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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  • Vol.379 お墓の歴史:洗骨による改葬

    まことに不思議な風習なのですが、ご先祖さまが住んだ沖永良部島には風葬の後に洗骨による改葬というものがありました。もちろん現在ではもう行われていない風習ですが、昭和の初めころまではこの洗骨は行われていたといいます。その洗骨ですが、これはどういうことかというと、この島では琉球文化の中で人が亡くなるとそのご遺体は喪屋もしくは洞窟で風葬にしていたということは前回書きましたが、亡くなった方を弔う儀式はまだ続きがあったのです。叔父や叔母の話では、明治以降は風葬ではなく土葬ですが、土葬をして3年ほどすると(おそらく3年忌あたり)に、その土葬したご遺体を掘りおこすのです。家によっては7年後だったりしたそうです。当家のチュラドゥールのお墓の場合は、大和式の墓石のすぐ後ろの地面に土葬をしていたそうです。ご遺体を入れておいた棺...Vol.379お墓の歴史:洗骨による改葬

  • Vol.378 お墓の歴史:風葬の中でのお別れの儀式

    島で亡くなった人々の風葬をするとき、洞窟を利用しなかった場合はモーヤという小さな藁葺小屋を建てて、そこにお棺を置いて風葬をしていたことは前回書きましたが、亡くなった方とのお別れの儀式が終わり風葬が始まっても、それはまだ死者との完全なお別れではなかったようです。初七日頃までは毎日墓参りに出かけ、棺の蓋を開け中の屍体をのぞきながら女性達が慟哭する習わしがあったというのです。その墓参りの状況としては、以下のようであったそうです。死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気を、あたりに漂わせていた。棺の近くで咳ばらいをして、死者の名前を読んだり話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し大きな臭気は消え失せ、微かな匂いを感じさせるだけになった。棺の前で死者の生存中の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂は...Vol.378お墓の歴史:風葬の中でのお別れの儀式

  • Vol.377 お墓の歴史:風葬のためのモーヤ

    島のご先祖様が眠るお墓は、本土のお墓とは違い琉球式です。1609年に薩摩が島を統治して以降は大和式の文化も入ってきて、1700年代あたりからは大和式の墓石を建立するようになっていきますが、納骨については風葬の文化から別に設けた納骨堂に厨子甕に入れて置いたり、厨子甕にお骨を入れて墓石の後ろに穴を掘って三分の一ほど地面から出して埋めるといった方法でした。大和式の墓石をもたない場合は古くから利用していたスタイルで、自然に出来た洞窟を利用したり、森の中に珊瑚の石を積み重ね周りを低い石垣で囲ったりした場所に納骨をしていたようです。この風葬の文化ですが、これがいつの時代から始まったことなのかははっきりとは分からないようですが、その文化に終わりがきたのは明治11年に警察から風葬の禁止令が出された時です。しかし実際には明...Vol.377お墓の歴史:風葬のためのモーヤ

  • Vol.376 世之主の墓(ウファ)の新情報がありました

    古い本を読んでいると、これまで知らなかった新しい情報を見つける機会が多くあります。先日読んだ本は、昭和12年に沖永良部島を探訪された野間吉夫氏の「沖永良部島採訪記」(昭和17年出版)という、当時の島の様子を詳細に記録された貴重な内容でした。その中に、島の世之主の墓(ウファ)を訪問された記録がありました。ウファに案内してくれたのは、宗佐久平という墓守をしている人だと書かれています。この佐久平はお爺さまの父親になる人で1867年生まれ。野間氏を墓に案内した時には70歳でしたが、まだまだ元気いっぱいに活動していたのだと思われます。この時に、野間氏は本家の10代目当主の武重の家も訪問されています。家宝の支那から渡った唐時代の焼き物を見せてもらったとありますから、現在保管されている品々、もしかしたらそれ以上に残され...Vol.376世之主の墓(ウファ)の新情報がありました

  • Vol.375 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ⑤交易商人がいたのか

    琉球の中山国の王であった察度が1377年に明国との冊封体制の中で硫黄を献上したのが記録上での硫黄献上の始まりのようですが、その後に北山及び南山も明に使節を送り、中山・南山・北山の王として冊封されて硫黄を献上しています。ここで以前から私が不思議に思っていたことがあるのです。この献上していた硫黄はいったい誰のものであったのか。硫黄はもちろん硫黄鳥島からのものであるとして、その硫黄鳥島の権利は誰にあったのかということです。最初に硫黄を献上したのが中山王であったので、硫黄鳥島は中山の物であったのか。しかし島との距離を考えると北山が近いし、でも南山王も献上している。では仮に中山王の所有だったとして、北山や南山は中山王から硫黄を購入して献上していたのか?この時代までは琉球も戦国時代で、三山はあまり仲良しの国同士ではな...Vol.375義本王の墓と伝わる場所の海岸には⑤交易商人がいたのか

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