イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29) よみがえったイエスさまが弟子たちの前に姿を現わされるという、その肝心なときに、なぜかトマスだけがいなかった。 仲間がいくら「たしかに主を見たんだよ」と証言しても、彼は頑として聞かず、「俺は釘跡を見て、指を差し入れて、わき腹に触れないかぎり、ぜったい信じない」と言い張った。 自分だけ蚊帳の外になってしまった悔しさがかいま見れて、トマスには悪いが、ほほえましい。 そこから次にイエスさまが姿を現わされるまで、実に8日間あった。 この間のトマスの心境やいかに。 おそらく(信じたい)と(いい…
それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。(ヨハネ19:24) 19章でついにイエスさまは、十字架につけられる。 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」(15) おびただしい数の群衆が、地響きの鳴るような怒声で、「十字架につけろ。」と狂ったように叫び続ける。 何度読んでも、戦慄を覚える。 なぜならば、その叫びが自分の中にも巣くっていることを思わずにはおれないからだ。 クリスチャン詩人・水野源三さんの詩をおもいだす。 『私がいる』 ナザレのイエスを 十字架にかけよと 要求した人 許可した人 執行した人 それらの人の…
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。(ヨハネ18:5) 武装した兵士や役人たちが、イエスを捕えるために押しかけて来た。 十二弟子の一人で、イエスの居場所を密告したユダも「彼らといっしょに立っていた」。 わたしは、思う。 このときユダはどんな目をしていたのであろうか、と。 憎悪か、恐れか、それとも正義感か。 いずれにせよ、三年もの間、イエスさま、そして十一人の弟子たちと寝食を共にし、多くの祝福された時間を過ごしたはずの彼が、「彼らと」、すなわち主に敵対する者たちと、「いっしょに立っていた」。 イエスさまは無力にも捕えられ、連行された。 このあと、冒頭の句と同じような記述が…
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5) この17章は、一章まるごとイエスさまの祈りだ。 天に上げられるのを間近に控え、天を見上げ、弟子たちのために、また彼らを通して主を信じるようになる人々のために、祈られた。 冒頭のことばはその一節だが、あまりに壮大で、圧倒される。 ヨハネの福音書は、イエスさまがどういうお方なのかを、他の福音書以上に深く、はっきりと示す。 この方は、「もとから世におられ」(1:10)る、「父のふところにおられるひとり子の神」(1:18)であり、「上から来る方」(…
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7) 「助け主」というのは、おもしろい言葉だ。 「主」が「助ける」というのだから。 日本語の聖書では、文語訳ですでに「助主(たすけぬし)」となっている。 ほかには「弁護者」(新共同訳)という訳もある。 英語の聖書ではどうなのだろうと調べてみると、「Helper」「Counselor」「Advocate」などがある。 「助け主」とは、弁護人、…
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7) イエスさまは、「何でもほしいものを求めよ」とおっしゃった。 英語訳では、「ask whatever you wish」だ。 これは、そうしたらどうかという提案でもなければ、そうしてもよいという許可でもない。 主の命令であり、切なる願いだ。 それによって、わたしたちが喜びに満たされるだけでなく、父のご栄光につながると、主はつづけられた。 「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父…
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2) ヨハネ伝14章の冒頭で、イエスさまは、世界がひっくり返るほどのことを語っておられる。 「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(3) 主は、 父の家には住まいがたくさんあること 場所を備えに行かれること 迎えに来てくださること ずっと主とともにいること を、はっきりと宣言された。 もし、このみことばだけでも、信仰の手をもっ…
(イエスは)それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネ13:5) 健康に恵まれている人であれば、いまの日本において、だれかに足を洗ってもらうことはほとんどないだろう。 わたしの前にひざまずき、わたしの足をその手に取り、水を注いで丁寧に洗ってくれる。 そんな人がいたら、申し訳ないような、ありがたいような気持ちになるだろう。 ましてやそれが、イエスさまだったとしたら。 弟子たちは、それを経験した。 イエスさまが上着を脱いで、ひざまずいて、せっせと足を洗ってくださったのだ。 福音書の著者は、それがどういうときに行われたかを記している。 …
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。(ヨハネ12:9) 「おい、聞いたか、イエスという人が、今度は死人をよみがえらせたらしいぞ」 「本当か。さすがにそんな話は、これまでに聞いたことがないな」 「イエスも、生き返った男も、いまベタニヤにいるらしい」 「よし、見に行こうじゃないか。」 こうして、たくさんの人々が、「ラザロを見るため」にやって来た。 それほどにラザロの復活は、ユダヤ地方に大きな衝撃をもたらした。 ラザロを見た結果、 彼のために多くのユダヤ人が去っ…
「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11:25) そのとき、ラザロが墓に入れられて、すでに四日が経っていた。 つまり、ラザロは確かに死んでいた。 「あなたの兄弟はよみがえります。」(23) 出迎えたマルタが、この主のことばを聞いても、遠い「終わりの日」のできごとと受けとめたのも無理はない。 「ラザロよ。出て来なさい。」(43) 布で巻かれた死人が墓からゆっくりと姿を現したとき、人々の驚きはどれほどであったろう。 あまりの信じがたいできごとに、みな、声も出なかったのではないだろうか。 イエスさまを信じる者たちは、この主のいのちにすでにあずかっている。 よみがえりのいのち、死ぬべきも…
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10) イエスさまは、ご自身を「牧者」、ご自身が導く者たちを「羊」にたとえられた。 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(11) 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。・・・また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(14-15) 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(27) この「良い牧者」は、 羊をよく知っており、 羊にいのちを豊かに…
