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  • アニエス・ヴァルダ『落穂広い』拾い合う落穂

    アニエス・ヴァルダによる2000年作『落穂広い』について。「落穂拾い」とは収穫されずに残った食べ物を拾う人を指す言葉であり、この映画では「落穂拾い」を捨てられたもの、使われないもの、つまり社会的に有用でない、価値のないものを拾う人々として、アニエス・ヴァルダが現代における落穂拾いを探していく。ここで、落穂拾い自身も撮られてこなかった存在、つまり落穂であり、そのような人々を撮るアニエス・ヴァルダも落穂拾いであると言う構造を持っている。そのため、現代社会における落穂拾いの人々についての映画であると同時に、落穂拾いとしてのアニエスヴァルダという作家自身についての映画にもなっている。

  • アニエス・ヴァルダ『冬の旅』空洞の街

    アニエス・ヴァルダによる1985年作『冬の旅』について。夏の間はヴァカンスで賑わう街が舞台となっているが、季節は冬である。ヴァカンス地で冬も暮らしている人々は逃避先がない、つまり同じ場所で同じ生活を続けるしかない人々である。そのような街の人々として、トルコ系移民や元ヒッピーの夫婦、ガソリンスタンドの労働者、冷め切った仲の夫婦やカップルが登場する。主人公と出会う街の人々はその主人公の自由に移動する生き方に対して憧れる一方で、自身の定住的な生活を守るように拒絶する。自分たちのできないその生き方に対して、自分たちの生き方を正当化する。

  • シャンタル・アケルマン『囚われの女』解体されるハードボイルド

    シャンタル・アケルマン監督による2000年作『囚われの女』について。主人公は愛しているなら嘘をつかないはずという前提を持っていて、それに対して彼女は互いに知らない部分を残すからこそ愛することができると考えている。彼女の言動の不一致が彼女は自分を愛していないんじゃないかという疑惑に繋がり、「彼女は自分を愛しているふりをしているのではないか」という陰謀を追う主人公によるハードボイルド映画のような形になる。その彼女の主人公に見せていない部分が陰謀の潜む裏の世界となる。

  • シャンタル・アケルマン『私、君、彼、彼女』における君=彼について

    シャンタル・アケルマン監督による1974年作『私、君、彼、彼女』について。3パートに分かれた映画。1パート目の最後で、主人公がレッドライトストリート(ヨーロッパの風俗街)のような一面がガラス張りになった1階の部屋にいたことがわかる。段々と裸になる時間の増えていく主人公はこのパートでは一方的に見られる側へと回っていく。

  • ポール・トーマス・アンダーソン『リコリス・ピザ』直線的な移動が象徴するもの

    ポール・トーマス・アンダーソン監督による2021年作『リコリス・ピザ』について。広告が主軸としておかれており、この映画で描かれるアメリカにおいては芸能人や商品のPRとして自己増殖していく擬似イベントが根付き切っている。理想がイメージに置き換えられ、そのイメージを作りあげるためにはカテゴライズが必要となる。そしてイメージが目的となるため、カテゴライズに伴う差別的な言動も当たり前のように存在している。

  • エリック・ロメール『シュザンヌの生き方』日常における支配

    エリック・ロメール監督による1963年作『シュザンヌの生き方』について。パッとしない主人公がおり、その親友は主人公を自分より下の存在として見下し利用している。しかし、主人公はそれを認めない。利用されているという事実を自分自身からも隠蔽している。親友はシュザンヌという女性を同じように利用しており、それを主人公は認知している。そのため、主人公にとってはシュザンヌと同じ位置に自分をおくことが、親友にとって自分が下であり利用されているという事実を認めることに繋がる。

  • エリック・ロメール『モンソーのパン屋の女の子』決定論と自由意志

    エリック・ロメール監督による1963年作『モンソーのパン屋の女の子』について。主人公はルーティンを持っていて、その中でいつもすれ違う女性に対して執着している。その女性が急に現れなくなったことで、その女性を探すための新しいルーティンを作り出す。その新しいルーティンの中でパン屋を見つけ、そのパン屋で働く女の子に新しく執着するようになる。そして、同じ日にその二人への執着が叶えられることによって、主人公はどちらかを選ぶことを迫られる。

  • エリック・ロメール『ベレニス』無意識に乗っ取られる理性

    エリック・ロメール監督による1954年作『ベレニス』について。変化のない屋敷に壮年期まで住み続けたことで、夢想することによってその屋敷から幻想へと逃避する主人公。その逃避は、屋敷の何かについて偏執的に分析(瞑想)することによって行われる。

