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四十で惑わず、五十にして天命を知る~海外在住 中小企業診断士&FP1級技能士MASAのブログ~ https://qye04202.hatenablog.com/

50なりたての海外在住の中小企業診断士兼FP(1級)です。 孔子は五十にして天命を知る、と言っていますが、まだその境地は遠そうです。 自分の過去の苦い経験を紹介する中で、これから世代の人が人生を歩むヒントを提供できればと思います。

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2020/06/03

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  • 迷走

    第27稿です。 まだお話をしていなかった部分がありましたので少しその部分を続けます。 前回お話しした資格取得前夜の話です。 時間関係が前後してわかりにくくすみません。 異動した部署の中でアイデンティティの危機、自分に対する危機感を感じながら日々の仕事に悶々として取り組んでいました。 qye04202.hatenablog.com qye04202.hatenablog.com 営業課がいままでやっていたことを引き受けてやってみたり、他部署から来る部署横断的な仕事を一生懸命に受けるようにもしてみました。本部横断的な業務品質向上の取り組みにも参加してみました。 でも下請作業が増えるばかりで自分の課…

  • 資格取得へ

    第26稿です。 40代半ばから危機感に苛(さいな)まれていました。 前回の投稿はこちら。 qye04202.hatenablog.com その危機感を乗り越えるための自分なりの答えが資格取得でした。 社会人としてキャリアをスタートした1990年代半ばはまだ日本企業は輝いていました。 ところがその後、年を追うごとに輝きを失い、いまはかつての勢いが感じられないように思います。 会社勤めの定年を迎えたあとのキャリアイメージとして、この日本を元気にすることを目指して、コンサルティングという形で貢献したいと思っていました。 自分のこれまでの経験や興味から、中小企業診断士とファイナンシャルプランニング(F…

  • 危機感のかたまり

    第25稿です。 前回の話は以下です。 qye04202.hatenablog.com 異動先の部署での役割は営業部における営業管理、部内総務、横串機能の発揮、でした。 でもいったい何をやればいいのか。 横串と言ったって部内にそんなニーズがあるのか。 各々の営業課が横との連携を少し意識すれば済む話、自分は出る幕もないし、そもそも横連携の意識は強い人たちの集団だったので、自分は本来的には必要ないのではないか、とずっと思い続けて悶々としていました。 異動当初は課長の下で2年くらいいろんな下働きをしていたのですが、2010年代半ばからは自分が課長になりました。 その間に部の業績は大きく伸長し、それに伴…

  • 部署異動~アイデンティティの危機

    第24稿です。 部署を異動しました。(前回の話は以下の通り) qye04202.hatenablog.com 40歳前半でした。 異動先は社内でも一、二を争う大所帯の商品部で稼ぎ頭でした。 世界に向けて商品を供給していて担当地域向けにいくつかの課に分かれていました。 それぞれの課の責任者は勢いのある人ばかり。自分より若い人も責任あるポジションで活躍していました。 その一方で自分は営業を外れた(当時の感覚だと外された、という気持ちに近い)、というのが自分の中で引け目になっていて、勢いのある人の前でかなり卑屈になっていました。 そういう人たちとまともに目を見て話をできるような精神状態ではありません…

  • 営業を離れて

    第23稿です。 前回はお化けの話をしたのですが(記事はこちら)、仕事についての話に戻りたいと思います。 当時は40代前半でしたが、管理者としての大きな反省(過去の記事はこちら)や失敗(過去の記事はこちら)など、この時期は試練の連続だったように思います。 ときには大手客先との画期的な長期商談が決まったりなど、嬉しいことも多少あったように思うのですが、いま振り返っても辛いことのほうが多く精神的にはきつかった思い出しかないのは残念です。 そんなある日、出張していた部長から私宛に電話がありました。 別の製品部隊への異動内示でした。 そこで担当するのは営業ではなく営業管理。 ある営業部内の総務的な仕事で…

