ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
京都、鎌倉はすでに高氏、義貞の手柄によって鎮まった。こうなったら筑紫に討手を出されて九州の探題・英時をお攻めになるのがよいということで、二条大納言師基卿を大宰帥になされて、いよいよ出兵させようとされたところに、六月七日、菊池、少弐、大友の三人から早馬が
兵庫に一日滞在なさって六月二日輿を上げて出発なさろうというところに楠多聞兵衛正成が七千余騎で参上する。その軍勢は格別に頼もしく見えた。主上は御簾を高く巻き上げさせて正成を近くに及びになり、「国の大事を早速に成し遂げた功績は、ひとえにお前の忠節による戦い
五月二十七日には、播磨国の書写山へ行幸なさって長年の念願を果たされ、諸堂を巡礼なさった折りに開山性空上人の御影堂をお開けになると、長年秘蔵されていた物と思われて、宝物がたくさんにある。この寺の老僧を一人お呼びになって、「これはどういういわれのあるものか
都では、五月十二日、千種頭中将忠顕朝臣と足利治部大輔高氏、赤松円心入道たちが次々に早馬を仕立てて、六波羅をすでに落としたということを船上山へ報告する。これによって公卿たちは会議を開き、すぐに都にお帰りになるべきかどうかの意見を申し上げられる。その時、勘
五代院右衛門はこのようにしてこの人を騙して行かせた。「自分で手に懸けて差し出したならば、長年仕えた縁を忘れた者だと人に非難されるだろう。都合のいい源氏の侍に討たせて、褒美の領地を分け合って治めたいものだ」と思ったので、急いで船田入道のところに行って、
こうして二、三日を経て北条家が悉く滅んだので、関東では皆新田の主命に従って、あちこちに隠れていた北条の一族たちがたくさんに探し出されて、捕らえた者は所領を認められ、隠していた者は直ちに処罰されることが多かった。 五大院右衛門はこれを見て、「いやいや、
義貞がすでに鎌倉を平定してその威勢を一円に振るったので、関東八ヶ国の有力者、名門の者で手を合わせ膝をつかないものはいない。長年付き従って忠節を当てにできる者でさえもそうである。ましてついこの間まで北条家の恩顧に従って敵陣にあった者たちは、生きがいのない
そこで、高重は走りまわって、「早々にご自害下さい。私が先を勤めてお手本をお見せ申しましょう」と言うやいなや、胴だけ残った鎧を脱いで投げ捨てて、高時の御前にあった盃を手にして弟の新右衛門に酌をさせて三度飲み干し、摂津刑部大輔道準の前に置いて、「そなたに
こうしているところに家来たちの馬が立ち塞がって、「なにをしておられますか。お一人がこのように駆け回られても、敵は大勢で早くも鎌倉の谷々に乱入して火を懸け略奪をしております。急ぎお帰りになって、高時殿にご自害をお勧め申し上げて下さい」と言うと、高重は家来
高重勢は旗も立てず刀の鞘を払った者もいなかったので、新田勢は敵とも気付かなかったのだろうか、何もしないで中を開けて通したので、高重が義貞に近づくことわずか五十mあまりだった。あわやというところで義貞の運が強かったのだろうか、義貞のすぐ前に控えていた由良
その頃、長崎二郎高重は、初めの武蔵野の合戦から今日に至るまで夜昼八十余回の戦いに毎回先頭に立ち、囲みを破って直接戦うこと数が知れなかったので、手勢やその下の家来たちを次第に討たれて、今はわずかに百五十騎になってしまった。五月二十二日に新田勢が早くも鎌倉
十三 亀寿殿信濃へ落さしむる事 付けたり左近大夫偽って奥州へ落つる事 ~3~
こうして四郎左近大夫入道は、二心のない家臣たちを呼び寄せて、「私は思うところがあって奥州の方に逃げて、再び天下を覆す計画を立てようと思う。南部太郎と伊達六郎の二人は土地に詳しい者だから連れて行こう。その他の者は自害して屋敷に火を懸け、私が腹を切って焼け
十三 亀寿殿信濃へ落さしむる事 付けたり左近大夫偽って奥州へ落つる事 ~2~
盛高は事の次第をありのままにお話しして、お心を慰め申したいと思ったけれども、女性は当てにできないものなので、後にひょっとして人に漏らされることもあるだろうと考え直して、涙を流しながら、「この世の中は、もはやこれまでと思われます。ご一門はほとんどご自害な
十三 亀寿殿信濃へ落さしむる事 付けたり左近大夫偽って奥州へ落つる事 ~1~
この頃、相模入道殿の実弟四郎左近大夫入道のところにいた諏訪左馬助入道の息子諏訪三郎盛高は、数度の戦いで家来たちを皆討たれて、ただ主従二騎になって、左近太夫入道の屋敷にやって来て、「鎌倉中の合戦は、もはやこれまでと思われますので、最後のお供をいたすために
安東左衛門入道聖秀というのは、新田義貞の北の方の伯父だったので、その北の方が義貞の書状に自分の手紙を書き添えて、密かに聖秀の所に送られた。 安東は、初めは三千余騎で稲瀬川へ向かったが、世良田太郎の稲村ヶ崎から背後に回った勢に陣を破られて引いたところ、由
