福音のイロハから順番に紹介していきたいです。<br>また、聖書の御言葉の深い味わいを共有できたらと願っています。
2箇所の学びのクラスの記録と 聖書の詳しい解き明かしを中心に記事を書いています
レビ記には、5つの捧げ物について詳しく書かれている。 1️⃣「全焼のいけにえ」(焼きつくす捧げもの) 「全焼のいけにえ」となる家畜(「ベヘーマー」בְּהֵמָה)は「若い雄牛」、あいるは「雄の子羊」「雄やぎ」「鳥」です。 若い雄牛は家畜の中で最も高価なささげものでした。 「鳥」(「オーフ」עוֹף)は貧しい人たちのささげものです。 「山鳩」か「家鳩のひな」に限定されます。 「全焼のいけにえ」の霊的な意味は「献身」と「服従」です。 しかもそれは「全き献身」「全き服従」を意味します。 神に対して自らを聖別する(神の所有とする)と同時に、この世から聖別する(分離する)ことを意味しています。 しかも…
いよいよ、創世記最後の章です。 ヨセフ物語の終結であり、次の出エジプト記へとつながる重要な連結部分です。 ヨセフ物語の終結は、ヨセフ自身の言葉で終わっています。 ヨセフの兄たちが「夢見る者がやって来る。今こそ・・・あれの夢がどうなるかを見ようではないか」(37:20)と言ったことに対して、神がそれにどう答えたかを記しているのです。 「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして。多くの人々を生かしておくためでした。」(50:20)というものです。 その「良いことの計らい」とは神のご計画の遂行を述べたものです。 けれども、それは通過…
その生涯の最期に、ヤコブは息子たちを呼び寄せて、最後の力を振り絞って祝福をしました。 呪いのことばを語られた息子たちもいます。 「終わりの日に」息子たちに起こることが預言されています。 そのすべてが啓示されているわけではありませんが、かなりの部分においてその内容は成就していきます。 祝福の順を見ると、最初の4番目までと最後の11, 12番目は正当な出生順ですが、後の6人の祝福の順は無作為になっています。 妻のレアから生まれた息子たち6人を祝福し、そのあとでレアとラケルのそれぞれの女奴隷たちから生まれた息子たちの4人を、そして最後にラケルから生まれた2人の息子が祝福されています。 ヤコブの最愛の…
聖書の世界での「長子の権利」とは、「長子」、つまり、最初に生まれた子ども、第一子に与えられる特権です。 ヤコブは双子の弟として生まれました。 実際の長男はエサウです。 ですから、エサウに長子の特権が与えられています。 これは一人だけに与えられる特権です。 ヤコブはこの権利が自分にないのですが、どうしてもその権利が欲しいと思ったのです。 一方、兄のエサウはその権利に固執することもなく、関心もありませんでした。 その権利に感謝して大事に思うということもなく、今、自分が欲しいと思うものに目が行っていた人でした。 要するに、エサウは長子の権利をないがしろにしていたのです。 ところが、それを与えられない…
死んだと思っていたヨセフが生きていることを知ったヤコブは、ヨセフに促されて一族郎党(66名)を引き連れてエジプトへ赴きます(46:26)。 何百キロにも及ぶ道のりの移動は大変な一大事プロジェクトでした。 すべての家畜と共に移動する大変さは想像に難くありません。 かつて、ヤコブは神に伯父のラバンの住むパダン・アラムからベテルに戻れと語られた時、到着するまで10年ほどの期間をかけています。 膨大な時間をかけた、ゆっくりとした旅でした。 しかし、今回は飢饉に襲われ、避難する旅です。 そんな悠長な余裕はありませんでした。 ヤコブ(イスラエル)にとっては、初めて訪れることになるエジプトへの移動であり、不…
創世記45章ではヨセフ物語において最も感動的なシーンです。 ユダの熱心な弁明にヨセフは感極まってしまったのです。 そこでヨセフは初めて「私はヨセフです」と自分の身を明かしました。 兄たちとヤコブの反応がそれぞれ紹介されています。 前者の兄たちの反応は、「私はヨセフです。父上はお元気ですが」との問いかけるヨセフを前にして、「驚きのあまり、答えることができなかった」というものでした。 驚きと恐れ、そして不安が入り混じった複雑な心境だった様子が浮かんできます。 一方、後者の父ヤコブの反応は、最初、息子たちの言うことが信じられず、「ぼんやりしていた」というものでした。 おそらく、茫然自失のような状態、…
44章ではユダの言動が重要なポイントとなります。 ユダはこの章を契機に神の救済的歴史において頭角を表わす存在となります。 ここには、ユダがイスラエルの全家の指導者的存在、メシア(ユダの獅子)の系譜へとつながっていく出来事が記されています。 44章でも強意形をまとめて置きたいと思います。ヨセフと兄弟たちとの間における計らいや言動にそれが見られます。 1節 ヨセフは執事に(命じ)た。(共同訳) 2節 ヨセフ 「それから、わたしの杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れて(満たして)おきなさい。」 執事はヨセフが命じたとおりにした。」(共同訳) 3節「夜が明けると…
【「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」」(ヨハネによる福音書 9:41 新共同訳)】罪とは、自分が(霊的に)盲目なのに、それに気付きもせず、認めもせず、神に立ち返ることもせず、神の助けも御心も求めないで、神から遮断された状態のことです。 【「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書 5:3-4 新共同訳)】反対に、自分は(霊の)目が見えていないから、イエス様の救いが必要だ…
43章では、いよいよヨセフとベニヤミンの劇的な再会します。 この章でも登場人物にそれぞれ強意形の動詞が以下のように使われています。 9節 ユダ が 自分がベニヤミンの責任を取ることを父に伝えた 14節 ヤコブは、神が2人の息子を送り返してくれるようにと祈る。 19節 兄弟たちは、ヨセフの家に案内されて恐る恐る家令に語った 26節 28節 兄弟たちはヨセフを拝して平伏した 30節 ヨセフはベニアミンにあった後、急いで席を外した 30節 ヨセフはベニヤミンに会って胸が熱くなり、泣きたくなった 上記の太字の箇所に強意形が使われています。 ベニヤミンをエジプトに行かせることによって彼の身に不幸が起こる…
パロが夢で示された通りに、エジプトおよびその周辺にも飢饉が訪れました。 初めて経験する飢饉にヤコブの息子たちは困惑状態に陥りました。 このまま何も策を弄さないでいるならば、餓え死にするしかないと案じ、たヤコブは息子たちをエジプトまで行かせようとしました。 エジプトまでは400キロもあり、息子たちは躊躇しました。 食糧を手に入れて帰ってくることは、とても難儀なことです。 それでも、何もせずに手をこまねいていたら、一家で飢え死にしてしまいます。 族長のヤコブはエジプトに行けば穀物を手に入れることを知って、息子たちにエジプトに行って穀物を買ってくるように言いつけました。 ころが、溺愛している一番下の…
エジプトに未曽有の大飢饉が来る前に、ヨセフはエジプトの宗教を司る祭司の娘アセナテと結婚しました。 そして、二人の子どもが与えられています。 その二人の名前は、ひとりは「マナセ」、もうひとりは「エフライム」です。 それぞれの名前には深い意味が込められています。 それまでのヨセフの人生に、神がどのように関わってくれたかを証しするものでした。 二人の子ども名前にはヨセフの信仰心が表されています。 妻にはユダヤの神への信仰はなかったのですが、妻の宗教感覚に感化されることなく、ヨセフの信仰はしっかりと確立していました。 子どもの名前を呼ぶごとに、いつでも神のことを思い起こすことができるようにしたのです。…
ヨセフは、パロの夢を解き明かして、その上 、危機に備えて具体的な提言をしました。 そのことによって、エジプトの首相に抜擢されるという 想定外の物語が展開されます。 2年間の沈黙を経て、ヨセフにチャンスが到来します。 それはエジプト王パロが夢を見、それを解き明かす者がだれもいなかったためでした。 この41章に書かれている動詞の強意形をピックアッフしてみましょう。 4者の登場人物にそれぞれ強意形が使われています。 1. 夢を見たパロ 41章は「それから二年の後、パロは夢を見た」(1節)ではじまります。 パロは二つの夢を見たのですが、心が不安になりエジプト中の呪法師とすべての知恵ある者たちを呼び寄せ…
創世記40章で、ヨセフが入れられた監獄は侍従長(護衛長)のポティファルの家にある牢獄です。 ということは、ヨセフはポティファルの管轄から離れたわけではなかったのです。 しかも、エジプトの王の献酌官長(給仕役)と調理長官(料理長)の二人が過ちを犯したということで、ヨセフと同じ監獄に入れられてしまったのですが、侍従長のポティファルは、ヨセフをこの二人の世話係に任命したのです。 一時、ポティファルは妻の告発を聞いて怒り、ヨセフを牢獄に入れはしましたけれども、ヨセフの持っていた管理能力を見抜いていて、彼を用いたのです。 40章では、ヨセフに与えられている「管理能力」と彼に本来的に備わっている「夢を解き…
39章からヨセフの物語が始まります。 39章の中には二つの舞台が設定されていますが、そのどちらにも、「主はヨセフとともにおられた」(2, 21節)と「主が彼とともにおられた」(3, 23節)というフレーズが使われています。 「主が・・・とともにおられる」とは何を意味するのでしょうか。 39章ではヨセフが主が祈ったという場面も、主が直接的にヨセフに現われて何かを語った場面もありません。 それでも、神の臨在はヨセフとともにありました。 その祝福が如何に現実に現されるのかが記されています。 一人一人の登場人物に注目して見ていきたいと思います。 ヨセフ ヨセフが主人ポティファルの行為をやったことで、主…
創世記38章には、ユダとその家系の話が記されています。 ユダは、ヨセフを殺すよりはイシュマエル人に売ったほうが得だと他の兄弟を説得し、ヨセフの命を救った人物です。 ユダはヤコブの第四子で、ユダの家系はやがてメシアを生む家系となります。 ダビデの家系につながり、イエス・キリストへとつながります。 マタイの福音書の第1章のイエス・キリストの系図には、「ユダに、タマルによって・・が生まれ・・」とあります。 ユダは、ユダ王国、およびユダヤ人という民族のルーツなのです。 このルーツであるユダには創世記38章に記されているような自慢にもならないような出来事が起こりました。 そのことが包み隠さず書き留められ…
主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。 主のみ名をほめたたえよ。(詩篇113:1) もろもろの国よ、主をほめたたえよ。 もろもろの民よ、主をたたえまつれ。(詩篇117:1) 主をほめたたえよ、主のみ名をほめたたえよ。 主のしもべたちよ、ほめたたえよ。(詩篇135:1) 気持ちが、塞ぎ、気落ちする時 その原因に心当たりがあるならば 御霊の導きを乞い願い 対処していただくが良い 心当たりがないならば 賛美せよ 主を賛美せよ 主は素晴らしい 主は完全 主は良いお方 主にのみ救いがあり 癒しがあり 力と知恵がある 誉れと栄光は 永久に主のもの 主だけを見上げよ
【[ヨハネの福音書 17:3] 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。】 知ることは、御言葉、御国の奥義を知ることでもあり、実際にイェシュアを味わい知ることでもあるから、イェシュアご自身を慕い求めることと、御言葉を尋ね求めること、両方が大切ですね。 御言葉の真意を読み解くこと、御言葉に秘められている神の御心と神のご計画を探り求めることは非常に大事です。 同時に、御言葉に込められている御心を実際に体験的に味わうことも大事ですね。 その為には、御言葉の意味を尋ね求めることと、実際にイェシュアの御顔の光と輝きを受けるべく、主を慕い求めるこ…
【[ガラテヤ人への手紙 5:17〜26] 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしまし…
エレミヤ書 6:16 新共同訳 [16] 主はこう言われる。 「さまざまな道に立って、眺めよ。 昔からの道に問いかけてみよ どれが、幸いに至る道か、と。 その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」 しかし、彼らは言った。 「そこを歩むことをしない」と。 エレミヤ書 29:12-14 新共同訳 [12] そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 [13] わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 [14] わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやった…
【[詩篇 51:8] 楽しみと喜びの声を聞かせてください。 そうすれば あなたが砕かれた骨が喜びます。】 私たちの霊的な歴史が進んでいく中で、神の私たちへの関わり方は常に深くなっていきます。 奥へ奥へ奥へと神は進まれ、奥底に触れると、私たちの心の深みで真実を与えてくれます。 神は私たちの職業、教義、思い込み、自負、幻想、そして、習慣など、全て無用なものとして切り捨てます。 ここには単なる形式主義などありません。 この中にユダヤ教の儀式はなく、外向けの儀式典礼をただ守ることも、そこにはありません。 全く違います。 それは、最も深い奥深いところにある存在、心の内とまっすぐに向かっていかなければなり…
【[ダニエル書 11:32] 彼は、契約に対して不誠実にふるまう者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う。】 働きを続けるために、あなたは信者の大会や教師たちに、大きく頼っているのではな でしょうか? あなたは、最後に仕入れた材料を使い切ってしまい、何か、新鮮なネタを 手に入れなければいけないと感じていて、そのために会合に出席し続けるのですか? そ れとも、あなたは、「自分の神を知っている』がゆえに、人の支えから完全に解放され て、栄誉ある孤立という場所に置かれたのでしょうか? そうなれば、サハラ砂漠の真ん 中に取り残されたとしても、心配することはありません。…
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12章9節) 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」 (ピリピ4章13節) この2つの御言葉つなげてみるならば、「私の力は弱いけれども、神は強いのでどんなことでもできる」というふうになるけれども、神は私たちが願ったり、祈ったとしても、決して御心以外のことを成就させる事はなさらないですよね。 どんなに私たちが熱心に祈ったとしても、それが結果的に私たちのためにならないようなことであれば、神様が私たちの願いを叶えてくれるなんて事はないんですよね。 今までの人生を振り返ってみる…
【[コリント人への手紙 第一 8:6] 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。】 救いとは、ただ、魂を助け出すだけではなく、その魂を、キリストの完全さへと向かう 道に乗せることでもあります。 本当にみ言葉と御霊の中にある務めの全ては、この目的に 支配されています。 そして、ただ救われて、そこに留まるだけでは、み言葉の目的を果た すことはできず、聖霊の活力を十分に得ることもありません。 『主の働き』と呼ば…
【エレミヤ書 4:3 、4 (新共同訳) [3] まことに、主はユダの人、エルサレムの人に 向かって、こう言われる。 「あなたたちの耕作地を開拓せよ。 茨の中に種を蒔くな。 [4] ユダの人、エルサレムに住む人々よ 割礼を受けて主のものとなり あなたたちの心の包皮を取り去れ。 さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに わたしの怒りは火のように発して燃え広がり 消す者はないであろう。」】 この御言葉は、良い地に種を蒔く喩えにも通じると思いました。 良い地とは、イエス様の土台で、イエス様ご自身だと思います。 イエス様以外に良い地はあり得ないと思います。 けれども、イエス様を土台として据える前に、砕か…
【[イザヤ書 48:10] 見よ。わたしはあなたを錬ったが、 銀のようにではない。 わたしは苦しみの炉であなたを試した。】 悩みの炉は信仰によってキリストの中にいる者たちのためにあります。 悩みの炉の中では何が起こるのでしょうか。 火の中で変えられるものとは一体何でしょうか。 火の中で練られるのはあなたや私でしょうか。 あなたは火の中で練られるのでしょうか。 私は悩みの炉の中で練られるのでしょうか。 違う、絶対にそうではないと私は言いたい。 もし、『そのとうりだ!』と言うのなら、悩みの炉、るつぼの中の金属を溶 かす炎を見てみましょう。 あなたはその金属をどうするのですか。 あなたはこう言うでし…
【[ピリピ人への手紙 4:13] 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。】 とどまるとは、どういうことでしょう。 キリストのうちにとどまることは、これまでに 何度も言ってきたように、私たち自身の中にとどまることの反対です。 自分自身の中にと どまるとは、この生活、あの主への奉仕を、自分自身の力だけで行おうと試みること、 それを行うことを助けてくださいと主にひたすら願うだけで、神を満足させた主のいのちが既に完成されたことも、信仰こそがキリストにある完成を助けることも認めようと しないことです。 キリストのうちにとどまるとは、ただ単純に、何をするにしても、何を 満たすにし…
[ローマ人への手紙 12:3,4,5] 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。 私たちは主の御体の一部です。私たちの受けている苦しみの多くは、私たちのせいで起こっているのではありません。神の子供たちが受ける苦しみの多くは、彼ら自身過ち、彼ら自身の欠点とは全く何の関係もあ…
