福音のイロハから順番に紹介していきたいです。<br>また、聖書の御言葉の深い味わいを共有できたらと願っています。
2箇所の学びのクラスの記録と 聖書の詳しい解き明かしを中心に記事を書いています
[イザヤ書 55:8,9] 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、 あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。 ──主のことば── 天が地よりも高いように、 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 何に対しても、神の思いは、私たちの思いとは全く違うものです。 私たちはよく、神なら ば決して許さないことも、許してしまいます。 神は、ものごとを、まったく違った視点から見ています。 私たちがものごとを判断する基準と、神が判断される基準は異なっていま す。 神の視点に立つことが必要です。 『ああ、』人は、こんなふうに言います、『あのこ と、このこ…
【[雅歌 2:7] エルサレムの娘たち。 私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。 揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。 愛がそうしたいと思うときまでは。】 7節は花婿が語るリフレイン(反復句)です。 というのは、2章7節の他に、3章5節、および8章4節にも繰り返されているフレーズだからです。 繰り返されているということは、そのことが重要だからです。 愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではありません。 「この人を絶対に愛して行きます。永遠に愛して行きます」と口で言ったとしても、そうすることはできないのです。 愛には「目ざめ」(主体性・自発性)が必要なのです…
【[ヨハネの手紙 第一 5:20] また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。】 主の子供たちにとって、何よりも大切なのは、彼らが主を知ることこそが、他の全てにまさる主の目的であると完全に理解することです。 これこそ、主の私たちへの関わりの全体を支配する最終目標であるといえます。 これが私たちのすべての必要の中で、最も大きなものです。 私たちの心が奉仕と働きでいっぱいになってしまうことはよくあります。 主のために何かをすることを人生の主…
【[使徒の働き 3:6] すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」】 新しい天的なイスラエルに属する者とは、自分の利益を追い求める心から解放されて、神の利益を願うようになった人々であり、彼らは足にイエス・キリストによる霊的な履物をつけて、私と共に進む道を力強く歩いています。 五旬節の日の後に行われた第一の奇跡がエルサレムの宮の門で生まれつきの足萎えの男を立ち上がらせたことだったのは、非常に象徴的なことだったと思いませんか。 美しい物語を集めて1冊の興味を引く読み物を作ろうとしたわけではないのです。…
【[コリント人への手紙 第二 13:4] キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。】 神の働きの世界に、何よりも大きな傷を与えるものの1つ、いずれは必ず恥と混乱と大きな悲しみへと導きくものとは、生まれたままの魂の力です。 この力に頼って生きようと勧めているのは、強いい意思と堅い決心を持った積極的なキリスト教徒たちなのです。 けれども、彼らはまだ断固とした不屈の意思、個人的な決意、決断とこれとは根本的に違う別の力、すなわち忍耐、粘り強さとなる霊的な恵みや…
【[ヤコブの手紙 1:4] その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。】 神が私たちを訓練する道に対して、私たちが取る態度は2つである。 1つはそれをただ苦しく不快で厳しいものと受け取ることであり、もう一つはその鍛錬によって私たちが大きくなり、その鍛錬を経て成長し、能力を広げ、自分をより広い場所へ導いてくるべき時代に、世界を統治する主の知性に溢れた道具のなるためにそれを受け入れることです。 人生の歴史に入り込んでくるものの、深い意味を常に正しく測ることはできませんが、そのことを通して、主は民を成熟した段階へ導くのです。 民もま…
