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  • 第32話・・・箸蔵小学校の文部大臣表彰記念碑

    箸蔵小学校の前に、同校が文部大臣表彰を受賞した記念碑があります。この碑の題字も涔口先生によるものです。この小学校は、県立箸蔵自然公園内で昭和39年から愛鳥活動を続けています。永年の活動が認められ、昭和54年には文部大臣表彰を受けました。毎年、5月の愛鳥週間になると、同校の活動を紹介したニュースが新聞やテレビで取り上げられます。自然に囲まれた地域ではありますが、こうした機会を学校のスケジュールに取り入れ、永く続けることはそう容易ではないと思われます。地域や学校のスタッフの方々の熱意が感じられる記念碑です。第32話・・・箸蔵小学校の文部大臣表彰記念碑

  • 第31話・・・板野の改田記念碑

    池田町板野にある吉野川運動公園のプール下に「改田事業記念碑」があります。題字は涔口先生によるものです。この碑には、昭和56年7月に建立されたと記され、昭和24年6月に結成された板野水利組合によって板野の下島地区の改田事業を行ったことを讃える文章が刻まれています。今は、池田ダムの湖畔となっていますが、昭和43年9月に水資源開発公団による池田ダム建設により、この地に広がっていた水田が買収され、現在の運動公園となりました。第31話・・・板野の改田記念碑

  • 第30話・・・阿波池田商工会議所婦人部会の創立記念碑

    阿波池田商工会議所婦人部会の創立を記念し、植樹を行った記念碑が2つあります。一つは、平成3年に建てられた、創立10周年を記念したもの。もう一つは、創立20周年を記念したもので、平成12年に建てられています。10周年の碑は丸山公園に、そして20周年は諏訪公園にあって、いずれも涔口先生に依頼して、記念碑の文字としています。池田の町は規模の小さな田舎町ですが、この規模で、商工会ではなく商工会議所を設立(=昭和26年4月25日設立)して活動することは、全国的に見ても珍しいようです。その中で、商業活動を支えてきた女性の皆さんのプライドが垣間見える2つの碑です。▲丸山公園にある10周年記念植樹の碑▲諏訪公園の碑は20周年を記念したもの。「婦人部会」とするところが、「婦人会」となっている。第30話・・・阿波池田商工会議所婦人部会の創立記念碑

  • 第29話・・・上野池南線の開通記念碑

    平成5年に開催された第48回東四国国体。この国体に合わせて開通した上野池南線。開通記念碑が道路脇に設置されています。記念碑には、涔口先生の字が青石に掘られ、白いペイントが入れられています。東四国国体では、この年の3月に落成したばかりの総合体育館がレスリング会場になりました。また、丸山公園を会場に山岳競技も開催されています。上野池南線が完成して、鉄道で分断されていた池南地区もずいぶん便利になりました。阿波池田駅のすぐ横にある踏切は、今も使われていますが、この道路が開通して、大きな車もスムーズにこの地区に入ることができます。▲JRをまたぐ上野池南線かっては、この道路を下った右側に古池という大きなため池がありました。池田の地名の由来ともなった池で、846年に阿波の介となった山田古嗣という人が農業振興のために整備した池...第29話・・・上野池南線の開通記念碑

  • 第28話・・・池田高校にある甲子園優勝記念碑

    池田高校の正門を入ってグラウンドの方へ進むと、池田高校野球部の甲子園優勝記念碑が3つ並んでいます。野球部の活躍は、今もなお、多くの人たちの記憶に残っていて、池田の人にとっては飛び切りの自慢です。その野球部を率いてきた蔦文也先生の偉業や人柄は高校野球ファンにも、この町にゆかりのある人にも、いつまでも忘れられない池田物語です。甲子園で果たした3度の優勝はもちろんのこと、さわやかイレブンの活躍や甲子園3連覇を逃したPL学園との試合など、蔦野球は不思議なほど全国の高校野球ファンをひきつけました。この3つの優勝記念碑の内、2つが涔口先生の書です。1つは、畠山投手を擁して制した昭和57年の夏の大会。もう一つは水野投手が活躍した翌58年の選抜大会の記念碑です。蔦先生のことは多くの方が書籍等で紹介していますので、今さらというこ...第28話・・・池田高校にある甲子園優勝記念碑