  • 番外編~東南アジアの幽霊~

    第22稿です。 ブログ始めてから毎日書いていたのですが、更新頻度が早すぎて話の展開に追いつかない、という声も複数頂きましたので最近少し更新ペースを落としています。 これまで過去からずっと順を追って書いてきました。 ビジネス寄りの教訓めいた堅い話ばかり書いてきました。 今回は少し違った経験談を。 ごく何年か前の出来事です。 時が行ったり来たりしてわかりにくくてすみません。 現在東南アジアの国にいます。 (経緯は別途どこかでお話しします) 工場勤務しているのですが、何年か前から2交代制で夜間も工場を操業することにしました。 ちょうど夜間操業を始めて間もないある夏の日。 夜中の1時くらいだったと思い…

  • ある失敗~ファシリテーション~

    第21稿です。 仕事の話に戻します。 前回までの職歴の話は以下の通りです。 qye04202.hatenablog.com 異動先の部署にも少しずつ慣れてきたあるとき、商品の戦略を検討する会議をすることになりました。 これは、各国で商品を担当している人が本社に集結して行う大きな会議。 部内で準備委員会が組織され、私もそのメンバーになりました。 誰が司会をしますか?という話になりました。 当時の幹部からの問いかけだったように思います。 商品知識、市場動向、仕入先の状況などについて熟知していたわけではないのですが、過去にプロジェクトマネジメントを少し経験していたし、プレゼンテーションをしたりする過…

  • 閑話休題~社会人になるまで(1)~

    第20稿です。 前回まで職歴をお話ししている途中でしたが、今回は少し社会人になる前のお話をしたいと思います。 前回の予告と異なりますがご容赦ください。 1980年代当時、私は中学生でした。 いまは小学生から英語を学ぶようですが、その頃は中学校からABCを習っていました。 確か学校の推奨でNHKの基礎英語というラジオ番組を聞き始めたように思います。 当時AMラジオから流れる英語のネイティブの音声やリズムに美しさを感じ、強烈に魅かれました。 その頃、同じNHKでハングル講座も始まり(たぶん80年代後半にソウル五輪があったからだと思います)、韓流ブームが訪れる相当前でしたが、あの丸や棒で構成された幾…

  • 最大の反省~管理者として~

    第19稿です。 異動先では大きく分けて輸出向けと国内向けのチームがありました。 私は輸出向けを統括する立場で着任しました。 統括ということは、実際にそれぞれの分野を担当する人がそれぞれいて、それを管理する立場ということです。 それまではずっと担当として仕事をしていましたので、立場が変わった、ということになります。 管理というと、労働基準法での残業制限などの法令や規則を遵守を部下に求め監視するという側面みたいに見えてしまいますが、営利企業としてチームとしての業績を上げる施策を考え、実行するという事を考えなくてはいけない。 考えてみれば当然のことなのですが、当時の自分にはその意識は充分ではありませ…

  • 激務に夢はあったか?

    第18稿です。 入社してプロジェクト案件を担当していました。 輸出を担当する部署だったので、海外の拠点から引き合いが山のように来ていました。 入札という形が多く、とにかくいつも膨大な入札書類に埋もれ締め切りに追われていたように思います。 顧客から来る入札書類には、対象の製品明細、製品仕様、売買契約条件、などが含まれていて、担当者としてはそれぞれをきちんともれなく吟味する必要があります。 その上で、対応できること、できないこと、逆提案などをまとめて期限までに顧客に提出する必要がありました。 自分一人では到底回答できないので、製品のことは仕入先、売買契約条件については社内の法務部門や審査部門などの…

  • 3社目入社~I am nobody~

    第17稿です。 新しい会社で勤務を始めました。 転職までの経緯は過去の記事をご参照ください。 qye04202.hatenablog.com 初出社日に合わせて、スーツ、ネクタイ、靴、鞄を新調しました。 転職の直前に休みをとって海外を旅行したので、免税店で奮発して買ったものでした。 いま思えば笑えるくらいずいぶんと背伸びしていました。 配属されたのはある鉄鋼製品を輸出する部署でした。 当時35歳でしたので、新卒で入社していれば10数年のベテラン社員。 以前にいたプラント会社で鉄鋼製品を扱っていたので、業界のことはある程度はわかるものと思っていました。 ところが実際はさっぱり。 顧客の名前も、製…

