「見てるだけー」(・∀・)を、続けていると、やがて、見ている主体と見られている対象がなくなっていることに気づきます。本当に「見ている」しかない(・ω・)これを言葉でどう言えばいいのかわからないのですが、ただ「気づいている」としか言いようがないです。「気づ
「見てるだけー」(・∀・)を、続けていると、やがて、見ている主体と見られている対象がなくなっていることに気づきます。本当に「見ている」しかない(・ω・)これを言葉でどう言えばいいのかわからないのですが、ただ「気づいている」としか言いようがないです。「気づ
「苦」を経験せず、「快」だけ経験することは、できません(・∀・)このことを受け入れるだけで、「苦」と「快」の両方から離れることができます。すると、すべての可能性が開かれます。どういうことでしょうか?(・ω・)個人の「私」として生きていると、うまくいかない
人生を変えるとか、自分らしく生きるとか。書店にふらっと立ち寄ると、そんな本がズラーっと並んでます。いったいどれを読んだらよいのでしょう?(・ω・)「自分らしく生きるために読む本の選び方」という本が欲しいくらいです(`-ω-´)本を手に取るとき、何らかの「意図」が
おはようございます。「朝」(・∀・)つです。私ウリエルは「朝」を、とても大事にしております。一日の始まり。まだ何も起こってない。この時間にこうして記事も書きます。大体、昔から「早起きは三文のトク」とか、「朝日を浴びるといい」とか言いますので、朝にはなんかある
「ひとりじゃない」というフレーズ、ときどき出会います。昨日、テレビ見てたら出会いました。(・ω・)誰にでも仲間や味方がいるよとか、みんなと繋がっているよというような意味で言っているのでしょうか。だとしたら、ずいぶんとテキトーで無責任な感じがします。そのフレー
誰もが不安を感じて生きています。「誰もが」です。(・ω・)このことを忘れてはいけません。そして、人格を持った「個人」でいる限り、不安がなくなることは、ありません。(´-ω-`)これを受け入れてください。受け入れると言っても、「人って、そういう運命なんだ……」(´-
ものごとはひとりでに起こり、成就します。(^ω^)これは思考ではわかりません。思考はどうしてそうなるか理由がないと、理解できないからです。しかし、「ものごとはひとりでに起こる」に、理由なんてもんはありません。ただ、そうなんです。「ものごとはひとりでに起こ
何かを「する」とか「しない」とか(・∀・)ノこの「する」とか「しない」から解放されたとき、私たちは「自由」になります(´∀`)私たちは自分の意思で「する」とか「しない」をするという病気にかかっていると言ってもいいです。「する」「しない」病(・∀・)です。もの
誰もが自分は「正しい」と思っているわけです。(・∀・)ノけれど、この世界にあるものや起こること、「事実」には正しいも間違いもありません。ただ「事実」です。「正しい」は、「心」が勝手に作り出した判断基準です。「心」というのは、いろんな判断基準を勝手に作って、
自分がいるからこそこの世界がある(・ω・)ノ「気づき」、「目覚め」とは、こういう見方になるだけです。なんとなくそう感じた経験がある人も多いんじゃないかな。私ウリエルは子供の頃、「なんかそうなんじゃないか」と、よく思いました。「自分がいるから、世界がある」こ
人には「承認欲求」てなもんがあります。(・∀・)ノ人から認められたいという欲求です。こいつがあるから、人に嫌われるのが怖かったり、孤独や居場所のなさを感じたり、他人と衝突したり、劣等感を抱いたりと、いろんな「苦」が生じるわけです。しかし、ものの本などには、
「受け入れる」(・∀・)スピリチュアルで常に語られていることです。なぜなら、私たちは常に何かを受け入れていないからです。でも、「だから受け入れなさい」とか、「受け入れましょう」と言うのは、ちがいます( ̄ー ̄)ここで、もういちど「受け入れていない」を、よく見
「人生を変えたい」「自分を変えたい」そう思うことが人にはあります。だからこそ、スピリチュアルなんてものに首を突っ込んだのかもしれません。んで、( ・Д・)そのスピリチュアルの教えで、実際に変わったという人はいるのでしょうか? (´・ω・`)ひとつの大原則がありま
「身体と心は自分ではない」(・∀・)この静かな「気づき」だけが実存しています。身体と心が自分でないのなら、自分は何者なんだろうと知る必要はありません。というか、知ることもできません。ただ、「身体と心は自分ではない」(・∀・)と、気づいているだけなのです。
「自由」(・∀・)「自由」って何でしょう?(´・ω・`)何かに誰かに拘束されたり、強制されたり、支配されたりしないで、自分が思うように生きること。まあ、こんな感じに考えている人がほとんどだと思います。でも、これはいわゆる、人の世の「自由」であって、「心」にと
唯一、この『意識』だけが実存しています。(^ω^)この『意識』以外のものは、すべて『意識』の中に現れているものであって、実存はしていません。つまり、知覚できるものはすべて『意識』の中に現れた「まぼろし」(・∀・)なのです。インドではこのまぼろし、幻想を「
「観察者」になって「心」をただ見てるだけー。(・∀・)やることはこれだけなんです。ハイ。なんでこれだけでいいのかは、私ウリエルにもわかりません(´∀`)ただこれだけでいいと、ただわかったので仕方ありません。そこに理由や理屈がまったく存在しません。不思議です
