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2009/04/07

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  • 「落語鑑賞教室」その17。八代目桂文楽「明烏」。

    八代目文楽師匠は、上品な色気ときっちりした芸が売りもので、特にこの“明烏”は得意中の得意なだし物。気が弱く女の扱いがわからない若旦那、時次郎と吉原に誘う札付きの遊び人源兵衛と太助の二人の会話も小気味よいテンポで進む。これは有名な話ですが、甘納豆を食べる仕草が絶妙で、この噺を聞いた後で、甘納豆がよく売れたとか。磨きぬかれた芸は何度聞いても飽きない。完成度の高い芸となっています。前にも紹介しましたが、文楽師匠の最後の高座。噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまい「また勉強して参ります」と言って高座をおり、そのまま二度と高座にあがることはなく、その後、しばらくして亡くなりました。文楽師匠は、上野の黒門町という所に住んでいたので、今でも「黒門町の師匠」と言えばこの人の事です。さて、お噺は、日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛...「落語鑑賞教室」その17。八代目桂文楽「明烏」。

  • 「落語鑑賞教室」その16。古今亭志ん朝「船徳」。

    夏にふさわしい「船徳」を、今は亡き、古今亭志ん朝師匠で。「youtube」にUPされていましたので。国立劇場にて。名人芸。何度視聴してもあきません。三代目古今亭志ん朝。1938年(昭和13年)3月10日-2001年(平成13年)年10月1日。東京都文京区本駒込出身の落語家。本名∶美濃部強次。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。五代目古今亭志ん生の次男で、十代目金原亭馬生の弟、女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。獨協高等学校でドイツ語を学んだ。噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に...「落語鑑賞教室」その16。古今亭志ん朝「船徳」。

  • 「落語鑑賞教室」その15。春風亭一之輔「子別れ(子は鎹=かすがい)」。そして「処暑」。

    「夏の神保町まつり一之輔一門会」より。楽屋話ばかりで本題に入らないので、師匠に怒られる。師匠登場。人情話の中でも笑いと涙で聞かせる「子別れ」を。枕で弟子達の話をからめ、先代師匠の話から、師匠として弟子のかわいさを淡々と思い出話風に語り出します。「子別れ」初代春風亭柳枝の創作落語で、3代目麗々亭柳橋や4代目柳家小さんの手を経て磨かれた人情噺の大ネタです。上は「強飯の女郎買い」、下は「子はかすがい(鎹)」の名で呼ばれることがあります。一之輔師匠は、この下の部分を。「大酒飲みが下では酒を断って改心したのか、どうも分からない、」とか、ぼそぼそつぶやきながら。上。熊五郎は腕のいい大工だが酒好きなのが玉に瑕。ある日、泥酔して帰ってくると妻のお光に向かって女郎の惚気話まで始めてしまい、夫婦げんかの末にお光は一人息子の亀を連れ...「落語鑑賞教室」その15。春風亭一之輔「子別れ(子は鎹=かすがい)」。そして「処暑」。

  • 読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その4。

    明けて昭和16年(1941年)。筆者の半藤さんが小学校4年生になったとたん、小学校が「国民学校」と改称されます。前年に「日独伊三国同盟」を結んだ日本は、いよいよ英米を敵に回すことに。そして、運命の12月8日を迎えます。前年11月にレコードになった海軍軍歌「月月火水木金金」が年明けと共に巷で歌われ始めます。♪朝だ夜明けだ潮の息吹きうんと吸い込むあかがね色の胸に若さの漲る誇り海の男の艦隊勤務月月火水木金金「ドリフ大爆笑」(フジテレビ)のOPテーマは開始した1977年に、この曲の替え歌を使用していました。ザ・ドリフターズはけっこう軍歌(替え歌を含め)を歌っていました。「国民学校」の音楽の授業も「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロハ」に。そして運命の12月8日。真珠湾奇襲の勝利、マレー半島上陸作戦の成功の第1報で、...読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その4。