【[ヨハネの福音書 1:29] その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。】 世の罪とは何のことでしょう。それは高慢です。 あなたはそう思わないかもしれません。 ですが、もう一度思いを巡らして、罪と呼ばれるものの根源は全て高慢にさかのぼると言うことができるのではないか考えてみてください。 罪とは高慢が形を変えて現れたものではないかと考えてみてください。 高慢とは何でしょう? それは自我が命を持って立ち上がり、動き始めたものなのです。 これこそ高慢の根であり、高慢から生じる実なのです。 妬み貪欲、怒り、そしてその他たくさんの実が高慢から生じます…
【[テサロニケ人への手紙 第二 1:9] そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。】 主イエス様はただ、人の救済者、人の取り分の守り手として、この世界に来られたので はありません。 私たちは、主の願いがこの宇宙でもっとも偉大なものであること、神の 全ての関心は贖いにあること、そして、私たちの心がただ願いだけに占められているべ きであることを、強く示していただいて、これを信じるように導かれなければなりませ ん。 贖いとは、とても大きなことです。 その大きさは、どれだけ誇張してもしすぎること はありませんし、私たちが、いつか…
【[ヨハネの福音書 10:25〜30] イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、 あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはで…
【[ヤコブの手紙 1:4] その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。】 神が私たちを訓練する道に対して、私たちが取る態度は2つである。 1つはそれをただ苦しく不快で厳しいものと受け取ることであり、もう1つはその鍛錬によって私たちが大きくなり、その鍛錬を経て成長し、能力を広げ、自分をより広い場所へ導いてくるべき時代に、世界を統治する主の知性に溢れた道具のなるためにそれを受け入れることです。 人生の歴史に入り込んでくるものの、深い意味を常に正しく測ることはできませんが、そのことを通して、主は民を成熟した段階へ導くのです。 民もま…
[ヨハネの手紙 第一 1:5] 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。 光は透き通っています。 光は清らかさです。 光とは絶対的な純粋さです。 光とは誠実さです。 光は何も隠さず、その動作と性質は何かを隠すことと、あらゆる面で正反対です。 そこに隠すべきものは、何もなく、全てをあらわにし、全てが現れます。 言葉を変えれば光は偽ることがありません。 何も覆い隠すことを望まず、また何かを見せかけたり、実際とは違う姿と思わせることもしません。 光はただ一つだけのものであって、二重のものではなく、光には裏表がありません。 そして光は正しいも…
【[ルカの福音書 18:27] イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」】 すべてはこの1つのことにかかっています。 (すなわち見せかけ通りに単純なことですが、)もしキリストが臨在すれば、それは神が臨在するということに他なりません。 その瞬間には何でも起こり得るということです。 あなたはいつか人生がもっと良くなる日が来ることを信じて待っているのでしょうか。 その日が来るかどうかは決して時間の問題ではなく、主の問題なのです。 主は言われます。 「わたしは同時に時間であり、永遠でもあるから、あなたは時間に縛られる事は何一つ受け入れなくても良いのです。 わたしを受け入れなさい…
【[マラキ書 3:6] 主であるわたしは変わることがない。 そのため、ヤコブの子らよ、 あなたがたは絶え果てることはない。】 暗闇の権威は、私たちにとってもはっきりした現実です。 これまでも経験してきたように、この権威に屈服してしまえば、私たちはそこでおしまいです。 敵は暗闇の権威をもって私たちの生活に入り込もうとしますが、この侵害の前に屈服し、降参して受け入れてしまえば、私たちは敗北します。 私たちが主のものであれば、キリストは内におられ、キリストは何にも勝るものですから、キリストを全く感じなくても、または前向きな気持ちを持てなくても、私たちはやはり前に進まなければなりません。 これが自分に…
[マタイの福音書 11:29] わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 キリスト者に課せられた、大きな課題はキリストを学ぶことです。 これはただ学習する課目ということではありません。 お尋ねしたいのですが、あなたの人生で最も大きな願いはなんですか。 私の願いと同じでしょうか。 私の心の中の何よりも大きな願い、-長く生きれば生きるほど強くなっていく願いとは、イエス様を理解することです。 主のことでわかっていない事は私にはまだまだたくさんあります。 私は主のことになるとすぐにたくさんの問題にぶつかりま…
[イザヤ書 55:8,9] 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、 あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。 ──主のことば── 天が地よりも高いように、 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 何に対しても、神の思いは、私たちの思いとは全く違うものです。 私たちはよく、神なら ば決して許さないことも、許してしまいます。 神は、ものごとを、まったく違った視点から見ています。 私たちがものごとを判断する基準と、神が判断される基準は異なっていま す。 神の視点に立つことが必要です。 『ああ、』人は、こんなふうに言います、『あのこ と、このこ…
