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  • 座談会 「いっしょに考える心のこと」 〜摂食障害を中心に〜 ーYouTube動画をアップしました

    座談会 「いっしょに考える心のこと」 〜摂食障害を中心に〜 ーYouTube動画をアップしました - 札幌キリスト聖餐教会

  • 出エジプト記 17章 「戦い、祈り、支え合う」

    イスラエルの民は、レフィディムで水に不足し、渇きを覚えると、またもやモーセに不平をこぼしました。「なぜ、あなたは私たちをエジプトから連れ出したのか。私たちや子どもたち、家畜を渇きで死なせるためなのか」と言ったのです。その怒りは激しく、モーセが「もう少しで、彼らは私を石で打ち殺すでしょう」と主に訴えるほどでした。そして彼らは、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みました。 ここに、聖書に登場する神の民も、常に即座にすべての必要が満たされ、何の不足も覚えず、何の信頼も忍耐も必要としないような環境に置かれていたわけではないことが分かります。また、常に神がそばにおられること…

  • 信仰の体験談 於 座談会「一緒に考える心のこと」

    こんにちは。私は、三人の子どもの母親で、長い間、ホスピスや緩和ケア病棟で、緩和ケアに携わってきました。緩和ケアというのは、命を脅かす病気を抱えている方々の、痛みや苦しさ、不安などのつらい症状を和らげる医療です。そして私は、摂食障害の経験者でもあります。今日は、そのことについてお話しさせていただきたいと思っています。今日のテーマは、「一緒に考える心のこと――摂食障害を中心に」です。皆さんと一緒に、聖書に基づいて心のことを少し考える時間にできたらと思っています。 今日の流れは、プリントの後半にもありますように、まず私自身のことをお話しします。そのあとで、摂食障害の根っこにあるもの、そこからの変化、…

  • 出エジプト記 16章 「日ごとの糧を、日ごとに受け取る」

    マラとエリムで、どんな時も見捨てずに養ってくださる主の御業を経験したイスラエルでしたが、シンの荒野に入って、空腹になると、また不平をこぼしました。「あなたがたは私たちをエジプトから連れ出し、この荒野で飢え死にさせようとしている。エジプトにいた方が幸せだった」と言って、モーセとアロンを責めたのです。 主はモーセに、毎朝、天からパンを降らせ、民を養う、と言われました。モーセは民に主の言葉を伝えました。そして同時に、「自分たちは主のしもべにすぎない。問題は私たちにあるのではなく、あなたがたが主を信頼していないことにある。あなたがたは私たちを責めているようで、実は、あなたがたをエジプトから連れ出された…

  • イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 本日 1:30~

    イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 本日 1:30~ - 札幌キリスト聖餐教会

  • 出エジプト記 15章 「苦い水と木陰を備えられる主」

    イスラエルは紅海で主の救いを見て、主を賛美しました。彼らは自分たちの力で勝ったのではありません。主が戦い、主が敵を海に沈め、主が民を救い出されたのです。救いの歌とは、「私が成し遂げた」という歌ではなく、「主がしてくださった」という歌です。 しかし、その賛美のすぐ後で、民は荒野に入りました。三日間、水が見つからず、やっと見つけた水は苦くて飲めませんでした。すると民はつぶやきました。紅海で主の救いを見たばかりの民が、もう不安と不平に支配されているのです。エジプトから出たばかりの民が、そのまま神の民として成熟しているわけではありません。彼らはまだ、渇くとすぐにつぶやく民でした。目の前の水が苦いと、主…

  • 出エジプト記 14章 「古い支配から切り離される」

    前章によれば、主はエジプトを脱出した民を、最短ルートでカナンへと導かれませんでした。そこが戦いの激しい地域だったため、彼らの心がくじけて引き返すことを避けるためでした。主はイスラエルに、引き返して、紅海の手前で宿営するように導かれました。さらに主は、ファラオがイスラエルを去らせたことを後悔し、戦車隊を率いて追跡してくるようにされました。 それを見たイスラエルは、「ここで殺されるくらいなら、エジプトで奴隷として生き、死んでいた方がよかった」とモーセを責めました。あれだけの奇跡を見せられても、エジプトは心底から主に屈服しておらず、イスラエルも心底から主を信頼してはいませんでした。ここに、奇跡を見た…

  • イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~

    イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~ - 札幌キリスト聖餐教会

  • 出エジプト記 13章 「救われた命は主のもの」

    主は、人間の男の初子と、家畜の雄の初子を、主のために聖別せよと命じられました。男の初子は、家の相続者であり、家名、将来、祝福を代表する存在でした。主は出エジプトの夜、人間も家畜もすべての初子を打たれました。しかしイスラエルの初子も、イスラエルの血筋ゆえに裁きを免れたのではありません。子羊の身代わりの死が必要でした。主はここで、救われた命はもはや自分のものではなく、主のものであることを銘記せよと命じられたのです。 羊・牛・山羊など、後にモーセに与えられる律法で規定されるきよい動物の場合は、文字通り、主にささげなければなりませんでした。ロバに代表されるきよくない動物の場合は、殺して主にささげること…

  • 出エジプト記 11章 「こっそり逃げたのではない」

    主は、イスラエルをこっそり脱出させることもできましたが、そうはされませんでした。全エジプトの前で、ご自分こそ主であり、イスラエルがご自分の民であることを明らかにされたのです。それは逃走ではなく、主による解放であり、贖いでした。 そのために主は、最後の災いを宣告されます。エジプトの初子が打たれるのです。これは突然の残酷な災いではありません。主はすでにファラオに、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。もし去らせないなら、あなたの子、あなたの長子を殺す」と告げておられました。(4章22‐23節) 初子が打たれるとは、その家の代表者、その家の継承者、その家の未来が打たれるということです。特にフ…

  • 出エジプト記 12章 「子羊の血によって救われ、旅立つ」

    第十の災いは、単に「エジプト人を罰し、イスラエル人を助ける」出来事ではありません。主がエジプトの初子を打つ夜、イスラエルの家も、ただ「イスラエルだから」という理由で見過ごされるのではありません。なぜなら、イスラエルも罪人だからです。 イスラエルは選ばれた民です。しかし、選ばれた民であることと、神の前に罪がないこととは違います。神はイスラエルを愛し、契約を覚え、救い出されます。けれども、救われるのは「イスラエルには罪がないから」ではありません。罪のない子羊の身代わりの死によって救われるのです。 だからイスラエルは、家の門柱とかもいに、子羊の血を塗るよう命じられます。「その血は、あなたがたのいる家…

  • 出エジプト記 10章 「頑迷の裁き――神に逆らい続ける心の行き着く先」

    第八のいなごの災いや第九の暗闇の災いを受けても、災いが去るとファラオは心をかたくなにし、イスラエルを開放しようとはしませんでした。その頑迷さは常軌を逸しているように見えます。家臣たちが、「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」と進言したのは非常にもっともなことです。 このファラオの頑迷さは、明らかに、「主がファラオの心をかたくなにされた」こと抜きには、説明できません。それは、エジプトに行われる奇跡を通して、イスラエルもエジプトも、この方こそが主であることを知るためでした(7章3-5節…

  • 「神の言葉と人間の好み」 ルカ 7章24−35節 ーYouTube動画をアップしました

    「神の言葉と人間の好み」 ルカ 7章24−35節 ーYouTube動画をアップしました - 札幌キリスト聖餐教会

  • 出エジプト記 9章 「裁きの中で分けられる心」

    第五の災いでは、主は疫病によってエジプトの家畜を打たれました。馬、ろば、らくだ、牛、羊。これらは、移動、農業、戦力、祭儀、生活そのものに関わるものでした。エジプトの力と豊かさを支えていたものが、主によって打たれたのです。しかしこの時も、エジプトとイスラエルははっきり区別され、イスラエルの家畜は一頭も死にませんでした。 第六の災いでは、モーセがかまどのすすをファラオの前でまき散らすと、エジプトの人と獣に、うみの出る腫物ができました。これはエジプトの呪法師たちへの裁きともなりました。彼らはもはやモーセたちの前に立つことができませんでした。これまで神のわざに対抗するようにふるまっていた者たちが、つい…

