chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 「馬ではない」存在としてのロバ ー イエジー・スコリモフスキ『EO イーオー』

    イエジー・スコリモフスキ(Jerzy Skolimowski)による 2022 年作『EO イーオー』について。 以下、ネタバレが含まれています。 「馬ではない」存在としてのロバ 冒頭、サーカス団で飼われるロバであるEOが、カサンドラと演目を行っているシーンは性的なものにも見えるように撮られている。その後に続く演目中にサーカステントの内側をカサンドラと共にぐるぐると回るEOのショットは、その後に続くサーカステントの外周を一人で回るカサンドラのショットと対応している。外側にはカサンドラの恋人がおり、EOはサーカステントの内側でしかカサンドラと二人になれない。EOとカサンドラの恋人の対比は動物愛護…

  • 暴力としての音 / 着せられた役割 ー オタール・イオセリアーニ『鋳鉄』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1964年作『鋳鉄(Tudzhi)』について。 溶鉱場で働く人々の朝から次の朝までの24時間をドキュメンタリー的に撮った短編で、都市映画の形式を持っている。シチュエーションと構成だけ見れば『鉱』と非常に似ている。同じ時期のイオセリアーニの作品と同様に音がアフレコでつけられており、溶かされ白く光る鉄からは猛獣の鳴き声が発され、溶鉱場の内部には戦場のような爆発音が鳴り響く。溶鉱場内部が戦場であり暴力そのもののように映される。 溶鉱場の煙突から出る煙、溶鉱場に向かう道に整然と植えられた木は、他の作品で登場するジョージアの自然の風景と…

  • 直視される観客 ー オタール・イオセリアーニ『ジョージアの古い歌』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1969年作『ジョージアの古い歌(Dzveli qartuli simgera)』について。 ジョージアの4つの地域での伝統的な多声合唱を記録し、紹介するという立て付けの短編。各地域の多声合唱を背景に、それぞれの地形や他の伝統を映像で見せていくというものとなっている。多声合唱はイオセリアーニの映画で共存のモチーフとして現れるものとなっている。『唯一、ゲオルギア』では共存を可能としてきたのは積み重ねられた伝統や文化であること、ソ連占領下でのシステムの強制によってそれらが破壊されてしまったことが語られる。そのため、地域の伝統、多声…

  • モノクロの過去 ー オタール・イオセリアーニ『エウスカディ、1982年夏』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1983年作『エウスカディ、1982年夏(Euzkadi été 1982)』について。 冒頭、バスク地方の言語がヨーロッパ最古の言語であること、住む人々が言語、伝統を維持し続けていることが語られる。前半はモノクロでバスク地方でのある一日が映される。トラクターなどが導入されつつも非常に伝統的な生活を続けているように見える。しかし、後半唯一の字幕付きのセリフとしてバスク地方の伝統や文化を次の世代に伝承することすら難しいこと、伝承のためにまず文化を愛してもらうこと、そしてその味を知ってもらうことが大切であると語られる。そして、カラ…

  • オタール・イオセリアーニ『群盗、第七章』において主人公は誰を生きているか

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1996年作『群盗、第七章(Brigands, chapitre VII)』について。 主人公は誰を生きているか 中世、ソ連占領下、内戦下の現代という3つの時代のジョージアにおいて群盗である人々を描いた映画。同じ役者が時代に渡って登場し、侵攻、独占、殺戮、裏切りを繰り返していく。どの役柄にも役名が与えられていない。時代の境目は明示されず、連続するショットによって繋げられているため、あたかも並行に起きているように見える。 一部でソ連占領以前、二部でソ連占領下、三部で内戦に至るまでをドキュメンタリー形式で描いた『唯一、ゲオルギア』…

  • 同期する群衆と歯車 ー セルゲイ・M・エイゼンシュテイン『ストライキ』

    セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(Sergei Eisenstein)監督による1925年作『ストライキ(Strike)』について。 同期する群衆と歯車 「団結だけが労働者階級の持つ力だ」というレーニンの引用が表示され「だが...」という文字が工場の歯車へと変容する。それがこの映画の始点となっており、その歯車の回転は映画全編に渡って労働者達の群衆としての運動量と同期している。その運動量はストライキによって資本家の前へと集まっていく時、そして資本家の下にある警察によって一箇所に追い込まれていく時にピークを迎える。そして、それら二つのピークにおいてモンタージュの速度もピークを迎える。労働者、そして…

  • 禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ ー D・W・グリフィス『イントレランス』

    D・W・グリフィス(David Wark Griffith)監督による1916年作『イントレランス(Intolerance)』について。 禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ バビロン編、ユダヤ編、中世フランス編、現代アメリカ編という史実を元にした(と劇中で強調される)4つの物語で構成されているが、中心となるのは紀元前の物語であるバビロン編と現代アメリカ編となっており、ユダヤ編と中世フランス編はそれら二つを繋ぐ役割を担っている。 ”不寛容”である法と体制によって無実の青年が死刑を宣告される現代アメリカ編は、”不寛容”であるユダヤ教のファリサイ派によってキリストが処刑されるユダヤ編と重ねられてい…

  • さらば、荒野よ ー オタール・イオセリアーニ『素敵な歌と舟はゆく』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1999年作『素敵な歌と舟はゆく(Adieu, plancher des vaches !)』について。 さらば、荒野よ 『蝶採り』と同じく、異文化、異なる階級間での関係と断絶についての映画となっているように感じる。豪邸とその近くの街の二つが舞台となっており、体制、監視者であり規律、排除する存在として街には警察が、豪邸には主人公の母親が存在している。 主人公は豪邸の息子で、家では上流階級的な身だしなみ、振る舞いを母親から強制されているが、街では貧困層を演じ、ホームレスや犯罪者とのネットワークを築いている。それと対置されるのが労…

  • 消費される魔法の終焉 / なぜフラハティか ー オタール・イオセリアーニ『そして光ありき』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1989年作『そして光ありき(Et la lumière fut)』について。 あらすじ おそらくイオセリアーニが作り上げたものであろう集落があり、そこでは雨乞いをすれば豪雨が訪れ、切り落とされた首を繋げれば人が生き返るなど、魔法的な出来事が日常的に起こっている。それに対して集落に住む人々は人間的に描かれていて、一日サボって寝てる男もいれば男を巡って殴り合いの喧嘩をしたり、儀式の結果女性を追い出したことに対して儀式の実行者が泣いたりする。集落では電話の代わりに太鼓の音で会話するが、大声の噂話のように聞きつけた野次馬が集まってく…

  • 一つ目の断片は何か ー オタール・イオセリアーニ『ある映画作家の手紙。白黒映画のための七つの断片』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1982年作『ある映画作家の手紙。白黒映画のための七つの断片(Lettre d'un cineaste - Sept pieces pour cinema noir et blanc)』について。 一つ目の断片は何か パリの都市生活を映した映像に『四月』のようにアフレコで音が重ねられている。タイトルに7つの断片とあるが、6つの断章で構成されている。2つ目の断章から始まり、6つ目の後、1つめの始まりを示すショットで終わる。そして、提示された1という数字は横に傾けられ、−となっている。 内容としては当時のパリの都市生活を割と直接的…

  • オタール・イオセリアーニ『トスカーナの小さな修道院』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1988年作『トスカーナの小さな修道院(Un petit monastère en Toscane)』について。 トスカーナの外れに修道院があり、5人の修道士がおそらく古くから伝承されてきただろう宗教儀式を毎日繰り返し、宗教画や書物の修復と維持を行っている。教会や修道院は街から孤立した場所にあり、教会の大きさに対して修道士の数、そこに通う人々の数は少なく見える。 修道院と同列に、狩猟、農耕、祭りなどトスカーナに住む人々の営みが撮られている。静かな雰囲気で統一されているために、狩猟に向かう背中や銃声、豚の解体が暴力的に映る。淡々…

  • 歴史と亡霊、レンブラントの光 ー オタール・イオセリアーニ『蝶採り』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1992年作『蝶採り(La Chasse aux papillons)』について。 歴史と亡霊、レンブラントの光 フランスの古城、所有者といとこを中心にマハラジャ、べん髪のベジタリアン集団、飲んだくれの神父など様々な民族を含んだコミュニティが築かれており、親密なようで嫌いあってもいるような関係性、独自の奇妙で自由な暮らしぶりを成立させている。所有者の一族は女性ばかりで、それは男性達が戦争によって亡くなったからだということがわかる。その古城には一族の歴史が蓄積されており、亡くなった男達が軍服を着て亡霊として暮らしている。 古城を…

