曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「あずさわ日記」に準じて新たに 「あずさわたより」を開始いたしました。 同じく光明思想の発信をとおして、 自己啓発のお役にたてればうれしいです。
【頌】頌に云く。團團珠めぐる、玉珊珊。馬載驢駞鐡船に上す。分付す海山無事の客。鼇を釣って時に下す一圏攣。雪竇復云く、天下の衲僧跳不出。【解釈】「團團珠めぐる、玉珊珊」とは宇宙の一切は珠の如く圓相であっ
生長の家の“信徒行持要目”は七ケ條あるが、その第二ケ條には「そのままの心を大切にすべし」とあり、その説明の中に圓相の功徳が次の如く書かれてある。「そのままは零なり、一切なり、○なり、圓滿なり、無礙なり、
さて、本則に従って解釋すると、尚書の陳操が資福禪師を訪ねて來た。資福は如寶禪師といはれて有名な禪師である。陳操書が來たのを見ると、資福は言葉の挨拶は何もしないで、すぐ唯、一圓相を描いて見せた。禪宗の師
【本則】擧す。陳操尚書、資福に看ゆ。福、來るを見て即ち一圓相を畫す。操云く、弟子恁麼に來る。早く是れ便りを著けず、何に況んや更に一圓相を畫するをや。福即ち方丈の門を掩却す。雪竇云く、陳操只一隻眼を具す
觀普賢菩薩行法經には「無量の勝方便は實相を思ふより得」とあるから、彼は時に應じて、インスピレーションを感受して濶眼をひらいて流星の走るが如く明智の閃きによって如何なる紛糾せる難問でも快刀亂麻を截つが如
第三十三則 陳尚書看資福 【垂示】垂示に云く。東西辨ぜず、南北分たず、朝より暮に至り、暮より朝に至る。還って伊れかつ睡すと道ふや。有る時は眼流星に似たり。還って伊れ惺々と道ふや。有る時は、南を呼んで
定上座は素直にその時、師を禮拝したのであった。その禮拝に方って、忽然ーーーヒョッコリと、この禮拝の中にこそ佛法があると定上座は大悟したのだった。眞の禮拝は感謝に通ずる。感謝し合ったとき、天地はわがもの
おそらくその時、臨濟禪師は坐禪をして實相を觀じていたものと思ふ。時もあらうに、その坐禪の最中に、上座ともある高弟でありながら禪定の邪魔をして、「如何なるか是れ佛法の大意」などといって、もう充分知ってい
【本則】擧す。定上座、臨濟に問ふ、如何なるか是れ佛法の大意。濟、禪状を下って擒住して、一掌を與へて便ち托開す。定、佇立す。傍僧言く、定上座何ぞ禮拝するに方って、忽然として大悟す。【解釈】上座といふのは
だいたい唯物論といふものは、事物に内在する靈的アイディアの美しい差別相や秩序そ見ることをしないで、すべての物を平等の分子集合體と觀たり、それが生物ならば、すべての生物を平等の細胞の集合體と觀たりするの
しかし“見成公案”を見よである。“見成公案”は“現成公案”も同じである。公案といふのは“公(おおやけ)”即ち“大生命”が案じ出したアィデアで、アィデアが現に姿をあらはして成就しているのが“現成公案”である。柳は緑
人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。成功をすると
おそらくその時、臨濟禪師は坐禪をして實相を觀じていたものと思ふ。時もあらうに、その坐禪の最中に、上座ともある高弟でありながら禪定の邪魔をして、「如何なるか是れ佛法の大意」などといって、もう充分知ってい
【本則】擧す。定上座、臨濟に問ふ、如何なるか是れ佛法の大意。濟、禪状を下って擒住して、一掌を與へて便ち托開す。定、佇立す。傍僧言く、定上座何ぞ禮拝するに方って、忽然として大悟す。【解釈】上座といふのは
日本は占領軍に押しつけられた日本國憲法の第二十四條に従って、子供が成長して結婚して親から分かれると、親から分裂して、単細胞動物の核分裂増殖のやうに核家族になる。「もう大人だよ、親の言ふことなどきく必要
だいたい唯物論といふものは、事物に内在する靈的アイディアの美しい差別相や秩序そ見ることをしないで、すべての物を平等の分子集合體と觀たり、それが生物ならば、すべての生物を平等の細胞の集合體と觀たりするの
しかし“見成公案”を見よである。“見成公案”は“現成公案”も同じである。公案といふのは“公(おおやけ)”即ち“大生命”が案じ出したアィデアで、アィデアが現に姿をあらはして成就しているのが“現成公案”である。柳は緑
即ち平等即差別、差別即平等なのである。その差別を踏んまへての平等といふのは、天分であるものが、各々に與へられるのが本當の平等なのである。女性が女性に適する衣服が與へられ、男性が男性に適する衣服が與へら
さてその、あらゆる方角の交叉の中心に坐すといふことはどうするのであるかといふと端坐して神想観を修して實相を観ずることである。法華の三部経の最後の“行法篇”とも言ふべき『觀普賢菩薩行法経』には「無量の勝方
第三十二則 臨濟佛法大意 【垂示】垂示に云く。十方坐斷、千眼頓に開く。一句截流、萬機寢削。還って同死同生底ありや。見成公案。打畳不下。古人の葛藤、試みに請ふ擧す看よ。【解釈】“十方”といふのは、東西南
【頌】頌に云く。此錯彼錯。切に忌む拈却することを。四海浪平かに。百川潮落つ。古策風は高し、十二門。門、門、路あり、空蕭策。蕭策に非ず。作者好く無病の薬を求むるに。【解釈】此錯とは雪竇が「錯」と著語して
昨年2月、ごくありふれた規模の磁気嵐で約40基もの人工衛星が落下したのは、太陽が電気を帯びた粒子を大量に放つ現象「コロナ質量放出」が連続したためだったことを、国立極地研究所などの研究グループが突き止めた
あるとき、ひとりの紳士が私たちの家に来て、八人の子どもを持つヒンズー教徒の家族がいて、何日も食べていませんから、なんとかしてくださいといいました。そこで私はいくらかの米をその家族に持っていきました。そ
昨今、余りにも物騒な犯罪に多くの若者が安易に引きずり込まれ、あたら若い人生を台無しにして居る。そんな現実の話をテレビのニュースで見て、全ての人々が 人生とか、家庭、人との関わり方を 深く考え、積極的に
この公案を何と解釋すべきであらうか。雪竇禪師はこれに著語して「錯」(これも間違だ)と書いた。麻谷が「禪状をめぐること三そう、錫を振ふこと一下、卓然と立つ」といふ態度を章敬に對して示したときに章敬は「是
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曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの
曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの