元々遼の流れを汲む耶律楚材は、侵略を受けた金から重宝された父を持つ。その金はモンゴルに侵略されるが、堂々とした態度の知見がチンギス・ハンの目に留まる。
ミステリーを始めとして、私の趣味で勝手にジャンルをくくって作品20を選びました。書評のブログがたくさんあるので、私独自の感想を書くことを目標にしています。当面は毎週月曜・水曜・金曜と定期刊行(?)を目指します。
公家でも最下級の家格に生まれた岩倉具視は、幕末の動乱の中、様々な謀略を抱えて活躍する。そこには当時世を動かした「言葉」を巧みに使い分ける姿があった。
4-2 竜は動かず 奥羽越列藩同盟顚末 ② 上田 秀人(2016)
京都は混乱していた。長州、薩摩、会津がそれぞれ対立する。大政奉還からの混乱を玉虫左太夫は仙台藩および会津と朝廷の仲介に奔走するも、官軍が頑迷だった。
4-1 竜は動かず 奥羽越列藩同盟顚末 ① 上田 秀人(2016)
仙台藩の微禄藩士に生まれた玉虫左太夫は、向学の思いから上京して、国学者として有名な大槻磐渓の知遇を得る。海外への興味から渡米し、世界を見聞して帰国する。
名門の旗本の小栗忠順は、文武に秀でて、外国人との交渉も巧みだった。幕府立て直しのために外国の力を借りて倒幕派を討とうとするが、反対派はその実力を恐れた。
長州征伐で敗北を喫した幕府は衰退への道を歩み、徳川慶喜は大政奉還を受け入れた。しかし戦いの火種は未だ盛んで、勝海舟は日本のために戦乱の回避に努める。
暴れん坊の小吉の子の勝麟太郎は、佐久間象山の洋学塾に入門する。ペリー来航により攘夷か開国かで世の中が揺れる中、咸臨丸で渡米して表敬を果たす。
井伊家の14男に生れた直弼は、将来が見えずに暮していた。しかし兄たちが亡くなり藩主になると、ペリーが来航して幕府始まって以来の混乱に直面していた。
鎌倉・室町時代と違って血生臭いゥ話が減った江戸時代。士農工商の階級社会が定着しましたが、その中での身分間の矛盾は、時代小説のテーマとなりました。
お庭番の子の光武利之は大坂に遣わされ、そこで大塩平八郎の親子と会う。飢饉で困窮する民衆のために大石親子は蜂起するが、その裏側では幕府の権力争いがあった。
ついに欧州の大国ロシアと戦うことになった日本。力を結集して立ち向かうも、苦戦は免れない。その中で好古・真之の兄弟もそれぞれの立場で戦いに立ち向かっていく。
明治新政府と共に成長した3人の若者は、当初の目的とは異なる進路を選択していた。それは近代国家としての成長と同じ軌跡を描き、近代戦争に巻き込まれていく。
水稲生育に適さない領地で、家格にこだわる南部藩は領民への圧政が続いていた。三浦命助は一揆を企てるが、一揆側の要求を通すために、周到な計画を練り上げた。
薩摩藩の借金は500万両に膨れ上がり、財政は完全に破綻した。茶道家の調所広郷は島津重豪の命で、借金立て直しを図ることになる。その方法は踏み倒しと密貿易。
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元々遼の流れを汲む耶律楚材は、侵略を受けた金から重宝された父を持つ。その金はモンゴルに侵略されるが、堂々とした態度の知見がチンギス・ハンの目に留まる。
一旦敗れたチンギス・ハンだが、その後周辺種族を糾合し、盟友だったジャムカを破りモンゴル帝国を建国する。西域と西夏を制覇し、金に挑むところで寿命が尽きた。