  • 共存から内戦へ / 独裁者と信仰 ー オタール・イオセリアーニ『唯一、ゲオルギア』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1994年作『唯一、ゲオルギア(Seule, Georgie)』について。 共存から内戦へ かつて複数の民族、宗教が共存していたジョージアがなぜ内戦へと至ったのかという問いが冒頭におかれ、紀元前からこの映画の編集完了時点である1994年に至るまでの歴史が語られる。 二部でジョージア出身のスターリンと対比的に出てくる人物はエドゥアルド・シェワルナゼで、同じくジョージア出身で、ゴルバチョフの右腕でペレストロイカを進めた人物らしい。ペレストロイカが結果的にソ連の崩壊とジョージアの独立に繋がったので、ソ連のジョージア侵攻を進めたスター…

  • 1921年4月、ソ連占領下のジョージア ー オタール・イオセリアーニ『四月』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1962年作『四月(Aprili)』について。 ソ連のジョージア侵攻が1921年の2月15日から3月17日らしいので、タイトルはソ連の占領下となった1921年の4月を指しているんだろうと思う。 ジョージアの家が、ソ連の作業員によって作り替えられていく。新しい家が建ち、そこに家具が運び込まれていく。その作業音は不快な音として響き、主人公男女の足音は美しい演奏のように響く。それら作業音はジョージアの人々の演奏や発する音を中断させる。主人公男女は作業員達によって阻まれ続けるが、残ったジョージアの木の元で遂に結ばれる。しかし、その木も…

  • 道路を割る花 / ポリフォニー ー オタール・イオセリアーニ『珍しい花の歌』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1959年作の短編『珍しい花の歌(Sapovnela)』について。 ジョージアの山岳風景が映される。そこに咲いていた花が「珍しい花」という商品として温室で人工的に育てられている。温室で育てられた花が、おそらくジョージアのものではない音楽に合わせて踊るように映される。それは踊っているというより踊らされているように見える。それと対比するように、それら花を守るように自然の中で育てる男の姿が映される。その花は伝統的な刺繍模様と重ねられる。夜、不吉な予感と共に男が花と共にうめく姿が映る。そして昼、ジョージアで自生する花がおそらくジョージ…

  • 幸福への適合 ー オタール・イオセリアーニ『水彩画』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1958年作の短編『水彩画(Akvarel)』について。 労働と家事に明け暮れる妻、飲んだくれる夫。疲弊した家庭を追い詰めるように鳴り響くスピーカー。妻の金を盗んで逃げた夫はギャラリーに辿り着く。夫を追うのは妻であり、ソ連によって強いられた近代的な生活でもある。ギャラリーに飾られた絵画、彫刻がその苦悩や叫びと共鳴し、夫を圧倒する。夫は段々と自分が追われていることを忘れ、作品に没入するようになる。そして水彩画に描かれた家が、自分達の家だと確信する。その水彩画は幸福な家庭を描いたものだと解説される。水彩画に描かれた家を見つめること…

  • ジョルジュ・フランジュ『殺人者にスポットライト』における真の殺人者は誰か

    ジョルジュ・フランジュ(Georges Franju)による1961年作『殺人者にスポットライト(Pleins Feux sur l'Assassin)』について。 死期を迎えた古城に孤独に暮らす伯爵は、オルゴール付きの人形と共に鏡の裏に隠された部屋に入って死ぬ。鏡の裏の部屋の存在は誰にも知られておらず、伯爵の死体は誰にも見つからない。伯爵が死の前日にあったことは召使いが証言するが、伯爵が実際に死んだかどうかは誰にも確信されない。そして、その鏡はマジックミラーとなっており、城の中が見えるようになっている。伯爵は鏡の向こうの世界に行き、鏡越しに城に入ってきた人々を監視しているように感じられる。 …

  • 信じられてしまった虚構 ー サッシャ・ギトリ『毒薬/我慢ならない女』

    サッシャ・ギトリ(Sacha Guitry)による1951年作『毒薬/我慢ならない女(La Poison)』について。 スタッフロールの代わりにサッシャ・ギトリが全員の名前を呼びながら俳優やスタッフに感謝してる映像が冒頭に差し込まれており、それによってこれが作られたものであり、演じられたものであることが明示される。 その後続く映画内でサッシャ・ギトリは舞台となる村の神父を演じている。神父は村の人々の罪や殺意の告白を聞くことができるが、それを他人に話すことはできない。その宗教的権力は殆ど失われており、村の人々の生活を覗き見ることはできても、そこに介入することはできない。 神父と同じく村の人々も互…

  • 信仰 / 騎士道としての白 ー ジャン・グレミヨン『白い足』

    ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1949年作『白い足(Pattes blanches)』について。 ブレッソンのキャリア初期と同じ時期にカール・TH・ドライヤーやこの監督の後期の映画があるということにすごく納得感がある。冒頭の空に左下にさがるように広がる暗雲、暗雲に向かうように左へと移動し舞台となる町に入る車のショットに始まり、画面に映る全てに暗い霊感のような何かがあり、その霊感が無意識に対して意識的に鳴らされる異音と共鳴している感覚。三人とも、戦争を背景に信仰のあり方を描いた監督のように思える。 ブルターニュ地方の田舎、丘に建つ古城、その下に広がる港町。その城に代々住…

  • 二つの戦前 / 演じること ー ジャン・グレミヨン『不思議なヴィクトル氏』

    ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1938年作『不思議なヴィクトル氏(L'étrange Monsieur Victor)』について。 ヴィクトルがコメディアンととして登場するが、画面は何かぼやけて閉塞感に満ちている。そこに、殺人のニュースと明らかに異様な雰囲気をまとった3人の男が現れる。ヴィクトルに暗い何かが迫るように見える中、ヴィクトルが悪党へ、3人の男がコメディアンへと反転する。この冒頭から本当に良く、コメディとノアールの間を揺れ動くような非常に不安定な映画となっている。 ヴィクトルは善と悪の二面を持っているというよりも、両方が混濁して存在しているような存在として置…

  • 戦場と生 ー ジャン・グレミヨン『曳き船』

    ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1941年作『曳き船(REMORQUES)』について。 幸福に満ちた船員の結婚式を映すカメラは、ぐるぐると忙しなく回るように移動し続ける。カットも不安定に切り替わり続ける。カメラの移動はなぜか上下に弧を描くように行われる。光に満ちた結婚式のシーンから突如、暗闇の一本道を走り抜けるバイクのショットに切り替わる。音響としても、話し声がホワイトノイズのように心地よく響いていたところを、ジャーっという何か異様な走行音が切り裂くように響く。バイクの到着と共に式場に嵐が訪れ、その嫌な予感からシームレスに、結婚式に出ていた船員達は嵐に巻き込まれた船の救…

  • 運命への報われない抗い ー マックス・オフュルス『永遠のガビー』

    マックス・オフュルス(Max Ophüls)による1934年作『永遠のガビー(Everybody's Woman)』について。 『魅せられて』『忘れじの面影』に共通する、どこにもいけない人物とどこにでもいける人物という対比がこの映画にも存在しており、今回は父親によって家に閉じ込められていた主人公が、最終的には歌手、映画スターとしてその虚像が人々からアクセスできる存在(街中に顔写真が貼られ、虚像としてのバックストーリーが大きく売り出され、「映画館に行けば会える」存在)へと変化していく。しかし、実像としてのガビーは虚像の裏に押し込められ、どこにも行くことができない。 冒頭、スターとなったガビーのマ…

  • 『アントマン&ワスプ:クアントマニア』社会主義 / 革命 / 大衆と独裁者

    『アントマン&ワスプ:クアントマニア』のネタバレがあります。 見た方のみお読みください。 社会主義 / 革命 / 大衆と独裁者 「小さき者」つまりモブ、大衆であるアントマン達が、独裁者であるカーンに対して革命を起こすという話になっている。 トニー・スタークがアメリカの中でも資本主義と科学を象徴する存在だとすれば、その親、ハワード・スタークの冷戦時代のライバルだったハンク・ピムは東側、つまり社会主義国家における科学者を象徴する存在ということになる。だから、ハンク・ピムは当時認められず、親権力的なスターク親子とは対比的に、アメリカにおいて反権力的な存在となっているんだろう。 そして、この映画におい…