  • 出エジプト記 8章 「神の力と偽りの霊の力」

    前章において、モーセとアロンが杖を蛇に変えると、エジプトの呪法師たちも同じことをしましたが、モーセの蛇は呪法師たちの蛇を飲み込みました。聖書全体の教えから見れば、異教の霊能者たちの背後には、悪霊の働きがあると考えるべきです。実際、悪霊の力によって、ある程度の不思議なしるしが起こることはあります。しかし、それは神の力に及ぶものではありません。その力によって、一時的な癒やしや助けのように見えることが起こる場合もあります。しかし、それは人をまことの神へ導き、罪から救い、永遠のいのちへ至らせる力ではありません。むしろ人を神から引き離し、恐れや依存や高ぶりの中に閉じ込め、最後には不幸と滅びへ向かわせる危…

  • 出エジプト記 7章 「神はファラオの心をかたくなにされた -ローマ9章が示す神の主権ー」

    この章には、私たちの理解を超えた、大切な言葉が記されています。 「わたしはファラオの心をかたくなにする(3節)」 という言葉です。この言葉はこの後も、何度も繰り返されます。私たちはこの言葉を薄めてはなりません。神はファラオの頑固さをただ放っておかれたというのではなく、積極的に、ファラオの心をかたくなにされたのです。 しかしそれは、神が無実の人を悪人に造り変えたという意味ではありません。ファラオはもともと、神の民を虐げ、主の命令に逆らう高慢な王でした。彼は自分の罪によって神に逆らいました。しかし神は、その反逆をただ放っておかれたというのではなく、ファラオの罪深い心をも御手の中に置き、そのかたくな…

  • 礼拝説教要旨 「御国が来ますように」 ルカによる福音書 11章1-4節

    「御国が来ますように」と「御心が天で行われるように地でも行われますように」の二つの祈りは内容的には同じことを祈っていると考えられ、一つの祈りとみなされることが多い。このことは、マタイ6章では記されている「御心が天で行われるように地でも行われますように」という祈りが、ルカにおいては省かれていることからも分かる。つまり、この祈りは、この地上に神の御支配がなされますように、神の御心が実現されますようにという祈りである。 「御国が来ますように」と祈るように言われているということは、逆に言うと、この地上には御国がまだ来ていないということである。「神の御国」とは「神のご支配」と言い換えることができる。私た…

  • 礼拝説教要旨 「聖名が聖とされるように」 ルカによる福音書11章1-4節

    主の祈りについて、私たちの常識や予想を覆すのは、最初の祈りが「御名があがめられますように」と、神の事柄に関する祈りで始められていることである。私たちが祈るということを考えたとき、まず出てくるのは、自分の必要、自分の願いではないだろうか。しかし、主イエスは、まず始めに神の事柄に関して祈るように仰っているのである。それは、先週も学んだように、全ての人間の人生の出発点と土台、そして最終目的は、創造主なる神との関係であり、決して私たち自身の欲望の成就にあるのではないからである。主なる神に信頼して歩み、この方の愛を知ることによって、私たちもまた神を愛し、ほめたたえるようになること、神とのこの愛の関係こそ…

  • 出エジプト記 6章 「わたしはヤーウェである -神の名と弱い器ー 」

    「主に従ったのに、なぜ事態が悪化したのか」というモーセの訴えに対して、主は「わたしのしようとしていることは、今にあなたにわかる」と答えられました。主は、必ずしも私たちに前もってすべてを説明しようとはされません。主に心のあるがままを訴えることは大切なことです。しかし、私たちの最終的な言葉は、納得ではなく、信頼と服従であるべきです。その時に初めて、主のなさることの全体像が明らかにされていくのです。 主はここでモーセに、「わたしはヤーウェである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、ヤーウェという名では、わたしを彼らに知らせなかった。」と言われました。神は聖書の中で、いく…

  • イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~

    イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~ - 札幌キリスト聖餐教会

  • 礼拝説教要旨 「天の父への祈り」 ルカによる福音書 11章1-4節

    主イエスが教えてくださった「主の祈り」より、「父よ」(マタイ6:9では「天におられる私たちの父よ」)という言葉に注目して、私たちと神との関係について聖書の語りかけを受け取っていこう。 弟子達は、主イエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」と願った。主イエスはこの正しい願いを喜んで受け入れられ、主の祈りを教えられた。この主の祈りは、私たちの祈りの、ひいては私たちと神との関係の憲法のようなものであって、私たちの神に対するあるべき態度、姿勢、願いの全てが、この祈りの中に過不足なく含まれている。 クリスチャンとして生きるということは、主イエスのように生きると…

  • 礼拝説教要旨 「神の救いと裁き」 ルカによる福音書 10章3-16節

    今日の聖書の御言葉は、私たちにとって、なかなかすんなりと受け入れがたく、読みづらい箇所であると言えるのではないだろうか。全人類の救い主であり、愛の方である主イエスが、裁きの言葉をおっしゃると、違和感を受け、ともすると受け入れたくない思いがわいてくることもあるかもしれない。 しかし、聖書には愛の言葉や慰めの言葉だけでなく、警告の言葉、そして裁きの言葉もまた多くあることを私たちは正面から受け止めるべきである。 しかしながら、聖書に記されている裁きの言葉とは、神の私たちに対する憎しみを表しているのではない。そうではなく、神の私たちに対する愛を表しているのである。それは、「お前は、私の言葉に従わなかっ…

  • 礼拝説教要旨 「約束された収穫」 ルカによる福音書 10章1-12節

    私たちクリスチャンに与えられた大きな務めは、福音の種をまき、魂の収穫を刈り取ることである。すなわち、主イエスの救いの御言葉を語り、救われた生活の実を証しすることによって、隣人をこの救いへと導くことである。 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に借り入れる」と、詩篇126篇に歌われている。涙してまでも種を蒔くのは、必ず喜びの収穫の時が来ることを確信しているからである。種を蒔く者は、収穫を期待し、信じて種を蒔く。同じように私たちも喜びの収穫の時が来ることを信じて御言葉の種をまくのである。 一人の人が主イエスの救いを信じて救われ、洗礼を受ける時、それは喜びの収穫の時であるが、その収穫は自分が蒔いた種…

  • 出エジプト記 5章 「主に従ったのに、なぜ悪くなるのか」

    モーセとアロンはファラオに会い、まず「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしの民を去らせよ。彼らが荒野で、わたしのために祭りを行うためである」と告げました。そのうえで、「私たちが荒野へ三日の道のりほど行き、私たちの神、主にいけにえをささげることを許してください」と願い出ました。これはモーセたちの勝手な思いつきではなく、主があらかじめ命じておられた願いでした。 ところが、この願いですら、ファラオは全面的に退けました。それどころか、怒ってイスラエルの苦役をさらに重くするよう命じました。民は困惑し、モーセを非難し、モーセは、なぜ主の命令に従ったのに事態が悪化するのかと、主に叫びました。 しかし、こ…

  • 礼拝メッセージ要旨 「この世のすべてを超える価値」 ルカによる福音書 9章57-62節

    私たちは信仰によって生き、信仰によって救われる。その信仰とは使徒信条に記されているように、全能の父なる神のひとり子である、子なる神イエスキリストが、私たちの罪のために十字架につけられ、三日目によみがえってくださったこと、私たちを赦し、神の子となし、私たちの内に聖霊なる神を送ってくださったことを文字通り受け入れ、信じることである。さらに、子供が親を、兵士が司令官を、また患者が医者を、信頼し従うように、私たちは主なる神の愛と力に信頼し、日々この方に従って歩むのである。その歩みを通して、私たちは天国にふさわしい者へと、キリストに似た者へと造り変えられていくのである。 しかし、そのような歩みの中で、様…

  • 出エジプト記 4章 「家庭の現実の中で整えられる信仰」

    主がモーセに現れたことの証明として、三つのしるしが与えられました。蛇のしるしは、主がエジプトの王や呪法師をも支配する方であることを示しています。皮膚病のしるしは、主が病や汚れをも支配する方であることを示しています。そして、ナイルの水が血に変わる奇跡は、ナイル川で殺されたイスラエルの赤子たちの血に、主が報いられる方であることを示しています。 「私は口下手なのです」と、なおも尻込みするモーセに、主は、「誰が人に口をつけたのか。わたしがあなたに言葉を与えるから行け」とお命じになります。それでも行こうとしないモーセに、主は怒りを燃やされました。この時のモーセは、謙虚さを通り越して、恐れと不信仰に支配さ…

