chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • ロベール・ブレッソン『やさしい女』閉じ込められていく過程

    ロベール・ブレッソン監督による1969年作『やさしい女』について。主人公が絶望に至る過程を撮った映画である一方で、監督自身の方法論によってこの映画自体が劇中のマクベスと重ね合わされ、ある種の希望のようになっている。

  • ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』アンナ・カリーナ時代の終わり

    ジャン=リュック・ゴダール監督による1965年作『気狂いピエロ』について。ゴダールがアンナ・カリーナと共に映画を撮っていた時代、そしてその終わりを描いた映画として。

  • タル・ベーラ『ファミリー・ネスト』国家の比喩としての家族

    タル・ベーラ監督による1977年作『ファミリー・ネスト』について。3つの家族が住む家があり、その家を共産主義国家であるハンガリーの比喩とする。父は実質的な権威は失われていて家庭内の問題を解決することもできない。そして、その権威と崩れゆく家を抑圧的に維持しようとする。が金がないため接着剤で補修するしかない割れた国章のイメージによってその父のハリボテさが国家に繋げられる。

  • エドガー・ライト『ラストナイト・イン・ソーホー』映画業界のアナロジーとしてのロンドン

    エドガー・ライト監督による2021年作『ラストナイト・イン・ソーホー』について。冒頭、地方に住み、60年代のロンドンに憧れる主人公は鏡を通して自身の姿を映画の主人公に重ねる。そして、デザイン専門学校に入学するためロンドンに移り住む。そして鏡を通して、夢・幻想の中で60年代ロンドン、ソーホーに住む同年代の歌手志望の女性、サンディと同化していく。一方的に憧れの場所、自身の憧れの姿として見ていたロンドンに移り住むことで、その憧れに同化していく。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『愛に関する短いフィルム』視線の反転

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1988年作『愛に関する短いフィルム』について。愛に対して理想的な人と現実的な人についての映画。主人公は自分、他者への解像度が低く、他者との関わり方がわからない。それゆえに愛を理想的に信じている。主人公が恋する女性は愛は存在しないと考えていおり、男を次々取り替えている。女性は主人公と出会うことで愛について見直すようになる。一方で、主人公は女性と出会うことで愛に絶望することになる。それぞれの愛に対する考え方が反転する。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『殺人に関する短いフィルム』運命であると選択すること

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1988年作『殺人に関する短いフィルム』について。意図的に他者に対して嫌がらせをしているタクシードライバーがおり、より加害欲求を拗らせた存在として主人公がいる。それに対して社会の上層に属する存在として弁護士とその周囲の人々がいる。法律を含めた社会制度はその上層に属しており、上層の人々からはその外部は見えていない。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『終わりなし』理想への逃避

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1984年作『終わりなし』について。当時のポーランドは共産主義体制下にあり、それに対して結成された組織が「連帯」であり、労働者を中心に民主化運動を行なっていた。その活動を体制側が刑罰や軍事力で強制的に封じたのが「戒厳令」となっている。同時に経済危機が起こり、それに伴って配給の食料や物資が不足していた。それがこの作品の直接的な背景となっている。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『偶然』分岐により浮かび上がる社会 / 人間

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1981年作『偶然』について。人生の目的を見失ってしまった主人公の運命が、電車に間に合うか、止められるか、乗るのを諦めるかによって三つに分岐する。そして一つ目の分岐では体制側(共産主義)へと、二つ目では反体制側へと与するようになっていく。そして、三つ目の分岐ではどちらにも与しない。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『アマチュア』メタ構造により反転する結末

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1979年作『アマチュア』について。表現を抑圧するものとして権力があり、ここではその権力は工場の上部となる。そして、その権力に対抗するものとして労働者が存在する。権力に抗い理想の表現を実現することに対して、権力に従った表現が対置される。そして、私生活においては、権力の元での通常の生活、制度として満ち足りているとされる生活に対して、何かを犠牲にしつつも自身の表現を追求する生きがいのある生活が対置される。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『トーキング・ヘッズ』社会 / 人生の普遍的なスナップショット