  • 内臓手術的体感 ー 小田香『鉱 ARAGANE』

    小田香監督による2015年作『鉱 ARAGANE』について。 『伯林』『カメラを持った男』のような都市映画の形式をもった映画だが、それら映画とは真逆に、機械の運動はリズミカルではなく痙攣的。人間は機械の一部のように同期して動くのではなく、機械に対して外部の存在としておかれている。鳴る音は不快で、特に労働者の振り下ろすハンマーの打音、ダイナマイトによる爆破音は身体的な拒否感を伴って響く。 炭鉱の地上から、労働者と共にその地下へと侵入し、そして出てくるという構成。機械が炭鉱の一部のように撮られており、炭鉱があたかも人間によって一部機械化された一つの生き物であるように感じられる。人間はその生き物のよ…

  • 死へと向かう西洋 ー マックス・オフュルス『忘れじの面影』

    マックス・オフュルス(Max Ophuls)による1948年作『忘れじの面影(Letter from an Unknown Woman)』について。 シュテファン・ツヴァイクの同名小説を原作とした映画。原作において、手紙を読む男は R. という名前で小説家という設定だが、この映画ではピアニストとなっていて、名前もシュテファンへと変えられている。シュテファン・ツヴァイクは、この映画のシュテファンと同じくウィーンを拠点としながら文化人としてヨーロッパの国々を転々とする生活を送っていて、『昨日の世界』という、幸福だった時代を描いた回想録を書き、1942年にヨーロッパの進む先に絶望し自殺したと言われて…

  • 蜃気楼としての過去、砂漠としての未来 / 大いなる存在の介入 ー ジャン・ルノワール『ランジュ氏の犯罪』

    ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1936年作『ランジュ氏の犯罪(Le crime de Monsieur Lange)』について。 出版業界の大物バタラは詐欺のような方法で人々から金を巻き上げている。バタラはフリッツ・ラングにとってのドクトル・マブゼのような、悪を象徴する存在となっている。同時に、バタラは魅力的な存在としても描かれていて、人々から女性をも奪っていく。そして、自分に惚れた女性を自身の利益のための道具として利用する。 舞台はアパートであり、そこにはランジュの務める出版社があり、ヴァレンティーナが洗濯業を営んでいる。殆どのシーンがアパート内部であり、基本的に空間が狭…

  • 精神性を抜かれたフロンティアスピリット ー ジャン・ルノワール『南部の人』

    ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1945年作『南部の人(The Southerner)』について。 精神性を抜かれたフロンティアスピリット 「こいつら嫌いだわー!」って思いながら嫌々撮ってる感が映像から溢れ出してるように感じたけど、どうなんだろう。映画全体が嫌味というか、表面的なメッセージとは真逆のことを言おうとしているように見える。映像、プロット共に表面だけ空虚になぞったフォード映画って感じ。精神性を抜かれたカウボーイ、フロンティアスピリット。 生き生きと撮られる動物達に対して、オブジェのように静的に撮られる俳優達。そのセリフも作り物のように棒読み。物語の展開も強引で、いく…

  • イメージと現実の狭間で ー ジャン・ルノワール『浜辺の女』

    ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1946年作『浜辺の女(The Woman on the Beach)』について。 イメージと現実の狭間で 元海軍である主人公は魚雷で船を破壊される夢を見続けている。翻訳では省略されていたが、海沿いの町の警備隊員である主人公は自身のことをビーチカウボーイと自虐する。主人公は馬に乗り、その町の砂浜に打ち上げられた小さな難破船の元へと通い続けている。主人公は船を破壊され浜辺に打ち上げられてしまった海のカウボーイとして設定される。海軍にいた時の主人公にとっての馬は船であり、難破船は主人公と共に浜辺に打ち上げられたもののように見える。しかし、その夢が主…

  • 反復と不可逆な変化 ー アンドレ・テシネ『証人たち』

    アンドレ・テシネ(André Téchiné)による2007年作『証人たち(The Witnesses)』について。即興的に撮られたような映像とは対照的に、物語構造や人物設定は非常に構築的なものとなっている。 反復と不可逆な変化 この映画は、春から夏、秋から冬、マニュの死後の春から夏という3パートに分かれている。春から夏は幸福の時代としておかれていて、メディやアドリアン達のコミュニティにマニュが現れる。マニュはこのパートでは生を求め、性愛をもたらす存在となっている。秋から冬は戦争の時代としておかれていて、エイズが流行り始める。誰よりも早くエイズにかかったマニュは死を求め、エイズ=死の恐怖をもた…

  • ジャック・ベッケル『偽れる装い』における装うことの持つ意味

    ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1945年作『偽れる装い(Falbalas)』について。 装うことと映画監督 ファッションデザイナーであるフィリップは彼にとってのミューズを探し続けている。ミューズと見做した女性を見る時、フィリップは現実世界のその女性を見ているのではなく、その向こうに存在するイデアを幻視している。そして、フィリップは理想世界にあるその存在を現実のものとして捉えようとするかのように服をデザインする。フィリップが服を作っていくに従い、ミューズは現実化されていく。フィリップの作った服を着た女性はミューズへと変容されていき、そしてフィリップを愛するようになる。し…

  • 『エドワールとキャロリーヌ』の姉妹作としてのジャック・ベッケル『エストラパード街』

    ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1953年作『エストラパード街(Rue de l'Estrapade)』について。 『エドワールとキャロリーヌ』との比較 話の骨格や緩いリズム感含めて『エドワールとキャロリーヌ』とほとんど同じ映画。『エドワールとキャロリーヌ』では貧しい音楽家であるエドワールが上流階級出身のキャロリーヌと夫婦であり、そこに第三の男として上流階級の男であるアランが現れる。それに対して、この映画ではキャロリーヌ役だった俳優がおそらく同じく上流階級出身だろう他の男と結婚していて、そこにエドワール役だった俳優が現れるという設定になっている。『エドワールとキャロリー…

  • リズムのズレと断絶 ー ジャック・ベッケル『エドワールとキャロリーヌ』

    ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1951年作『エドワールとキャロリーヌ(Edward and Caroline)』について。 リズムのズレと断絶 上流階級出身のキャロリーヌと貧しいピアニストのエドワールは仲が良さそうに見えて、価値観が全く噛み合っていない。エドワールは物を必ず決められた場所に仕舞うが、キャロリーヌはその時々で仕舞う場所を変える。クラシック音楽を好み、服の好みも古いエドワールに対して、キャロリーヌはラジオから流れるポピュラー音楽、流行のファッションを好む。エドワールが大切にしまっている辞書は、キャロリーヌにとっては鏡で服装を確認するための踏み台となっている…

  • 迷宮、パリ、獅子座 ー エリック・ロメール『獅子座』

    エリック・ロメール(Eric Rohmer)による1959年作『獅子座(The Sign of Leo)』について 迷宮、パリ、獅子座 音楽家志望で40歳を間近にした主人公は未だにモラトリアムにあり、自分から何かを解決しようとしない。それは主人公が占星術を信じその結果に従っているからで、出来ることは友人に頼ることだけであり、だからこそその人生の行き先は運、そして友人の行動によってのみ決まる。主人公は40歳になって初めて幸運か不運かがわかると占われている。 パリで生まれ育った主人公はパリを嫌っており、金が入れば田舎に住むことを決めている。パリを嫌うのは主人公の星座である獅子座が見えないからで、占…

  • 2020年、東京郊外のスナップショット ー 三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』

    ボクシングジムの会長の体調の悪化に対して医師は、変化が目に見えるようになればそれは既に手遅れであること、変化は落ちた雨粒が石に穴をあけていくように、少しずつ見えない形で進行していくことを伝える。 音が凄まじく作り込まれた映画となっている。音が空気の振動だとすれば、この映画における音はその表現力によって、噂話や壁越しに聞こえてくる怒鳴り声だけでなく、熱量や緊張、不安など、その場に漏れ出た感情による空気の揺れをも伝える。そして、カメラは固定されほとんど動かない。あたかも定点観測するように、2020年東京都郊外荒川近く、ケイコの限られた行動範囲における、目には見えない形で進行する変化をその空気を捉え…