  • 「疑いを通って信仰に至る」 ルカ 8章18−26節 イザヤ書35章 4−6節 ーYouTube動画をアップしました

    「疑いを通って信仰に至る」 ルカ 8章18−26節 イザヤ書35章 4−6節 ーYouTube動画をアップしました - 札幌キリスト聖餐教会

  • イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~

    イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~ - 札幌キリスト聖餐教会

  • 出エジプト記 3章 「王子から羊飼いへ、そして神の器へ」

    モーセは、しゅうとであるイテロ、すなわちレウエルの羊を四十年飼いました。この仕事を通して、モーセは、思い通りにならない羊の群れを導く忍耐力、羊の小さな変化に気づく観察力、自分のものではない羊を預かる責任感、そして人目につかないところで孤独に働き続ける謙虚さと忠実さを学ばされました。エジプトの王宮での四十年は、彼に有能さを与えました。しかし、それだけでは十分ではありませんでした。自分の思い通りにならない環境で低くされ、王子ではなく、しもべとしての訓練を受ける必要があったのです。この四十年という数字を、そのまま私たちに当てはめる必要はありません。しかし、ヘブル書12章にあるように、主はご自分の愛す…

  • 出エジプト記 2章 「自分で救おうとしたモーセ」

    モーセはレビ族のアムラムとヨケベデという夫妻のもとに生まれ、神の摂理によって殺害を免れ、ファラオの娘の養子とされました。彼が実の父母のもとで育ったのは、おそらく二、三歳くらいまでだったと思われます。その後は家族から離され、王宮でエジプトの最高の教育を受けて育ちました(使徒7:22参照)。これは一面では恵まれたことでしたが、モーセの心の奥深くに、傷や不安を与えた面もあったでしょう。 モーセはエジプトの王宮で育ちながらも、自分がヘブル人(イスラエル人)であることを知っていたと思われます。しかし、自分の人生をエジプトの支配層の側に置くのか、それとも苦しむイスラエルの民の側に置くのか、その問いは、彼の…

  • 出エジプト記 1章 「助産婦たちの小さな抵抗」

    ヤコブ一家がエジプトに移住したとき、ヨセフはおよそ39歳でした。それからおよそ71年が経って、ヨセフは110歳で死にます。その後もしばらくの間、イスラエルの民はゴシェンの地で、エジプトの文化的・宗教的影響から守られ、おびただしく増えていきました。 これは、ただの自然な人口増加ではありません。「あなたをおびただしくふやそう」(創世記17:2)という、主がアブラハムと結ばれた契約の成就でした。イスラエルの民は、エジプトの中にありながら、エジプトにのみ込まれることなく、主の契約の民として保たれていたのです。 しかし、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こります。ヨセフの功績の記憶が薄れたころ…

  • 聖書Q&A 9 「太宰治は、聖書をよく読んだと言いますが、 なぜ自殺をしたのですか?」

    A: 君は、太宰治の「人間失格」という本を読んだことがあるかな?彼は、小さい時から深い憂いを含んだ自分の顔の写真を見つめながら、人間の暗い絶望的な悲しみを書いた。彼は、この作品の中で、一つのことを求めて叫んでいる。それは、「罪の反対語は何か?」だった。 つまり、悲しみの反対には、慰めというものがある。しかし、罪の反対語、罪を全く打ち消してしまう力あるものは何かを、彼は求めていたんだね。それで聖書を一生懸命読んだ。しかし、聖書を読めば読むほど、彼の心は苦しくなった。聖書を読み、人間の罪が知らされるだけで、その罪をゆるす神の愛を発見することが出来なかったからだ。 ついに彼は、罪に苦しみながら、自分…

  • 創世記 50章 「悪を益とされる神」

    ヤコブはヨセフに、自分の遺体をエジプトではなく、必ずカナンのマクペラに葬るようにと固く命じました。それは、自分たちはエジプトで生活してはいても、エジプトの民ではなく、主との契約に生きる主の民である、という信仰の現れでした。後にヨセフ自身も、いずれイスラエルの民がエジプトからカナンに帰る時が来たら、自分の遺体を携えていくようにと命じました。これは、神の契約に生きる民は、この世に生きてはいても、神の国に所属する民であることの表れです。 しかしながら、一方で、ヨセフは、エジプトの宰相としての責任や手続きをないがしろにはしませんでした。まず、腐敗を防ぐために父の遺体をミイラにすることを命じ、続いて、葬…

  • 創世記 49章 「十二部族に定められた道」

    ヤコブは死を目前にして、十二人の息子を呼び、一人一人に預言を与えます。そこには、祝福、裁き、部族の将来の預言が含まれています。主な内容は、長子ルベンは退けられ、シメオンとレビも退けられ、王権はユダに、長子の権利はヨセフに与えられる、というものです。 ルベンは長子でしたが、父のそばめビルハと寝たために、本来受けるはずだった指導権を失いました。それは、父の権威を踏みにじり、家の秩序を破壊する行為でした。古代世界では、父のそばめと寝ることは、単なる性的不品行にとどまらず、家長の権威への重大な挑戦を意味しました。「水のように奔放」とは、力はあるが制御できないという意味です。ルベンには良い資質はありまし…

  • 創世記 48章 「この世の序列を越えて」

    父ヤコブの死が近いことを知ったヨセフは、二人の子、マナセとエフライムを連れて、父のところに行きます。マナセとエフライムはエジプト生まれであり、また、二人の母はエジプトの祭司の娘でした。そのため、彼らもまた、アブラハムの祝福を受け継ぐ契約の民の一員であると、公式に宣言されることは重要なことでした。 ヤコブは二人を祝福しただけでなく、彼らを自分の子として受け入れ、自分の息子たちと同等の相続権を与えました。ここに、ヨセフの名は、マナセ部族とエフライム部族という二つの部族によって受け継がれることとなりました。これは、ヨセフの子孫が、ほかの兄弟たちの二倍の相続地を受け継ぐことを意味します。すなわち、第一…

  • 創世記 47章 「低くされた祝福の器」

    ヤコブは息子たちのうちの五人と共に、ファラオに謁見します。立ち去るときに、「ファラオ(パロ)に挨拶して」とありますが、原語ヘブライ語の「バーラク」の基本的な意味は「祝福する」です。ただし、文脈によっては「挨拶する」という意味にも広がります。そのため、協会訳や新共同訳では「祝福した」「祝福の言葉をのべた」と訳されています。実際に行われた行為は、祝福を含む、敬意をこめた挨拶と考えるのが自然でしょう。 しかし、ヤコブには、自分こそファラオを祝福する偉大な人物である、というような高い自意識はなかったでしょう。9節にあるように、130歳になったヤコブは、自分の生涯を、短く、苦しみの多いものとして振り返っ…

  • 創世記 46章 「守るために離される」

    ヤコブはヨセフの招きに応じ、飢饉を逃れるため、一族70人を引き連れてエジプトに移住します。ベエルシェバまで来た時、主は夢の中でヤコブに現れ、エジプト移住が主の御心であること、主はエジプトでイスラエルを増やし、またカナンへと導き出すことを語られました。 この導きは、ヤコブ家に対する保護であると同時に、裁きと懲らしめをも含んでいました。ヤコブ家はカナン文化に引き寄せられ、すでにかなり危うい状態にありました。カナン文化は、堕落してはいましたが、何の魅力もなかったわけではありません。現実的・感覚的・経済的に魅力のある文化でした。だからこそ危険だったのです。遊牧民的なヤコブ家と異なり、カナンはすでに町が…

  • 創世記 45章 「節理の中で前へ」

    ヨセフは自分を抑えられなくなって正体を明かし、およそ22年ぶりで、兄弟としての再会が実現します。ここで、ヨセフは兄たちに、「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」と言っています。ここには人間の理性では究め尽くすことのできない神秘があります。人間は神の操り人形ではなく、自分の意志で選択した善悪の責任を免れることはできません。裁きと刈り取りと罰は厳然と存在します。しかし、神は、一見、人間にやりたい放題にやらせているように見えつつも、すべてを支配し、すべてを導き、ご自身の計画を実現させることができる方なのです。ヨセフが売られたことも、苦難の後にエジプトの大臣の座に就いた…

  • 創世記 44章 「弟の身代わりになる」

    ヨセフは兄たちが本当に変えられたのか見極めるため、最後の試験を与えます。ベニヤミンに盗みの濡れ衣を着せ、自分の奴隷にしようとしたのです。彼らにとっては全く身に覚えのないことであり、また、ベニヤミンがそんなことをする筈がないという確信もあったでしょう。しかし、ユダは「私たちは決してそんなことはしていません。」とも「何かの間違いです。」とも言わず、「神がしもべどもの咎をあばかれたのです。」と言いました。彼は、これら一連の不思議な出来事は、神が、自分たちが昔ヨセフを売った罪を暴いておられるのだ、と悟ったのです。事実その通りでした。弟を奴隷としてエジプトに売った者たちが、再び同じ状況に置かれ、弟を見捨…