「心」を自分だと思うのは、間違った思い込みにすぎません。そもそも、「私の心」とか「自分の心」と、誰もがフツーに言っています。「心」は私とか自分の所有物だと言っているわけです。つまり、「心」は私でも自分でもないと、みんな大っぴらに言っているわけです。さては
「幸福」(・∀・)「幸福」を「心」の状態だと考えていると、エネルギーを防御に使い続けることになります。「幸福」というのは「心」の状態ではありません。真の「幸福」は「心」とは無関係にあり続けるものです。(・∀・)そして「心」だけでなく、他のあらゆる観察でき
「気づき」(・∀・)は、記憶の外にあります。ですので、記憶と照合できません。だって「気づき」の中に、記憶もあるのですから。「気づき」とは、自分がこの『意識』であることに気づいていること。(・∀・)そして、「愛」、「自由」、「平和」というのは、この「気づき
スピリチュアルに取り組んでいると、「期待」していたこととは違うことが、しばしば起こります。いやいや、むしろ、「期待」していたことと、真逆のことが起こったりするものです。(^ω^)愛や豊かさなどどこにもなく、ただ厳しい事実だけが目の前に横たわったり、大切な
自分自身を他人を見るように客観的に見る。俯瞰する。(・ω・)すると、この『意識』が世界を見ていて、この『意識』の中にすべてが展開しています。この身体も身体感覚も、思考や感情といった「心」も、『意識』の中にあります。そのへんにあるものから、山や海や空や宇宙とい
個人という概念、「私」という概念は、実体のないイメージにすぎません。夢の中にいる「私」と似たようなものです。やっぱり「私はいない」のです。そして、このいないはずの「私」が干渉した行動は、いかなるものも、悪循環( ̄ー ̄)に、陥ります。うまく行くことは、ありま
「心」というのは、常に落ち着きがありません。たまに落ち着くこともありますが、すぐに問題を作り出し、不安や葛藤を抱え込みます。(`-ω-´)実は落ち着いているのがイヤなんじゃないかと思うほどです。落ち着くと、こんどはすぐに「退屈だ」とか言い出しますので。つまり
「現実」(・∀・)みなさんが「現実」と思うもの、それは心で作られた概念にすぎません。実は恐れや不安、欲望から作られた想像の産物なのです。よく、「現実を見ろ」とか言います。そして、その「現実」から目を逸らすことを、「現実逃避」とか言います(^∀^)けれど、
『意識』の中に「心」が現れているのであって、「心」の中に『意識』があるのではありません。(・∀・)このことを理解しているだけで、自分自身の混乱と世の中の混乱から抜け出せます。本当に、この一点を、理解するだけでいいのです。(^ω^)「心」は思考や感情が慌た
『意識』の中に「心」が現れているのであって、「心」の中に『意識』があるのではありません。(・∀・)ノさて。『意識』の中に現れている無数のものは、常に揺れ動き変化しています。安定しているものはありません。この世界は、絶対的に不安定です。こんなに不安定に動き続
『意識』(・∀・)「この『意識』がなければ、身体も心も、この世界も存在しないのだ」「この身体も心も自分ではないのだ」これだけわかればよいのです。あとは、これを根付かせるだけです。(^ω^)この新しい見方は初めのうちはとても弱くて、慣れ親しんだ古い見方が吸
スピリチュアル界隈で、ときどき見かける「サードアイ」という言葉。「第三の目」(・ω・)ですね。ふたつの目ん玉以外にもうひとつ目があって、それは眉間あたりにあり、チャクラでいうと第6チャクラ。開眼すると直観力が高まり云々……ふむふむ……(・ω・)あー、これ
「心」は『意識』の中に現れているもので、「心」と『意識』は別なんだということが明確になると、「色即是空、空即是色」という、般若心経の中の有名な文言も、簡単にわかります。(・∀・)つものの本などでは、たいてい、「色」というのは「あらゆる物質や現象」と訳され
「おい、『意識』はあるかっ!」「ああっ、この人、『意識』がないっ!」(((( ;゚д゚)))『意識』(・∀・)当たり前に使っている言葉です。そして、当たり前に、気絶とかして『意識』を失うと、目に映る景色も、思考も感情も「見る」(・∀・)ことができません。ですよね。こ
自分は常に『意識』です(^ω^)『意識』の中に自分が現れるているのではありません。いろんな考え、思い、記憶、そして、あらゆる感情って、この『意識』の中に現れているものです。つまり、思考や感情は、自分ではありません暑いや寒い、痛いとか痒いといった身体感覚も
この身体の中に心があって、この身体と心を「自分」だと思うのは、ただの習慣にすぎません。(・ω・)ノ「自分はこの世界の一部」と思うことも、ただの習慣です。世界はこの『意識』の中にあります。この『意識』がもしなかったら、世界もありません。身体と心を自分だと思う
「気づき」へのシンプルなアプローチを試みてみたいと思います。(・ω・)ノとりあえず、今まで見聞きしてきたスピリチュアルの知識は置いときましょう。自我(エゴ)とか真我とか、神秘体験とか、ヒーリングとか、ハイヤーセルフとか、インナーチャイルドとか、マインドフルネ
「スピリチュアル」というジャンル、このジャンルの本や話って、「神秘的な側面」(^∀^)が、少し強調されすぎているように、私ウリエルは感じまね。ハイ。霊的な存在多次元宇宙波動を高める無限のパワーこんな言葉がやたら出てくるじゃないですか。まるで私たちの知らな