[詩篇 113:1〜4] ハレルヤ。 主のしもべたちよ ほめたたえよ。 主の御名をほめたたえよ。 今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように。 日の昇るところから沈むところまで 主の御名がほめたたえられるように。 主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。 神を賛美するということは、大抵のクリスチャンが理解している以上にはるかに重要なことです。 何度も繰り返される「主を賛美せよ」という命令には理由があります。 賛美がご自身の子供たちに及ぼす影響を神はご存知なのです。 ですから、1度ならず、何度も何度も賛美の言葉を発するように神はご自身の子供たちに命じておられます。 落胆の言…
【[ヨハネの福音書 6:53] イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。】 この道は、肉にとって生まれたままの人間にとっては非難を浴び続ける道であることを覚えておきましょう。 ユダヤ人たちは、この人はどのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのかと言って互いに議論し合いました。 しかし、それはユダヤ人たちだけではなく、宗教的に自己満足し切っていた敬虔な人たちも論じ合いましたし、また、こうも書かれています。 「そこで、弟子たちのうちの多くのも者がこれを聞いて言った。「これは…
【[コロサイ人への手紙 1:27] この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 私たちは天におられるキリストと信者の中にいるキリスト、その両方について語ることの大切さを感じています。 すなわち、客観的な見方と主観的な見方についてです。 真実の適切な釣り合いを保つ事はこの上もなく重要です。 私たちが抱える問題の非常に多くは、真実のある1側面だけを不釣り合いなほど誇張するために起こっています。 真実を知るのは良いことであり、また真実の中で喜ぶのも良いことである。 とは言え、真…
【[ローマ人への手紙 8:13,14] もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 】 【[コリント人への手紙 第一 3:1] 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。】 (今日はこの肉に属する人と 御霊に属する人について考えてみたいと思います。) 神は激しく肉と対立されます。なぜなら神は肉の実際の状態を知っておられるからです。 神の目的は、 信者が全く旧創造から自由に…
【[ガラテヤ人への手紙 2:20] もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 [ローマ人への手紙 6:6] 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。 】 聖書は、わたしたちがわたしたちを十字架につけるように とは言いません。 むしろ聖書は、わたしたちは十字架につけられた者である、と言っているのです。 なぜ なら、わたしたちが自分自身で十字架につ…
【[ヨハネの福音書 14:27] わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。】 それは単なる平安ではありません。 「わたしの平安」です。 神が私たちに下さる平安は 単なる平安ではなく、「神の平安」です。 【[ピリピ人への手紙 4:7] そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。】 私たちは物事がうまくいかなくなる と心を騒がせます。 しかし、私たちはそうではない何かを理解するべきです。 神はこの世を ご自身…
「詩篇73章 新約聖書の福音とその救い という事柄全体は、私たちをここに(詩篇73に)至らせるためのものにほかならない。 私たちが他に何を持っていようと、他に何と云うことができようと、ここに至るま で決して満足してはならない。 これが目当てである。 これが福音と救いの目標である。 これに及ば ない何かで満足することは、それがいかに良いものであれ、ある意味で、福音そのもの を否定するに等しい。 というのも、福音全体の偉大で壮大な目的または目標は 、私たちをこの特定の立場に至らせることだからである。 「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものは ない。わが身とわが…
