸していただいた。また、この写真の奥の方の川べりは川の映像を撮るのに絶好の撮影ポイント(下の写真参照)である。上流にカメラを向けると建物や構築物など一切入らないので「滔々と流れる川」のイメージを撮るため今まで何度も足を運んだ。菊池川河川敷の菜の花畑菊池川の川べり木瓜(ぼけ)の花今日散歩していたらある民家の庭に「木瓜の花」が鮮やかな赤い花びらを開いていた。しばらく眺めた後、写真におさめて帰ろうと思ってカメラを覗くとそのお宅の部屋が写っ...花二題~菜の花と木瓜~

  • 助産師と舞踊家

    先々週、かつて舞踊団花童のリーダーを務めたくるみさんからFBのメッセージをいただいた。近況を知らせるお便りだった。もうだいぶ前になるが彼女のお母様から結婚されたことは伺っていた。今は子育てに大わらわだが、やがて育児休暇から助産師の仕事に復帰する予定であることが書かれていた。おそらく今まで以上にお忙しい毎日になることだろう。舞踊家としての復帰を期待している僕らくるみファンにとってはいずれ必ず復帰の日がやって来ることを信じて待つしかない。ただ、個人的には、かつて産業医や保健師、看護師などと一緒にプロジェクトチームを組んで仕事をしていたことがあり、彼ら医療専門職の献身的な働きを目の当たりにした経験から、助産師として活躍していただきたいという気持も一方ではあり、ちょっと複雑な思いが交錯する。2015.4.25熊本...助産師と舞踊家

  • 「瀬戸」のはなし。(2)

    昨日、大浜町の母の生家近くの通りを車窓から眺めながら、「そういえば、この通りも“瀬戸”と呼んでいたっけ」とふと思い出した。着いてから甥との会話の中で確かめると、「昔から瀬戸丁と呼ばれている」と言う。「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあり、昨年10月には、わが家の近くの「瀬戸坂」の由来についてブログ記事にした。そもそも「瀬戸」とは何ぞやという話を繰り返すと「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。と辞書には説明されている。ということは大浜町は菊池川左岸の町だから、その辺りで菊池川の川幅が狭まっていたのだろう。現在の地図を見ると確かにわずかに狭まっているように見える。もともと大浜というのは菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つで、加藤清正の時代...「瀬戸」のはなし。(2)

  • 岩戸の里で出逢った旅人

    今日は所用で玉名市大浜町の母の生家へ出かけた。帰りは久しぶりに河内町から山越えの道を選んだ。雲厳禅寺だけ立ち寄った。本堂の前に僕と同じ年配と思しき男性が立派なカメラを提げて立っていた。お参りを済ませて岩戸の里を展望するベンチの方へ歩いていくと、その男性が声を掛けてきた。「ここから下に降りる近道は知りませんか?」「車ですか?そしたらいったん上の農道(パイロット道路)に上がって道なりに行けば下の海沿いの道に出られますよ」と答えた。「どこから来られたんですか?」とたずねてみた。「千葉県です」「ヘェ~千葉県ですか!」と言うと「ここら辺はみかん畑が凄いですね!」「えぇ、このあたりは漱石の時代からみかん栽培が盛んですよ」と言ってみたが無反応だった。夏目漱石の「草枕」にこの地域のみかん畑の話が出てくるのだが、読んでおら...岩戸の里で出逢った旅人

  • 漱石の熊本観

    散歩で新坂を下りながら遠く阿蘇山を望んでいると必ず思い出すのが、明治29年4月、第五高等学校に赴任するためここを人力車で通りかかった夏目漱石のこと。熊本市街を見おろしながら「森の都」と言ったと伝えられるが真相はさだかではない。もし漱石先生が、ビルが林立した今日の風景を眺めたらいったい何と表現されるだろうか。漱石は明治33年(1900)7月、英国留学のため4年3ヶ月を過ごした熊本を去るが、その8年後の明治41年(1908)2月、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を次のように語っている。----------------------------初めて熊本に行った時の所感、それならお話いたしましょう。私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下...漱石の熊本観

