「禅の旅zenno-tabi」では「禅」を元に、人が生きるとはどういう事なのか、どのように生きれば人はより良く生きられるのかを考え、旅のように探求していく事を目的としております。
道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉙「おい阿難!」・・「はい!」そのやりとりに宿っている仏法とは?
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、 という部分を読んでいきたいと思います。 始めに前回の、 道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉘指一本を差し出す。それだけでいい。 のポイントを振り返りたいと思います。 前回のポイント 「指竿針鎚」というのは昔いた仏祖方の逸話から来ている単語を繋ぎ合わせたもの。「指竿針鎚」の「指」は俱胝和尚のエピソードからきている。何を質問されても「指一本」差し出せばいい。何故なら「指一本」が全宇宙だから。「仏法」は概念化する以前を説く。 それではポイ
道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉘指一本を差し出す。それだけでいい。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、 という部分を読んでいきたいと思います。 始めに前回の、 道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉗大自然に「凡」も「聖」もなく、でっちあげは通用しない。のポイントを振り返りたいと思います。 前回のポイント 「超凡越聖」とは「凡」も「聖」も超える事。「仏」は「仏」すら超えていく。大自然の在り方。「坐禅」こそ「超凡越聖」である。自分の外側に「大自然」があるのではない。「死ぬとき」には「死ぬ様」がある。大自然にでっちあげや、ごまかしは一切通用し
道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉗大自然に「凡」も「聖」もなく、でっちあげは通用しない。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 嘗て観る、超凡越聖(ちょうぼんおつしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、此の力に一任することを。 という部分を読んでいきたいと思います。 始めに前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉖坐禅を終えた時の作法とは?「安祥」として起つこと。のポイントを振り返りたいと思います。 前回のポイント 「坐禅」を終える時はゆっくりと組んでいる足をほどき、身を動かすこと「坐禅」を終える時は安らかに、静かに立つようにすること「坐禅」を終える時は、足が痺れている可能性もある為、いきなり荒々しく立ってはいけな
「臨済義玄禅師」が出会った真実の仏法とは?師匠の「黄檗禅師」が伝えたかった事。
今回は「禅僧たちの物語」第五弾として今日の臨済宗をお開きになった、「臨済義玄禅師」のある逸話をご紹介したいと思います。 「臨済禅師」は実に誠実なお方でおられました。 そんな「臨済禅師」が、若かりし折に触れた「真実の仏法」との出会いの話を本記事ではご紹介したいと思います。 それでは参りましょう。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 臨済禅師がゲンコツをもらって出会えた「真実」 「臨済義玄禅師」がお生まれになった正式な時期と言うのは明らかになっておりませが、867年に遷化された(僧侶
道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉖坐禅を終えた時の作法とは?「安祥」として起つこと。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 若し坐より起(た)たば、徐々として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。 という部分を読んでいきたいと思います。 始めに前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉕「月の光」が輝くのに条件は必要ない。の復習から入りたいと思います。 前回のポイント 本当の理解とは「実践すること」で本当の理解ができる。「坐禅」の「行」を行う事こそが本当の理解。「昏散」とはうつうつと眠くなることと、心を乱す事。「撲落」とは束縛から解放されること「真実の自己」は常に目の前に展開し
道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉕「月の光」が輝くのに条件は必要ない。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 當(まさ)に知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)先づ撲落(ぼくらく)することを。 という部分を読んでいきたいと思います。 始めに前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉔「公案現成」の意味とは?「今」目の前に展開する一切は行き詰まりがない。のポイントを振り返りましょう。 前回のポイント 「公案」とは「揺るがす事のできない」という意味。「現成」とは「目の前に展開している全てのもの」という意味。「公案現成」とはつまり「今、目の前に展開する一切のものは行き詰まりのな
皆さんは「一遍上人(いっぺんしょうにん)」をご存知でしょうか? 今回はこの「一遍上人」の「詩」を題材として、この世界の真実の有り様について考えていきたいと思います。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 当事者も傍観者もない「真実の世界」 イラスト画・吉田義晃氏より出典 「時宗」を開いた「一遍上人(いっぺんしょうにん)1239-1289」という方がおります。 この「一遍上人」の本当の名前は明らかになっておりませんが、幼いころの名前は「松寿丸」であったとされております。 かの「法然聖
道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉔「公案現成」の意味とは?「今」目の前に展開する一切は行き詰まりがない。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 公案現成(こうあんげんじょう)、籮籠(らろう)未だ到らず。若(も)し此の意を得ば、龍の水を得たるが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり という部分を読んでいきたいと思います。 始めに前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉓「修行」がそのまま「悟り」の証明である。のポイントを振り返りましょう。 前回のポイント 「菩提」とは悟りの意。「究尽」とは究め尽くすの意。「修証」とは行いの証明の意。「悟り」は「修行」によって証明される。つまり「悟り」とは「修行」のことで、それぞれに分かれない。 それではポイ
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