テムジンは父に早く死なれ自身も命を狙われるが、強靱な意志で逆境を跳ね返し、チンギス・ハンの座に押される。すると盟友の契りを結んだジャムカと対決することに。
女真族の金に攻め込まれた宋は、皇族の大半が拉致され過酷な境遇に陥った。抗金の名将・韓世忠の子の子温は金に深く潜入し、金の実情を捉え、戦う決意を固める。
唐が滅亡した後の混迷の時代。学問が苦手で堪え性もない趙匡胤だが、人望は有して周囲から認めていた。軍に入隊すると頭角を現し、周囲から皇帝に祭り上げられる。
俊英な黄巣だが、唐末期は悪政がはびこり唐に見切りをつけた。打倒唐を目指して反乱勢力を結集して長安に侵攻するが、そこでは兵が乱暴を繰り返し、民の心は離反する。
武則天から始まる王宮の混乱を、玄宗皇帝は慎重に果断に解決して王家に権力を取り戻し、唐を興隆に導く。しかし次第に政治に飽き、息子の妃だった楊貴妃の虜になる。
武照(則天武后)は美貌で明晰なことから李世民の後宮に入る。そこで次期皇帝の高宗を籠絡するとその後は残酷な手段で邪魔者を次々と排除し、女帝へと登り詰める。
隋の煬帝を従兄に持つ李淵の次男の李世民は、父が建国した唐の二代目皇帝に即位する。版図を広げるだけでなく治世にも優れて、中国史上有数の名君と称えられた。
南北朝時代の北周の武将だった楊堅は、宣帝の狼藉に耐えかねて隋を建国する。その子の煬帝は中国統一に尽力するも次第に本性を現わし、皇帝に座を狙っていく。
中国の南北朝時代。華南の梁は北魏の侵略に悩まされていた。梁の陳慶之は子どもの頃から明晰で戦術にも通じ、常に白馬の騎士団を率いて寡兵で大軍を翻弄していた。
混迷が続く五胡十六国時代。華北の雄、苻堅が100万の軍勢を率いて淝水の戦いに臨むも、後に皇帝となる劉裕も加わった東晋の8万の兵は見事に大軍を打ち破った。
漢王朝の名門出身の司馬仲達は曹操に求められて魏の文官して支えた。しかし将軍に抜擢されて蜀の諸葛亮と対峙、その目論みを防ぐ。その実力は曹家を凌ぐこといなる。
体躯に恵まれた趙雲は公孫瓚の配下で活躍していた。公孫瓚の知り合いの劉備と出会うと、その人物に惚れ込み、やがては家臣に加わると、蜀の建国まで尽力を続けた。
勇往な呂布は義理の父の丁原を殺害して董卓に尽くす。しかし董卓も暴虐のため殺害、2人の義父を殺害したため呂布は悪評が流布し、放浪する立場に追い込まれる。
諸葛孔明によって呉と蜀は手を結び、魏を打ち破り「天下三分の計」は成った。しかし関羽が、曹操が、そして劉備が次々と没し、混迷を収める者はいなくなった。
後漢末の乱世、暴虐の限りを尽くした董卓を、地方長官の曹操が倒す。袁紹・袁術ら名門を滅ぼし天下統一に迫るが、無名の劉備が呉の孫権と同盟し、立ちはだかる。
蔡倫は宦官として宮廷に仕えるが、そこで保存に優れた「紙」の開発に没頭する。「漢書」を編纂する班固とその妹の曹大家との交流から、理想の紙を完成させる。
漢の景帝の流れを汲むも貧乏で純朴な劉秀は、帝都長安への遊学で、王莽による世が混乱する姿を見る。やがて反乱が各地で勃発し、劉秀もその争乱に巻き込まれる。
伯母を皇后に持つ王莽は、勉学好きで孝行にも篤く、次第に周囲から認められていく。幼帝が続く中王莽に頼る場面が多くなり、遂には「皇位簒奪」を目論む。
日本史上随一の「リスクマネジメント」を誇る徳川家康。大名、朝廷、宗教など各方面で「分断統治」を行い、戦乱を遠ざける、磐石な幕藩体制を築くに至った。
