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「あずさわ日記」に準じて新たに 「あずさわたより」を開始いたしました。 同じく光明思想の発信をとおして、 自己啓発のお役にたてればうれしいです。

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2022/11/21

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  • 右往左往

    祖師西来意(そしせいらいい)は禅の代表的な公案のひとつであります。『無門関』第三十七則の中に一人の僧が趙州和尚に問うた言葉であります。「如何なるか是れ祖師西来意」(大意:達磨大師が遠路、インドから中国

  • 荘巖さはまた格別

    “末後の句”を説くのは、人間が“明るい世界”から“暗い世界”に入り變る時である。“死”は“暗い世界”へ行くのかと思へば、“生”の世界にいる時の方よりも、一層明るい彌陀の巧妙遍照の極楽世界であるかも知れない。「同條

  • “明”の中に“暗”がある

    【頌】頌に云く。末後の句、君が為に説く。明暗雙々底の時節、同條生や共に相知る。不同條死、還って殊絶す。還って殊絶す。黄頭碧眼、須く甄別すべし。東西南北、帰去来。夜深けて同じく看る千巖の雪。【解釈】巖頭

  • 未だ敢て容易にせず

    この問僧もそれがわからないので、夏末即ち夏安居(こころやすらかに暮らすこと)の期日の終りの頃(夏安居といふのは四月十五日から七月十五日まで三ヶ月間、禪宗では、安居して修行をする慣はしになっている)再び

  • “末後の句”とは

    すると僧は、「嶺南より来る」と答へる。「嶺南には有名な雪峰和尚が居られるが、この和尚を訪問せられたことがありますか」と巖頭は尋ねた。僧は「曾て到る」(いったことがあります)「何の言句かありし」(その時

  • 憂国忌がありました

    昨日は文豪 三島由紀夫先生の 憂国忌がありました。昭和四十五年十一月二十五日、東京市ケ谷で有名な《三島義挙》が行われた。当時高校生だった私は、ある二部構成の講演会で『三島由紀夫の真情を語る』講師:伊澤

  • “末後の句”とは

    すると僧は、「嶺南より来る」と答へる。「嶺南には有名な雪峰和尚が居られるが、この和尚を訪問せられたことがありますか」と巖頭は尋ねた。僧は「曾て到る」(いったことがあります)「何の言句かありし」(その時

  • 什麼の處よりか来る

    それまで雪峰は坐禅をしていると、天界から何かインスピレーションといふものが送られて来て、それによって悟が得られるのだらう位に思って怠らず坐禅をしていたのであらう。しかし悟といふものは外から念送されて来

  • その時忽然として

    「僧、後に巖頭に到る」といふのは、雪峰といふ人は巖頭和尚と共に徳山和尚の下で修行した相弟子である。年齢は雪峰の方が巖頭よりは二、三年上であったらしいが、法の上からいふと巖頭の方が先輩で、巖頭の導きによ

  • 互の佛性と佛性とが拝み合い

    【解釈】雪峰住庵の時といふのは、南嶺といふ所に庵を結んで暫く隠遁生活をしてをった時のことである。二人の僧が遠くから段々近づいて来て門の外から拝んでいるので、見て、庭におりて、門まで来て「手を以って庵門

  • 未だ敢えて容易にせず

    【本則】擧す。雪峰住庵の時、両僧有り、来って禮拝す。峰来るを見て、手を以って庵門を托して、身を放って出でて曰く、是れ什麼ぞ、僧亦曰く、是れ什麼ぞ。峰、低頭して庵に帰る。僧、後に巖頭に到る。頭問ふ、什麼

  • 何ぞ早く問はざる

    【本則】擧す。雪峰住庵の時、両僧有り、来って禮拝す。峰来るを見て、手を以って庵門を托して、身を放って出でて曰く、是れ什麼ぞ、僧亦曰く、是れ什麼ぞ。峰、低頭して庵に帰る。僧、後に巖頭に到る。頭問ふ、什麼

  • 五感も六感も超越

    「『もし一絲毫(いっしごう)の解路(げろ)あって、猶ほ言詮(ごんせん)に滞り、尚ほ機境(ききょう)に拘らば、盡く是れ依草附木(えそうふぼく)』の浮浪靈だ」と垂示しているのである。その意味は、もし一筋のほそい絲ほ

  • 把んで放たないのが把住

    武道でも囲碁でも初段とか二段・三段……八段・九段・名人……といふ風に段階をつけて修行の現在の状態に目安をつけておかねばならない。佛教でも大僧正とか、僧正とか阿闍梨とか、いろいろの段階を設けてその僧侶の修行

  • 人間による善悪の批判は

    親鸞も「善悪総じて存知せざるなり」といっているのである。人間による善悪の批判は、必ず相對的批判であって、各人が各自の立場から見て“これが善である”といふけれども、また別の立場から觀れば、Aが“善”とみとめ