  • 読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その3。そして、李香蘭

    「寫眞週報昭和14年9/6号」表紙。昭和14年(1939年)。この年の8月、ヨーロッパではドイツがポーランドに電撃作戦を開始。英仏がただちにドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が勃発しました。・何日君再来(ホーリージュンザイライ)作詞黄嘉謨/作曲劉雪庵もともと中国の歌でしたが、1939年、渡辺はま子が「いつの日君来るや」、そして1940年、李香蘭(山口淑子)が「いつの日君また帰る」のタイトルで歌って、日本で大ヒットしました。好花不常開好景不常在愁堆解笑眉涙洒相思帯今宵離別後何日君再来喝完了這杯請進点小菜人生難得幾回酔不歓更何待「来来来、喝完了這杯再説」今宵離別後何日君再来・一杯のコーヒーから(作詞は作詞は藤浦洸で、作曲は服部良一。歌は霧島昇とミス・コロムビア)ちなみに、この当時のコーヒー一杯の価格は15銭であった、...読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その3。そして、李香蘭

  • 読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その2。

    昭和12年(1937年)正月の浅草風景。筆者の半藤さんは、この年の4月、小学校1年生に。当時の同級生の家の職業が列記されています。豆腐屋、イカケ屋、下駄屋、自転車屋、大工、酒屋、ミルクホール、左官屋、米屋、魚屋・・・。下町の土地柄を表しています。ちなみに母親は、お産婆さんだった、とのこと。その街中に聞こえてくる物売りの声も列挙。・なッとなッとなッとうゥ、なッとうに味噌豆エ・あさりイ―、しじみイ―・はさみ包丁ッ、かみそり磨ぎイ―ッ・竹や―さお竹ッ・朝顔の苗ェ、夕顔の苗ェ―・玄米パーンの、ホヤホヤ―ア他にも物干し売り、カチャカチャと独特の箪笥の鐶を鳴らしてくる定斎屋などが紹介されています。注:定斎屋(じょうさいや)夏に江戸の街を売り歩く薬の行商人。是斎屋(ぜさいや)ともいい、江戸では「じょさいや」という。この薬を飲...読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その2。

  • 読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その1。

    相変わらずの読書三昧、と言いたいところですが。ついつい緊急事態宣言下でも出かけてしまい、・・・。少し自重して。さて、今年1月亡くなられた半藤一利さん。ブログでも何度か紹介していますが、下町・大畑(現在の八広)生まれということで、けっこう親近感を持っています。生家は、通称「こんにゃく稲荷」・三輪里稲荷神社の前だったとか。この本が世に出たのは、2016年2月。それから3年後。平凡社ライブラリー版として発刊されました。『昭和史1926―1945』がA面としたら、この書は、戦前の市井の生活を描いたもの。半藤さん自身は、1930年(昭和5年)生まれですから、生まれる前から、小学校(国民学校)から府立7中(現隅田川高校)に進学、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で九死に一生を得て、茨城・下妻、さらに父の生地であ...読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その1。

  • 「落語鑑賞教室」。その14。橘家文蔵「笠碁」。碁敵(がたき)は憎さも憎し懐かしし(さ)。

    「第4回文蔵組落語会」。枕では、コロナ禍での手持ちぶさたな日常を描きながら、本題に入ります。碁がたき同士が、今日は「待った」なしで碁打ちはじめる。しばらくして形勢の悪い方が「待った」と言い出す。相手は待てないと言い、お互い「待て」、「待てない」と強情を張る。あげくの果てに一方はおととしの暮れに金を貸したのを恩に着せ、返す日を延ばしてくれと言われた時に、「待った」してあげたではないかと言い出す。これには相手も怒りだし、お互い「へぼ」「ざる」、「大へぼ」、「大ざる」とののしりあって喧嘩別れとなる。そのうちに雨が何日も続き、碁が打てない腹いせに番頭や丁稚にあれこれ意見をするし、孫にまで当たる始末。碁会所に行くように勧められるが、皆強すぎて相手にしてもらえないのも承知しているので、ますますいらいらが募る。その相手も碁を...「落語鑑賞教室」。その14。橘家文蔵「笠碁」。碁敵(がたき)は憎さも憎し懐かしし(さ)。

