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2020/04/16

タカサキ式施術さんの人気ランキング

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  • A猪木 対 大木金太郎(1975.4.4)

    A猪木 対 大木金太郎(1975.4.4)

    新日が主催した第2回ワールド・リーグ戦が昭和50年4月4日、蔵前国技館で開幕し、メインではA猪木対大木金太郎の公式戦が行われました。半年前の雪辱に燃える大木はスタートから大ラッシュし、ヘッドバッド4連発の猛攻を見せ、猪木をリング下に落とします。さらに大木自身も場外に下りて、ヘッドバッドをやめません。そして先にリングに戻り、遅れてエプロンに上がった猪木にとどめのヘッドバッドこれで猪木は再び転落し、計17発のヘッドバッドで1分16秒、大木がリングアウト勝利を収めたのです。裁定後、20カウント以内のリング生還をアピールするも判定は覆らず、レフェリーに「怒りの鉄拳」の猪木なのでした。プロレス興行の中で、特に勝敗が重視される祭典的な試合では、予選でエース級があっさり負ける秒殺結果もたまにありますが、決して安くない入場料を...A猪木対大木金太郎(1975.4.4)

  • A猪木 対 T・J・シン(1975.3.13)

    A猪木 対 T・J・シン(1975.3.13)

    昭和50年3月13日、広島県立体育館に於けるA猪木対T・J・シンこの対戦に至るまでの経緯を申しますと・・・前年6月26日の大阪大会で、猪木がシンの肘をへし折ったことにより、完全決着という事で、シンを新日マットから追放した形となりましたが、納得のいかないシンは肘が回復するのを待ち、NWF本部に再挑戦を直訴しました。しかしながら、猪木は「もうやる必要がない!」とばかり、この指令を拒否したものの、しつこいシンの再三の要求にキレて、ついにはタイトルそのものを返上したのです。慌てたNWF側は(当時の)会長が辞任し、暫定責任者として、K・ゴッチが一時的に就任しました。ゴッチは「王座決定戦」として、猪木対シンを提案した事で、弟子でもある猪木はこれを断れず「今回限り」という条件で、しぶしぶ了承…かなり回りくどい道のりを経て、結...A猪木対T・J・シン(1975.3.13)

  • A猪木 対 大木金太郎(1974.10.10)

    A猪木 対 大木金太郎(1974.10.10)

    馬場、猪木と共に「若手三羽烏」と言われた大木金太郎実際は1929年2月生まれ(*猪木より14歳上)で1959年(昭和34年)11月にデビューし、翌年9月30日にデビューした猪木の対戦相手を務め、逆腕固めで大木が勝利しました。時は14年経ち、昭和49年10月10日の新日興行、超満員に膨れあがった蔵前国技館において、NWF世界ヘビー級選手権、<王者>A猪木対<挑戦者>大木金太郎の一戦が行われたのです。何となんと試合開始前、いきなり猪木が大木に顔面パンチを放ったのでした。予想外の攻撃に、大木が一瞬ひるんだものの、試合が始まるや、先制のブレーンバスターを放ちます。ダブルアーム・スープレックスでお返しした猪木ですが、大木が得意のヘッドバッドをぶちかますと、あまりのダメージにダウンしました。更に大木は10連発の猛打すると顔...A猪木対大木金太郎(1974.10.10)

  • 対 T・J・シン(1974.6.26)

    対 T・J・シン(1974.6.26)

    「全てが成功であった!」とは、決して申しませんが、日本人対決、異種格闘技戦、ⅠWGP…といった奇抜なアイデアで常に全日本プロレスの先手を取り、自らの体を張って、我々の心を熱くさせてくれたA猪木の闘いを、私は「やったモン勝ちプロレス」と勝手に名づけています。そんな新日マットに、あのタイガー・ジェット・シンが初登場したのは、昭和48年5月の事でした。興行開催中の川崎体育館に、突如乱入したシンは、試合中の山本小鉄をメッタ打ちにし、失神させるという暴挙に出たのです。そして、そのまま強引にシリーズに参戦し、猪木と血の抗争を繰り広げたのであります。そんなシンの行動は、来日する度にエスカレートしました。同年11月には、新宿伊勢丹へ入ろうとした猪木・倍賞美津子夫妻(*当時)と「偶然」遭遇した際、引き連れていた数人の外人レスラー...対T・J・シン(1974.6.26)