【[ローマ人への手紙 8:13,14] もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 】 【[コリント人への手紙 第一 3:1] 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。】 (今日はこの肉に属する人と 御霊に属する人について考えてみたいと思います。) 神は激しく肉と対立されます。なぜなら神は肉の実際の状態を知っておられるからです。 神の目的は、 信者が全く旧創造から自由に…
(律法は旧約聖書でのことだけではなく、 今も律法主義としてクリスチャンを縛っています。 『〜してはならない、〜しなければならない』のように クリスチャンの心に働きかける敵の囁きがあるのです。 今日は、律法と恵みについて考えててみたいと思います。) パウロによってもたらされたものは恵みが全てです。 恵みが新しい契約の全てです。 新しい契約は律法についてではありません。 教会では確かに私たちが聖なる者であることについては語ります。 聖なる者になっているということは、神の似姿になるということです。 そして私たちが聖なるものであるべきなのは間違いありません。 しかし、私たちは自分の力では聖なる者にはな…
【[使徒の働き 20:22] ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。】 【[使徒の働き 21:4] 私たちは弟子たちを探して、そこに七日間滞在した。彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。】 わたしたちの働き、行為、信仰、教えは、肢体との関係の支配を受けなければなりません。 使徒パウロはエルサレムへの最後の旅行で、この間違いに陥りました。 神が彼の最高の使徒に間違いをすることを許されたのは、わたしたちを教えるためです。 パウロの間違いにおいて、神は特にあわれみ深 く彼を覆われました。 この間違…
オーステインスパークスの文章より (彼はウオッチマンニーの親友でした) 「【(主は)より頼んでいるあなたがたには尊いものです。(第一ペテロニ・七)】 もし、あなたや私が、自分は他の人より多くの光が当てられ、より多くの啓示を受けて いると主張したらどうでしょう。 もちろん、そのような主張は決してするはずもあり ません! しかし、私たちが、そのことは明白で、それだけの価値があると考えてい たら。 人から見て、私たちの中には他の者よりキリストがいると思えるでしょうか? 神は、自分が御子よりも前に出ることをしないし、神ご自身が理論や、教えや、教理や啓 示と呼ばれるものへと動くことは、決してありません。…
【「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」 エフェソの信徒への手紙 2:6-9 新共同訳】 クリスチャンの生活は、歩くことから始まるのではありません。 座ることか ら始まります。クリスチャンの起源は、キリストと共に…
父に命ぜられて、ヨセフは兄たちの羊の群れを搜しに行きました。 ところが兄たちは直ぐには見つかりませんでした。 そこで、ヨセフは足を伸ばして、シェケムの北にあるドタン(ヘブロンから80~100km)までやってきました。 ここでは、ヤコブがなんとしても兄たちを「捜そう」とすることが強調形で表されています。 ヨセフの兄たちはヨセフを良く思っていなかったので、ヨセフを見つけた時、「夢見る者がやっとくる」と言って、悪巧みをしました。 ヨセフを殺すことを計ったのです。 しかし、そこで、長男のルベンが介入が入りました。 ルベンは、そんなことをしてはいけないと彼らを止めて、救い出そうとして穴に入れることを提案…
37章にはヨセフが見た夢が2回記されています。 そして、それは後に現実んものとなります。 預言的な夢だったわけですね。 神がヨセフに見せた夢であったのです。 父に溺愛されていたヨセフを兄弟たちは憎んでいたのに、輪をかけて、ヨセフ優位な夢を披露されて、ますます彼を憎むようになります。 2番目の夢を自慢げに語られた時、妬みは頂点に達します。 兄弟たちの思いを考慮しないで語るヨセフの態度を見ていたヤコブは彼に注意喚起しました。 同時に、この夢のことを心に留めていました。 「心に留める」と訳されたヘブル語は「シャーマル」です。 本来は、守る、保つ、見張る、気をつけるという意味です。 「シャーマル」は、…
この章より創世記の最後まで「ヤコブの家の歴史」が記されていきます。 特にヨセフを中心とした物語が展開していきます。 37章2節の「ヤコブの歴史」とは、ヤコブ本人というよりもむしろ、ヤコブの子どもたち、特に、ヨセフの歴史が中心に記されています。 そして最後(49、50章)はヤコブの死と葬りについて記されて締め括られるという形になっています。 ヤコブがエジプトに行ったのは130歳の時でした。 ヤコブの一生は147歳なので、エジブトで過ごした年月は17年間です。 その間、エジプトへ行くまでヤコブの家族にどんなことが起こったのかが37~50章に書かれています。 ヤコブは他の兄弟たちのだれよりもよりもヨ…