  • 創世記 43章 「失うときには、失うのだ」

    ヤコブの息子たちの不和と、ヨセフの悲劇の主な原因は、ヤコブの偏愛でした。それにもかかわらず、ヤコブはヨセフの次はベニヤミンを偏愛しました。ベニヤミンはもう30を過ぎた一家の父ですが、ヤコブは彼だけを特別扱いしてエジプトに行かせませんでした。ヨセフとベニヤミンが愛妻ラケルの忘れ形見であることも影響していたでしょう。 しかし、ベニヤミンを失うまいとすることが、かえって家族を死に近づける状況に追い込まれ、ヤコブはついに、ベニヤミンをエジプトに送る決意をします。ヤコブらしく知恵を巡らせて、精一杯の贈り物を用意するものの、最終的には神の御心次第であるとの認識が、14節の言葉に表れています。「私も、失うと…

  • 創世記 42章 「罪の記憶は消えない」

    夢の解き明かしの通りに大飢饉が起こり、エジプトに穀物を買いに来た兄たちがヨセフを伏し拝みました。ここにヨセフが見た夢が現実となったのです。しかしヨセフはすぐには正体を明かしませんでした。兄たちが昔のままなのか、それとも変えられたのかを見極めるためです。ヨセフは彼らを三日間監禁し、シメオンを人質にして、父のもとに残る弟ベニヤミンを連れて来るよう求めました。こうして兄たちもまた、神のお取り扱いの下で、自分たちがかつてヨセフに与えた恐怖と苦しみを味わうことになります。 彼らは、「私たちはヨセフにしたことの罰を受けているのだ」と互いに言いました。どれだけの年月が経っても、人は、自分の罪の記憶から逃れ続…

  • 創世記 41章 「炉を通って器となる」

    神はヨセフをまず牢獄から出し、二年後にファラオの前で夢の解き明かしをさせることも当然おできになりましたが、そうはなさいませんでした。また、ヨセフに「お前が牢から出るのは二年後だ。」と告げられることもなさいませんでした。それゆえに、ヨセフは希望が裏切られ、失望し、苦しむことになりました。「自分は牢獄で一生を終えるのではないか」という疑いに苦しむこともあったでしょう。それら全ては、自分の知識や計画ではなく、何も見えない中でも神ご自身により頼む者へと作り変えられるためでした。 その変化は、机の上では起こりません。人は、先の見えない試練の炉を実際に通されることによってのみ、砕かれ、変えられるのです。後…

  • 創世記 40章 「主の約束に鍛えられる」

    大きな動きだけを追うと、ヨセフの生涯は、一見波乱万丈でドラマチックなものに見えます。しかし、彼の現実の日々は、苦悩の中で、主の約束を信じつつ、地道に仕え続けるという、困難なものでした。詩編に、「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。(105:18‐19)」とある通りです。彼は17歳で売られ、数年たって投獄され、30歳でファラオの前に立ちます。その長い年月は決して楽なものではありませんでした。 そのような中で、神の時に、神の方法で、事が起こっていきます。献酌官長と調理官長がファラオの怒りを買い、ヨセフと同…

  • 聖書Q&A 8 「最近、生きているのがいやになってきました。 私一人くらい、いなくなったっていいと思います。」

    A:君は自殺を考えているのかい?しかし、自殺することはいけないんじゃないかと思って、電話をくれたんだね。ありがとう。 前にもこんな相談を受けたことがあった。その時、私はその人に、逆にこう質問してみた。 「ではね、なぜ自殺したらいけないんだろう?」 親をとても悲しませてしまう。社会にめいわくをかけてしまう。だけど・・・だけど、生きて苦しんでいるこの苦しみにくらべたら、どうってことはない。地球には何十億の人間が住んでいる。自分一人くらい、いなくなったって、いいじゃないかーこの質問を君にもしてみよう。 君一人くらいいなくなったっていいか? 君は、ほんとうに何十億分の一くらいの価値しか持っていないのか…

  • 聖書Q&A 7 「イエス・キリストが、死んで、三日目によみがえったなんて 信じられないや。」

    A: ほんとのことなんだよ。きみにこれだけはわかってもらいたいな。そのまま聖書のことばを引用しよう。「キリストは、聖書にしるされているとおり、私たちの罪のために死なれ、墓に入れられたこと、そして、預言者たちの予告のとおりに、三日目に墓の中から復活されたことです。(コリント教会の皆さんへⅠ15章3,4節)」クリスチャンの希望は、まさしく、「キリストは墓から復活された」という事実なんだよ。目に見えるものだけがあると信じている人は、死んだ人が復活したとか、四十日ほども、弟子たちといっしょにおられて、それから天にのぼられたなんて、信じることができないかもしれない。だけど、ここがだいじなんだよ。弟子たち…

  • 創世記 39章 「苦い杯を受け取る信仰」

    ヨセフはエジプトに連れていかれ、王の廷臣ポティファルの奴隷として売られましたが、その家で忠実に仕え続けました。絶望しても無理はない状況でした。しかし、ヨセフ自身の力ではなく、信仰が彼を支えたのです。ヨセフには、かつて夢によって示された神のご計画がありました。「兄たちの悪意によってエジプトへ売られたとしても、神の約束が消えたわけではない。この苦難にも意味があり、神が備えておられる務めのために、自分を訓練しておられるのだ。」ヨセフはそう信じたのです。 主イエスを信じる者に対して、聖書は数々の祝福を約束しています。特に、福音書や黙示録において主イエスが語られた将来の褒美の約束は、文字通り受け止めるの…

  • 創世記 38章 「あの女は私より正しい」

    この章はわかりにくいですが、マタイ1章の系図にも言及される、非常に重要な内容を含んでいます。まず、ヤコブの四男ユダは、カナン人であるヒラの近くに住み、親しく交わっています。これは、34章で見られた「シェケム定住化」と同じ流れです。さらにユダは、カナン人シュアの娘を妻としました。これは、アブラハム、イサク、ヤコブが避け続けてきた、「結婚による異邦人との同化」の道を、ユダが歩み始めたことを示しています。また、タマルという女性が、ユダの長男エルに嫁ぎます。彼女の系図が全く記されていないことから、ヤコブの近縁ではなく、カナン人女性であった可能性があります。つまりユダは、兄弟たちから離れ、アブラハム以来…

  • 創世記 37章 「見えない神の統治」

    ヤコブの子ヨセフは、えこひいきされた子供でした。ヨセフはヤコブが年を取ってから生まれた子であると共に、今は亡き最愛の妻ラケルの面影を残していたのかもしれません。ヤコブの両親に偏愛があったことも、自分の偏愛の罪に対するヤコブの鈍感さに影響したかもしれません。いずれにせよ、ヤコブのこの愚かさは、兄弟間の対立と憎しみとなって、ヤコブの人生に刈り取りをもたらします。 ヨセフは賢く忠実な少年でしたが、未熟ゆえに、高ぶりと人の気持ちに対する鈍感さがありました。兄たちの悪い噂を父に告げ口したことがそのまま罪であると断定はできませんが、おそらくその動機や方法は、愛と知恵に基づくものではなかったでしょう。また、…

  • 創世記 36章 「選びと隠されたこと」

    この章は、イサクの長男エサウの系図です。エサウは、アブラハムの祝福を受け継ぐ者ではありませんでした。25章に系図が記されている、アブラハムの長男イシュマエルも同様です。これは彼らが何をしたから、しなかったから、ということ以前に、彼らが生まれる前からの神の選びの計画によることが、ローマ書9章に記されています。エサウとその子孫たちは、全体としてはアブラハム契約の系図から離れて住み、偶像を拝む異邦の民として歩みました。律法も与えられず、主との契約的交わりの内を歩む民とはされませんでした。イシュマエルの子孫たちも同様です。 しかし、例外もありました。カナン人ラハブ、ギベオンに住むカナン人たち(ヨシュア…

