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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  • Vol.374 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ④亜蘭匏 が再浮上

    琉球人の才孤那達が硫黄の採掘のために出発したという「河蘭埠」という場所。ここが沖永良部島ではないかという仮説をしていらっしゃる研究家の方々もいらっしゃいます。河の文字は阿の誤りで、阿は伊や永の訛りであり、伊蘭埠もしくは永蘭埠。琉球国の島々の中に、音が近い島としては宮古諸島の「伊良部(いらぶ)」島がありますが、島の場所から考えると沖永良部島の方が有力に思えます。埠の文字は埠頭の意味で交易の港を表しているのでしょうから、その島全体が交易の島として認知されていたのかもしれません。河の文字が阿の誤りで「阿蘭埠」が正しければ、阿蘭はオランダをも意味するのか。長崎県の平戸市は、江戸時代にはオランダ商館があった場所。そこの付近を流れる川は寛政4(1792)年の『平戸六町図』には、「阿蘭川」と記載されているのだそうです。...Vol.374義本王の墓と伝わる場所の海岸には④亜蘭匏が再浮上

  • Vol.373 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ③硫黄なのでは

    伊座敷泊の海岸の崖にある不思議なまるで倉庫のような場所。ここがかつての交易の港であったという話や、海に面した保管庫であることを考えると、ここに保管されていたのは硫黄であったのではないでしょうか。硫黄であれば、完全に雨風がしのげる屋内でなくても保管が可能であったと思うのです。しかも重い硫黄を船から荷揚げして陸内の倉庫に運び込むというのは、当時の労力で考えれば大変な作業。この海岸の、もしかしたら船から直接運び込めたかもしれないこの崖の倉庫であれば、保管作業が安易であったでしょう。そしてまた必要な分を船でその地まで運ぶことを考えても利便性が良い場所だったのではないかと思うのです。硫黄は当初は現物をそのまま朝貢していたようですが、17世紀後半頃には不純物を取り除いて餅状に加工して貢納していたようです。この加工の作...Vol.373義本王の墓と伝わる場所の海岸には③硫黄なのでは

  • Vol.372 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ②不思議な岩穴が

    義本王の墓と伝わる海岸には、崖に不思議な穴があります。海辺の崖に綺麗に長方形にくり抜かれたような穴があるのです。砂浜からも崖に長方形の穴がいくつか見えます。海辺の岩場を海岸線に沿って歩くと、この長方形の穴に辿り着きます。ここから見ても、この穴は自然にできたものではないことが分かりますね。中も綺麗に長方形にくり抜いてあります。もっと近くで見るとこんな穴です。わりと奥まであります。しかも1つだけではないのです。複数個あります。全部同じような形で奥までくり抜かれていて、下の高さは同じです。何かに使った穴のようです。海側からの空撮です。潮が引いてる時は穴の下は岩場が出てきて砂浜から歩いて来れます。満潮時に海側からの空撮。美しい海が広がっていますね。そして崖の四角い穴の真下には海水が広がっています。この穴、古代の人...Vol.372義本王の墓と伝わる場所の海岸には②不思議な岩穴が

  • Vol.371 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ①義本王の墓

    Vol.71の記事で、琉球の舜天王統の三代目(最後)の王であった義本王のお墓が、沖永良部のワンジョビーチ付近の海岸にあると伝承されている話を書きました。その義本王のお墓ですが、資料にあった場所を島の協力者の方が散策してくださいました。この海岸は伊座敷泊という名がついているようで、地元ではイジャシチの浜と呼ばれているそうです。お墓の場所は地図で見ると青丸の個所あたりになるようです。遠目で見ると洞窟のような感じです。近づいてみると、そこは岩の割れ目で通り抜けできます。そして割れ目の真ん中に見えている岩、これがお墓なの?もともとあった岩なのか?それとも誰かが置いた岩なのか?はっきり分かりませんが、石の真ん中が空洞になっています。そういえば、島の豪族で倭寇であったとも伝わる後蘭孫八の城後にある孫八のお墓という場所...Vol.371義本王の墓と伝わる場所の海岸には①義本王の墓

  • Vol.370 親戚とのつながりの中で

    今夜はとても嬉しいことがありました。当家の屋号上花城の2代目である池悦が、隠居して佐久間という場所に移って暮らしていた時にできた子供たちの子孫になるSさんとお電話でお話をすることができたのです。池悦は1698年生まれのご先祖さまですので、約330年ほどの時を経た親族との再会となったわけです。Sさんとの出会いは、当家と養子や婚姻などで親戚関係になるO家の方の紹介でした。O家の方とも別の親族からの紹介での出会いです。こうしてご先祖調査をやっていると、親族や関係者からのご紹介で、どんどん出会いが増えて親戚の繋がりが広がっております。本当に有難く嬉しいです。Sさんのお宅も当家と同じ宗家です。分家になられて以降は、本拠地の内城から出て仁志という地区で暮らしていらしたそうです。もちろん世之主の子孫であることなどは代々...Vol.370親戚とのつながりの中で

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