  • フィル・ティペット『マッドゴッド』を読み解く

    難解なフィル・ティペット(Phil Tippett)による2022年作『マッドゴッド(MAD GOD)』の内容を読み解いていきます。ネタバレがあまり関係ない映画ではありますが、気になる方は見た後に読んでください。 繰り返されるバベルの塔 この映画の監督が実写映画における特殊効果の第一人者であること、この映画においてあらゆる時代の実写映画が引用されていることを考えれば、冒頭に映されるバベルの塔は実写映画の塔だと考えられる。アルケミストが上の世界の監督の送ったアサシンの記憶を覗き見た時、そこに映されるのはアサシン達が他の人間を殺戮していく映像となっている。それは、特殊効果を使った映画がその他過去に…

  • アトラクション性と光 ー オードレイ・ディヴァン『あのこと』

    オードレイ・ディヴァン(Audrey Diwan)による2021年作『あのこと(Happening)』について。 シンプルな物語構造によってサスペンスを維持する、『ゼロ・グラビティ』のようなアトラクション映画であり、そのアトラクション性によって中絶が違法だった時代のフランスで妊娠した学生の孤独な戦いを観客に体験させる映画。ロングショットかつ長尺ワンカットの撮影によって、カメラが主人公の主観と同期したような映像になっていて、さらに主演のアナマリア・バルトロメイの演技が凄まじく、その発する感情や感覚、意志をも主人公と一体化したかのように体験させられる。 中絶が合法化される1975年以前のフランスが…

  • 上演され続ける傷の記憶 ー アラン・レネ『メロ』

    アラン・レネ(alain resnais)による1986年作『メロ(melo)』について。 夫婦であるピエールとロメーヌの元にマルセルが訪れる。マルセルは有名なヴァイオリン演奏家で、同じくヴァイオリン演奏家であるピエールとは若い頃からの親友である。マルセルは二人に、自分が嘘に対するトラウマのようなものを持っていることを話す。それは過去、コンサートで恋人に向けて演奏しているその最中に、恋人が浮気しているところを見たが、恋人は浮気していないと嘘をついた経験によるもので、演奏中に浮気を目撃したマルセルは、そこから目を逸らすように音の中に沈み、盲目になろうとしたと語る。最後に現れるのがピエールの従姉妹…

  • 性愛の原風景、規範の確立 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアン・ナイト』

    生の三部作最終作として『デカメロン』『カンタベリー物語』に続く作品。これら前二作がイタリア、イギリスと舞台を変えつつも原作の書かれた時代、同じ14世紀を描いたものだったのに対して、この『アラビアン・ナイト』はその数世紀前が舞台となっている。これら三作が共通したテーマを描いていることを考えれば、これは『デカメロン』『カンタベリー物語』で描かれた状況の前日譚のような作品となっている。 作品を遡れば、パゾリーニは『愛の集会』において、カトリック社会は家族を最小単位として構成されていること、そしてその家族に対してカトリック的な性規範、姦淫の禁止を課し同質化することで成立していることを性についてのインタ…

  • 苛烈化する支配、フィクションによる復讐 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『カンタベリー物語』

    ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』をベースとした映画で、『デカメロン』に続く生の三部作二作目。 イギリス、カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼旅行、旅行を楽しむために参加者達が語った話を、そこに居合わせたパゾリーニ演じるジェフリー・チョーサーが、自室で物語として書き起こしていく。パゾリーニ=チョーサーが「冗談が真実を含むこともある」と話すように、『デカメロン』と同じくコメディックな物語のコンピレーションのようでありつつ全体として現代社会を描いたものにもなっている。原作はボッカチオ『デカメロン』に着想を受けて書かれたものらしく、途中チョーサーがデカメロンを読んでサボっているシーンはそれを表して…

  • 性愛の抑圧、フィクションによる解放 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『デカメロン』

    ボッカチオ『デカメロン』を下敷きにした生の三部作一作目。 時代は原作と変わらず14世紀のまま、舞台はナポリに変更されている。ナポリは『愛の集会』で描かれたように、貧困層が多くを占めイタリア・カトリック社会によって搾取されてきた土地だ。『愛の集会』では彼らがカトリック社会による性の抑圧から解放されることを望む姿が描かれるが、この映画におけるナポリの人々もまた、カトリック教会によって搾取され性を抑圧されている。この映画は『愛の集会』において描かれた現実のナポリの人々を、時代を14世紀に移し現実ではなくフィクションの中で語り直そうとしたものだと考えられる。時代設定としてはジョットの生きた時代、つまり…

  • フレームの外へ向かう運動 / 内からの祈り ー 山崎樹一郎『やまぶき』

    冒頭、黒い画面にやまぶきの花が咲くように描かれる。その絵に重なるように山が映されるが、その山は開発されやまぶきは枯れている。劇中語られる通り、やまぶきは田舎にしか咲いていないような日陰でしか育たない花であり、一面砂と石の広がる、日光を遮るもののない開発された土地では育つことができない。警察官の父親と二人で暮らす女子高生、やまぶきもまた田舎の日陰でしか生きることのできない存在となっている。 舞台は岡山の田舎町であり、この映画のフレーミングは常にそれを表すように窮屈で狭い。そして、町の外で起きることは決してフレームの内には映されず、その外の話として登場人物から言及されるのみだ。いわば、この映画のフ…

  • アメリカ文化、工業化とイタリア社会『イタリア式奇想曲』

    工業化が進み、イギリスを経由してアメリカ文化が若者を中心に受容された当時のイタリア社会についてのオムニバス。原題は「わがままなイタリア資質」みたいな意味になるんだろうか。パゾリーニの短編が非常に真っ直ぐに美しく、またトトの最後の出演作でもあるらしい。 マリオ・モニチェッリ『子守』 子守が子供達の読んでいたコミックを悪魔的、犯罪的であるという理由で取り上げ人食い鬼の童話を読み聞かせるが、童話の方が悪魔的、犯罪的で、その恐ろしさに子供達が泣いてしまうという作品。 ステーノ『日曜日の怪物』 トト演じる女性を欲望的に見る老人が主人公で、女性は主人公を選ばず若者は選ぶ。若い男性への嫉妬、そこからくる嫌悪…

  • 五月革命、そして愛の終わりについてのオムニバス『愛と怒り』

    五月革命、そして愛の終わりについてのオムニバス。最後に置かれたマルコ・ベロッキオの作品が直接的に五月革命渦中についてであり、その前のゴダールの作品が五月革命もしくは愛の終わる瞬間について、ベルトリッチがより大きく愛のある世界の終わりについて、パゾリーニとカルロ・リッツァーニはそれ以降の愛の失われた世界についてという形で、全体としてみれば作品が進むごとに五月革命に向けて時間を遡っていく構成となっている。五月革命=愛というわけではなく、愛、和解の可能性を信じられた最後、一つの理念に向けた団結の可能性が信じられた最後が五月革命の時期と言う方が近いのかもしれない。ゴダールの作品は『気狂いピエロ』の語り…

  • ゴダール、パゾリーニ、ロッセリーニ、そしてオーソン・ウェルズと世界の終わり『ロゴパグ』

    1963年作、世界の終わりについてのオムニバス映画『ロゴパグ(Ro.Go.Pa.G)』。物、機械として非人間化されていく人々という主題で共通し、扱われるテーマは精神分析、労働、核兵器、消費。ゴダールとグレゴッティの作品がシンプルで一つの問題意識に絞られ、それを始点として今後それが深められ複雑化されていくような印象なのに対して、パゾリーニのものはカオスで、複数の主題が同時に存在している印象がある。ロッセリーニのはその中間にある感覚。パゾリーニとロッセリーニは映画へのメタ的な言及で共通する。 ロベルト・ロッセリーニ『潔白』 アルフレッド・アドラーの、日常的に不安に直面する、愛含む個人性を失ってしま…

  • イタリア社会に関するオムニバス『華やかな魔女たち』において現代の魔女たちはどのように描かれたか

    中編の間に短編を挟み込んだ5話構成のオムニバス映画。全ての作品でシルヴァーナ・マンガーノが魔女として現れるが、魔女をどう解釈するかは作品によって違っている。おそらく魔法=アメリカとして、現代生活に適応した新しい女性像が魔女として置かれているのだろう。基本的にブラックコメディで、女性を軸とした現代社会批判のようになっている。5話全部面白く、特に短編二つの速度と密度が凄まじい。 ルキノ・ヴィスコンティ『疲れ切った魔女』 原題は『生きたまま焼かれた魔女』。魔女=セレブリティ=商品として、現代を舞台にして魔女裁判を描いたもの。人気モデルである主人公は、友人の婚約10周年のパーティに出席する。そこで主人…