  • 「落語鑑賞教室」。その13。入船亭扇遊。柳亭こみち。

    入船亭扇遊「垂乳根(たらちね)」。このお話。展開はよく聞き知っていますが、何度聞いても面白い。ある長屋に住む独り者の八五郎は、大家さんから勧められ、結婚することにした。気の早い話で、その日のうちに祝言をすることになり、早速床屋と銭湯に行って身綺麗にしてきた八五郎。七輪を取り出し、火をおこしながら夫婦生活に思いをめぐらせた。差し向かいで飯を食う様子を大声に出して歌う。♪サークサクーのポーリポリのチンチロリン、ザークザクのバーリバリのガーシャガシャ『食事が始まると茶漬けが出て来てさ、おかみさんはそれを上品にサークサク、沢庵を箸で摘んでポーリポリ。箸が茶碗に当たってチンチロリン。俺の方はでかい茶碗で茶漬けをザークザーク、沢庵だってでかい奴をバーリバリ。箸が茶碗に当たってガーシャガシャ』話に偽りなく美人のお嬢さんに、八...「落語鑑賞教室」。その13。入船亭扇遊。柳亭こみち。

  • 「落語鑑賞教室」。その12。柳家権太楼「百年目」。

    「寄席」では珍しく、トリの柳家権太楼師匠。約50分、「百年目」を演じました。ただし、権太楼師匠は毎年の5月興行では恒例になっていたようですが。「金比羅」の出ばやしで登場。1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。枕で、10日間の演目を春夏秋冬に擬えて、冬は「うどんや」「二番煎じ」。夏は「船徳」「へっつい幽霊」。春は「百年目」「宿屋の仇討ち」。秋には、という趣向で演じようとした、と。今日は3日目なので「百年目」を、と。それぞれ、古典落語の粋と言うべき演目がズラリ。コロナ禍での無観客の中での配信。権太楼師匠だけではなく、落語家の皆さん、その他の芸人さんたちの複雑な思いをかみしめながら、視聴しました。この「百年目」。大坂・船場の商家を舞台にした大ネタで、かなりの技量と体力が演じ手に求められる。大旦那、番頭、丁稚、手代...「落語鑑賞教室」。その12。柳家権太楼「百年目」。

  • 「落語鑑賞教室」その11。桂文楽。林家三平。林家木久蔵。そして春風亭一朝。

    落語の世界も代替わりがあって、しばらく見ないうちに、当方がなじみの名跡もどんどん変わってしまいました。桂文楽師匠。名人・先代の文楽師匠の落語は聴聞したことはありますが、当代の師匠はかつて「ペヤング」のCMでなじみ深い、くらいの印象(申し訳ありませんが)。けっこう貫禄がついてきて、ビックリ。先代と比較されてあれこれ批判もされたでしょうが、先代・「黒門町」をもう知る人も少なくなってきているので、安心して(堂々と)いきましょう。さらに、林家三平さん、林家木久蔵さんなど、本当に若くなって・・・、そのうち先代をしのぐ名落語家になっていく(ほしい)と。昭和の爆笑王の息子としてのプレッシャーも大きいようですが。父の三平は、9歳のときに死去したため、初代三平の弟子だった林屋こん平が惣領弟子となって初代三平一門を統率、こん平に直...「落語鑑賞教室」その11。桂文楽。林家三平。林家木久蔵。そして春風亭一朝。