  • 人間とは何者であるのか

    「をんな其の樹を見れば食ふに善く、目に美麗しく、且つ知恵からんが為に慕はしき樹なるによりて遂にその果を取りて食ひ、亦之を己と偕なる夫に與へければ彼は食へり。是に於て彼らの目偕に開けて彼らその裸なるを知

  • 『碧眼巖録解釋』 後編

    第五十一則 雪峰是甚麼(これなん)【垂示】垂示に云く。纔(わずか)に是非あれば、紛然として心を失す。階級に落ちざれば、又模索すること無し。且(しばらく)く道(い)へ、放行するが即ち是か。把住(はじゅう)するが即

  • 『碧眼巖録解釋』 前編〔完〕

    北斗星は地球の北半球に輝き、南十字星は地球の南半球に輝いているけれども、これとてもアイディアの表現であり、佛性が輝いているのであるからその「位殊ならず」である。たまたま颱風南方より来って白浪滔天の物凄

  • 光明思想を知った我らとしては

    「狛子に佛性ありや」と、これを難解の公案にした坊さんもあったけれども、狛子(犬ころ)が犬ころであるのは、“犬ころ”のアイディアが宿っているからである。アイディアのことをキリスト教の聖書では、“コトバ”と称

  • 果を結ぶのである

    【頌】頌に云く。鉢裏飯(はつりはん)、桶裏水(つうりすい)。多口の阿師(あし)も嘴を下し難し。北斗南星、位殊(くらいこと)ならず、白浪滔天平地(はくろうとうてんへいち)に起こる。擬不擬(ぎふぎ)、止不止(しふし)、

  • 自分が普賢菩薩そのものであるといふ自覚

    その三昧に於て念ずる言葉及び觀ずる實相は次の通りであるーーー「我れ普く我が全身を觀ずるに此身このまま普賢の身なり。六牙の白象上に乗り、花辯が悉く如意寶珠なる蓮華の寶座に坐し、合掌の内に如意寶珠を持し、

  • どのやうに觀ずるのであるか

    それでは具體的に静坐鎮魂してどのやうに觀ずるのであるかといへば、生長の家では“觀普賢菩薩行法”といふ神想觀があって、次の如く自分の身を普賢菩薩であると觀じ、その普賢菩薩も身を構成するすべての細胞を普賢菩

  • 實相の中に現象あり

    この一塵中に世界あり、その世界の中にもまた世界があり、その世界の中の一塵中にもまた世界があり……その各々の世界にまた毘盧舎那如来が説法していられる。何重にも幾重にも重なってあらはれているのが實相である。

  • 蓮華蔵世界の一塵

    以上は『華嚴経』の“世間浄眼品”の一節であるが、“盧遮那佛品”はその一節を受けて、妙法界の一切處に充ち満ちてい給ふ如来身ーーー「盧遮那佛は衆海の中に於いて正法を演説していられ」といふのである。「正法を演説

  • 現象が生起したやうに見えても

    「無盡平等の妙法界は、悉く皆如来身に充満し、取無く起無く永く寂滅なるも、一切の帰とならんが故に世に出でたまへり」無盡に、つくるところなく無限に展開している世界であるが、悉くその本質は平等に如来の大生命

  • 本当の世界平和には、本当の日本人の魂が“八紘一宇”世界の人類は皆仲間だ!

    旧ブログ“あずさわ日記より” 實相は一味平等であるーーと考へるのは「一」に執着したのである。「人類愛々々々」と抽象的人間に愛著し、日本人であることを忘れている人も「一」に執著したのである。吾々は日本人

  • 何を為すべきか

    https://www.facebook.com/profile.php?id=100038680394039

  • 々人類は何をすれば良いのだろうか。

    以上は『華嚴経』の“世間浄眼品”の一節であるが、“盧遮那佛品”はその一節を受けて、妙法界の一切處に充ち満ちてい給ふ如来身ーーー「盧遮那佛は衆海の中に於いて正法を演説していられ」といふのである。「正法を演説

  • 迷える衆生もまた

    「無盡平等の妙法界は、悉く皆如来身に充満し、取無く起無く永く寂滅なるも、一切の帰とならんが故に世に出でたまへり」無盡に、つくるところなく無限に展開している世界であるが、悉くその本質は平等に如来の大生命

  • おおよそ二〇〇万年前

    われわれの人體を例にとって言へば、微細の細胞が四百兆余も集まってこの人體はできている。その細胞はまた一層微細の分子の集合體であり、その分子は原子の集合體である。その原子は更に素粒子が集まって出来ている

  • 微細の塵

    【本則】擧す。僧、雲門の問ふ、如何なるか是れ塵々三昧。門云く、鉢裏飯、桶裏水。【解釈】塵々三昧ーーー三昧といふのは一つの目標に心を集中して、それ以外無心無我の境になることである。禪宗でいへば坐禪のこと

  • 機々相應じ

    かうして大解脱門に入り、大解脱を得るのでなければ、禪の目標とする佛祖釋迦牟尼如来と肩を並べ(權衡)、教への乗り物(綱領)に同船せる同胞たちの中に龜鑑すなはち模範となることは出来ないのだ。かうして大解脱

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