  • A猪木 対 S小林(1974.3.19)

    A猪木 対 S小林(1974.3.19)

    私のような80年代ファンにしてみたら、「巌流島の決闘」といえば、当然1987年10月4日に、当地で行われたA猪木対M斎藤そのものであります。しかし70年代の方々にしたら、昭和49年3月19日でのA猪木対S小林を思い浮かべるのではないでしょうか?国際プロレスを離脱し、エースの座も捨て、裸一貫で猪木に挑戦してきたストロング小林試合前のインタビューでは「とにかく試合を見てほしい!」とだけ、言い放ちました。一方、受けて立つ猪木も余裕の表情で、全く同じ言葉を発したのであります。北は北海道から南は沖縄まで、16000人の大観衆が集結した蔵前国技館で、いよいよNWF世界ヘビー級のタイトルマッチとして、世紀の一戦が始まったのです。試合は勢いに乗る小林がやや優勢にスタート、得意のベア・ハッグで猪木を苦しめると、更にお株を奪うグラ...A猪木対S小林(1974.3.19)

  • A猪木 対 J・パワーズ(1973.12.10)

    A猪木 対 J・パワーズ(1973.12.10)

    昭和47年3月6日に新日本プロレスを旗揚げしたA猪木が、ついにベルト獲りに乗り出しました。1年8ヶ月経った翌年12月10日、東京体育館において、J・パワーズが保持するNWF世界ヘビー級王座に挑戦したのです。60分3本勝負のこの試合、「死神」の異名を持つパワーズの試合運びに苦戦した猪木ですが、20分26秒、コブラ・ツイストで1本目を先制しました。後がないパワーズは手段を択ばず、レフェリーの目を盗んで急所攻撃を行い、そのまま得意の8の字固め(パワーズ・ロック)で5分49秒、猪木からギブアップを奪い、タイに持ち込みます。決勝ラウンドも王者優勢であり、再び8の字固めを狙おうと、スタンディングからグラウンドに持ち込もうとするもその瞬間、後頭部をセカンド・ロープに誤って激突しました。これを好機と見た猪木は卍固めをガッチリと...A猪木対J・パワーズ(1973.12.10)

  • A猪木 対 K・ゴッチ(1972.3.

    A猪木 対 K・ゴッチ(1972.3.

    以前、フェイスブックにおけるプロレス友人との会話で、「ストロング・スタイルって何か?」という話題になりました。色々考えた挙句、「アントニオ猪木から、エースの座を受け継いだ新日トップレスラーが行うべきスタイル」と言うのが率直な私の答えになったのですが、「では、それはどんなスタイルで、誰が受け継ぐのがふさわしかったか?」と更に考えると、すぐに答えが見つかりません。そこで答えを見つけるために、1972年3月6日、大田区体育館、新日本プロレス旗揚げ戦のメインエベントで行われたA猪木対K・ゴッチのビデオを観て、改めて考えました。この時、エースA猪木の付き人を務めるのは、若干18歳の藤波辰巳です。長い歴史に於いて、この両者も色々ありましたが、藤波が「師匠の背中を見て、育った」事は否定しようのない事実と言えましょう。両者ガッ...A猪木対K・ゴッチ(1972.3.