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25) ヨハネ伝9章は、イエスさまによって目をあけられた盲人と、彼を尋問するパリサイ人たちとの問答で占められている。 ここに示されているのは、「見える」とはどういうことか、ということだ。 イエスが彼を癒したのが安息日であったことを問題視し、しつこく質問攻めにするパリサイ人たち。 それに対して、救われた人の言葉は、どこまでも率直で、シンプルだ。 自分を癒した方がだれかは知らないけど、ただ一つ、見えるようになったことだけは確かだと、まっすぐに答えつづける。 いら立つ…
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12) その日、イエスさまは、朝早くから宮で教えられた。 多くの人が、主のみおしえに熱心に耳を傾けていた。 そこにどやどやとおしかけたのが、律法学者やパリサイ人たち。 何のために? 姦淫の現行犯でとらえた女を突き出し、イエスがどうさばくかをためすためであり、あわよくば、その言葉尻を捕らえて訴えるためだった。 朝早くから、お疲れさんなことだ。 もちろん主は、彼らのたくらみを見抜いておられた。 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7) このひとことで、みな、ぐ…
さて祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38) 群衆に向かって、イエスさまは「大声で」語られた。 どれくらい大きな声だったのだろう。 そのときの主の眼差しは、どんなだったろう。 おそらく、つばを飛ばさんばかりの勢いだったに違いない。 人が「大声で」語るのは、どんなときか。 切実な思いがほとばしるときだ。 相手を呼び覚ましたいときだ。 よりたくさんの人に伝えたいときだ。 そこまでして、主が伝えたか…
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:29) 人々は、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)と尋ねた。 これに対し、冒頭のことばをもって、イエスさまは答えられた。 主がいわれた「神のわざ」は、二つの面から受け取ることができる。 ひとつは、わたしたちが行なうわざとして「信じる」こと。 もうひとつは、神が行なわれるわざの結果として「信じる」こと。 どちらの面も、信仰において欠くことのできない大切なものであるが、特に神が行なわれるわざとして受け取るときに、わたしは安堵し、感謝せざるをえない。 「わたしを遣わした父が引き寄せられない…
「父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ5:19-20) ヨハネ伝5章でイエスさまは、ご自分と御父の関係について、多くのことばをもって明かしておられる。 ご自分は父に完全に従属しておられ、何事も自分勝手には行なわず、すべて父のなさることを行なっていると、語られた。 「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分から何も行なうことができません。」(19) 「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。」(30) その従属関係は、たんなる主従関係ではなく、「愛」に根差したものだとも。 「父…
イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。(ヨハネ4:6) 神の子も、「旅の疲れ」をおぼえられた。 いっさいの権威をお持ちの方が、「疲れ」ておられた。 もしかすると、「よっこらしょ」とでもおっしゃったかもしれない。 これは、わたしたちにとって大きな慰めではなかろうか。 主も、わたしたちとまったく同じ肉体を持っておられたということなのだから。 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。(マルコ11:12) ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。(マルコ4:38) 罪は犯されなかったが、わたしたちと同じ疲れや痛み、弱さを知っておられたのだ。 と…
「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。」(ヨハネ3:11) イエス・キリストは、「知っていること」「見たこと」を証しするために来られた。 聖書のどこにも、キリストが真理を探究したとか、それを見出そうとして苦行したという記述はない。 それどころか、「わたしが・・・真理である」(ヨハネ14:6)とまで言われた。 では、どこから来られたか? 「上から」「天から」であると、この章だけでもくり返し語られている。 「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です」(13) 上から来る方は、すべて…
「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:16) イエスさまは、神の宮で商売していた者たちを追い払われた。 両替台をひっくり返したというのだから、その勢いたるや、すさまじかったことだろう。 この記事をみて、「キリストは商売をさげすむ不届き者である」と結論づける向きもあるが、それはあまりに浅はかな見方だ。 イエスさまは、商売を軽視したのではない。 彼らの“欲”に根差した厚顔なあり方を、見抜かれたのだ。 そこは本来「祈りの家」であるはずだった。 主の前に静まり、悔い改め、満たされる場所だ。 ところが、神を忘れて、“欲”を肥大化させる場所となってしまった。 このあと、イエスさまは、 …
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。(ヨハネ1:1-2) ヨハネの福音書の冒頭。 なんと深淵、なんと明快、そしてなんと驚くべき真理だろう。 ムダのない、きらめくような言葉で、たんたんと、ものすごいことが述べられている。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(〃3) この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(〃10) これがそのまま事実であるならば、全世界の人々の口はふさがれる。 この世界は、わたしも含めすべての被造物は、…
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