  • ハモる邦楽「大和楽」

    昨夜、Eテレで放送された「先人たちの底力知恵泉」は大倉喜八郎を取り上げていた。大倉喜八郎とは、明治維新から大正に至る激動の時代、政府、軍部の物資調達を始め様々な事業で商才を発揮し、一代で大倉財閥を築き上げた稀代の実業家である。大倉財閥といえばホテルオークラや大成建設などの企業群や札幌の大倉山ジャンプ競技場などを思い出すが、僕が大倉喜八郎の名前を知ったのは、実は二代目の大倉喜七郎を知ってからである。喜七郎はつとにその名を知られた趣味人で、新邦楽「大和楽(やまとがく)」の創設者。自ら楽器を開発したり、作詞作曲も手がけたという。「大和楽」についてはYouTubeマイチャンネルにアップした舞踊団花童の演目の中に「大和楽」が数多く含まれていたことから知った。そもそも「大和楽」とはどういう音楽かというと、「大和楽公式...ハモる邦楽「大和楽」

  • 伝説のビート

    水前寺成趣園能楽殿で行われた「翁プロジェクト熊本公演」を観てからやがて3年経つ。能楽の頂点といわれる「翁」をナマの舞台で観たのは初めてだったのでいまだに感動冷めやらない。熊本ゆかりの友枝昭世師(人間国宝)による「翁」もさることながら、主役とも言える「三番叟」の「揉みの段」「鈴の段」は農耕儀礼に始まる日本の芸能の原点を感じさせて印象深かった。「翁プロジェクト熊本公演」における三番叟(山本則重さん)その三番叟の舞を見ていると、鼓が刻むリズムの中にどうしても思い出すリズムがある。下の映像の1分40秒あたりから注目して聞いていただきたい。野村萬斎さんの三番叟5年前に世を去ったアメリカの名ドラマー、ハル・ブレインがザ・ロネッツの「BeMyBaby」のイントロで刻むビート「thump-thump-thump-crac...伝説のビート

  • 桃の節供

    今日は「ひな祭り(桃の節供)」。わが家もささやかなお祝いをしました。この「桃の節供」もともとは女の子のお祭りではなく、春を寿ぎ、無病息災を願う厄祓い行事だったそうです。古代中国の「上巳の節句」が日本に伝わったものだそうですが、「端午の節供」を男子、「桃の節供」を女子のお祭りとしたのは日本的といえば日本的といえるかも。旧暦の3月3日は、桃の花が咲く頃なので「桃の節供」となったわけですが、今年は4月11日にあたりますので、桃の開花は過ぎているかもしれません。「新熊本市史」には熊本市における「ひな祭り」の民俗について次のように書かれています。雛祭り旧暦の3月3日は、桃の節供ともいわれた。3月1日ごろから坪井、広丁、唐人町あたりに雛市が立っていた。一般的に長女の初節供のときには特別のお祝いをするが(嫁の実家から雛...桃の節供

  • 清原元輔と立田山

    藤崎八旛宮に弥生の朔日詣りをした後、ふと境内の清原元輔(清少納言の父)の歌碑のことを思い出した。大河ドラマに元輔が登場したことが頭の片隅にあったからだろう。何度も見ているのだが、あらためてじっくり見てみようと歌碑のところへ向かった。ちょうど神職の方が付近を高帚で掃いておられた。「コンニチワ」と声を掛けると「元輔の歌碑を見に来られたのですか?」とたずねられ、それからひとしきり元輔談義が続いた。元輔が肥後国司として赴任した時、濃い緑に覆われ「黒髪山」と呼ばれていた山を見て、ふるさと大和の龍田山を偲んで「龍田山」と名を改めたと伝えられる。「黒髪山から龍田山」への改名については諸説あるが、熊本出身の民俗学者・谷川健一も「列島縦断地名逍遥」においてその説を紹介している。ところで前々から抱いていた疑問だが、山の改名が...清原元輔と立田山

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