  • カトリック社会による規範、その抑圧 ー ピエール・パオロ・パゾリーニ『愛の集会』

    ピエール・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)監督による1965年作『愛の集会(Love Meetings)』について。 この映画が公開された1965年時点、イタリアでは離婚が法的に認められておらず(制約の元認められるのが1970年)、1958年のメルリン法によって売春婦に対する搾取が犯罪になり、娼館が廃止されている。 イタリア社会はカトリック教会の影響を強く受けており、結婚する女性は処女でないといけない、結婚後は家の中にいて一人で外に出てはいけないといった、女性の自立を認めない社会通念、規範が存在する。離婚もまた、教会婚姻と矛盾するため認められない。その社会の在り方は…

  • 映画によって捉えられた虚構の死 ー ダニエル・シュミット『書かれた顔』

    ダニエル・シュミット(Daniel Schmid)による1995年作『書かれた顔(The Written Face)』について。 坂東玉三郎が歌舞伎の舞台裏へと入っていく、その舞台で演じている人物もまた玉三郎である。ここから舞台を終えた玉三郎の白塗りが落とされるまで、この映画の冒頭は溝口健二の残菊物語を模したものとなっている。それはあたかも、玉三郎が歌舞伎の世界に入り今の姿へと至るまで、残菊物語に重ねれば菊之助が父親のようになるまでを同じシークエンスの中で映し出したもののように見える。 玉三郎は女形を演じる男性であり、玉三郎は女性の身振りを客観的に観察しそれを体得することでそこに近づこうとした…

  • カルポ・ゴディナ『アイ・ミス・ソニア・へニー』監督達はどのようにソニア・へニーを撮ったか

    カルポ・ゴディナ(Karpo Acimovic-Godina)監督による『アイ・ミス・ソニア・へニー(I miss Sonja Henie)』(1971年 ユーゴスラビア) について。 カルポ・ゴディナが何人かのディレクターに「I miss Sonja Henie」というフレーズを含んでいる短編を、全員共通のアングル、ロケーション(画面の下半分を占めるベッドのある部屋、左側に玄関の見える廊下、右側にキッチンに続く窓)で3分以下という制約で撮らせて、それを繋ぎ合わせたもの。若い頃のフレデリック・ワイズマンも参加している。 「I miss Sonja Henie」は Peanuts のセリフからと…

  • まなざしについての物語『シー・ハルク:ザ・アトーニー』を読み解く / MCUはマルチバース・サーガで何を物語ろうとしているのか

    ※ 『シー・ハルク:ザ・アトーニー』『ロキ』のネタバレを含みます 舞台設定 視線の変容 ハッピーエンド / クライマックス カーン=KEVIN 関連記事 舞台設定 冒頭、初めての最終弁論を控えたジェニファー・ウォルターズ(ジェニファー)は「楽しい法廷ドラマに集中してもらうために」という前置きの元、第四の壁を越え、視聴者に向けて能力を得るに至った経緯を語り始める。ジェニファーは事故によって、従兄弟であるブルース・バナーのようにハルクへと変身する能力を得て、その後人々にシー・ハルクと呼ばれるようになる。しかし、彼女にとって大事なことはそれではない。彼女が視聴者に語りたいのは、遂に手に入れた弁護士と…

  • キロ・ルッソ『大いなる運動』生き物としての都市

    キロ・ルッソによる2021年作『大いなる運動』について。 あらすじ 標高3,600メートルに位置するボリビアの首都ラパス。1週間をかけてこの街にやって来た若い鉱山夫が謎の病に冒される。薬草や呪いで青年を癒そうとする医者たち。青年の悪夢は都市と混濁し、観客もその超自然的な意識に幻惑される。 https://filmarks.com/movies/105263 大いなる運動としての都市 仕事を見つけるため、鉱山労働者の失業デモと共に7日間歩き続けラパスに到着したエルダー達。しかし、エルダーは鉱山で働いていた時に粉塵を大量に吸い込んでいたのが原因か、高度の高いラパスの気候、気圧により肺病の様な状態と…

  • 川端康成『雪国』を映画を軸に読み直す

    冒頭、語り手である島村の見る暗いトンネルの先に開けた一面の雪景色の輝くような白さは、暗闇から映画が映し出され、スクリーンが白く光る様と重なる。そしてその列車で、島村は窓から見えるともし火と窓に反射した葉子を映画の二重露光のように重ねて見る。 トンネルを抜けて雪国に入ることが映画の上映に重ね合わされ、そのスクリーンに映し出されるのは葉子であり、島村は観客として俳優である葉子に目を奪われる。

  • シャンタル・アケルマン『ブリュッセル 1080コメルス河畔通り23番地 ジャンヌ・ディエルマン』における生活空間の崩壊

    ジャンヌ・ディエルマンは、夫と死別し、娼婦として働きながら息子を育てており、タイトルはジャンヌの住むアパートメントの住所を指したものである。一地点をピン留めするようなタイトルの通り、ジャンヌはそのアパートメントを中心とした生活圏、そしてその生活のルーティンから逃れられない。カメラはジャンヌの周囲に固定されており、3日間に渡ってその生活を映し続ける。

  • ピエル・パオロ・パゾリーニ『アポロンの地獄』再経験されるオイディプス

    ピエル・パオロ・パゾリーニ監督による1967年作『アポロンの地獄』について。オイディプスは巨大な闇に出会う。それは不信仰であるが故に見えていなかったものであり、その闇が大きすぎるがために、オイディプスは世界から自分を閉ざす。自分の目を潰すことによって。

  • ピエル・パオロ・パゾリーニ『奇跡の丘』は何についての映画だったのか

    ピエル・パオロ・パゾリーニ監督による1964年作『奇跡の丘』について。キリストの誕生から復活までをネオレアリズモ、ドキュメンタリー的な方法で撮った映画。セリフは聖マタイのゴスペルからそのまま取ってきているらしく、それが原題 「The Gospel According to St. Matthew(聖マタイによって語られたゴスペル)」にそのまま反映されている。それらのそっけなく感じられる背景に加えて、映像がドキュメンタリー的で淡白なこともあり、キリストによる一連の出来事に対して距離をおいた上で、一つの事象として観測的・客観的に撮っているように思われる。そうだとすれば、この主題と方法を選んだ意図が重要なように感じられる。

  • ピエル・パオロ・パゾリーニ『マンマ・ローマ』捻じ曲げられない運命

    ピエル・パオロ・パゾリーニ監督による1962年作『マンマ・ローマ』について。おそらく戦争孤児であり娼婦として生きていくしかなかったマンマ・ローマが、息子であるエットレを自分とは違う階級へ抜け出させようとする。そのために、娼婦の仲間と協力して息子に上流階級向けのレストランの仕事を得させ、息子を自分のような女性から離そうとする。

  • ピエル・パオロ・パゾリーニ『アッカトーネ』予め定められた役割

    ピエル・パオロ・パゾリーニ監督による1961年作『アッカトーネ』について。タイトルにもなっているアッカトーネはピンプであり、愛人を売春婦にすることで働かずに収入を得ている。アッカトーネのような人々にとって、働くとすれば重労働しか選択肢がなく、労働しながら生きることを選べば労働に一生縛られて生きることになる。一方で労働を拒否すれば、アッカトーネの周囲の人々と同じように盗みや賭けなどによって生計を立てる、もしくは乞食として生きる生きるしかなくなる。

  • 野原位『三度目の、正直』日常 / 行間に潜むもの

    野原位監督による2022年作『三度目の、正直』について。役割、自分自身で内在化した理想像による日常的な抑圧についての映画のように感じる。 その役割を他者に押し付ける心理の根源には子供や妻に対する「自分のものだ」という所有の感覚がある。主人公はその所有による被害者であると同時に、その所有の感覚を内在化している。自分の子供という実現しなかった所有に縛り付けられており、過去生まれるはずだった子供の記憶をも含めて手放すことを拒否している。主人公は記憶喪失となった誰か別の親の子供と出会い、その子供を擬似的な自身の子供として共に生活することを通して、その子供、そして生まれるはずだった子供を手放すことができるようになる。所有による束縛から二人を自由にする。その記憶喪失の子供の実の父親は映画内ではすでにその所有的な感覚から自由になっており、主人公が行き着く先はその父親と重ねられる。