  • 第27話・・・たばこ工場跡にある野口雨情の歌碑

    「刻み煙草ぢゃ池田が本場昔ながらの阿波刻み」・・・雨情日本たばこ池田工場跡の高速バスターミナルに野口雨情の歌碑があります。かって煙草の町として栄えた阿波池田の町を象徴する歌を雨情は残してくれました。歌詞の部分は雨情本人の直筆で、歌碑の横書きの部分が涔口先生の字です。昭和57年2月1日に池田町教育委員会が建立し、最初は、たばこ工場の入口に設置されていましたが、現在のように街並みの姿も変わり、雨情の歌碑もここに移されました。この歌だけでは、野口雨情という人がどういった人かよくわからないのですが、◆「♪シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ・・・」(シャボン玉)◆「♪烏なぜ泣くの烏は山に可愛い七つの子があるからよ・・・」(七つの子)◆「♪赤い靴はいてた女の子。異人さんに連れられて行っちゃった・・・」(赤い靴)となると、知っ...第27話・・・たばこ工場跡にある野口雨情の歌碑

  • 第26話・・・阿波池田たばこ資料館

    明治30年代は、池田の民営時代の煙草製造業の最盛期です。明治35年の徳島県統計によると、工員が10人以上の工場数は徳島県下で134。この内、池田の工場が54とあります。徳島市をしのぐ県下一の工業都市でした。第24話「阿波池田の酒まつり」で紹介した今小町酒造・中和商店も前身は刻み煙草業で、北海道と大阪を中心に全国各地に販路を持ち、工員48人をかかえる池田町最大の刻み屋さんでした。たばこで栄えた池田の歴史を残すため、本町通りの真鍋家を改装し、阿波池田たばこ資料館が平成11年7月にオープンしました。入口は、商家のたたずまいで、もちろん屋根の部分にはうだつがあがっています。時代を感じさせる玄関灯の上に、「阿波池田うだつの家」の看板がかかっています。涔口先生の字です。その左にかかっている「阿波池田たばこ資料館」の看板は、...第26話・・・阿波池田たばこ資料館

  • 第25話・・・「郷土料理 うだつ」と真野武酒造

    今も「うだつ」の建物が残る本町通りに、昔ながらの酒蔵の面影を残す真野武酒造があります。今も「阿波踊り」という銘柄で日本酒を出していますが、平成8年12月から、郷土料理のお店に改装されて、昔の建物を活かした店づくりが目を引きます。このお店の入口に掛けてある「郷土料理うだつ」の看板は涔口先生の字です。また、酒屋の方の入口に掛けられている「銘酒阿波踊り」と「真野武酒造株式会社」の看板も涔口先生によるものです。真野武酒造の前身は刻み煙草業でした。明治42年に酒造業に転じています。この店の名前にもなっている「うだつ(卯建)」は、池田の町が煙草業で繁栄した歴史を語る証しとも言えます。もともとは、延焼を防ぐ防火壁として工夫されたものですが、次第に装飾としての意味合いが増し、家の勢いを誇示する象徴となりました。◆吉野川の水運の...第25話・・・「郷土料理うだつ」と真野武酒造

  • 第24話・・・阿波池田の酒まつりと今小町酒造・「穣」

    2月21日に四国酒まつりが開催されました。新酒のお披露目に因んだ催しで、池田の春の訪れを告げる風物詩です。阿波池田商工会議所の青年部の皆さんが企画し、今回で10回目を数えます。毎年、全国各地から日本酒ファンが集うイベントとして成長しました。この日は、地元の造り酒屋の「今小町」、「三芳菊」と井川町の「芳水」の3つの酒蔵が一般開放され、今年の新酒を味わうことができます。◆酒蔵で今年の酒を説明する中村盛彦社長は中和の6代目。池田町史によると、池田の酒づくりは江戸時代に遡り、松屋、頭師、喜多屋の三家が酒造を行っていたようです。その後、明治二九年に三芳菊酒造、明治三五年に入江酒造、明治三六年に大坂酒店、明治四二年に真野武酒造、大正一五年に中和商店が酒造りをはじめます。酒造りの水はどちらも、桂林寺の井戸水を使用していたそう...第24話・・・阿波池田の酒まつりと今小町酒造・「穣」

  • 第23話・・・西山の密厳寺さん

    昨年12月の「蓮華寺」から2か月。なかなか話が進まないので、「次はいつ更新するのか?」と声をかけていただき、申し訳ございません。冬の天気の所為か、どうも写真が暗くなってしまうので、しばらくお休みさせていただいていました。昨日の2月14日は、4月下旬並みの暖かさで、全国105の観測地点で2月の最高気温を記録したそうですね。というわけで、今日も晴天を期待していましたら、幸いにも昨日と同じ、ぽかぽか陽気となりました。活動開始です。池田の町の北側にある池田ダムを通り越し、西山を上っていくと、中腹に「寶光山密厳寺」があります。蓮華寺と同じく、真言宗御室派のお寺で、蓮華寺とはちょうど向かい合わせのような場所にあるお寺です。しばらく来ない間に、境内は整備が進み、お寺の様子が変わっていました。入口左手に、新しい鐘楼堂ができてい...第23話・・・西山の密厳寺さん

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