「観察者」(・∀・)になって、「見てるだけー」(・∀・)で、いるとき。身体と身体感覚は観察できます。思考も観察できます。感情も観察できます。そして、思考と感情が合わさって、なんだかぐじゃぐじゃしている騒がしい心、これも観察できます。思考と感情を足すと「心
質問は答えより大事です(・ω・)ノ正しい質問は、正しい答えより大事です。なぜなら、答え以上の「何か」を、発見できる可能性があるからです。(^ω^)ありとあらゆる質問、疑問に対する答え、それは、ただの「妥協」の産物にすぎないんですよ。「偶像」みたいなもんです
「自分で自分の人生を生きている」というのも、「誤解」です。(^ω^)試しに今日一日、「自分で自分の人生を生きている」のをやめましょう。今、頭の中にある、今日一日の予定や計画を放棄してみてください。そして、それを「見てるだけー」(・∀・)で、いてください。
「私はこの身体である」という思いも、「誤解」(`-ω-´)です。この「私はこの身体である」という間違いは、この広い世界の中に自分一人がポツンといるような「錯覚」を生み出します。ポツンと一人という観念からこの世界を見ると、この世界が危険がいっぱいで油断できない(
「自分はこういう者である」という考えは、どれもただのイメージであり、錯覚のようなものです。独立した個人、「私」というのは誤解に基づいています。そう、「誤解」なんですよ(`-ω-´)「気づき」、「目覚め」とは、この「誤解」を解くだけのことなんです。知らなかった
「見てるだけー」(・∀・)で、いるとき。身体感覚や感情、そして思考を、ただ観察しているとき。重要なのは、身体感覚や感情や思考を分析したり、解釈したり、その意味を追求することではありません。重要なのは、「見てるだけー」(・∀・)の、「見ているヤツ」の存在を
世の中の「奴隷」になってはいけません。(´・ω・`)「観察者」になって観察できるもの、その「奴隷」になってはいけません。(`-ω-´)本当に多くの人が、多くのものの「奴隷」になっています。「会社の奴隷」なんか、よく使われるわかりやすい表現ですね。他にも、思想信条
「引き寄せの法則」って、聞くことありますよね(・∀・)なんか、「強く願ったり、信じているものが実現する」、「思考は現実化する」という感じの、まあ、法則と言うより「教え」的なものですね、ええ。まあ、言っていることはその通りなんじゃないかな思います。ただ、私
「ひま」(・∀・)暇って、すごくおもしろいです。毎日が忙しいとき、「暇が欲しい」なんて思います。けれど、本当に暇になると、その退屈さに耐えられません。(^ω^)そして、人類はその耐えがたい退屈さも完全にやっつけてしまいました。「スマホ」(・◇・)です。ス
「集中」という言葉はよくないと思います。(´・ω・`)人口が東京に集中しているとか、お金が一か所に集中しているとか、こんな場合に使うのはもっともなのですが、「仕事に集中する」「意識を集中させる」とか、「集中力」とか。こんなふうに使うのはよくないと思います。(´
「こころ」(・∀・)「心」は思考と感情を足したものです。「マインド」って、スピリチュアルでは言いますね。おそらく誰もが、この「心」を気分の良い状態にしたいと思っています。穏やかで安らいでいたいですよね。または楽しい気分でいたいです。四六時中、ザワザワした
私ウリエルが明確に「本来の自分」に気づいたのは、何の変哲もない日常の中でした。(^ω^)日が暮れて薄暗くなった、とある場所の階段を下りていたとき、あ、あれ…… (´・ω・`)?ふと、階段を下りるときの足を置くトンという衝撃で、視点か何かがズレて、いつもの景色な
観察者でい続けること。「事実をただ事実として見る」こと。このとき、外側の世界と自分の内側を同時に見てくださいね。これが大事な注意点です。目に映っているいろんなもの、起こることと、それに対する自分の反応、思考とか感情。これらは、「一体もの」と、とらえてくだ
観察者(・∀・)になる。それは、「事実をただ事実として見る」ということでもあります。「事実をただ事実として見る」ことができれば、自ずと受容、「受け入れる」が起こります。しかし、普段の私たちは、この「事実をただ事実として見る」が、なかなかうまくできていませ
「本来の自分」に気づくと、いわゆる「目覚め」が起こると、あっちこっちに散らかって、無駄に力んでいたエネルギーが、もとあった場所に戻ります。逆に言うと、散漫になって無駄に使われているエネルギーを、もとあた場所に戻せば、「気づき」、「目覚め」が起こりやすくな
「スピリチュアルな体験」って、あるじゃないですか。(・∀・)まわりと融合してひとつになった、とか、至福感に包まれた、とか、宇宙の起源が瞬時にわかった、とか、光や龍神が見えたり、神の声が聞こえたり、クンダリーニが昇華したり、前世が見えたり、とか(・∀・)ち
「目覚め」、「覚醒」って、「本来の自分」、それが「自由」で歓喜と祝福で満たされていることを知り、それを体現して生きるということに、なるかな(・∀・)「本来の自分」は、いちばん自分である、大元の自分です。それを誰かに教えてもらうことなんてできません。自分し