  • アニエス・ヴァルダ『カンフー・マスター!』再生産される社会・関係性

    アニエス・ヴァルダ監督による1987年作『カンフー・マスター!』について。40代の女性であるマリーと、その子供の友達である10代の少年であるジュリアンという、恋愛の時期が終わりつつある人とそれが始まりつつある人の間の恋愛を軸とした映画となっている。

  • アニエス・ヴァルダ『落穂広い』拾い合う落穂

    アニエス・ヴァルダによる2000年作『落穂広い』について。「落穂拾い」とは収穫されずに残った食べ物を拾う人を指す言葉であり、この映画では「落穂拾い」を捨てられたもの、使われないもの、つまり社会的に有用でない、価値のないものを拾う人々として、アニエス・ヴァルダが現代における落穂拾いを探していく。ここで、落穂拾い自身も撮られてこなかった存在、つまり落穂であり、そのような人々を撮るアニエス・ヴァルダも落穂拾いであると言う構造を持っている。そのため、現代社会における落穂拾いの人々についての映画であると同時に、落穂拾いとしてのアニエスヴァルダという作家自身についての映画にもなっている。

  • アニエス・ヴァルダ『冬の旅』空洞の街

    アニエス・ヴァルダによる1985年作『冬の旅』について。夏の間はヴァカンスで賑わう街が舞台となっているが、季節は冬である。ヴァカンス地で冬も暮らしている人々は逃避先がない、つまり同じ場所で同じ生活を続けるしかない人々である。そのような街の人々として、トルコ系移民や元ヒッピーの夫婦、ガソリンスタンドの労働者、冷め切った仲の夫婦やカップルが登場する。主人公と出会う街の人々はその主人公の自由に移動する生き方に対して憧れる一方で、自身の定住的な生活を守るように拒絶する。自分たちのできないその生き方に対して、自分たちの生き方を正当化する。

  • シャンタル・アケルマン『囚われの女』解体されるハードボイルド

    シャンタル・アケルマン監督による2000年作『囚われの女』について。主人公は愛しているなら嘘をつかないはずという前提を持っていて、それに対して彼女は互いに知らない部分を残すからこそ愛することができると考えている。彼女の言動の不一致が彼女は自分を愛していないんじゃないかという疑惑に繋がり、「彼女は自分を愛しているふりをしているのではないか」という陰謀を追う主人公によるハードボイルド映画のような形になる。その彼女の主人公に見せていない部分が陰謀の潜む裏の世界となる。

  • シャンタル・アケルマン『私、君、彼、彼女』における君=彼について

    シャンタル・アケルマン監督による1974年作『私、君、彼、彼女』について。3パートに分かれた映画。1パート目の最後で、主人公がレッドライトストリート(ヨーロッパの風俗街)のような一面がガラス張りになった1階の部屋にいたことがわかる。段々と裸になる時間の増えていく主人公はこのパートでは一方的に見られる側へと回っていく。

  • ポール・トーマス・アンダーソン『リコリス・ピザ』直線的な移動が象徴するもの

    ポール・トーマス・アンダーソン監督による2021年作『リコリス・ピザ』について。広告が主軸としておかれており、この映画で描かれるアメリカにおいては芸能人や商品のPRとして自己増殖していく擬似イベントが根付き切っている。理想がイメージに置き換えられ、そのイメージを作りあげるためにはカテゴライズが必要となる。そしてイメージが目的となるため、カテゴライズに伴う差別的な言動も当たり前のように存在している。

  • エリック・ロメール『シュザンヌの生き方』日常における支配

    エリック・ロメール監督による1963年作『シュザンヌの生き方』について。パッとしない主人公がおり、その親友は主人公を自分より下の存在として見下し利用している。しかし、主人公はそれを認めない。利用されているという事実を自分自身からも隠蔽している。親友はシュザンヌという女性を同じように利用しており、それを主人公は認知している。そのため、主人公にとってはシュザンヌと同じ位置に自分をおくことが、親友にとって自分が下であり利用されているという事実を認めることに繋がる。

  • エリック・ロメール『モンソーのパン屋の女の子』決定論と自由意志

    エリック・ロメール監督による1963年作『モンソーのパン屋の女の子』について。主人公はルーティンを持っていて、その中でいつもすれ違う女性に対して執着している。その女性が急に現れなくなったことで、その女性を探すための新しいルーティンを作り出す。その新しいルーティンの中でパン屋を見つけ、そのパン屋で働く女の子に新しく執着するようになる。そして、同じ日にその二人への執着が叶えられることによって、主人公はどちらかを選ぶことを迫られる。

  • エリック・ロメール『ベレニス』無意識に乗っ取られる理性

    エリック・ロメール監督による1954年作『ベレニス』について。変化のない屋敷に壮年期まで住み続けたことで、夢想することによってその屋敷から幻想へと逃避する主人公。その逃避は、屋敷の何かについて偏執的に分析(瞑想)することによって行われる。

  • 『トップガン マーヴェリック』トム・クルーズによる映画製作の継承

    ジョセフ・コシンスキー監督による2022年作『トップガン マーヴェリック』について。マーヴェリック=トム・クルーズとしてトップガンに絡む過去の関係性を清算しつつも自身の映画製作を次世代へと継承していく映画となっている。

  • 『ソー:ラブ&サンダー』ヴァイキングと国家 / アイデンティティの再獲得 / 続編に向けて

    『ソー:ラブ&サンダー』は何を語ろうとしていたのか。神と人間、そしてローマの神とヴァイキングの神という対比、そしてソー及びアスガルドのアイデンティティの再獲得を軸に、続編がどういう話になるかを含めて書いています。

  • バズ・ラーマン『エルヴィス』雑感

    映画全体のナレーターがエルヴィスプレスリーのマネージャーとなっていて、そのマネージャーの病床での回想という形で映画が始まる。そのマネージャーはエルヴィスプレスリーを搾取していてその死の原因もそのマネージャーにあると考えられていることが語られる。その後、原因は本当にマネージャーだったのか、そうでないなら原因は何だったのかをサスペンスとして見せていく形で映画が進む。 そして、その後そのマネージャーがサーカスの見せ物としてエルヴィスプレスリーを見出し、そして見せ物として支配し搾取していく過程が見せられる。映像としては序盤からエルヴィスプレスリーの視点へと切り替わっていくのに対して、マネージャーが搾取していたことが明確になってからもナレーターはマネージャーのままとなっている。 エルヴィスプレスリーが囚われ搾取されていく過程が映像によって語られるのに対して、認知の歪んだ状態のマネージャーによるナレーションが付けられた映画となっていく。さらにナレーターは最後までマネージャーのままなので、マネージャーの認知の歪みについての映画のように感じる。マネージャーの「エルヴィスプレスリーを殺したのはファンやあなたへの愛だ」みたいなナレーションで映画が締められるけど、明確に原因の一つとして描かれていて、さらに信頼できないナレーターと化したマネージャーがそれを言うことで非常に複雑な気持ちになった。そもそも映画で描かれてきたエルヴィスプレスリーの行動原理を表すものはファンへの愛という言葉ではないように感じるし、このナレーションはただのマネージャーの自己正当化ってことなんだろうか。

  • ヨアキム・トリアー『わたしは最悪。』映画として留められる記憶

    主人公は序章で医学から心理学に変え、そこから本屋でアルバイトしながら写真家を志すようになり、終章では職業写真家としてのキャリアを築き始めている。1人目の恋人であるアクセルとの出会いを除けば、序章と終章だけで主人公の客観的な過程は説明されてしまう。それに対して、この映画は主人公が終章に至るまでの内的な過程を描くものとなっている。 劇中で言及されるように、主人公は感情の人であり視覚の人である。主人公は何かを論理的に考えるというよりは、流れに身をまかせてしまう中で感覚的な判断が定まった、啓示を受けたかのように不意に選択を行う。そして、その時に見える空はいつもとは違うものとなっている。その時に得た感情はその時だけのものであり、その感情によって見えたものもその時にしか見れないものであり、記憶したとしてもその人の中にしか存在しない。死ぬ間際のアクセルが言うように、それは死ねば失われてしまうものである(「僕が死ねば記憶の中の君も消える」)。 主人公の主観的な過程をただただ切り取ったようなこの映画は、その主人公のいつかは消えてしまう記憶を永遠に留めようとしたもののように感じられる。そしてその過程において、主人公もまたその瞬間を留めるメディアとして写真を選ぶようになっていく。この主人公の主観をトレースしたような映画の中には、そうなっていくことが痛いほどわかるくらい記憶に留めておきたい瞬間がある。 終章において、主人公はわかりやすく演技をしろという監督の指導の元下手な演技をしてしまった役者のスチール写真を撮る。その時に、その演技する役者ではなく、下手な演技をしてしまったことを悔やんでいるその人、その瞬間にしかないその人の感情を撮ろうとする。それは主人公が映画内で描かれた過程を経て辿り着いたものを象徴するものであると同時に、この映画自体を象徴するものともなっている。

