43.子供のからだは大人より姿勢の修正を受け入れる 姿勢が自分の目で見れないことから、人に直してもらうとして、姿勢を正すことそのものを生業とするような人がいるだろうかと考えると、実はそれだけを目指すという業種はないのではないかと思われるわけです。ただ、何
22.理解したことの確かめについて 我々が学習したことはここで深層とした内部に形成されるわけですが、その形成の過程が深層でなされ、その一部が意識に上がる、そうも言えるわけです。 「解ったつもり」であるとか「出来たつもり」であるとかいうのは、その学習の過
21. 「自己確認」を身に付ける 以前、SSAの教室の風景として、生徒が黙々と長時間学び続けている、先生は本を読んだりしてたまに応対しているということ、そして、生徒の「面壁」しての学習が、生徒を個別に指導しているうちに次第にそうなったとこと、その場面を初
20.「つもり」を無くすこと前回の小指を動かしていたつもりが、実際は思っていたように動いてなかったという例をなぜ持ち上げ出したかというと、自分でできていると思っていることを見て確かめたら、そうではなかったという意味で、自分の思い込みと実際の違いというのを
19.「深層」からの誤ったフィードバック 前回、本人が「解った」と言ったのに、実際には解ってなかったという話をしました。それには、本人が嘘をつくと言うこともありますが、ここで問題にしたいのは、本人がそう思っている場合のことです。 さて、その「解ったつも
18.「解ったつもり」について 前回、自分で確かめる場合に人を利用するということを言いました。例えば、何かをやってそれでよいかどうか人に訊くということがあるわけです。そうすると、「それと人に確かめを依存するということがどう違うか、同じではないか」というふ
17.自分で確かめること 我々は、何かをやったり考えたりする時にいろんなステップを踏みます。その時に、あるステップについて、そこで「解った」とか「できた」とかいうことを確認して、次のステップに進むわけです。多少複雑な思考や行動というのは全てそうではないで
16.人の評価と学ぶ「説(よろこ)び」 そこで、「理解」がうまくいくというのは、どういうことだろうと考えると、食べ物の消化がうまくいって、体内におさまる、そういうふうに、自分の中の「有機的システム」としたものに、しっくりしたものとして修まる、そういうことが
14.学習が時間で切られる 学校での授業は「時間割」が決められていると言いました。「時間割」は、文字通り時間を割るわけです。それは「わかるまでやる」とか「できるまでやる」としようとすることに、待ったをかけることになります。時間がくれば、教師が教えてくれ
13.「知識」の壁をどうするか。 授業は教科として分けられた「知識」を授けるものですが、それは子供達がその以前に生活の中で一つの繋がったものであるとして経験したものを分割しつながりを失わせるということを引き起こします。解りやすいのは、我々が経験する世界
12.教師の「ことば」と生徒の「ことば」 さて、今の社会では、子供が一定の年齢になると学校へいくことになります。 そこではだいたい次のような仕組みになっています。同じ年齢の子は同じ学年ということになり、学年ごとに分けられますクラスに属して、教育されるそ
11.個々の「ことば」の形成 そこで「知識」について、そのもとを探ってみますが、その中核を担うのが、人間の「コミュニケーション」「思考」「自己統制」の手段としてはたらくとされる「ことば」です。そこで、その「ことば」が我々のあたまの中に形成される過程を考
10.生きることと学ぶこと 生徒の学習指導の前提として、そもそも学習そのものが個別性があるということですが、そこで、その「学習の個別性」についてですが、考えてみれば、我々は、自分で生きていく過程そのものが、何らかの学習になっているわけです。そして、そこで
9.学習の個別性に応じて さて「聴解」を例に、どの生徒も入塾時に一応同じ学習法を指導することから入って、その後は、個々に応じた指導に入る、その際、その学習法で、使用するそれぞれの器官の働きを把握することが前提になるということで、その器官が例えば手でれば、
8.「意思」の個別性我々が何かをやろうとする時、あたまの中で考えを巡らせて、それを決めるということがあります。また、前回出てきたように、考えることなく感情に振り回されて何かをやってしまうそういうこともあります。この二つを少し考えています。前者の、あたま
7.心ここにあらざれば 「意思」のことで、思い出したことばがあります。 『心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず、此れを“身を脩(おさ)むるはその心を正すに在り”と謂う』(意訳)心が他のことに奪われていては、注意
6.「意思」と「意志」 ここでその「意思」としたことについて少し触れておきます。「聴解」ということを考えたときに、一番身近な例として思い浮かぶのは、学校で授業中に教師の話に耳を傾けることです。その時に誰もが経験したことがあるであろうことの中に、「あたま