【[雅歌 2:7] エルサレムの娘たち。 私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。 揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。 愛がそうしたいと思うときまでは。】 7節は花婿が語るリフレイン(反復句)です。 というのは、2章7節の他に、3章5節、および8章4節にも繰り返されているフレーズだからです。 繰り返されているということは、そのことが重要だからです。 愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではありません。 「この人を絶対に愛して行きます。永遠に愛して行きます」と口で言ったとしても、そうすることはできないのです。 愛には「目ざめ」(主体性・自発性)が必要なのです…
【[ヨハネの手紙 第一 5:20] また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。】 主の子供たちにとって、何よりも大切なのは、彼らが主を知ることこそが、他の全てにまさる主の目的であると完全に理解することです。 これこそ、主の私たちへの関わりの全体を支配する最終目標であるといえます。 これが私たちのすべての必要の中で、最も大きなものです。 私たちの心が奉仕と働きでいっぱいになってしまうことはよくあります。 主のために何かをすることを人生の主…
【[使徒の働き 3:6] すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」】 新しい天的なイスラエルに属する者とは、自分の利益を追い求める心から解放されて、神の利益を願うようになった人々であり、彼らは足にイエス・キリストによる霊的な履物をつけて、私と共に進む道を力強く歩いています。 五旬節の日の後に行われた第一の奇跡がエルサレムの宮の門で生まれつきの足萎えの男を立ち上がらせたことだったのは、非常に象徴的なことだったと思いませんか。 美しい物語を集めて1冊の興味を引く読み物を作ろうとしたわけではないのです。…
【[コリント人への手紙 第二 13:4] キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。】 神の働きの世界に、何よりも大きな傷を与えるものの1つ、いずれは必ず恥と混乱と大きな悲しみへと導きくものとは、生まれたままの魂の力です。 この力に頼って生きようと勧めているのは、強いい意思と堅い決心を持った積極的なキリスト教徒たちなのです。 けれども、彼らはまだ断固とした不屈の意思、個人的な決意、決断とこれとは根本的に違う別の力、すなわち忍耐、粘り強さとなる霊的な恵みや…
【[ヤコブの手紙 1:4] その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。】 神が私たちを訓練する道に対して、私たちが取る態度は2つである。 1つはそれをただ苦しく不快で厳しいものと受け取ることであり、もう一つはその鍛錬によって私たちが大きくなり、その鍛錬を経て成長し、能力を広げ、自分をより広い場所へ導いてくるべき時代に、世界を統治する主の知性に溢れた道具のなるためにそれを受け入れることです。 人生の歴史に入り込んでくるものの、深い意味を常に正しく測ることはできませんが、そのことを通して、主は民を成熟した段階へ導くのです。 民もま…
[詩篇 113:1〜4] ハレルヤ。 主のしもべたちよ ほめたたえよ。 主の御名をほめたたえよ。 今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように。 日の昇るところから沈むところまで 主の御名がほめたたえられるように。 主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。 神を賛美するということは、大抵のクリスチャンが理解している以上にはるかに重要なことです。 何度も繰り返される「主を賛美せよ」という命令には理由があります。 賛美がご自身の子供たちに及ぼす影響を神はご存知なのです。 ですから、1度ならず、何度も何度も賛美の言葉を発するように神はご自身の子供たちに命じておられます。 落胆の言…
【[ヨハネの福音書 6:53] イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。】 この道は、肉にとって生まれたままの人間にとっては非難を浴び続ける道であることを覚えておきましょう。 ユダヤ人たちは、この人はどのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのかと言って互いに議論し合いました。 しかし、それはユダヤ人たちだけではなく、宗教的に自己満足し切っていた敬虔な人たちも論じ合いましたし、また、こうも書かれています。 「そこで、弟子たちのうちの多くのも者がこれを聞いて言った。「これは…
【[コロサイ人への手紙 1:27] この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 私たちは天におられるキリストと信者の中にいるキリスト、その両方について語ることの大切さを感じています。 すなわち、客観的な見方と主観的な見方についてです。 真実の適切な釣り合いを保つ事はこの上もなく重要です。 私たちが抱える問題の非常に多くは、真実のある1側面だけを不釣り合いなほど誇張するために起こっています。 真実を知るのは良いことであり、また真実の中で喜ぶのも良いことである。 とは言え、真…
【[ローマ人への手紙 8:13,14] もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 】 【[コリント人への手紙 第一 3:1] 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。】 (今日はこの肉に属する人と 御霊に属する人について考えてみたいと思います。) 神は激しく肉と対立されます。なぜなら神は肉の実際の状態を知っておられるからです。 神の目的は、 信者が全く旧創造から自由に…