  • 2度目の転職~決断までの葛藤~

    第16稿です。 私の転職先からの内定(転職に至る背景は前回記事をご覧ください)を待っている間、ふと新聞の求人広告が目につきました。 ある大手の事務職正社員の中途採用広告でした。 結婚に伴い、彼女は勤務していた会社を退職していました。 派遣事務職という立場ではありましたが、かなりの裁量で仕事をしていて、職場の仲間も信頼してくれていました。 退職をみんなで惜しんでくれたと聞きます。 でも寿退社ということでみんな温かく送り出してくれたようです。 先の求人広告を見せ、「受けてみたら?」と勧めてみました。 彼女が退職した会社では派遣事務職という立場だったので、同じような仕事で正社員という選択肢があるので…

  • 2度目の転職~また新しい世界へ~

    第15稿です。 2000年代半ば。2度目の転職を考え始めました。 この経緯は過去の記事ご参照ください。 qye04202.hatenablog.com 当時34歳でした。当時は転職できる限界は35歳と言われていましたので、ぎりぎりの年齢だったことになります。 転職先としていろんな方向を考えました。 プラントの世界に魅力を感じ新卒で飛び込んだこともあり、出戻りも真剣に考えました。 その当時は自分がもともといた会社は業績が急回復し、ちょうどOBを広く受け入れていました。 何度も足を運んで、自分の元いた部署を始め、いろんな部署の方に話を伺ったりもしました。 ときには競合会社にも声を掛けて頂き、話を伺…

  • 出逢い

    第14稿です。 今日は妻との出逢いについて簡単に触れておきたいと思います。 地元の会社では液晶製品の多くを輸出していました。 輸出の際には東京の商社を起用していました。 私が営業に来た当初、輸出向け液晶を担当していましたので、日常的に商社の担当者と業務上のやり取りがありました。 (製造技術から営業に来るきっかけについては以下をご参照ください) qye04202.hatenablog.com 彼女も商社の一担当でした。実際は派遣事務職だったのですが、仕事ぶりを買われてか、総合職の人にかなりの部分を任されていろいろやっていたようです。 こっちは1円でも高く売りたいのに、こっちからの提示単価を遠慮し…

  • 地元から東京への転勤~複雑な思い

    第13稿です。 新会社では、営業部が東京に拠点を集中させることにしたため、地元から東京に転勤、となりました。 (それまでの経緯は以下に記載しています) qye04202.hatenablog.com 新本社で先方会社の人たちと混ざって働き始めました。 違う企業文化を持った人と触れ合うというのは非常に新鮮でした。 会社の制度、ITインフラや、営業案件を管理するしくみは徐々に先方スタイルに変わっていきましたが、当時の自分にとっては先進的でした。 新会社は商品戦略もかなり明確だったし、何よりもみんな若くて勢いがあったような記憶があります。 各組織の長となる人々も若かったし、何よりも新会社の社長も先方…

  • 晴天の霹靂~事業統合~

    第12稿です。 2000年代半ばの話です。 車載ディスプレイ担当として少し軌道に乗り始めていました。 (前回の記事はこちら) qye04202.hatenablog.com欧州の大手自動車メーカーや大手部品メーカーとの商談も進み、少しずつですが供給実績も積み重ねられるようになってきました。 世界一品質が厳しいと言われていた日本の自動車メーカーにも拡販を進めようと思っていました。 そんなある日。 講堂に社員が集められました。 自分の誕生日でしたのでよく憶えています。 当時の社長がこう切り出しました。 「当社の液晶事業は、10月1日付で○○社と立ち上げる合弁新企業に事業譲渡することになりました」 …

