タコ社長,オーストラリア移住23年過去の秘密と今のスローライフな日々。オランダ系の連れ合いと17年。
栃木の父、秋田の母を両親に東京は世田谷で誕生。練馬、東村山での青春を経てスーツケース一つで、オーストラリアに移住して23年。
フィリピンで仕事していて、教師やスタッフが空き時間に皆夢中で携帯をいじっているのを毎日見ている。昔、携帯がなかったころはどうやって空き時間を過ごしていたのか想像がつかなくなっている。僅か数年で、人間の
私の62年の人生の中で、絶対に物を捨てない人に2人出会ってきた。1人は、3年前に88歳で他界した元警察官の父。何でも捨てずにため込んでおく。他界してから、残された物の処理が大変だった。 因みに、中学生
瞬間湯沸かし器と揶揄されるほど短気で生きてきている。年を取れば少しはよくなるのかと思っていたが、期待外れに終わっている。家系だからなのだろうが、決して良しとはしてない。 いろいろと改善策を実施してい
垂れてよくないものは、洟でも長い口上でも、はたまたヒップでも、枚挙に暇がない。 日本で一番垂れているのはと思って見回してみると、どうやら口角のようだ。特に中高年男性の口角は大きく「へ」の字に垂れてい
朝のテレビのワイドショーをよく母と一緒に見た。33歳でオーストラリアに永住権を求め て1985年6月に両親の住む東村山を後にした。1年以上オーストラリアのメルボルンに滞在し、やっとのこと永住権を申請することが
ギリシャの大富豪、オナシスが言ったという。 「どんなに小さくて貧弱な家でも、名の知れた有名な地域に住め。」 どちらかというと富豪に弱い私、メルボルンの田園調布と言われているトゥーラックに住むことにした
フィリピンという国に関わるようになって2年以上になる。フィリピン人が少し分かってきたような気もしている。この国も、義理と人情の親分子分の情で動く、などと物の本で読むと、なるほどそうなのかとも思えてくる
まずこの国、オーストラリアをみてやろうと思った。バスの一カ月乗り放題パスを購入、メルボルン、アデレード、エアーズロック、ダーウィン、ケアンズ、ゴールドコースト、ブリスベンそしてシドニーと回った。ちょう
「日本では、だいたい長男が両親の面倒をみることになっています。でも今は次男とかでもよくなっています。」 高校生の頃だったか、アメリカ人にそうやや自慢気に日本の親子関係の深さを説明をしたことがあった。
日本に里帰りしている。1月の帰国は久しぶりだ。 今、オーストラリア、日本、フィリピンの三カ国で生きている。いろいろ観察していると面白いことが多い。 知らない人と道で会ったときの対応。 1. フィリピ
「タコさん、自分でもまだそんなに元気があったんだと驚いているんですよ。」 上海で中国人の奥さんと暮らす細川さんがメールでそう言って寄越した。細川さんは, サラリーマン時代の会社の3年先輩で、この奥さんと
「海岸線の絶壁で景色のいいところがあるの。行ってみない?」 ドナが私を誘った。顔全体の三分の一もあるような大きな目をしたおとなしいドナと知り合った。まだ18歳だが既に怪しい色気を漂わせている。1974年6月
セブからメルボルンに戻った。 「私の誕生日1月なの、香水お願いね。」 「2月はバレンタインデーね。」 「チョコレート沢山、忘れないでね。」 フィリピンセブで良く行く近所のBBQ屋の店員、オバサン、日
建設機械メーカー海外営業部に所属していたサラリーマン時代、担当はインドとパプアニューギニアだった。どうして、金髪大柄の多いアメリカとか、美人の多いことで知られているポーランドとかじゃいのだろう、と文句
「タコ、悪いんだけど20万円貸してくれない?」 六本木交差点近くにあったバーニーインでステーキを食べているときに、まともに見たらおこられそうな名前のミルナが切りだした。 「フィリピンにいる父親が病気でね
会社1年先輩の加山さんと六本木に繰り出した。馴染みのクラブマキシムを出たときは1時近くになっていた。「タコ君、もう一軒行こう。」大学時代、レスリングをやっていた加山さんは酒豪で、トイレで吐きながら出て
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