  • 創世記 35章 「もう一度、神の前へ」

    シェケムに定住しかけたヤコブ一家でしたが、ベテルに住むようにとの主の御言葉がありました。これは、「もう一度、徹底的に私の前に立ち返れ」との主の示しでもありました。ヤコブには神とこの世への二心がありました。シェケムに落ち着こうとする前にヤコブが主の御心を尋ね求めていれば、このような悲劇は起こらなかったことでしょう。 ヤコブは一家が危険な方向へと流されていることを感じ取り、悔い改めて心を一新し、異国の神々を捨て去るように命じます。ラケルも父ラバンからテラフィムという偶像を盗みましたが、それだけではなく、シェケム滞在中や、ヤコブがラバンの下で働いていた時代に、戦利品や捕虜や使用人を通しても、多くの偶…

  • 創世記 34章 「居心地の良い危険」

    エサウとの再会を前にしたヤコブは危機感と緊張の中で必死で神に祈り、すがりました。しかし、その後、シェケムの地を購入して、根をおろし始めたヤコブには、霊的なゆるみが見られます。シェケムは通商上の要衝にあって豊か、土地は肥沃で、人々も友好的でした。その中で、神に聖別された寄留の民としての緊張感と境界線が失われていきました。ディナが土地の娘たちを訪ねようとして(別訳:見ようとして)出かけて行ったことにも、カナン文化への接近と、その土地に馴染み始めていたヤコブ家の空気があらわれています。そこでシェケムによる辱めの事件が起こったのです。 不気味なのは、ディナを辱めたシェケムも、その父ハモルも、大きな罪を…

  • 「死に勝つ権威を持つ方」 ルカ 7章11−17節 ーYouTube動画をアップしました

    「死に勝つ権威を持つ方」 ルカ 7章11−17節 ーYouTube動画をアップしました - 札幌キリスト聖餐教会

  • メッセージ 「わたしはよみがえりです、いのちです。」

    (老人ホームで語ったメッセージです。) 今日は、聖書の言葉を一つお読みします。ヨハネの福音書11章というところです。 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」これは、イエス・キリストのお言葉です。 私たちの人生には、いろいろな時があります。若い時があります。元気に働いた時があります。家族のために一生懸命だった時があります。人を支えた時、人に心配をかけた時、うれしかった時、つらかった時、いろいろな時があったと思います。そして、年を重ねると、だんだん自分でできることが少なくなっていきます。 私もこのあいだ50歳になりましたが、 夕方にな…

  • 創世記 33章 「イスラエルとヤコブの間で」

    神との格闘を通して砕かれたヤコブは、エサウに心からのへりくだりを見せました。その姿を見たエサウは、かつての怒りを捨て、駆け寄ってヤコブを抱き、口づけしました。長年にわたる兄弟の確執が溶け去った瞬間でした。以前のヤコブなら、ここまで自分を低くすることはできなかったでしょう。ペヌエルでの出来事は、確かにヤコブを変えたのです。 しかしその一方で、ヤコブの中にはなお古い性質が残っていました。エサウから「一緒に行こう」と誘われた時、ヤコブは、家畜や子供がいるので後から参ります、と答えます。しかし実際にはセイルへは行きませんでした。ここにはなお、人を恐れ、波風を立てず、策略的に立ち回ろうとする、昔のヤコブ…

  • 聖書Q&A 6 「救われるとか、信じるとかいいますけど、 どういうことなんですか?」

    A: うーん、これは信仰の根本の問題だね。大事なことなんだ。 聖書の中の救われるということは、ただひとつ、罪がゆるされ、いのちが助かることなんだ。 この「いのちの救い」こそ、キリスト教の中心。いのちを救うのは、キリストの福音をおいてほかにはないんだよ。 聖書に、こんなことばがある。 「一度だけ死ぬことと、死んだ後、さばきを受けることとが、人間に定まっている。(へブル人への手紙9章27節)」 人間は、みんな、死ぬんだ。 そして、人間が神さまに従わないで、自分勝手な道を歩いているならば、神の国にはいれず、永遠の滅びにはいってしまうんだ。 この永遠の滅びからの救い、そして「神の国の人間」にする。これ…

  • キリスト教を知りたい方へ Q&A

    キリスト教や聖書に関心はあっても、何から知ればよいのか分からない、という方もおられると思います。 「神さまは本当にいるのか」「聖書はどんな本なのか」「イエス・キリストとは誰なのか」「教会では何を信じているのか」 キリスト教が初めての方にも分かるように、基本的なことを簡単にご紹介します。 Q1. キリスト教とは何ですか? キリスト教は、イエス・キリストを救い主として信じる信仰です。 キリスト教は、単なる道徳や人生訓ではありません。「よい人になりましょう」という教えにとどまるものでもありません。 聖書は、神がこの世界を造られ、私たち人間を愛しておられることを教えています。そして、人間が神から離れて…

  • 聖書一日一章 創世記 32章 「神に負ける勝利」

    ヤコブが兄エサウと向き合う時が来ました。それは、今まで避け続けてきた、自分の過去の総決算の時でした。エサウは長子の権利をヤコブに売り渡していたので、腹を立てる資格は本来ありません。父イサクの責任もあります。ヤコブだけが悪いわけではありません。しかし、ヤコブが父と兄を騙した汚いやり方は、確かにエサウを怒らせて当然のものでした。 ヤコブは兄に使いをやって、丁重にへりくだります。しかしその結果は、兄が武装した四百人の家来を連れてやってくるという知らせでした。これは平和的な応答ではありません。エサウは殺意満々だったわけではないものの、ヤコブに対する複雑な思いは残っていたことでしょう。 ヤコブは救いを求…

  • 聖書Q&A 5 「神さまって、ホントにいるの?」

    Q: 神さまって、ホントにいるの? A: ここでりくつをいうのはよすけど、君は、ほんとうに、君のお父さんとお母さんがいるどうか、うたがったことはないかい?ないだろうなあ。君がいるってことは、君のお父さんとお母さんがおられるからなんだ。 人間がいる! 何かのきっかけで、偶然できあがったにしては、あまりによく出来すぎている。 わけがあって生まれないかぎり、人間は、この地上に現れなかったんだ。その「わけ」をつくったのは神さまなんだ。人間はとても頭がいいのも、神さまは、ご自分に似せて人間をつくられたからなんだよ。(創世記1章27節) 「だって、神さま、神さまっていうけど、目に見えないじゃない」って? …

  • 教会についてのQ&A

    教会についてのQ&A Q1. 初めてでも礼拝に出席できますか? はい。初めての方も、どうぞ安心しておいでください。 礼拝には、どなたでも出席していただけます。聖書を読んだことがない方、教会に一度も行ったことがない方も歓迎しています。 分からないことがあって当然ですので、どうぞそのままおいでください。 Q2. 聖書やキリスト教の知識がなくても大丈夫ですか? 大丈夫です。 教会は、すでに聖書をよく知っている人だけの場所ではありません。聖書が初めての方にも分かるように、できるだけ丁寧にお話しすることを心がけています。 Q3. 礼拝では何をするのですか? 礼拝では、賛美歌を歌い、聖書を読み、祈りをささ…

  • イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~

    イベント案内 座談会「一緒に考える心のこと 摂食障害」 6月13日 1:30~ - 札幌キリスト聖餐教会

  • はじめての方へ|札幌キリスト聖餐教会のご案内

    札幌キリスト聖餐教会は、札幌市北区にある小さなプロテスタント教会です。聖書のことばを大切にし、日曜11時から礼拝を行っています。 教会が初めての方、クリスチャンでない方も歓迎いたします。服装は自由です。予約も必要ありません。献金や入信を強要することは一切ありませんので、安心してお越しください。 礼拝について 毎週日曜日 午前11時から礼拝を行っています。聖書を読み、讃美歌を歌い、牧師が聖書からメッセージを語ります。 初めての方にも分かりやすい礼拝を心がけています。聖書や讃美歌をお持ちでない方も、教会に備え付けのものをお使いいただけます。 初めて教会に来られる方へ 「教会は初めてなので不安です」…

  • 聖書一日一章 創世記 31章 「神の時が来る」

    ヤコブは妻を得るために、十四年間、ラバンのために働かなければなりませんでした。その後、自分の財産を築くために、さらに六年間、ラバンの下で働きました。ラバンはヤコブを搾取しようとする、貪欲で狡猾な悪い主人でしたが、ヤコブには家族を養う基盤がなく、また兄エサウの激しい怒りを買っていたため、その場に留まらざるを得なかったのです。 ヤコブは自分の策略で人を出し抜き、自分のために道を切り開く人間でした。生来の性格もありますが、父の愛が専ら兄に向けられていたため、そうせざるを得なかった面もあるでしょう。そのようなヤコブが、欲しいものをすぐに得られず、自分ではなく他人の都合で動かされる、そのような環境で二十…

