ジャック・リヴェット『修道女』別世界としての演劇 / 鑑賞者の位置
ジャック・リヴェットによる1966年作『修道女』を『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で描かれた劇中劇の演者の視点からの映画として読み解き、そしてジャック・リヴェットの映画において別世界として現れる演劇の世界は何か、そこにおける鑑賞者の位置はどこにあるのかを考えていく。
ジャック・リヴェット『パリはわれらのもの』集団的パラノイアの内部
ジャック・リヴェット監督1961年作『パリはわれらのもの』について。演劇を通して世界の秘密を見つけ出そうとしているようなジャック・リヴェットの作品群の中では、その秘密のある空間へと入っていけそうになるが、そもそもその内部に秘密があったのかもわからないまま、結局その空間が離散してしまうような映画になっているように思う。
ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』オルガは誰か / 3つの切り返し
ジャン=リュック・ゴダール監督による2004年作『アワーミュージック』に現れる3つの切り返しに関して、主人公であるオルガは誰なのかを元に考えていく。
MCUは今何を物語ろうとしているのか / メタ構造による物語の否定
MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)作品について、今そもそも何をしているのか、これから何するつもりなのか、特になぜここまでメタ構造にこだわっているのかを考えた文章になります。流れとしては、まずインフィニティ・サーガが大きな物語を描くものであり、フェーズ4以降ではその物語の脱中心化、その物語で透明化されてきた人々を描いていること。それに加えて、メタ構造とそれに伴う外部からの視点を一気に導入し始めていること。それらによって、その物語自体を否定していること。そして、次にどのような物語を語ろうとしているのか、そもそもそれは何故なのかについて書いています。
濱口竜介『偶然と想像』における想像の位置 / なぜブレッソンか
濱口竜介監督による2021年作『偶然と想像』における想像の置かれている位置を、この映画が "言葉によるセックス" についての映画であるという点から考える。そして、それを元になぜこの監督がロベール・ブレッソンの方法を用いているのかについて考える。
濱口竜介監督による2015年作『ハッピーアワー』について。相手の目から世界を見ること、そのテーマを映画自体が体現している。
濱口竜介監督による2012年作『親密さ』。渡されずに落ちていた想像力が拾われ、演劇や詩、映画になることについて。
ロベール・ブレッソン監督による1977年作『たぶん悪魔が』について。ロマン主義的に絶望の中から美を求める主人公が、非人間的な手続きで組み上げられた社会に回収されていく映画として。そして、ブレッソンの映画はその方法によってその社会への抵抗となっているのではないか。
ロベール・ブレッソン監督による1974年作『湖のランスロ』について。近代化していく社会が破滅する映画であると同時に、近代化し切った社会が破滅する映画でもあるという二重構造となっている。その二つが音によって組み立てられ響き合うようになっている。
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