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1979年の短編『トーキング・ヘッズ』について。1980年という同じ年に、同じポーランドで1歳から100歳の異なる年齢の人々に対して、「あなたは誰ですか?」「あなたは人生に何を望みますか?」という同じ質問を投げかけ、その返答を撮ったものがその年齢が低い順に並べられたドキュメンタリー。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『異なる年齢の7人の女性』反転図形としての映画

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1979年の短編『異なる年齢の7人の女性』について。短編の中で1週間の時間が流れ、曜日ごとに7人の異なる年齢の女性が映される。女性は全てバレリーナであり、指導される子供に始まり、バレリーナとして舞台で活躍してる女性、年齢を重ね他の若いバレリーナに追い抜かれる女性、老いて子供の指導者に回った女性という形で、曜日が変わるごとに人生のフェーズが上がっていく形で構成されている。

  • クシシュトフ・キェシロフスキ『ある夜警の視点から』全体主義の構造

    クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1977年作『ある夜警の視点から』について。国の制度によるインセンティブによって、国が正しいとするルールを内在化した男を撮ったドキュメンタリー短編。男は夜警であり、国から与えられた役割、国が決めたルールという後ろ盾によって自警的に同じ市民を裁いていく。

  • ホウ・シャオシェン『冬冬の夏休み』映画となる夏休み

    ホウ・シャオシェン監督による1985年作『冬冬の夏休み』、そしてホウ・シャオシェンにおける「見ること=映画」という構造について。子供の特徴として、友達間以外では状況に対して何もできないということがある。この映画ではそれがルールとして設定される。 何かが起きた時には年上の人々に言うしかないし、それが聞かれなかった時は他の人に当たるしかない。そして、基本的には歩き回って周りで起こってることを見ることしかできない。何か起きた時にそれに対して何かすることはできない。

  • ホウ・シャオシェン『童年往事 / 時の流れ』映画として主観化される記憶 / 感情

    ホウ・シャオシェン監督による1985年作『童年往事 / 時の流れ』について。文字通り時の流れが収められたような映画で、その時の流れに伴い社会が変容し、その影響を受けつつ主人公の家庭も変容していく。そして、主人公自身も変容していく。

  • ホウ・シャオシェン『風櫃(フンクイ)の少年』映画のように見える日常

    ホウ・シャオシェン監督による1983年作『風櫃(フンクイ)の少年』について。 日常を映画のように見る少年たち 主人公である少年が大人になる直前の悪友や片想いの相手、親の家族像をなぞることなどに対する葛藤についての物語であり、モラトリアム映画。それと同時に、日常、そして自分の過去の記憶や将来の願望、不安があたかも映画のように見える時期についての映画。 全体的に遠近感が消されたような平面的な撮り方になっており、音も別録音のようなべったりした距離感のないものになっている。さらに、平面な画面をフレームで区切ったショットが頻繁に出てくる。それによって、この映画に映っているものが主人公達から見ても映画であ…

  • ウェス・アンダーソン『フレンチ・ディスパッチ』人類の星の時間 / 瞬間を記録する映画雑誌

    ウェス・アンダーソン監督による2021年作『フレンチ・ディスパッチ』、そのモチーフとなっているだろうシュテファン・ツヴァイク『人類の星の時間』について。大枠は『グランド・ブダペスト・ホテル』と同様に、多様で理想郷的なコミュニティが失われてしまう話。各話はバックグラウンドや価値観の違う人々が出来事を通して瞬間的に繋がるという点で共通していて、それを過去の経験として各ライターが語る形になっている。そして3話目のラストでシェフが最後に言う、自分達が探してる失われてしまった何かはその繋がった瞬間、もしくは繋がろうとすること自体なんだろうと思う。

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、structuredcinemaさんをフォローしませんか?

ハンドル名
structuredcinemaさん
ブログタイトル
structuredcinema
フォロー
structuredcinema

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用