  • 『トップガン マーヴェリック』トム・クルーズによる映画製作の継承

    ジョセフ・コシンスキー監督による2022年作『トップガン マーヴェリック』について。マーヴェリック=トム・クルーズとしてトップガンに絡む過去の関係性を清算しつつも自身の映画製作を次世代へと継承していく映画となっている。

  • 『ソー:ラブ&サンダー』ヴァイキングと国家 / アイデンティティの再獲得 / 続編に向けて

    『ソー:ラブ&サンダー』は何を語ろうとしていたのか。神と人間、そしてローマの神とヴァイキングの神という対比、そしてソー及びアスガルドのアイデンティティの再獲得を軸に、続編がどういう話になるかを含めて書いています。

  • バズ・ラーマン『エルヴィス』雑感

    映画全体のナレーターがエルヴィスプレスリーのマネージャーとなっていて、そのマネージャーの病床での回想という形で映画が始まる。そのマネージャーはエルヴィスプレスリーを搾取していてその死の原因もそのマネージャーにあると考えられていることが語られる。その後、原因は本当にマネージャーだったのか、そうでないなら原因は何だったのかをサスペンスとして見せていく形で映画が進む。 そして、その後そのマネージャーがサーカスの見せ物としてエルヴィスプレスリーを見出し、そして見せ物として支配し搾取していく過程が見せられる。映像としては序盤からエルヴィスプレスリーの視点へと切り替わっていくのに対して、マネージャーが搾取していたことが明確になってからもナレーターはマネージャーのままとなっている。 エルヴィスプレスリーが囚われ搾取されていく過程が映像によって語られるのに対して、認知の歪んだ状態のマネージャーによるナレーションが付けられた映画となっていく。さらにナレーターは最後までマネージャーのままなので、マネージャーの認知の歪みについての映画のように感じる。マネージャーの「エルヴィスプレスリーを殺したのはファンやあなたへの愛だ」みたいなナレーションで映画が締められるけど、明確に原因の一つとして描かれていて、さらに信頼できないナレーターと化したマネージャーがそれを言うことで非常に複雑な気持ちになった。そもそも映画で描かれてきたエルヴィスプレスリーの行動原理を表すものはファンへの愛という言葉ではないように感じるし、このナレーションはただのマネージャーの自己正当化ってことなんだろうか。

  • ヨアキム・トリアー『わたしは最悪。』映画として留められる記憶

    主人公は序章で医学から心理学に変え、そこから本屋でアルバイトしながら写真家を志すようになり、終章では職業写真家としてのキャリアを築き始めている。1人目の恋人であるアクセルとの出会いを除けば、序章と終章だけで主人公の客観的な過程は説明されてしまう。それに対して、この映画は主人公が終章に至るまでの内的な過程を描くものとなっている。 劇中で言及されるように、主人公は感情の人であり視覚の人である。主人公は何かを論理的に考えるというよりは、流れに身をまかせてしまう中で感覚的な判断が定まった、啓示を受けたかのように不意に選択を行う。そして、その時に見える空はいつもとは違うものとなっている。その時に得た感情はその時だけのものであり、その感情によって見えたものもその時にしか見れないものであり、記憶したとしてもその人の中にしか存在しない。死ぬ間際のアクセルが言うように、それは死ねば失われてしまうものである(「僕が死ねば記憶の中の君も消える」)。 主人公の主観的な過程をただただ切り取ったようなこの映画は、その主人公のいつかは消えてしまう記憶を永遠に留めようとしたもののように感じられる。そしてその過程において、主人公もまたその瞬間を留めるメディアとして写真を選ぶようになっていく。この主人公の主観をトレースしたような映画の中には、そうなっていくことが痛いほどわかるくらい記憶に留めておきたい瞬間がある。 終章において、主人公はわかりやすく演技をしろという監督の指導の元下手な演技をしてしまった役者のスチール写真を撮る。その時に、その演技する役者ではなく、下手な演技をしてしまったことを悔やんでいるその人、その瞬間にしかないその人の感情を撮ろうとする。それは主人公が映画内で描かれた過程を経て辿り着いたものを象徴するものであると同時に、この映画自体を象徴するものともなっている。