私たちはたびたび「欠如感」( ̄Д ̄)に襲われます。まあ、「物足りなさ」です。これが私たちの行動の原因です。「物足りなさ」を感じ、それを埋めようとしています。毎日毎日。娯楽、貯蓄や投資、健康の維持、はてまた婚活……大半の行動のおおもと、根本原因はこの「物足り
機能不全を助長しないこと(・◇・)まずはこれが大事です。どういうことでしょう?「私はお金がない」とか「私は病気だ」、「私は孤独だ」と言ったり、思ったりしていると、それが助長され、確かなものになって行きます。なんとなく、そう感じてはいたでしょ? ハイ。間違
誰にでも、「こうあってはならない」という状態があると思います。その「こうあってはならない」の反対の状態が、「こうあるべき」になりますね。(・ω・)ノ「こうあってはならない」は、貧困、孤独、不健康、軽蔑されること、大切な何かを失うこと……などなど、人によってい
身体や心を自分だと思いこむ。↑ これがすべての問題の原因です(^ω^)これがこの世界と自分を切り離し、自分自身を孤立させています。これが「分離」です。この世界から分離し孤立してしまうと、恐怖と不安が常につきまとい苛まれます。そして、それらの恐怖や不安を消す
「幸福」は常にいまここにあります。いまここ、『いま』の他にはどこにもありません。(^∀^)ノだから、いくら「幸福になろう」としても、「幸福」にはなれません。そのなろうとしている「幸福」は、ただの「苦」に対する「快楽」で、そもそも「幸福」ではないのです。「幸
私たちが「幸福だ」と感じるとき。それはどんなときですか?(・ω・)ノ何か求めているものが達成されたとき、達成されて満たされているとき、かな?いいえ、ちがいます。ただ単に、「求める」が、終わったとき、です。(´∀`)人は憂鬱と快楽の間を行ったり来たりしています。不
未来への期待や憧れが何もないこのことはとても重要です。(・ω・)ノ私たちは、はっきりと意識して、または、ただなんとなく漠然と、「将来はこうしたい」とか、「こうなったらいいな」、「こうなったらこうしよう」とか思って生きています。未来への期待や憧れです。将来、
地震があり、たくさんの人や団体が、いろいろな形で被災地を支援しています。「助け合い」、素晴らしいです(`・ω・´)しかし、この「助ける」(`-ω-´)「助ける」 これほど難しいことはありません。迂闊に他者の人生に、土足で踏み込むようなことをしては、それは、「暴力
あなたのまわりの環境や出会う人々。さらには、あなた自身とその人生。それらを、あなたの意思の力や努力で変えることは、実は、できないのです(´・ω・`)すべて、エネルギーの浪費に終わります。だったら、すべてをただ「運命」として、受け入れるしかないのか?(´-ω-`)
目に映っている、この現実世界は「二元」です。そして、私たちの心も「二元」で、この世界のものごとをとらえています。「二元」でしか、ものごとを理解できません。(・∀・)「二元」の世界は必ず表と裏で構成されていて、その表裏のコントラストによって、私たちはものご
なんとなく「足るを知る」について書きたくなった。(・∀・)「足るを知る」は、老子の言葉です。身分相応に満足する、現在の状況は足りているということを知り、それ以上は求めないようにするそんな意味らしいです。ウィキペディアによると。(^ω^)まあ、だいたい、世
なんとなく「色即是空」について書きたくなった。(・∀・)色即是空、空即是色……般若心経の、まあ、真髄と言っていいところですね。(^ω^)その意味や解説は、いろんなふうに書いてあります。どれもなかなか難解です。だから、どれも読まないほうがいいです。だって、
2024年です。それにしても、元旦からすごいインパクト……(´・ω・`)しかし、起こったことについて、いろんなことを思い、いろんなことを感じるのですが、私たちはその思ったり感じたりする者、行為者ではないのです。さて、(・ω・)ノ私たちは『ありのまま』に生きればよいので
今年もいろんなことがありましたが、いよいよ終わりですー。そして、来年もまた、思いもしなかったいろんなことがあるんでしょうねー。(^∀^)ノさて、(・∀・)ノみなさんは常にこの「意識」の中にいます。というか、この「意識」がみなさん自身です。この「意識」を、「
阪神タイガースの監督さんが、「優勝」という言葉を使うと意識してしまうので、その言葉を禁じて、『アレ』(・∀・)と、表現しました。結果は大成功で、阪神タイガースは日本一になりましたね。そして、『アレ』(・∀・)は、今年の流行語大賞にもなってしまいました。こ
うーんと、今日は書こうとしていることがあるのですが、うまくまとまりません。なので、雑談みたいにテキトーに書き進めていきます。書いているうちにうまくまとまるかな。(^ω^)「本来の自分」は、この肉体や心を通して表現したり、または体験しようとしていることがあ
「本来の自分」でいることを、「悟り」と言うのならば、「悟り」は手に入れることなどできません(^ω^)誰だって何も手に入れなくても、何かにならなくても、最初からずっと「自分」なのですから。何かを追い求めていてもいなくても、何かを願っていてもいなくても、ずー
「私」って、いったいなんでしょう?(´・ω・`)?この身体が「私」であり、この身体の中にある心が「私」であり、その心が持ついろいろな性質や特徴を総合したものが「私」なんとなくそう感じて生きている人が、多いのではないでしょうか。でも、「私の心」とフツーに言いま