創世記36章にはエサウ系図とセイルの系図が記されています。 アマレクを産んだ母ティナムとは、エリファズのそばめであえい、セイルの長ロタンの妹です。 セイルの家系図とは、アマレクに関連したものです。 ここには、子孫の名前(部族)が記されているだけの系図が羅列されているだけなのですが、注意深くみていくと、そこにはイスラルエの歴史とどのようなかかわりをもっているかが見えてきます。 エサウの子孫の中で、特に注目すべきは、「アマレク」です。 アマレクは父エリファズのそばめであった母ティムナから生まれました。 父エリファズには、正妻の子どもが5人もいました。 こうした家庭環境がアマレクに対して与えた影響は…
35章は内容豊富です。 ほかにも、息子ルベンの姦淫、イサクとの再会とイサクの死と葬りといったさまざまな出来事があります。 しかし35章で最も重要な出来事とは、神がヤコブに対して再度、明確な祝福の継承を約束したことでした。 アブラハム、イサク、そしてヤコブへと流れる祝福の継承について、改めて約束が与えられています。 神の恩寵的な導きによってなされていくことが示されています。 35章では救済史的約束の更新について記されています。 元々、28章13節15節でヤコブに神からヤコブに約束が語られました。 これは、救済史的な約束で、みな強意形で記されています。 なによりも神の約束の確かさを強調しています。…
ヤコブはシェケムを旅立って、ベテルに行きました。 さらにエフラタ(後のベツレヘム)を通って父イサクのいるヘブロンに向かって行きました。 ベテルを旅立ってから、ラケルの出産がありましたが、ひどい難産でした。 男の子を出産した後でラケルは死んでしまいました。 ラケルはこの子の名前を「ベン・オニ」(私の苦しみの子、悲しみの子という意味)と名づけました。 しかし、父ヤコブがこの子の名を「ベニヤミン」と改めました。 ヤコブは自分の息子達の名前に携わったのはこのときだけでした。 聖書はヤコブの最愛の妻ラケルの死について淡々と記しています。 けれども、ヤコブの最後の息子の名を「ベニヤミン」と改名したことの中…
前の章には、ヤコブの娘ディナの陵辱事件による事の顛末が記されています。 ヤコブは息子たちの思慮の足りない行動により、自らの立場が危うくなり、行き詰まりの状況に陥ってしまいました。 そんなとき、神はヤコブに語りかけました。 「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」(1節)と。 息子のシメオンとレピの限度を超えた残虐な復讐によって、いまにもシェケムの人々からの憎悪による復讐が起きかねない状況でした。 そんな危機的状況下にあって、ヤコブは、神のことばに従ったのです。 ヤコブの一行がシェケムを「旅立つと、…
復讐は人のくだすべきものではなく、神の為さることです。 そのことをヤコブの息子たちはまだ学んでいませんでした。 また、彼らは神に祈ることもせずに、感情にまかせて復讐を計ってしまいました。 このことは決して見過ごされることではありませんでした。 人は過ちを犯せばその実を刈り取ることになります。 ヤコブは自分の生涯の終わりの祝福において、長子のルベンは父のそばめと性的関係に陥ったことで長子の権利は認めませんでした。 また、シェケムの若者たちを殺害した第二子のシメオンと第三のレビにも長子としての権利を与えませんでした。 そのためヨセフが長子の権利を受け継ぐことになります。 そのことすらも神の配剤とご…
シェケムのしたことはディナを辱めるような行為だったのは間違いありません。 それで、ヤコブとその息子たちは非常に心を痛めたのです。 けれども、シェケムは自分のした行為の責任を取ろうとしています。 シェケムはディナを愛して優しく語りかけるように変化しています。 そして彼の父はこの件について十分に話し合って解決しようとしています。 自分たちがした間違った行為に誠実に向き合い、彼らなりの後始末の責任を精一杯取ろうとしています。 彼の行動を見る限り、そこまで責められるようなことではないような気もします。 ただ、その責任の取り方と解決法とは、シェケム家とヤコブ家とが互いに縁を結ぶことでした。 これは、とて…
34章には、ヤコブが宿営したシェケムにおける痛ましい出来事について記されています。 聖書にはこのように唐突に悪辣な事件の勃発が脚色なく淡々と事実が記されています。 事の是非は一切述べられていません。 では、この出来事が聖書に記されている意味は何なのでしょうか。 神様の目から見て、神の救いのご計画においてこの34章が置かれている意味は何なのでしょうか。 この出来事を読んだ私たちが単に事の善悪を論じ合う必要はありません。 そもそもこのような問題を引き起こした背景や責任はだれにあるのか、だれが悪いのか、といった犯人探しや問題追求をする必要もありません。 この34章には神の直接的な介入はありませんが、…