  • 証し(信仰の体験談) 於 2026年お茶会

    今年のお茶会で、当教会に通っている方が語られた、信仰の体験談です。 皆さん、今日はお集まりいただき、ありがとうございます。 今日は、私が神様と出会った時のお話などを、少しできたらいいなと思っています。 子育て中で、なかなか時間を取れず、携帯で「どんなことを話そうかな」という感じで、メモしながら考えていたんですよね。 結局、昨日の夜までずっと悩み続けて、家族でお祈りをして、なんとなく「こんなことをそのまま話せばいいかな」というのを主人と話しながら決めて、今日来ました。 私自身、この教会に通って、丸々7年経ちました。 主人と函館で出会いまして、もともと私、函館出身なんですけども、33年間、函館から…

  • 聖書一日一章 創世記 30章 「思い通りにならない祝福」

    ヤコブの家庭は、理想からほど遠いものでした。 レアはユダを生んだ時に神に向かう姿勢を見せましたが、子どもを産むことによって夫の愛を得ようとする執着から、完全に解放されていたわけではありません。一方で、ラケルは四人の子を産んだ姉への嫉妬を爆発させ、女奴隷ビルハを通して子を得ることによって、挽回しようとします。それを見て、レアもまた、女奴隷ジルパを夫に与えて妹に対抗しようとします。ヤコブは家庭を治める責任を果たさず、流れに身を任せ、霊的なリーダーシップを取ろうとしていません。 二人の妻のために十四年働く契約が満了したため、ヤコブはラバンと別れて故郷に帰ろうとします。しかしラバンは報酬を払うことを申…

  • 聖書一日一章 創世記 29章 「神に愛されているしるし」

    ラバンの狡猾さは、ヤコブより上手でした。リベカの性格も鑑みると、おそらくヤコブは、ラバンやリベカの家系に見られる狡猾さを受け継いだのでしょう。ヤコブはラケルと結婚するために七年間働きますが、結婚式の翌日、結婚したのはレアであったことに気づきます。ラバンに騙されたのです。すぐにラケルをも妻にしますが、さらに七年間、この狡猾な伯父の下で働かなければなりませんでした。ヤコブはここに神の御手を感じたことでしょう。兄と父を騙した自分の罪に、神が報いられたのだと。ヤコブは騙された者の痛みと、自分の罪の重さを知りました。 ヤコブの家庭は、姉妹が同じ男を夫とするという、複雑なものとなりました。レアは夫に愛され…

  • 聖書一日一章 創世記 28章 「祝福とは何か」

    祝福を継ぐためにイサクを騙したことの結果は、ヤコブにとっては家族との別離、リベカにとっては最愛の息子との別れでした。ヤコブにとっては、何の財産も、後ろ盾もなく、すべてを強制的にリセットされ、身一つで、新たな人生へと投げ出されたようなものです。 しかし、伯父ラバンの家に向かう旅の途中で、神は夢の中でヤコブに現れました。そして、決してヤコブを捨てず、祝福の約束を成し遂げ、故郷へ連れ帰るという約束をお与えになりました。神の真実は私たちの忠実さに対する報酬ではありません。罪を犯して、追放同然で家族に別れを告げたヤコブでしたが、それにもかかわらず、神の祝福はヤコブを離れませんでした。その祝福とはヤコブに…

  • 聖書一日一章 創世記 27章 「神の支配、罪の刈り取り」

    イサクの家庭は決して理想的なものではありませんでした。この章には、イサクの家族一人一人の罪が浮き彫りにされています。 家庭の分裂に、最も責任があるのはイサクです。「兄が弟に仕える」という、妻に与えられた預言のことを、イサクは知っていたはずです。しかしイサクは、リベカとヤコブには知らせずに、エサウを祝福しようとします。ヤコブよりエサウの方が自分の好みであり、また、エサウの持ってくる狩りの獲物を好んだからです。祝福の継承という、この上なく重要な選択を、まず主に聞いて、自分の責任において舵を切るのではなく、肉の欲を優先して流れに任せるという、イサクの弱点がここに露呈しています。 エサウは長子の権利を…

  • 聖書一日一章 創世記 26章 「目立たない忠実さ」

    イサクはアブラハムやヤコブに比べて、目立たない印象を受けます。しかし、彼の生涯が劇的でないからといって、浅いとは限りません。彼の信仰は、静かに受け継ぎ、弱さを抱えたまま、主の恵みに留まり続ける信仰でした。 アブラハムは飢饉の時にエジプトに下りましたが、イサクは主の言葉を聞いて、ゲラルに留まりました。イサクは自分で道を切り開く英雄ではありませんでしたが、神が置かれた場所に踏みとどまり、地味に、地道に義務を果たし続ける人でした。神は、小さいことに対する目立たない忠実さを、重く見られる方です。特に、新約聖書の主イエスのお言葉の数々に、そのことが表れています。 イサクには弱さがあります。恐れから父アブ…

  • 聖書一日一章 創世記 25章

    結婚後、イサクに子供が生まれるまで、20年かかりました。イサクは祝福を受け継ぐ約束の子であり、リベカはその妻として選ばれていた器です。だからといって、彼らの人生は、エスカレーターのように、自分は何もしなくても、すべてが順調に運ばれていくというものではありませんでした。むしろ選ばれていたからこそ、父アブラハムと同じように、思い通りにならない中で、悩み、祈り、信じ、待ち望まなければなりませんでした。この長い待ち望みは、神の約束の実現が決して人間の能力によらず、ただ神によることを悟らされ、全面的に神に依り頼む者とされるためのものでした。 エサウに対する新約聖書の評価は非常に厳しいものです(へブル12…

  • 聖書一日一章 創世記 24章

    イサクにふさわしい結婚相手を探すことは、アブラハムにとって極めて重要な課題でした。イサクは、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ特別な器、約束の子だからです。その祝福の本質は、現世的な富や名誉ではありません。神との関係です。ですから、イサクの妻が、その価値を理解し、神からの祝福をほかの何よりも重んじる女性であるかどうか。ここが一致していなければ、すべてが崩れるのです。 このように、聖書は、信者が結婚を考えるとき、相手が主にある者であることを重んじます。結婚とは、ただ気が合う相手と暮らすことではなく、人生をどちらの方向に向けて歩むかという共同契約であり、人格的な結びつきだからです。ただし、すでに…

  • 聖書一日一章 創世記 23章

    サラは127歳で世を去りました。大洪水以前の長命の名残を感じさせつつも、人の寿命は確実に短くされていく時代にありました。どれほど長く生きたとしても、人は必ず死に向かう存在です。 アブラハムは、サラを葬るために、カナン先住のヘテ人と交渉してマクペラの洞穴を買い取ります。ヘテ人たちは二度にわたって「ただで差し上げます」と申し出ますが、アブラハムはそれを受けず、正当な代価を支払って取得しました。この時代の慣習では、「無償で与える」という言葉は一種の儀礼であり、最終的には正式な取引によって所有を確定させることが重んじられていました。アブラハムはその慣習に従い、誰の目にも明らかな形で土地を取得したのです…

  • 聖書一日一章 創世記 22章

    イサクをささげよ、という神のご命令はアブラハムの信仰の急所を突くものでした。これまでのアブラハムの最大の弱点は、神の約束の実現のために、自分で小細工をして、自分で状況をコントロールしようとすることでした。ハガルの件も、妻を妹と偽る二度もの失敗もそうです。 ついに与えられたイサクは、愛する息子以上の存在です。神の約束の実現であり、神が約束された祝福の出発点、土台そのものでした。実に神は、それを手放せとアブラハムに命じられたのです。これは美しい話ではありません。常識で考えれば、あまりにも過酷な命令です。 それは、希望の最後の根拠を神ご自身に置くか、それとも神が与えられた手段に置くか、という究極の選…

  • 聖書一日一章 創世記 21章

    子が与えられるという主の約束が、ついに実現します。しかしそれは、アブラハムの功績によるのではありません。ハガルの件にしても、前章のアビメレク事件にしても、アブラハムはむしろ神を信じきれず、人間の計らいによる肉の道へ傾く者でした。そして、神はあえて約束の実現を遅らせることによって、アブラハムの内に潜んでいた不信と、人間の力で神の約束を支えようとする思いを、ことごとく明るみに出されました。ですから、「アブラハムにも何か優れたところがあったから、約束が実現したのだ」と考える余地は、もはや全くありません。約束の子の誕生は、人間の善意や知恵や努力、生み出す力によるのではなく、ただ神の恵みの約束によるので…