前の記事が時間がなく途中で終わった感があるので、まあ、続きです。続きと言っても、何を書こうとしていたかは覚えてないんですが。(^∀^)「ランキング」(・∀・)に、ついてでしたね。人は他人と自分を比べたがります。他人と自分を比べて、「アイツよりかはマシ」と
突然ですが、「ランキング」(・∀・)って、よく目にしますね。言ってみたい観光地のランキングとか、美味しいラーメンのランキングとか。日本人ほどこのランキングが好きな国民はいないそうです。(゚∀゚)アヒャヒャタイヤの会社がつけた星とその星の数なんかを、ものすごく有難が
「この世界の中で、ひとりの人間として生きている」というのは、ただの思いこみです。そう思うことが、ただ習慣になっているだけです。「ひとりの人間である」というのは、ただの記憶にしかすぎません。あなたは、たったこの『いま』も、「ひとりの人間である」と思っている
「輪廻」(`-ω-´)とは、生まれ変わって転生することではなく、限りなく繰り返される「苦」と、私ウリエルは理解していると、前回の記事で書きました。(・ω・)ノ私たちは「苦」から「楽」へ、「楽」から「苦」へ。そんな終わりなく回り続けるゲームをしています。「上り坂
「本来の自分」は、時間と空間の中には存在しません時間も空間も、「本来の自分」の中にあります。時間も空間も、その中にあるすべての事物も、「本来の自分」の表現にすぎません。(^ω^)ノ……さて、(・∀・)ノ「本来の自分」から切り離されている自我、つまり人格を持
疲れが取れてないような体調が続いておりまして。とくに悪いところもないのですが、年齢的なものでしょうか、どうもスッキリしません。まあ、温度差も激しいし、こういう時期もあるんでしょう。(´・ω・`)さて、何を書きましょう?(・ω・`)「私」というものは、常に混乱して
もし私ウリエルが、あなたの中に入って、「これが『本来の自分』ですよっ!」……(・∀・)つと、伝えることが出来たら、きっと、あなたは、「え!? これが!?!?」と、なると思います。「こんなもんずっと知ってた」というか、「いつも気づいてた」と、なるでしょう(´∀
私たちは、いろんな概念の中で暮らしています。「概念って、なんやねん?」と、訊かれると、これまた説明しにくいですが、いろんな「意味づけ」や「条件づけ」、または「価値観」とか「信念」といったものになります。(・∀・)うーん、たとえば、法律や秩序は守られるべき
とても大事なことなのですが、ほとんどの人が知らないことがあります。(・ω・)ノ人生では、困ったこと、心配事、悩み、いろんな「問題」が起こるわけです。「問題」は常にあります。(`-ω-´)まあ、本当は「問題」などどこにもないのですが、分離した「私」が自分だと思ってい
「見てるだけー」(・∀・)を、しているとき。というか、正しくは「見てるだけー」を「する」ことはできません。「見てるだけー」で「いる」だけです。私たちは常に「見ているだけー」の観察者です。「見てるだけ―」以外の余計なものに気を取られているだけです。余計なも
この世界に生きていると、うまく行かないことや、困ったことが常にあります。なかなか、思っているようにはいきません。(`-ω-´)こういうとき、私たちはだいたい「状況」に気を取られています。「事実」と言ってもいいです。起こっている「事実」を重視して、そればかりに
「本来の自分」を、「入れ物」(・∀・)ノと、表現することもできるかなと思います。この世界、全宇宙が入っている「入れ物」です。あなた自身が「入れ物」なので、この「入れ物」を見つけることはできません。自分が「入れ物」だったということに気づくだけです。目玉が目玉
とってもシンプルな話なんです(・ω・)「私」という自我は、このニンゲン社会の一員です。家族とか親戚とか、会社とか学校とか何かの組織とか、その一員です。けれど、「本来の自分」は何かの一員ではありません(・∀・)あなた自身は、どこにも何にも属してなんていないんで
ごきげんよう( ̄ー ̄)9月に入ってからの暑さで、ここ数日、急に肉体がダメージをかなり受けてしまい、真夏以上に疲弊しております。(´-ω-`)なんか足が上がらなくて、階段を上るのにひーこら行ってる。老人になった気分です。ここまで弱ってしまったことは病気のときくら
残暑厳しいです(´・ω・`)ちょっと体力的にも精神的にもきついなあ。そんな「きついなあ」と思っている自分を、ただ見ています。(´-ω-`)さて、少し記事でも書きましょうか。「苦」( ̄ー ̄)というものは、視野が狭ければ狭いほど、増えるし大きくもなります。ぜったいに東
私たちの「生」のエネルギーは、いろいろな形になって現れては消えていきます。(・ω・)ノ現れては消えると言っても、その総量は変わらずにずっとあります。エネルギー保存の法則ですね。(^ω^)つまり、実は現れも消えもしてません。いろんな形になっては、また元に戻るを
まだまだ気温は高い(`-ω-´)しかし、暑さは弱まってきているように思います。地面からの熱さがとくに。やっぱり秋が来てるんだ。( ・Д・)さて、徒然なるままに、記事でも書いて行きましょう。覚めている時間が長くなるにつれて、ウリエルに起こっていることがありまして。
ぼちぼち記事でも書くかぁー( ̄ー ̄)私たちの「こころ」「心」って、なんだろうと考えると、私ウリエルはただの機械(・∀・)と、捉えます。思考と感情が合わさったできた「機械」です。(^ω^)この機械は、一日二十四時間、私たちをだましつづけます。「私は悪くない」