【[ガラテヤ人への手紙 2:20] もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 [ローマ人への手紙 6:6] 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。 】 聖書は、わたしたちがわたしたちを十字架につけるように とは言いません。 むしろ聖書は、わたしたちは十字架につけられた者である、と言っているのです。 なぜ なら、わたしたちが自分自身で十字架につ…
【[ヨハネの福音書 14:27] わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。】 それは単なる平安ではありません。 「わたしの平安」です。 神が私たちに下さる平安は 単なる平安ではなく、「神の平安」です。 【[ピリピ人への手紙 4:7] そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。】 私たちは物事がうまくいかなくなる と心を騒がせます。 しかし、私たちはそうではない何かを理解するべきです。 神はこの世を ご自身…
「詩篇73章 新約聖書の福音とその救い という事柄全体は、私たちをここに(詩篇73に)至らせるためのものにほかならない。 私たちが他に何を持っていようと、他に何と云うことができようと、ここに至るま で決して満足してはならない。 これが目当てである。 これが福音と救いの目標である。 これに及ば ない何かで満足することは、それがいかに良いものであれ、ある意味で、福音そのもの を否定するに等しい。 というのも、福音全体の偉大で壮大な目的または目標は 、私たちをこの特定の立場に至らせることだからである。 「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものは ない。わが身とわが…
【[ローマ人への手紙 8:13,14] もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 】 【[コリント人への手紙 第一 3:1] 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。】 (今日はこの肉に属する人と 御霊に属する人について考えてみたいと思います。) 神は激しく肉と対立されます。なぜなら神は肉の実際の状態を知っておられるからです。 神の目的は、 信者が全く旧創造から自由に…
(律法は旧約聖書でのことだけではなく、 今も律法主義としてクリスチャンを縛っています。 『〜してはならない、〜しなければならない』のように クリスチャンの心に働きかける敵の囁きがあるのです。 今日は、律法と恵みについて考えててみたいと思います。) パウロによってもたらされたものは恵みが全てです。 恵みが新しい契約の全てです。 新しい契約は律法についてではありません。 教会では確かに私たちが聖なる者であることについては語ります。 聖なる者になっているということは、神の似姿になるということです。 そして私たちが聖なるものであるべきなのは間違いありません。 しかし、私たちは自分の力では聖なる者にはな…
【[使徒の働き 20:22] ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。】 【[使徒の働き 21:4] 私たちは弟子たちを探して、そこに七日間滞在した。彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。】 わたしたちの働き、行為、信仰、教えは、肢体との関係の支配を受けなければなりません。 使徒パウロはエルサレムへの最後の旅行で、この間違いに陥りました。 神が彼の最高の使徒に間違いをすることを許されたのは、わたしたちを教えるためです。 パウロの間違いにおいて、神は特にあわれみ深 く彼を覆われました。 この間違…
オーステインスパークスの文章より (彼はウオッチマンニーの親友でした) 「【(主は)より頼んでいるあなたがたには尊いものです。(第一ペテロニ・七)】 もし、あなたや私が、自分は他の人より多くの光が当てられ、より多くの啓示を受けて いると主張したらどうでしょう。 もちろん、そのような主張は決してするはずもあり ません! しかし、私たちが、そのことは明白で、それだけの価値があると考えてい たら。 人から見て、私たちの中には他の者よりキリストがいると思えるでしょうか? 神は、自分が御子よりも前に出ることをしないし、神ご自身が理論や、教えや、教理や啓 示と呼ばれるものへと動くことは、決してありません。…
【「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」 エフェソの信徒への手紙 2:6-9 新共同訳】 クリスチャンの生活は、歩くことから始まるのではありません。 座ることか ら始まります。クリスチャンの起源は、キリストと共に…
父に命ぜられて、ヨセフは兄たちの羊の群れを搜しに行きました。 ところが兄たちは直ぐには見つかりませんでした。 そこで、ヨセフは足を伸ばして、シェケムの北にあるドタン(ヘブロンから80~100km)までやってきました。 ここでは、ヤコブがなんとしても兄たちを「捜そう」とすることが強調形で表されています。 ヨセフの兄たちはヨセフを良く思っていなかったので、ヨセフを見つけた時、「夢見る者がやっとくる」と言って、悪巧みをしました。 ヨセフを殺すことを計ったのです。 しかし、そこで、長男のルベンが介入が入りました。 ルベンは、そんなことをしてはいけないと彼らを止めて、救い出そうとして穴に入れることを提案…
37章にはヨセフが見た夢が2回記されています。 そして、それは後に現実んものとなります。 預言的な夢だったわけですね。 神がヨセフに見せた夢であったのです。 父に溺愛されていたヨセフを兄弟たちは憎んでいたのに、輪をかけて、ヨセフ優位な夢を披露されて、ますます彼を憎むようになります。 2番目の夢を自慢げに語られた時、妬みは頂点に達します。 兄弟たちの思いを考慮しないで語るヨセフの態度を見ていたヤコブは彼に注意喚起しました。 同時に、この夢のことを心に留めていました。 「心に留める」と訳されたヘブル語は「シャーマル」です。 本来は、守る、保つ、見張る、気をつけるという意味です。 「シャーマル」は、…