  • A猪木 対 D・F・ジュニア(1970.8.2)

    A猪木 対 D・F・ジュニア(1970.8.2)

    昭和45年8月2日、福岡スポーツセンターにおいて、NWA世界ヘビー級選手権、<王者>D・F・ジュニア対<挑戦者>A猪木の一戦が行われました。猪木にとっては、前年8月の大阪大会以来2度めの世界挑戦となります。前回のドリーとの「大阪・冬の陣」では、3本勝負でありながら、60分ノー・フォール・フルタイム・ドローでした。今回の「福岡・夏の陣」も60分3本勝負、先制攻撃をかけ、まずは1本取りたい猪木でしたが、さすがは「世界」のドリー、「うまく自分のペースへと持っていき、ダブルアーム・スープレックスで、「若獅子」猪木をマットに沈め、30分38秒、1本目を先取したのです。あとがない猪木、しかし7分4秒、「白いキャンパスに美しい弧を描く人間アートブリッジ」原爆固めでイーブンに持ち込みました。3本目は得意のコブラ・ツイストで「世...A猪木対D・F・ジュニア(1970.8.2)

  • A猪木 対 C・マルコフ(1969.5.16)

    A猪木 対 C・マルコフ(1969.5.16)

    昭和44年5月16日、東京体育館に於いて、日本プロレスが主催した第11回ワールドリーグ決勝戦が行われました。この時点で決勝に残ったのは、日本勢からG馬場とA猪木、外人勢はB・ブラジルとⅭ・マルコフであります。抽選の結果、馬場対ブラジルと猪木対マルコフのカードが組まれたのですが、第1試合の馬場対ブラジルは両者リングアウトで双方共に失格となり、第2試合の「猪木対マルコフの勝者が優勝」という特別ルールが組まれました。さて、今大会ダークホース的存在だった「ロシアの妖怪」マルコフは、優勝候補のG・モンスーンの不調により決勝に進出、試合はマルコフのペースで展開したものの、ナックル・パートで形勢逆転した猪木、最後は17分45秒、卍固めでギブアップを奪い、見事ワールドリーグ大会を初優勝したのです。当時猪木ファンは「これで馬場と...A猪木対C・マルコフ(1969.5.16)

  • A猪木 対 ザ・デストロイヤー(1966.5.19)

    A猪木 対 ザ・デストロイヤー(1966.5.19)

    「80年代」ファンの私にしたら、「場外心中」と言って思いだすのは、やはり昭和61年3月26日、東京体育館での新日対UWF(5対5)に於ける上田による前田との道連れ心中であります。まあ、それはともかくとして・・・昭和46年5月19日、大阪府立体育館に於いて、日本プロレスが主催した第13回ワールドリーグ決勝戦が行われました。この時点で決勝に残ったのは、日本勢からG馬場とA猪木、外人勢はA・ブッチャーとザ・デストロイヤーであります。抽選の結果、猪木対デストロイヤーと馬場対ブッチャーのカードが組まれました。前日、K・K・コックスに勝った事で辛うじて優勝戦に残った猪木ですが、勿論ここまできたら、2年ぶり2度めの優勝を狙ってる事でしょう。しかし外人勢として初優勝を狙うデストロイヤーはロープ最上段からのニー・ドロップ、ドロッ...A猪木対ザ・デストロイヤー(1966.5.19)

  • A猪木 対 S・ハンセン(1980.9.25)

    A猪木 対 S・ハンセン(1980.9.25)

    昭和55年9月25日、広島大会での猪木によるハンセンへの伝説の逆ラリアット!当時、小6だった私が「ワープロ」を見始めたのはこの時期なんですが残念ながら、この試合は見てないんです。我が富山県は当時土曜昼に、しかも1ヶ月ほど遅れて放送されていたのですがこの日は何か特番が入ったかで、放送されなかったのです。前週の大阪大会で、猪木が半死半生の状態ながら辛うじてリングアウト勝ちを治めたのは、友達数人で観ていて「来週こそ猪木は負けるんでないか!?」と思っていたので、放送されなかったあのショックは未だによく覚えています(笑)さあ、気合い十分の両者ですが今回もに「ブレーキの壊れたダンプカー」なハンセンが終始攻めジャンピング・ニー急降下ニードロップドロップキックエルボードロップと徹底的に猪木をいたぶりそして、仕上げはラリアートと...A猪木対S・ハンセン(1980.9.25)