  • バーバラ・ローデン『WANDA / ワンダ』映画的な出来事

    状況に対して何もできず流されるしかない、それに対して諦めていて何の感情も抱いていない、周囲の人間たちから諦めている主人公が映画的な出来事に巻き込まれるようになる。そこで関係性や自身への肯定を得たことによって、その後も変わらない流されることしかできない人生に拒絶感や虚無感を抱くようになるという映画。 映画を見に行ったことをきっかけに、監督という神により作為的に起こされた奇跡のような映画的な展開へと巻き込まれていくという展開。その経験が救いに繋がらず、映画の内外関わらず始まりも終わりもなくただひたすら繰り返されていく受動的な移動。 この映画において主人公は炭鉱夫の妻である、貧困層であり女性であるというところから始まるが、そうじゃなくても違う形で同じような物語を想像できるような感覚がある。親や宗教的な信念の不在は感じられるが主人公の存在に対してそれが決定的な意味を持つこともない。主人公は属性、社会背景によって因果的に生み出されたものではなく、無力さとそれに伴う受動性によって特徴づけられた存在としてそこから独立して存在しているように感じる。 そこに映画内で設定された状況があり、その状況に沿って主人公は動かされ、映画的な出来事の発生を通して宗教や擬似的な父親との出会いを果たし、主人公はそれによって自身と状況に対する因果、物語な意味を見出すようになる。そして主人公は自発的に行動することになるが、それはそれまでの自分とかけ離れたものであり、嘔吐するほど自身の実存を揺るがすものとなっている。

  • ホン・サンス『イントロダクション』抱擁と行間

    3パートに分かれた映画で、自分のことを小さい頃から知っていて自分のことが好きだろう看護師に対する演技の抱擁、そしてドイツでの彼女への本当の抱擁、そして別れた彼女への夢の中での抱擁というパートごとに存在する主人公にとっての意味が異なる抱擁で緩く繋がっている。 主人公は1パート目で父に呼び出された病院で有名俳優と出会い、2パート目ではドイツに留学に出た彼女に会いに行く。3パートでは1, 2パート目での彼女はドイツで別の男と結婚していて、1パート目での抱擁に罪悪感をずっと感じていたのか、演技の抱擁、愛のない抱擁はできないとして俳優を辞めようとしている。それに対して、有名俳優が演技でも抱擁は全て愛だと説教する。そして、主人公は夢の中で別れた彼女を抱擁する。それは演技かどうかはわからないが、愛のように見える。 ズーム含めた滑らかなのに人為的で違和感があるカメラワークが非常に特徴的。表面的には何気ないように見える映像、人物達もほとんど感情を語らないし見せない映像の中で、そのカメラワークの違和感によってその裏にある人物達の内面の揺らぎが映像として表面化してくるような感覚がある。そしてそのカメラワークが滑らかだからこそ、その日常から揺らぎの表出への移行がシームレスになっている。それによって、語られていない何かが映像の中に常に存在しているということを意識させられる。

  • ホン・サンス『あなたの顔の前に』信仰の変化

    主人公は17歳のとき、自殺しようとする直前に目の前に広がる世界が全て美しいものに見えるという宗教的な経験をしたことから、自分の目の前にあるものしか見ない、過去や既に起きたことには目を向けないように自身を律して生きることを決めている。そして、そう生きれるように神に祈り、背いてしまった時には以降そうならないように祈る。ただ、主人公の意識は常に過去への感傷など目の前以外のものへと向いていく。 アメリカから帰ってきた主人公は妹と再会する。妹は夢の世界や過去への後悔や感傷と共に生きる人として主人公と対比的におかれている。妹との会話は買えるかもわからないマンション、互いについて知らないままここまできてしまったことなど、目の前のものではないことについてとなっている。 映画を通して主人公は目の前のものとそれ以外の間を揺らぎ続ける。トッポギをこぼしてしまった後、一度服を着替えに帰ろうとするがそれを起きてしまったこととして諦め、帰ることをやめる。妹との再会を通じて過去への感傷から幼い頃に住んでいた家を訪れるが、その後それを反省する。

  • パトリック・ボカノウスキー『太陽の夢』擬似太陽としての映画

    3パートに分かれた映画のように感じる。1パート目は宇宙、星、太陽が生まれるまで。映写機が現れ、その映写機による投影や合成などによって海のイメージが宇宙、星雲のように見え始める。海から花火へと切り替わり、その花火は星へと変化する。そして、その後に続く落とされた絵の具のシークエンスは太陽の誕生を表しているように感じる。

  • 『ストレンジャー・シングス』 における群衆化への抵抗

    『ストレンジャー・シングス』は主人公達をテンプレ的な人物像から解放するドラマであり、それが大きな魅力となっている。そして、主人公達と対置されるソ連、研究所、そしてS4で登場した陰謀論者達は全体主義的な構造によって共通する。そして、アップサイドダウンの支配者もマインドコントロールによって人々を同質化し支配しようとする。ストレンジャーシングスはそのような人々の群衆化、それに対する全体主義的な支配に対して抵抗するドラマとなっているのではないか。

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