  • 「落語鑑賞教室」その10。林家木久扇「彦六外伝」。+林家正蔵・彦六。

    「笑点」でお馴染み、林家木久扇師匠の「彦六外伝」。師匠を語らせたら天下一品。師匠は、八代目林屋正蔵。後に林屋彦六。生年月日明治28年5月16日品川生まれの浅草育ち。明治45年18歳で三遊亭三福(3代目三遊亭円遊)に入門、福よし。大正3年扇遊亭金八に改名するが、5年師と4代目橘家円蔵の門下に移り、6年橘家二三蔵で二ツ目。8年3代目三遊亭円楽を襲名し、9年真打ちに昇進。11年師・円蔵の死に伴い3代目柳家小さんの預かり弟子となった。12年大阪に赴き、2代目桂三木助から上方の噺を習い、「煙草の火」などを江戸の噺に作り直した。のち4代目蝶花楼馬楽の内輪弟子となり、昭和3年馬楽が4代目小さんを襲名するとともに5代目馬楽を譲られ、東宝名人会などで活動した。戦後、7代目林家正蔵の遺族から一代限りの名乗りを許され、25年8代目林...「落語鑑賞教室」その10。林家木久扇「彦六外伝」。+林家正蔵・彦六。

  • 「落語鑑賞教室」。その9。四代目三遊亭圓歌「やかん」。+三代目三遊亭圓歌「授業中」。

    こちらが聞き知っている「やかん」。「Wikipedia」風のものですが。(以下「Wikipedia」より)岩田の隠居がお茶を飲んでいると、そこへ八五郎がやってくる。「おぉ、現れたなグシャ」「へぇ」「マァ、上がれグシャ。お茶でもどうだグシャ」「な、何ですか、その『グシャ・グシャ』っていうのは。ぬかるみを歩いているんじゃ無いんですから」「あぁ、グシャとは愚か者の事だ、愚者」「愚か者…そうですか。おれぁそんな事とは気づかず返事しちゃった」カチンとなった八五郎。如何してやろうかと考え込み、あるアイディアが…。「隠居は、何でも知っているんですねぇ」「その通りだ。森羅万象・神社仏閣、この世に知らぬものは無い」「そうですか。じゃあ聞きますがね…」のっぴきらない状況に追い込み、八五郎の逆襲が始まった。まずは、お魚の由来で小手調...「落語鑑賞教室」。その9。四代目三遊亭圓歌「やかん」。+三代目三遊亭圓歌「授業中」。

  • SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その3。+西武鉄道特急ラビュー(~池袋)。(「荒川を遡る」番外編。)

    武甲山が左手に見えてきます。石灰岩の採掘で階段状の山容。孫に、石灰岩からセメントとして、さらに、コンクリートとして大きな建物に使われるんだよ、と説明しましたが、フンフンと頷くだけ。あらためて「武甲山」。山名:日本武尊が、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説が元禄時代の頃から定着した。南方(ハワイの方)にあった火山島が活動を終え、浸食によって削られサンゴ礁を纏うようになる。サンゴによってできた石灰石を載せた海山は、プレートの動きにより北上し、深い海溝に引きずり込まれる。そして大陸プレートに押しつけられはがれ落ち、やがて隆起し浸食されることで地表に現れた山が武甲山。武甲山の石灰岩は日本屈指の良質な大鉱床であり、可採鉱量は約4億トンと推定されている。山の北側斜面が石灰岩質であるために古くから漆喰などの...SLPALEOEXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その3。+西武鉄道特急ラビュー(~池袋)。(「荒川を遡る」番外編。)

  • SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その2。(「荒川を遡る」番外編。)