  • あるプレゼンテーションの成功~自己肯定感の回復~

    第11稿です。 前回の内容はこちら。 当時のトップの指示で車載ディスプレイ営業の専任担当になりました。 まずは市場を知らないと話にならないのでマーケティングから始めることにしました。 特に当時市場が伸びるのが期待されていたのはクルマに標準装備されるディスプレイでした。 当時、センターコンソール(クルマのカーナビなどがあるあたり)にディスプレイが標準装備されているクルマは高級車を中心にまだまだ希少でした。 でも今後多くのクルマに装備されることが期待できるのではないかと思っていました。 ちょうどパワーウィンドウや電動ミラーといったかつて高級車の装備が、殆どすべてのクルマに装備されるようになったのと…

  • 競争激化の末。。

    第10稿です。 私が液晶に関わるようになった2000年代前半は、日本国内でも10社以上のメーカーが乱立していました。 台湾や韓国のメーカーも台頭、見る見るうちに巨人になっていきました。 そのたった10年ほど前、私がこの会社に入社する前の1990年代、液晶業界は日本企業の独壇場だったそうです。 思い返してみれば、当時の日本は電子立国として世界を席巻していたように思います。 液晶は日本の技術が結集した高度な製品で、競合も少なく日本の液晶メーカーはこの世の春を謳歌していたと聞きます。 そこからの激変。 いかに市場環境の変化が激しいかわかります。 当時の上司はよく「液晶が徐々にコモディティ化してきた」…

  • 営業部で~使い物にならない?!~

    第9稿です。 こうして製造技術から営業部に異動になりました。(経緯はこちら) 部員は 大柄で声の大きい部長 目つきの鋭い課長 大柄な主任の面々 事務員の皆さん という布陣。 自分がこれまで見てきた世界とはあきらかに異質。 そしてわからないことだらけ。 技術の世界では、わからないことあれば技術書を紐解くなりして勉強する手立てがありました。 営業の世界は何をどう勉強していいかわからない。そもそも学ぶ対象がはっきりしない。 あるとき、こんなことがありました。 担当していた商談がまとまり、先方から発注の内示を頂きました。 正確に言えば面談の席で決まった口約束。 それは在庫を抱えてしまった品種を売りさば…

  • 2社目:営業部配属に至るまで

    第8稿です。 製造技術者としてUターン転職した2社目地元企業での話です。 入社3か月くらい経過したある日、部長から営業への異動を言い渡されました。 営業にはもともと興味はありました。 営業は製品やサービスだけではなく全人格を売り込む職業だ、と思っていました。(いまもそう思います) 当時定期購読していた雑誌の影響も多々あるかもしれません。 ただ、自分はかなり偏った人間だと自己分析していて、全人格で戦ってとても営業の世界で生き残れるとは思えませんでした。 でも将来的には全人格で戦っていけるようにしたい、何とかしたい、営業を経験することで自分の足りないところを補えるのではないかという思いがありました…

  • 転職-Uターン就職

    第7稿です。 転職して地元の電機会社に通勤し始めました。 ちょうど30歳のときでした。 実家から自転車だったのですが、山や川などの自然に囲まれて風を感じながら通勤するのはとても気持ちよかったです。 しばらく都会暮らしが続いて排ガスと喧騒に少し疲れていましたから。 入社研修のときに、総務部長さんが、「皆さん(同時に入社したメンバーが数人いました)はこうして転職されて地元に戻ってこられたわけですから、ここを終(つい)のすみかとして頑張ってください」みたいなことをおっしゃっていました。 Uターン就職で両親も非常に喜んでいましたし、これを機に地元でずっと暮らそう、と心に決めていたので、総務部長さんの言…