世の中って、どんどん変化して行きますねー。(・∀・)いつまでも変わらないでいて欲しい。そう思うものもありますが、時の流れはそんなこともおかまいなしです。「諸行無常」ですからね。(´∀`)そして、この私たちの「人生」、これもどんどん変化して行きます。実は世の
「自由」というのは、手に入れることはできませんただ、「本来の自分」が「自由」なので、「本来の自分」でいればよいだけです。(・∀・)ノみなさん自身は誰もが最初から「自由」です。完全な自由で、どこを見渡しても自由しかありません。だから、「自由」とは何かがわから
あまりにも暑すぎるので、お店を休んでフラリと出かけておりました。山陰地方です。しかし、どこ行っても暑いことには変わりない。バイクなので冷房ないし、常に炎天下だし。( ̄ー ̄)旅のよいところは、『いま』にいることが自ずと多くなることだと思います。知らない土地に
えー、暑すぎのため、肉体および思考の活動が極めて低下しておるウリエルでっす。(`-ω-´)とーちゃんが亡くなる前後のいろいろな疲れも出て来ているのか、ここ二日、いつも以上に寝ておりました。というわけで、お仕事もしばらくお休みすることに。どーせ、売れないし。暑
あっつい!!!(ノ`Д´)ノホントに暑いです。(´-ω-`)こう毎日暑いと何もかも、もうどーーーでもよくなってきました。(`-ω-´)というか、これでいいんですけどね。スピリチュアルに取り組み、この人生をより良くしようなんていう発想、それ自体がもう間違っておるとい
この『いま』は常に完璧(・∀・)です。この『いま』を完璧にしようなんてことはできません。これ以上、完璧になりようがないからです。だから、変えるべきものはありません。あなたは、この『いま』にある状況が求めることをするだけでよいのです。(´∀`)ノこの『いま』を
人生に困難なことが起こるのは、自分の中の凝り固まったエネルギーが、原因です。(・∀・)ノ誰のせいでも、世の中のせいでもありません。霊的なもののせいでもありません。それが、例えば天災のような、まったく人知を超えたものであってもです。(・ω・)凝り固まったエネルギ
「苦」というのは、湧き起こったエネルギーの遮断によって生まれる。(´・ω・`)ということを前回の記事で説明しました。なので、その遮りをなくしてしまえば、人生はもっとスムーズに流れて行きます。ただ、「心から」(・∀・)生きればいい。しかし、遮断されて凝り固まり
「苦」がどうやって生まれてくるのか?その仕組みをご存知ですか?(・∀・)ノま、カンタンに言うとですね。それはあなたが、単純でない(^∀^)からです。生まれたばかりの赤ちゃんは単純そのものです。泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑い、寝たいときに寝ます。だか
ちょっと記事でも書いてみるか(・∀・)先週のはじめ頃には、とーちゃんと病室でフツーに会話してたました。そんときゃ、まだまだ生きそうだったんですが。それが、その週の週末に、お骨になって家に帰ってくるとは。(´ー`)あっけないもんですね。親が亡くなるというのは
突然ですが(・∀・)もし、生まれ変わるとしたら、何になりたいですか?(・∀・)ノ何になっても「自分」でしょ?「自分」以外の何者かになれますか?何になっても、笑ったり泣いたり、人生の浮き沈みを体験するだけ。その体験をするのは、「自分」( ̄ー ̄)ですよね。他人を
いろいろと忙しいです。緩和ケア病棟に転院して、面会時間がほぼフリーになってしまうと、父のために病院に行くことが増えまして。(`-ω-´)しかし、緩和ケア病棟というのはおもしろいなと感じました。今までの病院と患者の見方が逆なんです。そもそも基本が、「治療しませ
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「見てるだけー」(・∀・)を、続けていると、やがて、見ている主体と見られている対象がなくなっていることに気づきます。本当に「見ている」しかない(・ω・)これを言葉でどう言えばいいのかわからないのですが、ただ「気づいている」としか言いようがないです。「気づ
「苦」を経験せず、「快」だけ経験することは、できません(・∀・)このことを受け入れるだけで、「苦」と「快」の両方から離れることができます。すると、すべての可能性が開かれます。どういうことでしょうか?(・ω・)個人の「私」として生きていると、うまくいかない
人生を変えるとか、自分らしく生きるとか。書店にふらっと立ち寄ると、そんな本がズラーっと並んでます。いったいどれを読んだらよいのでしょう?(・ω・)「自分らしく生きるために読む本の選び方」という本が欲しいくらいです(`-ω-´)本を手に取るとき、何らかの「意図」が
おはようございます。「朝」(・∀・)つです。私ウリエルは「朝」を、とても大事にしております。一日の始まり。まだ何も起こってない。この時間にこうして記事も書きます。大体、昔から「早起きは三文のトク」とか、「朝日を浴びるといい」とか言いますので、朝にはなんかある
「ひとりじゃない」というフレーズ、ときどき出会います。昨日、テレビ見てたら出会いました。(・ω・)誰にでも仲間や味方がいるよとか、みんなと繋がっているよというような意味で言っているのでしょうか。だとしたら、ずいぶんとテキトーで無責任な感じがします。そのフレー