この章より創世記の最後まで「ヤコブの家の歴史」が記されていきます。 特にヨセフを中心とした物語が展開していきます。 37章2節の「ヤコブの歴史」とは、ヤコブ本人というよりもむしろ、ヤコブの子どもたち、特に、ヨセフの歴史が中心に記されています。 そして最後(49、50章)はヤコブの死と葬りについて記されて締め括られるという形になっています。 ヤコブがエジプトに行ったのは130歳の時でした。 ヤコブの一生は147歳なので、エジブトで過ごした年月は17年間です。 その間、エジプトへ行くまでヤコブの家族にどんなことが起こったのかが37~50章に書かれています。 ヤコブは他の兄弟たちのだれよりもよりもヨ…
創世記36章にはエサウ系図とセイルの系図が記されています。 アマレクを産んだ母ティナムとは、エリファズのそばめであえい、セイルの長ロタンの妹です。 セイルの家系図とは、アマレクに関連したものです。 ここには、子孫の名前(部族)が記されているだけの系図が羅列されているだけなのですが、注意深くみていくと、そこにはイスラルエの歴史とどのようなかかわりをもっているかが見えてきます。 エサウの子孫の中で、特に注目すべきは、「アマレク」です。 アマレクは父エリファズのそばめであった母ティムナから生まれました。 父エリファズには、正妻の子どもが5人もいました。 こうした家庭環境がアマレクに対して与えた影響は…
35章は内容豊富です。 ほかにも、息子ルベンの姦淫、イサクとの再会とイサクの死と葬りといったさまざまな出来事があります。 しかし35章で最も重要な出来事とは、神がヤコブに対して再度、明確な祝福の継承を約束したことでした。 アブラハム、イサク、そしてヤコブへと流れる祝福の継承について、改めて約束が与えられています。 神の恩寵的な導きによってなされていくことが示されています。 35章では救済史的約束の更新について記されています。 元々、28章13節15節でヤコブに神からヤコブに約束が語られました。 これは、救済史的な約束で、みな強意形で記されています。 なによりも神の約束の確かさを強調しています。…
ヤコブはシェケムを旅立って、ベテルに行きました。 さらにエフラタ(後のベツレヘム)を通って父イサクのいるヘブロンに向かって行きました。 ベテルを旅立ってから、ラケルの出産がありましたが、ひどい難産でした。 男の子を出産した後でラケルは死んでしまいました。 ラケルはこの子の名前を「ベン・オニ」(私の苦しみの子、悲しみの子という意味)と名づけました。 しかし、父ヤコブがこの子の名を「ベニヤミン」と改めました。 ヤコブは自分の息子達の名前に携わったのはこのときだけでした。 聖書はヤコブの最愛の妻ラケルの死について淡々と記しています。 けれども、ヤコブの最後の息子の名を「ベニヤミン」と改名したことの中…
前の章には、ヤコブの娘ディナの陵辱事件による事の顛末が記されています。 ヤコブは息子たちの思慮の足りない行動により、自らの立場が危うくなり、行き詰まりの状況に陥ってしまいました。 そんなとき、神はヤコブに語りかけました。 「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」(1節)と。 息子のシメオンとレピの限度を超えた残虐な復讐によって、いまにもシェケムの人々からの憎悪による復讐が起きかねない状況でした。 そんな危機的状況下にあって、ヤコブは、神のことばに従ったのです。 ヤコブの一行がシェケムを「旅立つと、…
復讐は人のくだすべきものではなく、神の為さることです。 そのことをヤコブの息子たちはまだ学んでいませんでした。 また、彼らは神に祈ることもせずに、感情にまかせて復讐を計ってしまいました。 このことは決して見過ごされることではありませんでした。 人は過ちを犯せばその実を刈り取ることになります。 ヤコブは自分の生涯の終わりの祝福において、長子のルベンは父のそばめと性的関係に陥ったことで長子の権利は認めませんでした。 また、シェケムの若者たちを殺害した第二子のシメオンと第三のレビにも長子としての権利を与えませんでした。 そのためヨセフが長子の権利を受け継ぐことになります。 そのことすらも神の配剤とご…
シェケムのしたことはディナを辱めるような行為だったのは間違いありません。 それで、ヤコブとその息子たちは非常に心を痛めたのです。 けれども、シェケムは自分のした行為の責任を取ろうとしています。 シェケムはディナを愛して優しく語りかけるように変化しています。 そして彼の父はこの件について十分に話し合って解決しようとしています。 自分たちがした間違った行為に誠実に向き合い、彼らなりの後始末の責任を精一杯取ろうとしています。 彼の行動を見る限り、そこまで責められるようなことではないような気もします。 ただ、その責任の取り方と解決法とは、シェケム家とヤコブ家とが互いに縁を結ぶことでした。 これは、とて…
34章には、ヤコブが宿営したシェケムにおける痛ましい出来事について記されています。 聖書にはこのように唐突に悪辣な事件の勃発が脚色なく淡々と事実が記されています。 事の是非は一切述べられていません。 では、この出来事が聖書に記されている意味は何なのでしょうか。 神様の目から見て、神の救いのご計画においてこの34章が置かれている意味は何なのでしょうか。 この出来事を読んだ私たちが単に事の善悪を論じ合う必要はありません。 そもそもこのような問題を引き起こした背景や責任はだれにあるのか、だれが悪いのか、といった犯人探しや問題追求をする必要もありません。 この34章には神の直接的な介入はありませんが、…
ヤコブはエサウの援助の申し出を断って、独自の道を進みました。 エサウが自分の住むセイルに向かって先頭に立って進んでいくからと言ってくれているのに、うまく断ってしまいました。 また、護衛として自分の部下を提供しようとするエサウの申し出もヤコブはやんわりと断わりました。 それはヤコブが自分の歩みを続けていきたいと強く願っていたからにほかなりません。 自分を兄の保護のもとに自分を置きたくなかったのでしょう。 自分の歩むべき旅を自分と自分が引き連れている者たちのペースに合わせて責任をもって導いていくことを願ってのことでした。 彼らにあわせてゆっくりと進んで行くことを表明したのが、「ナーハル」נָהַל…