  • 経営危機そして退職

    1990年代後半のプラント業界は過当競争の時代でした。 外国、特に韓国の会社が急速に力をつけてきて価格競争力を武器に私のいた会社と受注合戦をしていました。 受注産業でしたから常に仕事を取らないといけません。低価格でも受注せざるを得ない場面もあったと思います。 入社してしばらくしてすぐに赤字に転落、その後はずっと赤字でした。 80年代から多くの大規模プロジェクトを成功させ、社員の中でも多くの成功体験があったと思います。 当時は格下と見ていた諸外国の同業他社がまさか自分たちを脅かす存在になるとは殆どの社員は思っていなかったと想像します。 それまでの競争優位が、競合の台頭という外部環境の変化に会社が…

  • 最初の会社-海外赴任(中東2回目)

    第5稿です。 2度目の海外赴任も中東でした。 会社に入って数年経過した1999年でした。 世の中ではノストラダムスの大予言の年と言っていて、1999年7の月に空から恐怖の大王が降ってくる、という フレーズを今も記憶しています。 赴任は7月くらいだったので、何かあったらいやだな、と思っていたのを思い出します。 本社で設計と材料調達を担当していたプロジェクトで材料担当としてそのまま現場に赴任しました。 前回赴任したプロジェクト(記事はこちら) はとても大変なものでしたが、こちらは運営も極めてスムーズ、工期にも余裕あり、その結果、顧客との 関係も良好、下請業者との関係も良好、社内の各部署間の関係も極…

  • 最初の会社②-海外赴任(中東)

    プラントの会社ではエンジニアとして中東に2回赴任しました。 いずれも建設現場での仕事です。 最初の現場は90年代半ば、確か新入社員のときだったと思います。 工期が遅れに遅れていてとにかく工事を終わらせることが必要で、まさに猫の手も借りたい、といった状況だったのだと思います。 通常、請負側の建設工事が遅れて施工主への引き渡しが遅れると1日いくら、という莫大な遅延損害金が発生するので計画的に工事を進める必要があります。 どのくらい工期遅れだったか全く記憶にないのですが、ひどく遅れていたことだけは覚えています。 当時の新入社員にはそれが自社(この場合は元請)に起因するものなのか、施工主である顧客、下…

  • 最初の会社①-入社

    第3稿です。 ここからはしばらく簡単に職歴をご紹介したいと思います。 1990年代半ばに大学の工学部修士課程を経て社会人になりました。 当時の日本は世界第二位の経済大国でした。 世界の経済活動における日本の存在感は2020年のいまとは比較にならないくらい大きかったのを思い出します。バブルの余韻はありましたが、まだ日本人は今よりも世界に対して自信を持っていたような気がします。 中東の砂漠の上に大きな石油精製プラントを建設するスケールの大きさに憧れ、壮大なロマンを感じ、プラント建設会社に技術者として入社しました。 当時はそのプラント建設工事を差配するプロジェクトマネージャーになりたくて一生懸命先輩…

  • 働く意義とは?

    第2稿です。 ブログを始めるにあたり、全体の構成を考えて作成を、と思ったのですが人生について書きたいと思うも頭の中が散らかっているので思ったままを書くことにしました。 いつか整理をするかもしれません。 1995年に最初の会社に入って以降、2度の転職を経ていまの会社に勤務しています。 そして2年前から海外駐在員として勤務していますが、いままで一貫して違和感を感じ続けていることがあります。 なかなか言語化できずにもやもやしていたのですが、最近気づいたことは働くことの本質的な価値を自分の中で見出していない、ということ。これが違和感の正体だと思うようになりました。 会社の業績のために働く、もちろんそれ…

  • ブログ開設にあたって

    MASAです。 海外在住の会社員です。 3月に50歳になりました。 論語の有名な言葉に「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う」という一節があります。 これは人生のありようを語っている言葉だと思いますがいつ読んでも耳が痛いです。 自分は年齢は経たけどまだ天命を知るに至っていないよなあ、と。 このブログでは私のいまに至るまでの人生における心の葛藤をつらつらと書きならべてみたいと思います。 これからこの年代に向かう方々の多少でも指針になれば、と思います。

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