本多正純の影響で蟄居の身になった主君の命で、越ヶ谷謙作は間諜として正純の情報を得ようとする。ところがそこで聞く清廉潔白な正純の姿に、次第に惹かれていく。
京都の両替商手代の庄三郎は、秀吉の家臣だった徳川家康の誘いで江戸に下向する。そこで貨幣の流通や資金調達で才覚を表わし、江戸幕府の財政を担うことになる。
一攫千金を夢見て新航路を目指す船に乗ったイギリス人のィリアム・アダムスは、命からがら日本に流れ着く。そこは母国とは違う不思議な国で、将軍、徳川家康の知遇を得る。
没落した名門一色家に生まれた崇伝は、学問で身を立てる決意をする。知恵でのし上がり師を踏み台として、秀吉そして家康の幕僚となり、「僧侶大名」と呼ばれた。
徳川秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わない失態を犯すが、それを気に病む様子もない。軍監の本玉正信は、家康との秘密の作戦を察していたのではないかと疑いを持つ。
イエズス会や大久保長安の思惑に巻き込まれるが、忠輝は自らの道を歩む。そんな忠輝を二代将軍秀忠は追い落としを求め、父の家康は、忠輝を危惧して計略を図る。
魁偉な容貌で生まれた忠輝は、父の家康から疎まれるも、母から受け継いだ「異能」で周囲を魅了していく。そんな家康の子に対して、周囲は様々な思惑が入り乱れる。
側室の子に生まれた於義伊は、父の家康からは対面も叶わない。長男信康が切腹しても嫡子は弟となり、秀吉の人質とされる。更に小大名の結城家に養子に出される。
1980年代のサッカーW杯は、「名作」をも言える試合が数多く誕生しました。その中心にいたマラドーナ、ジーコ、プラティニ、ルンメニゲを中心に語ります。
名門の山名家は、応仁の乱ののち衰退の一途を辿っていた。後を継いだ山名豊国は、梟雄が争い、その後織田家が侵攻する因幡で、難しい舵取りを迫られていた。
尊敬する主君豊臣秀長の死により一旦は牢人したが、秀吉そして家康に接近する。戦働きだけでなく、防諜や築城などの特技によって、家康から絶大な信用を受ける。
浅井の家来だった藤堂高虎は、巨漢を生かして戦で活躍するも、主君には恵まれない。そこに羽柴秀長の誘いを受け、槍働きだけではない仕事の重要性を教えられる。
森家は兄たちが全て若くして亡くなり、六男の忠政が後を継ぐ。兄長可の無念を旧領で圧政を引く。しかし信濃から美作に転封となると、新たに国作りを行った。
本多正信の次男として生まれた本多政重は、兄正純とは違った武勇者。ひょんなことから徳川家を出奔し、福島、宇喜多、上杉、そして前田と外様大名を渡り歩く。
大友家の忠臣高橋紹運の嫡子ながら、猛将立花道雪に強いられて養子となった立花宗茂。家風が合わず妻の誾千代からは蔑まれる中、自らを鍛え勇将に成長していく。
平将門を祖とする相馬家。当主義胤は伊達政宗との対立、秀吉への臣従、関ヶ原で徳川と敵対など、幾多の滅亡の危機を乗り越えたが、大津波が領地を呑み込んでしまう。
島津家は九州の覇業、対秀吉戦、朝鮮の役、そして内乱が続き国力が疲弊する。兄義久の後を継いだ島津義弘は、そんな中で秀吉亡き後の行く末を定める必要があった。
元就の後を継いだ毛利輝元は、関ヶ原で西軍の旗頭でありながら家康にも誼を通じて戦いに敗れ、大減封を命じられる。輝元の本当の戦いは、ここから始まった。
秀吉が薨去すると、天下の趨勢は徳川家康に移るが、石田三成はその流れを食い止めようとする。家康は天下人になるために知恵を絞るが、最後は決断に迫られる。