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果たしてプロレスが強いのか?それとも極真空手が強いのか?昭和55年2月27日、蔵前国技館ついに格闘技の雌雄を決する時がきました。日本中のプロレスファン、空手家、その他の格闘技経験者のみならず日本国民が注目した「格闘技の関ヶ原決戦」A猪木対W・ウィリアムスの大一番が3分15Rで行われたのです。ちなみに大いにもめたルールですがウィリーはグロープ着用そして猪木側のハンディとして寝技は5秒以内と、特別に設けられました。余裕満々の猪木のウィリーに対しどこか自信なさげの猪木まさに好対照の両者ですが第1Rからハイキックを振り回すウィリーに対し猪木はうまいステップでこれをかわしました。続いての第2Rリングという、普段とは違った足裏感触でやりづらい(?)ウィリーは今度は接近し、猪木を追い込んで膝蹴りを連打します。これがうまく猪木...A猪木対W・ウィリアムス(1980.2.27)
屈辱のタイトル喪失から2ヶ月経った昭和55年4月3日、蔵前国技館に於いて<王者>S・ハンセン対<挑戦者>A猪木によるNWFヘビー級選手権試合が行われました。王者の風格も見せ、余裕なハンセンに対し後がない猪木しかし序盤からショルダー・アーム・ブリーカーストンピングと徹底した左腕攻撃をみせます。左腕にダメージを受けながらそれでも強烈なラリア―トを繰り出したハンセンエプロンでダウンする猪木を攻め立てなんとそのエプロンで危険なブレーン・バスターを仕掛けました。場外で苦痛な表情の猪木余裕なハンセンは猪木がエプロンに上がるのを待ってまたしても前回同様、ラリアットを狙いますがこれをショルダースルーでかわした猪木はそのままコーナーポストに上って場外のハンセンめがけ起死回生の脳天へフライング・ニー・アタックをかませました。そして...A猪木対S・ハンセン(1980.4.3)
「モスクワ・オリンピック、幻の金メダリスト」と言われた「すごいヤツ」谷津嘉章が鳴り物入りで新日本プロレスに入団したのは昭和55年暮れの事です。しかし、翌年6月24日の蔵前でのデビュー戦において猪木と組んで、ハンセン、ブッチャー組と対戦した際今なお語り継がれる歴史的惨敗を喫しそれ以後はパッとする事なく、海外武者修行を行い昭和58年秋の闘魂シリーズに凱旋帰国しかし、アマレス繋がりからか長州率いる維新軍に加入し新日本本隊に反旗を翻しました。そして最終戦となった11月3日、因縁の蔵前でA猪木とシングルマッチを行ったのであります。何となく自信なさげの谷津の表情を見てセコンドの長州もやや心配そう・・・そして猪木の鋭い眼光にビビって、後ずさりする谷津いやっ、そうではなくエプロンに出て、自らブレイクしたり四つん這いになって、犬...A猪木対谷津嘉章(1983.11.3)
小6の冬から「ワールドプロレスリング」を観始めた私ここ富山県は約1ヶ月遅れの放送で当時、月刊誌であったプロレス誌の情報よりも遅かったため試合内容・結果を把握してから、テレビを観るのが通常でありました。しかし中3時の修学旅行先でついに私は初めて、「ワープロ」を生中継で観る事が出来たのです。プロレスが好きな同室の仲間が集まって初めて観たリアルタイムの新日の試合その興行は1983年5月13日、大宮スケートセンターセミの前田対アンドレが終わり大変な盛り上がりで、いよいよメインエベントを迎えました。ついにアントニオ猪木が登場IWGP決勝リーグ戦ということで相手は<アメリカ代表>のB・J・スタッドであります。古館アナが「ニューヨークの摩天楼」と命名したスタッドは赤縁の黒マスクを被り、全くの無表情一方、先週アンドレに反則負け...A猪木対B・J・スタッド(1983.5.13)
昭和57年6月18日、蔵前大会メイン・エベントのA猪木対S・マギーはテレビ生中継の放送終了10秒前に開始となりました。同年4月21日のベンチュラ戦以来約2ヶ月ぶりの戦線復帰となった猪木は開始早々、いきなりバックドロップを食らいます。しかし、サイド・スープレックスで切り返し狙いを定めて延髄斬り一閃とどめはお返しのバックドロップで97秒の完勝おそらく猪木の大会場におけるシングル最短試合だと思います。しかし、このS・マギー2年後には第一次UWFに参戦本当はデキる男だったんですね。A猪木対S・マギー(1982.6.18)
A猪木が「世界統一」のために提唱したⅠWGP構想その開催が具体化してきた昭和57年7月6日大阪府立体育館では、A猪木対E・カネックという注目すべき一戦が行われました。メインに登場したのは、ⅠWGP中南米代表として既にエントリーされているエル・カネック地元メキシコでは、あのM・マスカラスのライバルして英雄視されているという事です。一方、我らがアントニオ猪木しかしこの年は下肢疾患の体調不良によりシリーズ出場と欠場を繰り返しており顔色も今1つといった感があります。シリーズ参戦して猪木の状態をインプットしたのでしょう。まずは開始早々カネックが攻め込みました。更に猪木をコーナーに押し込みパンチ攻撃の連打そしてロープに飛ばすやカウンターのランニング・ネック・ブリーカーとどめは変形のアルゼンチン・バック・ブリーカ-で追い込み...A猪木対E・カネック(1982.7.6)
昭和57年に於ける最後の「ワールドプロレスリング」放送は12月9日、大阪府立体育会館からの中継でメイン・カードはA猪木対A・アドニスでした。当年は下肢疾患(糖尿病)が悪化し半年近く欠場した猪木せめて有終の美を飾りたいトコでしょう。今回が2度目の来日となった暴走狼に対しいきなりの「ナックル・パートを一閃勢い余ったアドニスは後方に1回転してトップとセカンド・ロープの間に両腕を挟まれ、身動きが取れなくなりました。(*ちなみにこの体制が、以後のアドニスの「お約束?」になります・笑)しかしうまく場外に脱出したアドニスはまず鉄柱を利用して猪木の股間を攻め更に得意のマンハッタン・ドロップで追い打ちをかけました。そしてとどめはトップ・ロープからのフライング・エルボー・ドロップを狙いますが寸前でかわした猪木は延髄斬りからのバック...A猪木対A・アドニス(1982.12.9)
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