  • A猪木 対 W・ウィリアムス(1980.2.27)

    A猪木 対 W・ウィリアムス(1980.2.27)

    果たしてプロレスが強いのか?それとも極真空手が強いのか?昭和55年2月27日、蔵前国技館ついに格闘技の雌雄を決する時がきました。日本中のプロレスファン、空手家、その他の格闘技経験者のみならず日本国民が注目した「格闘技の関ヶ原決戦」A猪木対W・ウィリアムスの大一番が3分15Rで行われたのです。ちなみに大いにもめたルールですがウィリーはグロープ着用そして猪木側のハンディとして寝技は5秒以内と、特別に設けられました。余裕満々の猪木のウィリーに対しどこか自信なさげの猪木まさに好対照の両者ですが第1Rからハイキックを振り回すウィリーに対し猪木はうまいステップでこれをかわしました。続いての第2Rリングという、普段とは違った足裏感触でやりづらい(?)ウィリーは今度は接近し、猪木を追い込んで膝蹴りを連打します。これがうまく猪木...A猪木対W・ウィリアムス(1980.2.27)

  • A猪木 対 S・ハンセン(1980.4.3)

    A猪木 対 S・ハンセン(1980.4.3)

    屈辱のタイトル喪失から2ヶ月経った昭和55年4月3日、蔵前国技館に於いて<王者>S・ハンセン対<挑戦者>A猪木によるNWFヘビー級選手権試合が行われました。王者の風格も見せ、余裕なハンセンに対し後がない猪木しかし序盤からショルダー・アーム・ブリーカーストンピングと徹底した左腕攻撃をみせます。左腕にダメージを受けながらそれでも強烈なラリア―トを繰り出したハンセンエプロンでダウンする猪木を攻め立てなんとそのエプロンで危険なブレーン・バスターを仕掛けました。場外で苦痛な表情の猪木余裕なハンセンは猪木がエプロンに上がるのを待ってまたしても前回同様、ラリアットを狙いますがこれをショルダースルーでかわした猪木はそのままコーナーポストに上って場外のハンセンめがけ起死回生の脳天へフライング・ニー・アタックをかませました。そして...A猪木対S・ハンセン(1980.4.3)

  • A猪木 対 谷津嘉章(1983.11.3)

    A猪木 対 谷津嘉章(1983.11.3)

    「モスクワ・オリンピック、幻の金メダリスト」と言われた「すごいヤツ」谷津嘉章が鳴り物入りで新日本プロレスに入団したのは昭和55年暮れの事です。しかし、翌年6月24日の蔵前でのデビュー戦において猪木と組んで、ハンセン、ブッチャー組と対戦した際今なお語り継がれる歴史的惨敗を喫しそれ以後はパッとする事なく、海外武者修行を行い昭和58年秋の闘魂シリーズに凱旋帰国しかし、アマレス繋がりからか長州率いる維新軍に加入し新日本本隊に反旗を翻しました。そして最終戦となった11月3日、因縁の蔵前でA猪木とシングルマッチを行ったのであります。何となく自信なさげの谷津の表情を見てセコンドの長州もやや心配そう・・・そして猪木の鋭い眼光にビビって、後ずさりする谷津いやっ、そうではなくエプロンに出て、自らブレイクしたり四つん這いになって、犬...A猪木対谷津嘉章(1983.11.3)

  • A猪木 対 B・J・スタッド(1983.5.13)

    A猪木 対 B・J・スタッド(1983.5.13)

