ヨアキム・トリアー『わたしは最悪。』映画として留められる記憶
主人公は序章で医学から心理学に変え、そこから本屋でアルバイトしながら写真家を志すようになり、終章では職業写真家としてのキャリアを築き始めている。1人目の恋人であるアクセルとの出会いを除けば、序章と終章だけで主人公の客観的な過程は説明されてしまう。それに対して、この映画は主人公が終章に至るまでの内的な過程を描くものとなっている。 劇中で言及されるように、主人公は感情の人であり視覚の人である。主人公は何かを論理的に考えるというよりは、流れに身をまかせてしまう中で感覚的な判断が定まった、啓示を受けたかのように不意に選択を行う。そして、その時に見える空はいつもとは違うものとなっている。その時に得た感情はその時だけのものであり、その感情によって見えたものもその時にしか見れないものであり、記憶したとしてもその人の中にしか存在しない。死ぬ間際のアクセルが言うように、それは死ねば失われてしまうものである(「僕が死ねば記憶の中の君も消える」)。 主人公の主観的な過程をただただ切り取ったようなこの映画は、その主人公のいつかは消えてしまう記憶を永遠に留めようとしたもののように感じられる。そしてその過程において、主人公もまたその瞬間を留めるメディアとして写真を選ぶようになっていく。この主人公の主観をトレースしたような映画の中には、そうなっていくことが痛いほどわかるくらい記憶に留めておきたい瞬間がある。 終章において、主人公はわかりやすく演技をしろという監督の指導の元下手な演技をしてしまった役者のスチール写真を撮る。その時に、その演技する役者ではなく、下手な演技をしてしまったことを悔やんでいるその人、その瞬間にしかないその人の感情を撮ろうとする。それは主人公が映画内で描かれた過程を経て辿り着いたものを象徴するものであると同時に、この映画自体を象徴するものともなっている。
2022/07/18 16:21