塩飽新左近入道聖遠は嫡子三郎左衛門忠頼を呼び、「諸方の攻め込まれたところはことごとく破られ、ご一門はほとんど腹をお切りになったと聞いているので、私も相模守殿よりも先に死んで、その忠義をお分かりいただきたいと思う。そこでお前はまだ私の身内で養われている身
ところで、あきれたことに、塩田陸奥入道道祐は、息子民部大輔俊時が親の自害を勧めようと腹を掻き切って目の前で倒れたのをご覧になって、短かった今生の別れに呆然として心が迷い、涙の落ちるのが止まらない。先立ってしまった息子の菩提をも祈り、自分の成仏のためにも
その頃普恩寺前相模入道信忍も化粧坂に向かわれたが、昼夜五日の合戦に郎党がことごとく討ち死にして、わずかに二十余騎が残った。敵が攻めてきた各方面はみな敗れて、敵は谷々に乱れ入って来たと伝えられたので、入道普恩寺は討たれずに残った若党と一緒に自害なさったが
その頃大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎で極楽寺の切り通しを守って防ぎ戦っておられたが、今朝の浜辺での合戦で討たれて三百余騎にされて、その上敵に後ろを塞がれて進退窮まっておいでだったところに、鎌倉殿の御屋敷も火がついたと見ると、世の中はもはやそういうこ
そうしているところに天狗堂と扇ヶ谷で戦いがあると思われて、馬の砂煙が高く見えたので、長崎親子は左右に別れて馳せ向かおうとしたが、息子の勘解由左衛門が、これが最期と思ったので名残惜しそうに立ち止まって、遠く父の方を見やって、両目に涙を浮かべて立ち去ろうと
そうしているうちに、浜辺の民家と稲瀬川の東西に火をつけたところ、折りしも浜風が激しく吹いていて車輪のような炎が黒い煙の中を飛び散って、一㎞、二㎞の先へ燃え移ること、同時に二十余ヶ所であった。猛火の中から源氏の兵がなだれ込んで、行方を見失った敵をあちらこ
この時、島津四郎という武士は、力持ちの評判が高く、その能力や風采が傑出していたので、大事の時には役に立つ者ということで執事・長崎入道が烏帽子子にして、一騎当千の者と頼りにしていたので、勝負の分かれ目という合戦で用いようと、まだ各所の守備の軍には向けられ
ところで、極楽寺の切り通しへ向かわれた大舘次郎宗氏が本間に討たれて、兵達は片瀬・腰越まで退却したと伝えられたので、新田義貞は精鋭二万余騎を率いて、二十一日の夜半に片瀬・腰越を回って極楽寺坂へ向かわれた。明け方の月の光に敵の陣をご覧になると、北側は切り通
この頃一方、本間山城左衛門は、長年大仏奥州貞直の恩顧を受けていた者で、格別に傍近く仕えていたが、いささか主人の怒りに触れる事があって出仕を許されず、まだ自分の館に控えていた。五月十九日となった早朝、極楽寺の切り通しの軍が敗れて、敵が攻め込んでくるなどと
その中で赤橋相模守は、今朝須崎へ向かわれたのだが、この陣の戦は厳しくて、一昼夜の間に六十五回も斬り合った。そのために数万騎あった郎党も討たれたり逃げたりするうちにわずかに残るその軍勢は三百余騎になってしまった。侍大将としてその陣におられた南条左衛門高直
そうしている内に義貞の兵が三方から寄せてくると伝えられると、幕府においても相模守左馬助高成、城式部大輔景氏、丹波左近大夫将監時守を大将として、三手に分けて防いだ。その一方には、金沢越後左近大夫将監を付けて安房、上総、下野の軍勢三万余騎で化粧坂を固める。
こうして義貞が数回の戦いにお勝ちになったということが伝わると、関東八ヶ国の武士たちが従い加わることは雲霞のようであった。関戸に一日留まられて軍勢の到着を記録なさると、六十万七千余騎と記されている。ここでその軍勢を三手に分けて、それぞれ二人の大将を付けて
大将左近太夫入道も関戸の辺りで危うく討たれそうに思えたのだが、横溝八郎が踏みとどまって近づく敵二十三騎を瞬く間に射落とし、主従三騎が討ち死にした。安保入道道堪の父子三人と付き従う兵達百余人が枕を並べて討ち死にした。その他、代々北条に仕えてきた郎党や声を
夜が明けると五月十六日の朝六時、三浦の四万余騎が先陣を切って分倍河原に押し寄せる。敵の陣近くになるまでわざと戦い初めの合図をせず、鬨の声も挙げなかった。これは敵の意表を突いて一気に勝負を決するためである。 主他通り敵は前日数回の戦いに人馬ともに疲れてい
このようになったので、義貞もどうしようもなくなったと思っておられたところへ、三浦大多和平六左衛門義勝はかねてから義貞に好意を寄せていたので、相模国の松田、河村、土肥、土屋、本間、渋谷の軍勢を連れて、全部で六千余騎、十五日の夕方に義貞の陣に馳せ参じる。義
夜がいよいよ明けると、源氏は平家に先手を取られまいと馬の足を進めて久米川の陣へ押し寄せる。平家も、夜が明けたら源氏はきっと攻め寄せてくるだろう、待ち受けて戦えば有利だろうと馬の腹帯を強く締め兜の緒を締めて待ち構えている様子である。両軍が互いに寄せ合って
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下