    この付近では、「荒川」沿いを国道140号線と並行して走ります。長瀞駅に向かって進む。時折、眼下に荒川の流れ。対岸に「日本イスエード(株)」。長瀞駅ではたくさん下車。その先の「荒川橋梁」で荒川の清流を眼下に。歩きでは河原から見上げました。秩父鉄道はここから荒川右岸沿いの河岸台地を終点の三峰口駅まで進んで行きます。鉄橋からの荒川の流れ。下の写真は、歩いたときの写真。ちょうど石灰岩を載せた貨物列車が通過中でした。車内のポスターより。橋梁の下から眺め、今回は上から眺め、と貴重な体験をしました。瞬間的でしたが、孫達はビックリしていました。荒川右岸の河岸台地。「大野原」駅の手前、右手に大きな工場が。大きなセメント工場。秩父太平洋セメント本社・工場。石灰石の大鉱床として知られる武甲山のふもとの地に、秩父セメントが創業したのは...SLPALEOEXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その2。(「荒川を遡る」番外編。)

  • SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その1。そして「立秋」。(「荒川を遡る」番外編。)

    電気機関車に引かれてホームに。フリー切符1,600円。孫達とその父親と4人で秩父鉄道の蒸気機関車「SLPALEOEXPRESS」に乗って、「熊谷」から「三峰口」まで。熊谷駅10:12発三峰口駅12:45着。当初は、往復ともSLに乗る予定でしたが、2時間以上乗っているうちに、孫達は飽きてしまったようで、往復はやめ、途中で変更。帰りは、普通電車で「御花畑」駅へ。そこから「西武秩父」駅まで歩き、「西武秩父」駅からは、14:24発の特急ラビュー「ちちぶ30号」に乗って池袋まで、とあわただしい「ミニ周遊」の旅に。「緊急事態宣言」が首都圏に発出される前に予約したので、ちょっと迷いましたが孫達の期待もあったので、出かけることに。車内や駅構内などは子供連れがいましたが、思ったよりも少なめで、お互いに安心。車内のようす。客席はレ...SLPALEOEXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その1。そして「立秋」。(「荒川を遡る」番外編。)

  • 秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その4。三十槌の氷柱(みそつちのつらら)。二瀬ダム。(「荒川を遡る」第10日目。)

    「道の駅大滝温泉」観光案内図。道の駅には、車で見える方の姿のみ。徒歩の客は見当たらない。ま、この炎天下で歩く人はまずいないのでしょう。今回、地元の方を含め、歩いている人とはまったく出会いませんでした。蔵造り。二階建て。現代風の建物ですが、沿道の部分は昔ながらの店構え。食堂か何かだったのか?ここから約4キロの道のりで「秩父湖」に。旧大滝村役場。2005年4月1日に、秩父市・吉田町・荒川村と新設合併し、新たに秩父市となった。面積は約332km2で、埼玉県の自治体の中で最も広かった。旧村域全体が秩父多摩国立公園に指定されていた。秩父山地の主脈を村域とし、村域の97%は山林である。村内には甲武信ヶ岳をはじめ、標高2,000m級の山々が12峰連なり、そこから荒川が流れ出している。よって、「荒川の源流郷」でもある。・山:甲...秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その4。三十槌の氷柱(みそつちのつらら)。二瀬ダム。(「荒川を遡る」第10日目。)

  • 秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その3。三峰ロープウェイ。道の駅大滝温泉。(「荒川を遡る」第10日目。)

    大輪は、三峰神社参拝の拠点として賑わったところ。表参道の入口にあたり、三峰の門前町として栄えた。左手には「一之鳥居」。また、参道へ通じる、荒川に架かる橋は朱塗りの「登竜橋」。「三峰ロープウェイ」の発着場所でもあった。現在は、神社まで2時間あまりの道のりとなる「三峰山ハイキングコース」(表参道・裏参道)の起着点となっている。注:「三峰ロープウェイ」=「大輪」駅と「三峰山頂」駅を結んでいた。1939年(昭和14年)開業、2007年(平成19年)廃止。現在、西武観光バスが三峯神社への路線バスの運行を開始し、現在平日6往復、土休日7往復運転している。学生の頃、友人とここから三峰山山頂までロープウェイで行き、そこから雲取山まで歩いたことがあります。それ以来、登山が面白くなって、山登りを始めました。「ぶらっとちちぶ―秩父観...秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その3。三峰ロープウェイ。道の駅大滝温泉。(「荒川を遡る」第10日目。)