ヤコブはエサウの援助の申し出を断って、独自の道を進みました。 エサウが自分の住むセイルに向かって先頭に立って進んでいくからと言ってくれているのに、うまく断ってしまいました。 また、護衛として自分の部下を提供しようとするエサウの申し出もヤコブはやんわりと断わりました。 それはヤコブが自分の歩みを続けていきたいと強く願っていたからにほかなりません。 自分を兄の保護のもとに自分を置きたくなかったのでしょう。 自分の歩むべき旅を自分と自分が引き連れている者たちのペースに合わせて責任をもって導いていくことを願ってのことでした。 彼らにあわせてゆっくりと進んで行くことを表明したのが、「ナーハル」נָהַל…
【「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」 エフェソの信徒への手紙 2:6-9 新共同訳】 クリスチャンの生活は、歩くことから始まるのではありません。 座ることか ら始まります。クリスチャンの起源は、キリストと共に…
ヤコブが伯父ラバンのもとを逃げるように離れ、自分の故郷に帰ろうとしたとき、兄エサウのことを思い出し、意識して恐れたことは当然だったでしょう。 元々、エサウの怒りから逃れてラバンの元に身を寄せたわけですから。 二人は、ヤコブがエサウのもとに自分が故郷に帰ることを知らせたことによって再会を果たすことになります。 32章では、エサウが知らせを聞いて、ヤコブを迎えるために四百人の者を引き連れてやってきました。 考えてみると、そのような大勢の者を引き連れてくることは尋常ではありません。 なぜそんな大勢の者を引き連れてきたのか、聖書には書かれていないので、理由は定かではありません。 想像するしかありません…
「ある人」を通して、神はヤコブをここで徹底的に取り扱おうとしました。 「ある人」はヤコブに「あなたの名は何というのか」と言いました。 ヤコブが自分を「ヤコブ」と言うことの背景には神の意図が隠されています。 ここで問われている「名」とは存在の本質を意味します。 ヤコブの本性、本質、性格、考え方、生き方、これまでしてきたすべての行為の源泉ともいうべきものを含んだもの、それが「名」です。 「おまえの名は何というのか」とい問いは、「あなたという存在、あなたという存在の本当の正体はいったい何か」という問いかけなのです。 その問いに対して、ヤコブは自分を「ヤコブ」と答えました。 一見、当たり前のように思わ…
「恐れ」とは私たちの内面にある最も根深い病巣です。 私たちのすべての思考と問題行動は、この「恐れ」から生じていると言って良いでしょう。 ヤコブはかつてエサウを騙した問題において、贈り物を与えることで解決しようとしました。 そこには、ヤコブの中に宿っていた恐れが深く関わっていました。 恐れとは、自分の生存と防衛の保障を揺り動かすほどの力を持っています。 この箇所に登場する「ある人」は、そんな彼を救うべく現れたと思われます。 多くの財産を持ちながらも、それによって平安や安心を得られず、恐れに支配されてしまっているヤコブを救うために、この存在が必要でした。 そのために「ある人」が遣わされたのでしょう…
ヤコブは恐れのゆえにラバンのもとから逃げるようにして出ていきました。 32章では、さらに次なる試練に会うことになります。 ヤコブをさらに追い詰めた恐れと直面することになるのです。 32章の前半は兄エサウに対する恐れのゆえに、前もって使者(複数)を送ったことが書かれています。 エサウが四百人を引き連れて迎えに来ると聞かされた時、その恐れは頂点に達しました。 7節にはヤコブが「非常に恐れ、心配した」と記されています。 そこで、ヤコブは主にエサウの手から自分を救い出してくれることを必死の思いで神に祈っています。 そうしてから、おびただしい数の家畜の贈り物を、三つの群れに分けて先に行かせています。 エ…
神の介入によって事は大事に至りませんでした。 ラケルが父の大切にしていたものを盗んだことを知ったラバンは7日の道のりをかけて追跡してきたのです。 しかしそれが見つからなかったことで、ヤコブは義父ラバンに対して、はじめて口答えをして、これまでのありとあらゆる不満をぶちまけることになりました。 ヤコブの憤慨した思いが、露わにされたのです。 一方、ラバンも彼なりの自分の言い分がありました。 娘たちは自分のもの、子ども(孫)も自分のもの、ヤコブの家畜の群れも自分のものだと考えているわけです。 それをあたかも相続財産として仕方なく娘たちと孫たちに与えるかのような発言が為されています。 つくづく、人間は自…
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