誰もが不安を感じて生きています。「誰もが」です。(・ω・)このことを忘れてはいけません。そして、人格を持った「個人」でいる限り、不安がなくなることは、ありません。(´-ω-`)これを受け入れてください。受け入れると言っても、「人って、そういう運命なんだ……」(´-
ものごとはひとりでに起こり、成就します。(^ω^)これは思考ではわかりません。思考はどうしてそうなるか理由がないと、理解できないからです。しかし、「ものごとはひとりでに起こる」に、理由なんてもんはありません。ただ、そうなんです。「ものごとはひとりでに起こ
何かを「する」とか「しない」とか(・∀・)ノこの「する」とか「しない」から解放されたとき、私たちは「自由」になります(´∀`)私たちは自分の意思で「する」とか「しない」をするという病気にかかっていると言ってもいいです。「する」「しない」病(・∀・)です。もの
誰もが自分は「正しい」と思っているわけです。(・∀・)ノけれど、この世界にあるものや起こること、「事実」には正しいも間違いもありません。ただ「事実」です。「正しい」は、「心」が勝手に作り出した判断基準です。「心」というのは、いろんな判断基準を勝手に作って、
自分がいるからこそこの世界がある(・ω・)ノ「気づき」、「目覚め」とは、こういう見方になるだけです。なんとなくそう感じた経験がある人も多いんじゃないかな。私ウリエルは子供の頃、「なんかそうなんじゃないか」と、よく思いました。「自分がいるから、世界がある」こ
人には「承認欲求」てなもんがあります。(・∀・)ノ人から認められたいという欲求です。こいつがあるから、人に嫌われるのが怖かったり、孤独や居場所のなさを感じたり、他人と衝突したり、劣等感を抱いたりと、いろんな「苦」が生じるわけです。しかし、ものの本などには、
「受け入れる」(・∀・)スピリチュアルで常に語られていることです。なぜなら、私たちは常に何かを受け入れていないからです。でも、「だから受け入れなさい」とか、「受け入れましょう」と言うのは、ちがいます( ̄ー ̄)ここで、もういちど「受け入れていない」を、よく見
「人生を変えたい」「自分を変えたい」そう思うことが人にはあります。だからこそ、スピリチュアルなんてものに首を突っ込んだのかもしれません。んで、( ・Д・)そのスピリチュアルの教えで、実際に変わったという人はいるのでしょうか? (´・ω・`)ひとつの大原則がありま
「身体と心は自分ではない」(・∀・)この静かな「気づき」だけが実存しています。身体と心が自分でないのなら、自分は何者なんだろうと知る必要はありません。というか、知ることもできません。ただ、「身体と心は自分ではない」(・∀・)と、気づいているだけなのです。
「自由」(・∀・)「自由」って何でしょう?(´・ω・`)何かに誰かに拘束されたり、強制されたり、支配されたりしないで、自分が思うように生きること。まあ、こんな感じに考えている人がほとんどだと思います。でも、これはいわゆる、人の世の「自由」であって、「心」にと
唯一、この『意識』だけが実存しています。(^ω^)この『意識』以外のものは、すべて『意識』の中に現れているものであって、実存はしていません。つまり、知覚できるものはすべて『意識』の中に現れた「まぼろし」(・∀・)なのです。インドではこのまぼろし、幻想を「
「観察者」になって「心」をただ見てるだけー。(・∀・)やることはこれだけなんです。ハイ。なんでこれだけでいいのかは、私ウリエルにもわかりません(´∀`)ただこれだけでいいと、ただわかったので仕方ありません。そこに理由や理屈がまったく存在しません。不思議です
「心」を自分だと思うのは、間違った思い込みにすぎません。そもそも、「私の心」とか「自分の心」と、誰もがフツーに言っています。「心」は私とか自分の所有物だと言っているわけです。つまり、「心」は私でも自分でもないと、みんな大っぴらに言っているわけです。さては
「幸福」(・∀・)「幸福」を「心」の状態だと考えていると、エネルギーを防御に使い続けることになります。「幸福」というのは「心」の状態ではありません。真の「幸福」は「心」とは無関係にあり続けるものです。(・∀・)そして「心」だけでなく、他のあらゆる観察でき
「気づき」(・∀・)は、記憶の外にあります。ですので、記憶と照合できません。だって「気づき」の中に、記憶もあるのですから。「気づき」とは、自分がこの『意識』であることに気づいていること。(・∀・)そして、「愛」、「自由」、「平和」というのは、この「気づき
「気づき」、「目覚め」というのは、自発的に起こるものです。(・∀・)「自発的」なわけで、何か努力して獲得するものではありません。また、徐々に段階を踏みながら深まっていくもので、一度や二度の「気づき」ですべてが開放されるものでもないです。そして、その深みに
「本来の自分」(・∀・)身体は「本来の自分」、すなわち自分ではありません。んで、思考もこの身体に属しています。身体がなくなっちまうと、考えることもできなくなります。なので、頭でいろいろ考えることも、自分ではないのです。このような態度でいてください(・∀・