  • バーバラ・ローデン『WANDA / ワンダ』映画的な出来事

    状況に対して何もできず流されるしかない、それに対して諦めていて何の感情も抱いていない、周囲の人間たちから諦めている主人公が映画的な出来事に巻き込まれるようになる。そこで関係性や自身への肯定を得たことによって、その後も変わらない流されることしかできない人生に拒絶感や虚無感を抱くようになるという映画。 映画を見に行ったことをきっかけに、監督という神により作為的に起こされた奇跡のような映画的な展開へと巻き込まれていくという展開。その経験が救いに繋がらず、映画の内外関わらず始まりも終わりもなくただひたすら繰り返されていく受動的な移動。 この映画において主人公は炭鉱夫の妻である、貧困層であり女性であるというところから始まるが、そうじゃなくても違う形で同じような物語を想像できるような感覚がある。親や宗教的な信念の不在は感じられるが主人公の存在に対してそれが決定的な意味を持つこともない。主人公は属性、社会背景によって因果的に生み出されたものではなく、無力さとそれに伴う受動性によって特徴づけられた存在としてそこから独立して存在しているように感じる。 そこに映画内で設定された状況があり、その状況に沿って主人公は動かされ、映画的な出来事の発生を通して宗教や擬似的な父親との出会いを果たし、主人公はそれによって自身と状況に対する因果、物語な意味を見出すようになる。そして主人公は自発的に行動することになるが、それはそれまでの自分とかけ離れたものであり、嘔吐するほど自身の実存を揺るがすものとなっている。

  • ホン・サンス『イントロダクション』抱擁と行間

    3パートに分かれた映画で、自分のことを小さい頃から知っていて自分のことが好きだろう看護師に対する演技の抱擁、そしてドイツでの彼女への本当の抱擁、そして別れた彼女への夢の中での抱擁というパートごとに存在する主人公にとっての意味が異なる抱擁で緩く繋がっている。 主人公は1パート目で父に呼び出された病院で有名俳優と出会い、2パート目ではドイツに留学に出た彼女に会いに行く。3パートでは1, 2パート目での彼女はドイツで別の男と結婚していて、1パート目での抱擁に罪悪感をずっと感じていたのか、演技の抱擁、愛のない抱擁はできないとして俳優を辞めようとしている。それに対して、有名俳優が演技でも抱擁は全て愛だと説教する。そして、主人公は夢の中で別れた彼女を抱擁する。それは演技かどうかはわからないが、愛のように見える。 ズーム含めた滑らかなのに人為的で違和感があるカメラワークが非常に特徴的。表面的には何気ないように見える映像、人物達もほとんど感情を語らないし見せない映像の中で、そのカメラワークの違和感によってその裏にある人物達の内面の揺らぎが映像として表面化してくるような感覚がある。そしてそのカメラワークが滑らかだからこそ、その日常から揺らぎの表出への移行がシームレスになっている。それによって、語られていない何かが映像の中に常に存在しているということを意識させられる。

  • ホン・サンス『あなたの顔の前に』信仰の変化

    主人公は17歳のとき、自殺しようとする直前に目の前に広がる世界が全て美しいものに見えるという宗教的な経験をしたことから、自分の目の前にあるものしか見ない、過去や既に起きたことには目を向けないように自身を律して生きることを決めている。そして、そう生きれるように神に祈り、背いてしまった時には以降そうならないように祈る。ただ、主人公の意識は常に過去への感傷など目の前以外のものへと向いていく。 アメリカから帰ってきた主人公は妹と再会する。妹は夢の世界や過去への後悔や感傷と共に生きる人として主人公と対比的におかれている。妹との会話は買えるかもわからないマンション、互いについて知らないままここまできてしまったことなど、目の前のものではないことについてとなっている。 映画を通して主人公は目の前のものとそれ以外の間を揺らぎ続ける。トッポギをこぼしてしまった後、一度服を着替えに帰ろうとするがそれを起きてしまったこととして諦め、帰ることをやめる。妹との再会を通じて過去への感傷から幼い頃に住んでいた家を訪れるが、その後それを反省する。

  • パトリック・ボカノウスキー『太陽の夢』擬似太陽としての映画

    3パートに分かれた映画のように感じる。1パート目は宇宙、星、太陽が生まれるまで。映写機が現れ、その映写機による投影や合成などによって海のイメージが宇宙、星雲のように見え始める。海から花火へと切り替わり、その花火は星へと変化する。そして、その後に続く落とされた絵の具のシークエンスは太陽の誕生を表しているように感じる。

  • 『ストレンジャー・シングス』 における群衆化への抵抗

    『ストレンジャー・シングス』は主人公達をテンプレ的な人物像から解放するドラマであり、それが大きな魅力となっている。そして、主人公達と対置されるソ連、研究所、そしてS4で登場した陰謀論者達は全体主義的な構造によって共通する。そして、アップサイドダウンの支配者もマインドコントロールによって人々を同質化し支配しようとする。ストレンジャーシングスはそのような人々の群衆化、それに対する全体主義的な支配に対して抵抗するドラマとなっているのではないか。

  • ジャック・リヴェット『修道女』別世界としての演劇 / 鑑賞者の位置

    ジャック・リヴェットによる1966年作『修道女』を『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で描かれた劇中劇の演者の視点からの映画として読み解き、そしてジャック・リヴェットの映画において別世界として現れる演劇の世界は何か、そこにおける鑑賞者の位置はどこにあるのかを考えていく。

  • ジャック・リヴェット『パリはわれらのもの』集団的パラノイアの内部

    ジャック・リヴェット監督1961年作『パリはわれらのもの』について。演劇を通して世界の秘密を見つけ出そうとしているようなジャック・リヴェットの作品群の中では、その秘密のある空間へと入っていけそうになるが、そもそもその内部に秘密があったのかもわからないまま、結局その空間が離散してしまうような映画になっているように思う。

  • ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』オルガは誰か / 3つの切り返し

    ジャン=リュック・ゴダール監督による2004年作『アワーミュージック』に現れる3つの切り返しに関して、主人公であるオルガは誰なのかを元に考えていく。

  • MCUは今何を物語ろうとしているのか / メタ構造による物語の否定

    MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)作品について、今そもそも何をしているのか、これから何するつもりなのか、特になぜここまでメタ構造にこだわっているのかを考えた文章になります。流れとしては、まずインフィニティ・サーガが大きな物語を描くものであり、フェーズ4以降ではその物語の脱中心化、その物語で透明化されてきた人々を描いていること。それに加えて、メタ構造とそれに伴う外部からの視点を一気に導入し始めていること。それらによって、その物語自体を否定していること。そして、次にどのような物語を語ろうとしているのか、そもそもそれは何故なのかについて書いています。

  • 濱口竜介『偶然と想像』における想像の位置 / なぜブレッソンか

    濱口竜介監督による2021年作『偶然と想像』における想像の置かれている位置を、この映画が "言葉によるセックス" についての映画であるという点から考える。そして、それを元になぜこの監督がロベール・ブレッソンの方法を用いているのかについて考える。

  • 濱口竜介『ハッピーアワー』 重心を合わせること

    濱口竜介監督による2015年作『ハッピーアワー』について。相手の目から世界を見ること、そのテーマを映画自体が体現している。

  • 濱口竜介『親密さ』魂が手を伸ばすこと

    濱口竜介監督による2012年作『親密さ』。渡されずに落ちていた想像力が拾われ、演劇や詩、映画になることについて。

  • ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』非人間的な手作業と抵抗

    ロベール・ブレッソン監督による1977年作『たぶん悪魔が』について。ロマン主義的に絶望の中から美を求める主人公が、非人間的な手続きで組み上げられた社会に回収されていく映画として。そして、ブレッソンの映画はその方法によってその社会への抵抗となっているのではないか。

