南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介
記憶から忘れ去られ行く数々の史跡・遺跡・記念碑に偉人達の墓碑。全ては土佐を育んだ歴史の痕跡
仁井田五社神社 - 佐川の勤王五士、勤王の大願成就の祈願をして脱藩
[ 高知県越知町横畠東・堂ノ岡 ]以前ご紹介しました浅尾沈下橋の近くの、県道18号・伊野仁淀線の仁淀川に架かる鎌井田大橋を越知町方面に約2Kmほど行ったバス停「堂ノ岡」の近くに、仁井田五社神社が鎮座しちょります。 浅尾沈下橋 - 仁淀川河口から三番目に架かる沈下橋 2018-09-01 由緒は不明じゃけんど、神社名からして現・四万十町にある高岡神社(別名・仁井田五社)を勧請したがじゃと思いますき、御祭神は高岡神社と同じ...
国指定史跡・谷重遠墓 - 土佐南学を再興し日本の「尊厳」を教えた
[ 高知県香美市土佐山田町 ]谷重遠は、寛永3年(1663)長岡郡岡豊村の岡豊八幡宮(現・南国市)の神主・谷神兵衛重元、島崎氏の3男に生まれ、通称・丹三郎、名は重遠で、秦山は号ながです。谷家は代々岡豊八幡宮の神職を務めちょりますが、野中兼山によって郷士に起用されちょります。幼少より聴明じゃったそうで、17歳の時上京し、野中兼山らと親交のあった山崎闇斎や、その高弟・浅見絅斎に朱子学・神道・儒学を学んだ。また、同...
野中神社(お婉堂) - お婉さんが父・野中兼山や一族、旧臣の霊を祀る
[ 高知県香美市土佐山田町中組 ]父・野中兼山や一族、旧臣の霊を祀った野中神社で、娘のお婉さんが建てた事からお婉堂とも呼ばれちょります。お婉さんは、この神社の建立にあたり先祖伝来の物を人手に渡したり、貴重な品は谷泰山が江戸に行く時、江戸で売りさばいてもらったりして工面し、宝永5年(1708)須江の旧臣古槇家の土地(現在地)を譲り受け小さなお堂を建てたがです。野中神社(お婉堂)土佐藩家老野中兼山の死後、野中...
[ 高知県香南市野市町東野 ]永正7年(1510)に土佐国香美郡東南部の国人・香宗我部通長の次男として生まれる。兄は香宗我部右衛門尉親秀。大永6年(1526)、兄・親秀の嫡男である秀義が安芸氏との合戦で戦死したため、親秀の養子に迎えられて家督を継いだが、香宗我部氏は次第に衰退していき、親秀は自家の再興を図るために長宗我部国親の三男・親泰(長宗我部元親の弟)を養子に迎えて長宗我部と香宗我部の連合体制を作り上げよ...
[ 高知県土佐市本村 ]高知道・土佐PAの北側を国道56号が走っちょりますが、そこから西に1.2Km程の処の道路左側に「カロト生花エビネ寒蘭店」があるがですが、善福寺はその道路反対側にあるがです。善福寺は、土佐七福神霊場の福禄寿を祀る旧札所じゃったがです。福禄寿は「幸福」の福、「身分」を表す禄、「寿命」を表わす寿の三文字からなり、長寿の神さんで、阿弥陀堂に安置されちゅう御本尊の阿弥陀さんの左脇に安置されちょ...
土佐十景・手結の碑 - 野中兼山の掘った手結内港銚子口先端に建つ
[ 高知県香南市夜須町手結 ]土佐十景・手結の碑は、 承応2年(1653)に土佐藩家老・野中兼山が完成させた、わが国初の「堀り込み港」 手結内港の出口南の銚子口の先端に建てられちょります。手結港可動橋がある南側の一段下がった外側にありますき、車からはちっくと判らんかと・・・・・。昭和3年(1928)に建てられた碑の裏にゃ、下記の様に刻まれちょります。短歌 濱田春恵作地名 前田俊泰書篆額 和歌 脇字 田内道太郎書 土...
[ 高知県南国市立田 ]土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の立田駅の直ぐ北側に、人工的に盛土されたような塁状地形があり、その上に祠がお祀りされちょりますが、ここが徳弘土居城の城八幡ながです。『南路志』にゃ、「城主・徳弘氏は菅原道真の左遷に連座して延喜年間(901-923)に立田庄に来て、戦国時代にゃ楠目城城主・山田氏に仕え、山田氏滅亡後は長宗我部氏に仕えた」とある。また、『高知県南国市中世城館跡』にゃ徳弘氏は...
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