  • 聖書一日一章 創世記 20章

    アブラハムは、同じ罪を繰り返しました。自分が殺されることを恐れ、妻サラを妹と偽り、自分の身を守ろうとしたのです。それは、サラとの間に子を与えるという神の約束さえ危険にさらす行為でした。 彼は神を知らなかったのではありません。しかしなお、人を恐れる心が深く残っていたのです。そしてその恐れに備えて、あらかじめ「もしものときの手段」を用意していました。その結果、同じ状況になると、同じ罪に戻ってしまう。これはアブラハムだけでなく、私たちの現実でもあります。 しかし主はアブラハムを見捨てられませんでした。異邦人アビメレクに警告を与え、サラを守られました。そこには厳しさと恵みが同時に示されています。知らず…

  • 聖書一日一章 創世記 19章

    創世記19章ロトは無法者ではありませんでした。ソドムの門に座っていたと記されているように、彼はもはや単なる居留者ではなく、ソドムの社会の中で一定の立場を占める者となっていました。一方アブラハムは、都市から離れて天幕生活を続ける、得体の知れない放浪者のように見えたことでしょう。この世の基準から言えば、ロトの方がはるかに尊敬できる存在に見えたはずです。 またロトは、偽物の信仰者でもありませんでした。新約聖書が彼を「義人ロト」と記しているように、彼はソドム人と行いを共にせず、その不法を見聞きして心を痛めていました。 しかし、ロトの信仰は世に勝つ信仰ではありませんでした。町が滅ぼされる時にも彼はぐずぐ…

  • 一日一章 創世記 18章

    創世記18章 「滅ぼすまい。その十人のために。」 主のこのお言葉には私たちの理解を超えた神秘があります。 「正しい者と悪い者をいっしょに滅ぼすようなことを神がなさるはずがない。」それは誰もが同意するでしょう。しかし、ならば、悪い者と正しい者をより分けて、悪い者だけを滅ぼせばよい。私たちは当然、そう考えるのではないでしょうか。しかし、主はアブラハムの執り成しに応えて、「滅ぼすまい。その十人のために。」と言われたのです。また、もしアブラハムの執り成しがなければ、そのような取り扱いは、なかったことしょう。 ここには、共同体性の神秘があります。私たちが意識しなくとも、私たちの祈り、言動、生き方、さらに…

  • 聖書一日一章 創世記 17章

    創世記17章 前章の失敗から13年後、神はアブラハムに現れ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われました。この「全き者(ヘブル語ターミーム)」とは道徳的に欠点のない者、罪を犯さない者という意味ではありません。心が分裂していない者、全面的に神に属している者、という意味です。アブラハムは神を全否定したわけではありませんでしたが、神の約束だけで十分とはしませんでした。つまりここで神は、道徳的に完全無欠であれ、と言われたのではなく、「わたしは全能の、真実な神である。だから、いつもわたしと共に歩め。わたしにひとすじに信頼し、二股をかけるな。わたしだけで足りている、他…

  • 聖書一日一章 創世記 16章

    創世記16章 前章は、神の恵みの約束という素晴らしい章でした。しかし、16章にはアブラハム夫妻の罪と失敗が記録されています。神は前章で子孫と土地を与えると誓われましたが、それはすぐに実現しませんでした。15章と16章の間に、数年が経過していると思われます。アブラハムは85歳になっていました。 その数年の待ち望みを通して、アブラハムの中に潜んでいた不信仰、不徹底、自己依存が明るみに出されました。焦ったアブラハムは神の時を待ち続けることをせず、神の方法にゆだねず、自分の時、自分の方法に置き換えたのです。神は確かに約束をされたが、自分にも何かができる。神の約束と自分のやり方を組み合わせればよい、とい…

  • 聖書一日一章 創世記 15章

    前章では、高潔で英雄的ともいえる信仰の高みを示したアブラハムでした。しかし、一段落ついて緊張が解けると、激しい疲れ、虚脱感、不安、恐れといったものに襲われたことでしょう。それは人間として自然な姿であり、信仰者に繰り返し起こることでもあります。四王の報復の可能性も現実的でした。 そのようなアブラハムに主は語られます。「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」しかしアブラハムは、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。」と、自分の懸念を具体的に、包み隠さず訴えました。不安を抱えながらも、神から離れるのではなく、神に向かって問いかけているの…

  • 「ただ、おことばをいただかせてください」 ルカ 7:1−10 マタイ8:5−13 ーYouTube動画をアップしました

    「ただ、おことばをいただかせてください」 ルカ 7:1−10 マタイ8:5−13 ーYouTube動画をアップしました - 札幌キリスト聖餐教会

  • 聖書一日一章 創世記 14章

    創世記14章 エラムの王ケドルラオメルを中心とする四王の連合軍と、ケドルラオメルに背いた、ソドムの王を含む五王の連合軍との闘いが勃発し、五王が敗れます。ソドムの魅力に負けて住人となっていたロトは戦いに巻き込まれ、捕虜とされました。これは彼がどこに身を置いたか、その選択の結果です。神はこの出来事を通して、ロトに懲らしめと警告を与えておられました。 アブラハムは私兵318人を率いて、四王の軍に夜襲をかけて打ち破り、財産を取り戻し、捕虜を解放しました。20節に記されているように、この勝利は明らかに神の助けなしではありえないことでした。ローマ書13章にあるように、その行使には謙遜さと知恵が必要ですが、…

  • 聖書一日一章 創世記 13章

    創世記13章 ロトは、偽りの信仰者ではありませんでした。新約聖書に「義人」と記されているように、彼は確かに神を信じる者でした。彼はアブラハムの祝福に自分もあずかることを願って、故郷ウルを後にするという犠牲を払いました。しかし、それでもなお、彼の人生の選択は常に正しかったわけではありません。 放牧地をめぐる争いが起こったとき、ロトはアブラハムと別れ、ヨルダンの低地を選びました。その地は豊かで、エジプトのように潤っていました。しかしそれは、堕落した町ソドムに近い土地でもありました。ロトは神の約束ではなく、自分の目に見える豊かさによって判断したのです。 本来ならば、神の御心を求め、たとえ不利に見えて…

  • 聖書一日一章 創世記 12章

    創世記12章 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」と、新約聖書にあります(へブル11:8)。 アブラハムの故郷、カルデヤのウルは当時の大都会でしたが、神からの召しを受けたとき、家も土地も仕事も人脈も快適な生活も、全てを後にして、今後の詳細な計画も知らないままで、神の召しに従いました。アブラハムが恵みの契約を受け継ぐ者、信仰の父とされるためには、今後の人生を神に委ねて、偶像信仰に満ちた故郷を離れ、約束の地へと踏み出す必要があったのです。 クリスチャンの人生にも同じような側面があります。不…

  • 聖書一日一章 創世記 11章

    創世記11章 有名なバベルの塔の記事は、人類が一つになれば世界が良くなる、とは語っていません。むしろ、罪ある人間が神を離れて一致するとき、その傲慢と反逆には歯止めが利かなくなり、破滅へと向かうことを示しています。神は人類をさまざまな言語と民族に分け、地上に分散させることによって、人間の悪が無制限に拡大しないよう抑制をお与えになりました。ですから、神を抜きにして国境を低く薄くし、人類を一つにまとめれば平和な世界が実現するという現代的な発想は、聖書の人間観とは異なる土台に立っています。それは独立した国家間の健全な協調や協力とは、似て非なる思想です。しかし神の御業は、ただ人間の罪を外から抑えることに…

  • 聖書一日一章 創世記 10章

    創世記10章 ノアの息子のセム・ハム・ヤペテから、洪水後の世界の全人類は別れ出ました。 9章の最後で預言されたように、セムは神との契約を、ヤペテは世界への広がりを、ハムの息子のカナンは、ハムの中にあった権威への反逆の心を子孫に受け継がせるものとなりました。ハムについては、ノアの預言には直接出てきませんが、現世的な繁栄の力を子孫に受け継がせる者となったと言えるでしょう。 セムの子孫は、ユダヤ・アラブ系であり、アブラハムの子孫です。セムの子孫のエベルは、へブル人の起源と言われており、アブラハムはへブル人アブラムと呼ばれています。 ヤペテの子孫は、インド・ヨーロッパ系民族になっていったと伝統的には理…