  • 秩父鉄道三峰口駅~西武バス「秩父湖」。その2。大血川橋。新旧秩父往還道。大輪。(「荒川を遡る」第10日目。)

    トンネル脇に小道があり、景色を眺めながら、小休止。その先、眼下に「大血川橋」。荒川河口から141.1kmの位置に架かる大達原地区と大血川地区を結ぶ橋。水面からの高さは20メートル。少し上流には「上石橋」があります。大血川橋の500メートル上流に架かる「上石橋」は、荒川の右岸側に位置する大洞第一発電所や石灰の採石場への交通の便となっている橋で、直ぐ下流側で大血川が荒川に合流する地点があり、大血川橋よりも上石橋の方がより近くに位置している。また、下流側に密接して上石橋より高く、幅員がやや広い私設の仮設橋が架けられている。上石橋の橋長25メートルで、荒川の源流部の入川を除くと、荒川本流において、右岸側と左岸側を直接結ぶ橋としては最も長さが短い橋。(この項「Wikipedia」参照)「奥秩父源流・中津川」観光案内。だん...秩父鉄道三峰口駅~西武バス「秩父湖」。その2。大血川橋。新旧秩父往還道。大輪。(「荒川を遡る」第10日目。)

  • 秩父鉄道三峰口駅~西武バス「秩父湖」。その1。強石。金蔵落としの渓流。大血川。(「荒川を遡る」第10日目。)

    秩父鉄道「三峰口」駅。久々の「荒川を遡る」。7月31日(土)。曇りのち晴れ。炎天下の歩き。時々、木陰が道路上まで伸びて。それでも、これほど蒸し暑いとは!歩き出したトタンに汗が噴き出します。一面の豊かな緑が助けに。秩父鉄道「三峰口駅」から「白川橋」を渡り、国道140号線(彩甲斐街道・秩父往還)へ。車道沿いの道を。「秩父多摩甲斐国立公園」碑。「荒川」左岸沿いの道。左手に荒川の流れが。せせらぎの音と蝉の声はしきりに、大きく聞こえますが、荒川の流れは所々で垣間見るのみ。「馬頭尊」などの石仏群。「強石(こわいし区」。解説板。秩父多摩甲斐国立公園及び大滝の玄関口である強石は大正時代に県道が開通した頃から物資が集まる交通の起点として大いににぎわいを見せた。馬車の発着点、木炭の問屋、銀行の支店、飲食店、菓子店、旅館などあらゆる...秩父鉄道三峰口駅~西武バス「秩父湖」。その1。強石。金蔵落としの渓流。大血川。(「荒川を遡る」第10日目。)

  • 「落語鑑賞教室」その8。五街道雲助。

    五街道雲助。吉原の、お客を相手に世辞を旨く使いこなして男を骨抜きにしてしまうお話を枕に。大金を無尽で手に入れた男。行きつけの女郎にこれで夫婦仲になろうと持ちかける。だまされたに違いないという叔父さんから一芝居を打つように仕向けられた源さん。酒の席で人を殺してしまった、一緒に死んでくれ、と頼まれた、お玉。二人で大川(隅田川)にやってくるが、二人とも身投げをする気はさらさら無い。女は、男をせかせて飛び込むように差し向けるが、男もその気はまるでない。女は焦れて先に石を身代わりに投げ込む。男は女が身投げしたと思って、続いて、大きな石を投げ込み、成仏してくれ!ところがお茶屋に男は羽織を女はかんざしを置いてきた。それを取りに戻って、二人は出くわす。驚いた二人、「いやだね、さっき娑婆で会ったばかり」。五街道雲助師匠。当代は六...「落語鑑賞教室」その8。五街道雲助。

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