5. 「聴解力」の前提は、その聴くことの「選択」 さて「学習法」の中に組み込まれた「聴解」について取り上げています。「学習法」の指導は、普通入塾した生徒に一対一で順序に従ってやるわけです。それは、ある意味型通りの指導です。「このテープを聴いて、それを覚え
4.「意味」に換えるはたらき さて「聴解」の「解」の方の、個々のはたらきについて、これについては先に「ことばの個別性」のところで取り上げたことです。 我々が何かの言葉を聞いた時、それを深層で意味に換えます。そのはたらきです。それには、そのことばを構成
3.「音声」を聴き分けるはたらき さて、「聴解」を例にそこで使用される器官の「はたらき」の「個別性」について取り上げてみます。「聴解」を、おおざっぱに、「聴」と「解」に分けるとします。「聴解」の「聴」の方は、外からの音波動を音声に換えるはたらきのことで
2.その器官はだれの器官か 前回、「誰の手か」という問いかけをしました。 さて、指導者の研修では、まず人の思考や行動を三層フローチャートで分析しました。その後、学習法の研修に取り掛かる前に機能図というのを使って「機能分析」という研修を行うのですが、そ
1.それはだれの手か 整体の教室で時々こういうことを見かけることがあります。 先輩、仮にAさんとよぶとします、その人が後輩のBさんを指導しています。それで、クライアント役の人に手を当てて、はたらきかけます。クライアントは、自分の中に起きた反応を伝え
100.自分でやることと、人に頼ることの違い ここ数回、(ここで言う)「深層」について取り上げてきました。そこで、その「深層」について、「行動」と「意識」との違いとして、「人にもわからないが自分にもわからない」と言いました。そして、個々人が自身の「思考」
99.意識の深層への拡がりと自己の確立 自分のやっていることを自分で理解するというと、そんなことは簡単だと思われるかもしれません。自分のことは自分が、一番わかっているという思い込みです。 SSAの教室では、生徒たちが毎回10分、「立腰」をします。これを
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43.子供のからだは大人より姿勢の修正を受け入れる 姿勢が自分の目で見れないことから、人に直してもらうとして、姿勢を正すことそのものを生業とするような人がいるだろうかと考えると、実はそれだけを目指すという業種はないのではないかと思われるわけです。ただ、何
42.姿勢と取り組む動機づけの難しさ 姿勢と能力の関係について、一般には、無関心なのではないでしょうか。しかし、人の能力について、追求する人たちの多くは、その重要性を認めています。 しかし、教育の世界ではどうでしょう。姿勢の修正を本格的に取り組んでいる
41.自分の自然な姿勢は「見える」?前回、「姿勢を正すことが難しいのは、多くの人が持つ、自身の姿勢に関する『視覚イメージ』のほとんどが、『妄想』だからではないか」ということについて。 人は、他人の姿勢は一応「目」で見ることができます。一応と言ったのは、
40.「能力」の土台をなす「姿勢」 前々回に「視る」ことと「姿勢」のことに触れました。 人の能力について触れている著作に目を通すと、多くの分野で、「姿勢」の在り方が能力を左右することに気が付きます。 解り易いのは、老化に因っての姿勢の歪みが人の認知能
39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
87.そのものの「振る舞い」さて、前回「内部 知識を整理体系化する」ということを言いました。そのことについて触れて行きたいのですが、その前に、その「内部知識」という言葉について少し触れておきます。どうしても知識というと何と言うか静的で固い感じがするのです
86.整理体系化された知識を準備する必要性 今まで述べたように我々は様々な状況の中で考え行動をする際、その基になる知識を自分の中から引き出して使用するわけです。そうすると、その内部知識の整理体系化がそれに対する準備ということになるわけです。準備がきちん
85.現実を様々な次元で受けとめる我々は、ものを見る時、ふつう、それがそこにそのまま変わらずある「物」として見ます。ところが、例えば、それが林檎であるとて、その林檎を高速度で撮影した映像を早送りで見ると、その林檎はみるみる崩れて消えてなくなります。それは
84.「物」の実体とは? 「コトバ」を介して「物」のイメージが浮かび上がる、そのことを実感すると、その「コトバ」の「意味」するものが、そのイメージを生み出す働きがそこにあるのだというふうに感じられてきます。そうすると、それが、スマホとかパソコンにキーボ
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「