  • ロベール・ブレッソン『湖のランスロ』近代社会の二重の破滅

    ロベール・ブレッソン監督による1974年作『湖のランスロ』について。近代化していく社会が破滅する映画であると同時に、近代化し切った社会が破滅する映画でもあるという二重構造となっている。その二つが音によって組み立てられ響き合うようになっている。

  • ロベール・ブレッソン『やさしい女』閉じ込められていく過程

    ロベール・ブレッソン監督による1969年作『やさしい女』について。主人公が絶望に至る過程を撮った映画である一方で、監督自身の方法論によってこの映画自体が劇中のマクベスと重ね合わされ、ある種の希望のようになっている。

  • ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』アンナ・カリーナ時代の終わり

    ジャン=リュック・ゴダール監督による1965年作『気狂いピエロ』について。ゴダールがアンナ・カリーナと共に映画を撮っていた時代、そしてその終わりを描いた映画として。

  • タル・ベーラ『ファミリー・ネスト』国家の比喩としての家族

    タル・ベーラ監督による1977年作『ファミリー・ネスト』について。3つの家族が住む家があり、その家を共産主義国家であるハンガリーの比喩とする。父は実質的な権威は失われていて家庭内の問題を解決することもできない。そして、その権威と崩れゆく家を抑圧的に維持しようとする。が金がないため接着剤で補修するしかない割れた国章のイメージによってその父のハリボテさが国家に繋げられる。

  • エドガー・ライト『ラストナイト・イン・ソーホー』映画業界のアナロジーとしてのロンドン

    エドガー・ライト監督による2021年作『ラストナイト・イン・ソーホー』について。冒頭、地方に住み、60年代のロンドンに憧れる主人公は鏡を通して自身の姿を映画の主人公に重ねる。そして、デザイン専門学校に入学するためロンドンに移り住む。そして鏡を通して、夢・幻想の中で60年代ロンドン、ソーホーに住む同年代の歌手志望の女性、サンディと同化していく。一方的に憧れの場所、自身の憧れの姿として見ていたロンドンに移り住むことで、その憧れに同化していく。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『愛に関する短いフィルム』視線の反転

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1988年作『愛に関する短いフィルム』について。愛に対して理想的な人と現実的な人についての映画。主人公は自分、他者への解像度が低く、他者との関わり方がわからない。それゆえに愛を理想的に信じている。主人公が恋する女性は愛は存在しないと考えていおり、男を次々取り替えている。女性は主人公と出会うことで愛について見直すようになる。一方で、主人公は女性と出会うことで愛に絶望することになる。それぞれの愛に対する考え方が反転する。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『殺人に関する短いフィルム』運命であると選択すること

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1988年作『殺人に関する短いフィルム』について。意図的に他者に対して嫌がらせをしているタクシードライバーがおり、より加害欲求を拗らせた存在として主人公がいる。それに対して社会の上層に属する存在として弁護士とその周囲の人々がいる。法律を含めた社会制度はその上層に属しており、上層の人々からはその外部は見えていない。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『終わりなし』理想への逃避

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1984年作『終わりなし』について。当時のポーランドは共産主義体制下にあり、それに対して結成された組織が「連帯」であり、労働者を中心に民主化運動を行なっていた。その活動を体制側が刑罰や軍事力で強制的に封じたのが「戒厳令」となっている。同時に経済危機が起こり、それに伴って配給の食料や物資が不足していた。それがこの作品の直接的な背景となっている。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『偶然』分岐により浮かび上がる社会 / 人間

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1981年作『偶然』について。人生の目的を見失ってしまった主人公の運命が、電車に間に合うか、止められるか、乗るのを諦めるかによって三つに分岐する。そして一つ目の分岐では体制側(共産主義)へと、二つ目では反体制側へと与するようになっていく。そして、三つ目の分岐ではどちらにも与しない。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『アマチュア』メタ構造により反転する結末

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1979年作『アマチュア』について。表現を抑圧するものとして権力があり、ここではその権力は工場の上部となる。そして、その権力に対抗するものとして労働者が存在する。権力に抗い理想の表現を実現することに対して、権力に従った表現が対置される。そして、私生活においては、権力の元での通常の生活、制度として満ち足りているとされる生活に対して、何かを犠牲にしつつも自身の表現を追求する生きがいのある生活が対置される。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『トーキング・ヘッズ』社会 / 人生の普遍的なスナップショット

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1979年の短編『トーキング・ヘッズ』について。1980年という同じ年に、同じポーランドで1歳から100歳の異なる年齢の人々に対して、「あなたは誰ですか?」「あなたは人生に何を望みますか?」という同じ質問を投げかけ、その返答を撮ったものがその年齢が低い順に並べられたドキュメンタリー。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『異なる年齢の7人の女性』反転図形としての映画

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1979年の短編『異なる年齢の7人の女性』について。短編の中で1週間の時間が流れ、曜日ごとに7人の異なる年齢の女性が映される。女性は全てバレリーナであり、指導される子供に始まり、バレリーナとして舞台で活躍してる女性、年齢を重ね他の若いバレリーナに追い抜かれる女性、老いて子供の指導者に回った女性という形で、曜日が変わるごとに人生のフェーズが上がっていく形で構成されている。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『ある夜警の視点から』全体主義の構造

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1977年作『ある夜警の視点から』について。国の制度によるインセンティブによって、国が正しいとするルールを内在化した男を撮ったドキュメンタリー短編。男は夜警であり、国から与えられた役割、国が決めたルールという後ろ盾によって自警的に同じ市民を裁いていく。

  • ホウ・シャオシェン『冬冬の夏休み』映画となる夏休み

    ホウ・シャオシェン監督による1985年作『冬冬の夏休み』、そしてホウ・シャオシェンにおける「見ること=映画」という構造について。子供の特徴として、友達間以外では状況に対して何もできないということがある。この映画ではそれがルールとして設定される。 何かが起きた時には年上の人々に言うしかないし、それが聞かれなかった時は他の人に当たるしかない。そして、基本的には歩き回って周りで起こってることを見ることしかできない。何か起きた時にそれに対して何かすることはできない。

  • ホウ・シャオシェン『童年往事 / 時の流れ』映画として主観化される記憶 / 感情

    ホウ・シャオシェン監督による1985年作『童年往事 / 時の流れ』について。文字通り時の流れが収められたような映画で、その時の流れに伴い社会が変容し、その影響を受けつつ主人公の家庭も変容していく。そして、主人公自身も変容していく。

  • ホウ・シャオシェン『風櫃(フンクイ)の少年』映画のように見える日常

    ホウ・シャオシェン監督による1983年作『風櫃(フンクイ)の少年』について。 日常を映画のように見る少年たち 主人公である少年が大人になる直前の悪友や片想いの相手、親の家族像をなぞることなどに対する葛藤についての物語であり、モラトリアム映画。それと同時に、日常、そして自分の過去の記憶や将来の願望、不安があたかも映画のように見える時期についての映画。 全体的に遠近感が消されたような平面的な撮り方になっており、音も別録音のようなべったりした距離感のないものになっている。さらに、平面な画面をフレームで区切ったショットが頻繁に出てくる。それによって、この映画に映っているものが主人公達から見ても映画であ…

  • ウェス・アンダーソン『フレンチ・ディスパッチ』人類の星の時間 / 瞬間を記録する映画雑誌

    ウェス・アンダーソン監督による2021年作『フレンチ・ディスパッチ』、そのモチーフとなっているだろうシュテファン・ツヴァイク『人類の星の時間』について。大枠は『グランド・ブダペスト・ホテル』と同様に、多様で理想郷的なコミュニティが失われてしまう話。各話はバックグラウンドや価値観の違う人々が出来事を通して瞬間的に繋がるという点で共通していて、それを過去の経験として各ライターが語る形になっている。そして3話目のラストでシェフが最後に言う、自分達が探してる失われてしまった何かはその繋がった瞬間、もしくは繋がろうとすること自体なんだろうと思う。

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、structuredcinemaさんをフォローしませんか?

ハンドル名
structuredcinemaさん
ブログタイトル
structuredcinema
フォロー
structuredcinema

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用