よくなかった体の調子も、いくぶん回復してきた。記事でも書こう。(・∀・)ノしかし、年齢でしょうかね。だんだん無理がきかなくなって、体調も崩しやすくなってきたなー。これも、そういう流れなので、これでいいんでしょう。さて、まず言っておきますが、今回の記事はとて
ごきげんよう(・ω・)ノ記事を書くことを休憩しておりました。というのも、私ウリエルが何か大きな「移行期」のようなものに差し掛かっているようで、今はまったく何も「わからない」のです。まったく「わからない」、未知の世界に進んで行っているようです。(・∀・)少年か
さてさて、私ウリエルの日常も少し平静さをとりもどし、WBCもオータニさんの独壇場で、最高の結果で終わりましたので、また、ぼちぼち記事を書いていきましょうかと。それにしても、まるでオータニさんのために大会をしたみたいでしたね。(^ω^)人生は野球のように「
ちょっと今、いろんなことが一斉に起こってバタバタしているせいか、記事を書くことが思いつきません。( ̄ー ̄)いつもなら、なんかテキトーに思いついて、テキトーにパパっと書いて行くんですけどね。勝手に手が動いていく感じで。まあ、こんなときもあるんでしょう。という
人は欲深い生き物です。(`-ω-´)常に何かが欠けている、何かが足りないと感じています。本当は何も欠けてなんかいなく、常に満たされた「豊かさ」の中にいるのに、なかなかそれを認めることができません。(`-ω-´)だからといって、欲深さを否定し、それを消してしまおう
私たちの生活の中には、刺激がいっぱいあります。(・ω・)でも、いっぱいありすぎて、それが刺激ということにさえ気づかなくなっています。初めて携帯電話を手にして、初めて誰かに電話したときのことを覚えているでしょうか?私ウリエルの世代の人なら、そのときのビックリや
人生というのは、放っておけばいいのです。ハイ。「なんとかなる」のです(´∀`)計画や策略を練る必要はありません。「起こること」を受け入れるだけです。最初から目的もないので、何も期待もしていません。それでいいのです。流れに任す運命に従う手放し、サレンダー(降
ちょいと私事ですが(・∀・)先日、父が入院したときに、父の肝臓にガンが見つかりました。検査をいろいろして、結果的に手術とか外科的なものは無理。抗がん剤治療しかないのですが、高齢で糖尿病なので、それに耐えうる体力が果たしてあるか……( ̄ー ̄)よーするに、「治
あなたには無限のお金があります(´∀`)ノ突然ですが、これは真実です。ハイ。「あ! 本当だ!」( ゚∀゚)!と、なった人は幸いです。うん、ありますよね。(^ω^)感覚というか、思考を超えたところの理解です。なので、思考では理解できません。まあ、無理やり言葉にする
とても言葉では言い表せない感覚になってます。( ̄ー ̄)私ウリエルが生きている世界は、たぶん、みなさんも同じだと思いますが、原因が先で、結果が後こうなっていると思います。何か原因があって、その結果こうなった。今こうなっているのは、その前にこういう原因があった
誰にでも気分がすぐれないときがあります。……( ̄ー ̄)なんとなく憂鬱とか、なんだかヤル気が起きないとか、何も考えたくないとか。なんかモヤモヤする。なんか気分がよどんで落ち込んでいる。……( ̄ー ̄)そんなとき、「ちょっと気分転換したほうがいいかな」と、楽しいこ
感謝するとか、感謝しようとか、感謝しなさいとか、そういう言い方に、ウリエルはずっと違和感を感じていました。(´・ω・`)そもそも、「感謝する」って、なんやねん?感謝って、「する」ものか?……(´・ω・`)?感謝って、自然に湧き起こってくるもので、わざわざ「する」
誰もが、エネルギーというか、振動、波動というか、そういったものを発しています。それが粗い人もいれば、細やかで繊細な人もいます。「レベル」という言葉は、あまりつかいたくはないのですが、細やかで繊細であればあるほど、意識レベルが「本来の自分」に近づきます。俗
この世界にはいろんな人がいて、いろんなものがあり、いろんなことが起こります。つい、私たちはそんないろんな人や物事や出来事が、自分の人生に影響を与えているように思いがちですが、実は、どんな人、もの、出来事も、人生に干渉したり、影響を及ぼすなんてことは、あり
「本来の自分」というのは無限に広がる意識です。(・∀・)私たちは、最初からこの無限に広がる意識なのです。その中に枠を作って「私」という個人を演じているような感じです。また、無限に広がる意識の中で、小さなカタマリのようになって、縮こまって「私」になっている
誰にでも、「目を逸らしていること」があります。(`-ω-´)意識的に目を逸らしている場合もあれば、気づかぬうちに無意識に、という場合もあります。考えることを避けていること、大丈夫だと言い聞かせていること、などがそれです。他にもいろんな形で現れています。(´・ω・
入院している父や病院から、良い知らせも、悪い知らせも届きます。(・ω・)良いと悪いがコロコロと入れ替わるように届くので、まさに一喜一憂です。良い知らせがやってくると、もちろん、よかったと思います。逆に悪い知らせがやってくると、心配したり不安になったりします。
「私」って、おもしろいと感じませんか?(・∀・)様々な側面を見せてくれて、まるで百面相です。「私」はこの世界を体験するのに、必要不可欠な道具です。「私」というのは、この肉体であり心です。「私」ウリエルはそんなふうに見ています。(^ω^)この「私」は、人生