【「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」 エフェソの信徒への手紙 2:6-9 新共同訳】 クリスチャンの生活は、歩くことから始まるのではありません。 座ることか ら始まります。クリスチャンの起源は、キリストと共に…
ヤコブが伯父ラバンのもとを逃げるように離れ、自分の故郷に帰ろうとしたとき、兄エサウのことを思い出し、意識して恐れたことは当然だったでしょう。 元々、エサウの怒りから逃れてラバンの元に身を寄せたわけですから。 二人は、ヤコブがエサウのもとに自分が故郷に帰ることを知らせたことによって再会を果たすことになります。 32章では、エサウが知らせを聞いて、ヤコブを迎えるために四百人の者を引き連れてやってきました。 考えてみると、そのような大勢の者を引き連れてくることは尋常ではありません。 なぜそんな大勢の者を引き連れてきたのか、聖書には書かれていないので、理由は定かではありません。 想像するしかありません…
「ある人」を通して、神はヤコブをここで徹底的に取り扱おうとしました。 「ある人」はヤコブに「あなたの名は何というのか」と言いました。 ヤコブが自分を「ヤコブ」と言うことの背景には神の意図が隠されています。 ここで問われている「名」とは存在の本質を意味します。 ヤコブの本性、本質、性格、考え方、生き方、これまでしてきたすべての行為の源泉ともいうべきものを含んだもの、それが「名」です。 「おまえの名は何というのか」とい問いは、「あなたという存在、あなたという存在の本当の正体はいったい何か」という問いかけなのです。 その問いに対して、ヤコブは自分を「ヤコブ」と答えました。 一見、当たり前のように思わ…
「恐れ」とは私たちの内面にある最も根深い病巣です。 私たちのすべての思考と問題行動は、この「恐れ」から生じていると言って良いでしょう。 ヤコブはかつてエサウを騙した問題において、贈り物を与えることで解決しようとしました。 そこには、ヤコブの中に宿っていた恐れが深く関わっていました。 恐れとは、自分の生存と防衛の保障を揺り動かすほどの力を持っています。 この箇所に登場する「ある人」は、そんな彼を救うべく現れたと思われます。 多くの財産を持ちながらも、それによって平安や安心を得られず、恐れに支配されてしまっているヤコブを救うために、この存在が必要でした。 そのために「ある人」が遣わされたのでしょう…
ヤコブは恐れのゆえにラバンのもとから逃げるようにして出ていきました。 32章では、さらに次なる試練に会うことになります。 ヤコブをさらに追い詰めた恐れと直面することになるのです。 32章の前半は兄エサウに対する恐れのゆえに、前もって使者(複数)を送ったことが書かれています。 エサウが四百人を引き連れて迎えに来ると聞かされた時、その恐れは頂点に達しました。 7節にはヤコブが「非常に恐れ、心配した」と記されています。 そこで、ヤコブは主にエサウの手から自分を救い出してくれることを必死の思いで神に祈っています。 そうしてから、おびただしい数の家畜の贈り物を、三つの群れに分けて先に行かせています。 エ…
神の介入によって事は大事に至りませんでした。 ラケルが父の大切にしていたものを盗んだことを知ったラバンは7日の道のりをかけて追跡してきたのです。 しかしそれが見つからなかったことで、ヤコブは義父ラバンに対して、はじめて口答えをして、これまでのありとあらゆる不満をぶちまけることになりました。 ヤコブの憤慨した思いが、露わにされたのです。 一方、ラバンも彼なりの自分の言い分がありました。 娘たちは自分のもの、子ども(孫)も自分のもの、ヤコブの家畜の群れも自分のものだと考えているわけです。 それをあたかも相続財産として仕方なく娘たちと孫たちに与えるかのような発言が為されています。 つくづく、人間は自…
30章の後半はヤコブの財産がいかにして増えていったかについて記されています。 叔父ラバンとの駆け引きとヤコブの巧妙な策略が表されています。 ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてださい。」と言いました。 「去らせて」と訳された動詞は「シャーラハ」の命令形です。 悪い意味では「追い出す」、良い意味では「送り出す、遣わす」という意味があります。 ここでのヤコブの言葉は、後者の意味でラバンが好意的に、配慮をもって自分を故郷に送り出して欲しいと強意形で語っています。 ヤコブはここでラバンに好意的な関係の中で自分を故郷に送り出してほしいと言っているのです。 その申…
レア自身の胎から生まれたのは6人で、ラケルは2人です。 レアは夫の愛を勝ち取ることはできませんでしたが、産んだ子どもの数では圧倒的にラケルに勝っていました。 以上のように、嫉妬による出産合戦によって生まれ出た12人の息子たちは、やがてイスラエルの12部族となりました。 やがて、主の救いの歴史の担い手となっていきます。 彼らの存在は妬みと執念の結実です。 家庭環境は決して良いものではなかったでしょう。 母親同士の確執の中で育った子どもたちでした。 そうであったとしても、12人の男児を授かったのは、すべては神のご計画の中にあったことだったのです。 後に、イエス・キリストが生まれる部族はヤコブが愛し…
レアも負けてはいませんでした。 女奴隷ジルパを使ってさらに二人の子をもうけました。 ⑺七男のガド 「幸運が来た。」 ⑻八男のアシェル 「なんと幸せなこと、女たちは私を幸せ者と呼ぶでしょう。」 レアのこの言葉はは、自分がかなり優位に立ったことを誇示している表現です。 なぜなら、「幸せ者と呼ぶ」と訳された原語は「アーシャル」で、誰もが私を幸せを認めたと言う意味です。強意形が使われています。 ラケルとの子作りの戦いで自分が優位に立ったことをだれもが認めてくれるに違いないと自分の心に強く言い聞かせているのです。 しかしその裏には夫の愛を今だ勝ち得ていない不安が隠されているようにも思えます。 レアとラケ…
「ブログリーダー」を活用して、susudanmaduさんをフォローしませんか?