  • 聖書一日一章 創世記 9章

    創世記9章 洪水後の新しい世界が始まりました。 しかし、それは罪なき世界ではなく、むしろ、罪の抑制が強化された時代です。 洪水後には、人間の寿命の大幅な減少があり、またおそらく、地球環境が非常に厳しくなったと思われます。 また、神は罪に対して、権威者が刑罰をもって正しく報いることを命じられました。 また、神は、全世界的大災害で人類を一度に罰するようなことは二度としないと約束されました。 しかし、神がそうなさらないのは、あくまでノアとの恵みの約束ゆえであり、人類がそれに値しないからでも、神にその力が無いからでもないことを、私たちは思い起こすべきです。 ノアの罪、ハムの罪、(詳細は不明ですが)カナ…

  • 聖書一日一章 創世記 8章

    創世記8章 主は、ノアたちのことを心にとめておられました。 読んでいる私たちにとっては、当り前だと思えるかもしれません。 しかし、毎日毎日、大嵐に翻弄されながら不自由な生活を続けるノアたちにとっては、必ずしもそうは感じず、不安にさいなまれることもあったでしょう。 ノアたちは天に避難したのではなく、地上の大洪水のただ中で守られました。 大嵐の中で波に揺られ、外に出よとの神の命令が望むまで、一年ほどの間、忍耐と信頼をもって、箱舟の中で過ごさなければならなかったのです。 私たちもまた、この世で歩むときに、この世からの影響、困難や試練や迫害や誘惑を受けます。忍耐の中で主を待ち望むことを免れることは出来…

  • 聖書一日一章 創世記 7章

    創世記7章 神は愛の神であるだけでなく、正義の神、裁きの神です。神は、ノアと家族だけを取り分けて、全世界を裁かれました。洪水で死んだ人たちの間にも、子供や乳児など、様々な人がいたことでしょう。神は十把一絡げの雑な裁きをなさる方ではなく、最後の審判の時に、 一人一人の状況と責任に戻づく、完全なる裁きをされる方です。一方で、神は、御心であれば、この世界に介入し、裁きをされ、多くの人の命を取り去ることもなさる方です。神はこの世の有様を心を痛めながら見ているだけの、無力な方ではないのです。 神の裁きを免れる唯一の根拠、それは神の恵みに対する信仰です。正しい行いによって、神に認められ、救われるのではあり…

  • 聖書一日一章 創世記 6章

    創世記6章 「しかし、ノアは主の心にかなっていた」とあります(8節、新改訳)。 これは、「しかし、ノアは主の前に恵みを得た(協会訳)」という訳の方が、正しく本質を表しています。 ノアが救われたのは、その行いが世の人々よりも良かったからではありません。 確かに、ノアの行いはこの世の標準よりもはるかにましなものだったでしょうが、 それが救われた理由なのではありません。ノアも罪人であり、神の聖さからは程遠い人物でした。しかし、ノアには、いつも神に信頼し、神に頼り、神に従おうとする心がありました。自分の力や正しさによって立とうとするのではなく、神の恵みに全面的に寄りすがろうとする心です。これがすなわち…

  • 聖書一日一章 創世記 5章

    創世記5章 アダムからノアまでの系図が記されています。 彼らの時代もまた、生活においても、信仰においても、決して楽な時代ではありませんでした。 ノアの父レメクは、「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、・・・」と言っています。 また、新約聖書ユダの手紙によれば、ノアの曽祖父のエノクは、「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」と預言しました。 そのような時代にあっても、アダムからセツを…

  • 聖書一日一章 創世記 4章

    創世記4章 アベルのささげものが受け入れられ、カインのささげものはそうでなかったのはなぜでしょうか。 キリストの死を指し示すため、ささげものは羊でなければならないと神が告げておられたにもかかわらず、カインは従わなかったという解釈があります。しかし、あくまで一つの可能性として、断定には慎重であるべきでしょう。 むしろ、二人の根本的な違いは、その心、すなわち信仰にあります。新約聖書に、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰に…

  • 聖書一日一章 創世記 3章

    創世記3章 「善悪の知識の木」から取って食べることが、何を意味するのか。それはあまりに深く、私たちに、すべてを知り尽くすことはできません。 しかし、確かに言えるのは、それは「神に従わないことを選ぶこと」でした。蛇の言葉に同意して、「神を嘘つきとすること」「自分が神になろうとすること」「神ではなく、自分自身が善悪の判断基準となること」でした。つまり、「何が善であり、幸福であるかを、神から離れて自分が決め、自分の力でそれを行って生きようとすること」です。これは一部の無神論者だけの話ではありません。アダムとエバの堕罪以来、すべての人間はそのような者となりました。 しかし、キリストによって救われた私た…

  • 聖書一日一章 創世記 2章

    創世記2章 人は、神から「いのちの息」を吹き込まれることによって、生きたものとされました。この「息」とは原語ヘブライ語では「ルアハ」と言い、「霊」という意味もあります。つまり、人が真に生きたものとされるのは神の霊によって、神との生きた交わりによってなのです。衣食住が足りて、富、名誉、快楽があればそれで満足、とはならないのです。 アダムとエバは堕罪によって、この神の息、神の霊、神のいのちを失いましたが、私たちクリスチャンのうちには、聖霊が住んでくださり、それが回復されています。私たちの功績によってではなく、キリストの成し遂げて下さった救いによって、それが再び与えられているのです。 この原点にいつ…

  • 聖書一日一章 創世記 1章

    日々のデボーションのための一日一章の解説をはじめました。 基本的に月曜日から土曜日まで、毎日更新します。 創世記 1章 「はじめに神が」とあります。神から離れた人間は、すべての始点に人間・自分自身を置こうとします。目的をもって私たちを創られた創造主を知らなければ、そうせざるを得ません。私の人生、私の計画、私の願望、私の目的、私の力、私の栄誉、私の存在意義、といった具合です。 しかし、キリストの救いを受け、神のもとに帰ってきた私たちにとって、毎日、すべての「はじめ」は創り主なる神です。天地の始まりから定められた、神からの目的、神からの計画、神からの存在意義を、天の父が、子とされた私たち一人一人に…

  • 「忍耐と忠実」 ローマ5:4 ヘブル6:10−12 ーYouTube動画をアップしました

    「忍耐と忠実」 ローマ5:4 ヘブル6:10−12 ーYouTube動画をアップしました - 札幌キリスト聖餐教会のブログ

  • 「即座に聖められないことの意義」 ガラテヤ4:19 マルコ4:26-29 ーYouTube動画をアップしました

    「即座に聖められないことの意義」 ガラテヤ4:19 マルコ4:26-29 ーYouTube動画をアップしました - 札幌キリスト聖餐教会のブログ

  • イベント案内 「 座談会 いっしょに考える心のこと・摂食障害 」

    イベント案内 「 座談会 いっしょに考える心のこと・摂食障害 」 - 札幌キリスト聖餐教会のブログ

  • イベント案内 「春のお茶会 2026」

    今年も春のお茶会をします。どなたでもご参加いただけます。 去年の様子

  • 教会チラシ 聖書Q&A 「よい行いをしなければ救われないんですか?」

    Q: よい行いをしなければ救われないんですか? A:ふつうの宗教では、そう思われているね。 だから、あんまりいいことをやらなくても、せめて「一日一善」なんて叫んで実行しようという人もでてくる。 ところが、聖書に、こんなお話がでてくるんだ。 イエス・キリストが十字架につけられたとき、もう二人がイエスさまの右と左につけられていた。 その一人は、さんざんイエスさまの悪口をいう。たとえば、「おまえが救い主というなら、自分を救って、おれたちも救え」などと・・・ だけど、もう一人は、「おまえは何をいうんだ。おれたちは、悪いことばかりやってきたから、こうなるのはあたりまえだ。しかし、そのおかたは、何も悪いこ…

  • 教会チラシ 聖書Q&A 「クリスチャンが死んだら、どうなるの?」

    Q: クリスチャンが死んだら、どうなるの? A:やがて、主イエスさまが、ふたたびおいでになるときに復活するんだよ。 なんとすばらしい希望だろう。だからクリスチャンは死ぬことに対して、少しも悲しむことはないんだよ。私がいろいろというよりも、聖書の言葉を開いた方が、いいと思うな。 「それから、愛する皆さん。クリスチャンが死んだらどうなるか、よく知っておいてほしいのです。それは、悲しみのあまり取り乱して、何の希望もない人たちと同じようにならないためです。私たちは、イエスさまの死後の復活を、確かなこととして信じています。だから、イエスさまが帰って来られるとき、すでに死んで世を去ったすべてのクリスチャン…

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