    小6の冬から「ワールドプロレスリング」を観始めた私ここ富山県は約1ヶ月遅れの放送で当時、月刊誌であったプロレス誌の情報よりも遅かったため試合内容・結果を把握してから、テレビを観るのが通常でありました。しかし中3時の修学旅行先でついに私は初めて、「ワープロ」を生中継で観る事が出来たのです。プロレスが好きな同室の仲間が集まって初めて観たリアルタイムの新日の試合その興行は1983年5月13日、大宮スケートセンターセミの前田対アンドレが終わり大変な盛り上がりで、いよいよメインエベントを迎えました。ついにアントニオ猪木が登場IWGP決勝リーグ戦ということで相手は<アメリカ代表>のB・J・スタッドであります。古館アナが「ニューヨークの摩天楼」と命名したスタッドは赤縁の黒マスクを被り、全くの無表情一方、先週アンドレに反則負け...A猪木対B・J・スタッド(1983.5.13)

  • A猪木 対 S・マギー(1982.6.18)

    A猪木 対 S・マギー(1982.6.18)

    昭和57年6月18日、蔵前大会メイン・エベントのA猪木対S・マギーはテレビ生中継の放送終了10秒前に開始となりました。同年4月21日のベンチュラ戦以来約2ヶ月ぶりの戦線復帰となった猪木は開始早々、いきなりバックドロップを食らいます。しかし、サイド・スープレックスで切り返し狙いを定めて延髄斬り一閃とどめはお返しのバックドロップで97秒の完勝おそらく猪木の大会場におけるシングル最短試合だと思います。しかし、このS・マギー2年後には第一次UWFに参戦本当はデキる男だったんですね。A猪木対S・マギー(1982.6.18)

  • A猪木 対 E・カネック(1982.7.6)

    A猪木 対 E・カネック(1982.7.6)

    A猪木が「世界統一」のために提唱したⅠWGP構想その開催が具体化してきた昭和57年7月6日大阪府立体育館では、A猪木対E・カネックという注目すべき一戦が行われました。メインに登場したのは、ⅠWGP中南米代表として既にエントリーされているエル・カネック地元メキシコでは、あのM・マスカラスのライバルして英雄視されているという事です。一方、我らがアントニオ猪木しかしこの年は下肢疾患の体調不良によりシリーズ出場と欠場を繰り返しており顔色も今1つといった感があります。シリーズ参戦して猪木の状態をインプットしたのでしょう。まずは開始早々カネックが攻め込みました。更に猪木をコーナーに押し込みパンチ攻撃の連打そしてロープに飛ばすやカウンターのランニング・ネック・ブリーカーとどめは変形のアルゼンチン・バック・ブリーカ-で追い込み...A猪木対E・カネック(1982.7.6)

  • A猪木 対 A・アドニス(1982.12.9)

    A猪木 対 A・アドニス(1982.12.9)

    昭和57年に於ける最後の「ワールドプロレスリング」放送は12月9日、大阪府立体育会館からの中継でメイン・カードはA猪木対A・アドニスでした。当年は下肢疾患(糖尿病)が悪化し半年近く欠場した猪木せめて有終の美を飾りたいトコでしょう。今回が2度目の来日となった暴走狼に対しいきなりの「ナックル・パートを一閃勢い余ったアドニスは後方に1回転してトップとセカンド・ロープの間に両腕を挟まれ、身動きが取れなくなりました。(*ちなみにこの体制が、以後のアドニスの「お約束?」になります・笑)しかしうまく場外に脱出したアドニスはまず鉄柱を利用して猪木の股間を攻め更に得意のマンハッタン・ドロップで追い打ちをかけました。そしてとどめはトップ・ロープからのフライング・エルボー・ドロップを狙いますが寸前でかわした猪木は延髄斬りからのバック...A猪木対A・アドニス(1982.12.9)

  • A猪木 対 B・ダンカン(1980.12.26)

    A猪木 対 B・ダンカン(1980.12.26)

    今回紹介する試合は私が小6の時に初めて買ったプロレス雑誌(確か月刊プロレス81年1月号)に掲載されていましたので非常に記憶に残っている試合です。それは1980年12月26日、MSGで行われたA猪木対B・ダンカンのNWFヘビー級選手権試合でした。リングサイドではこの日、デビューしたばかりの「すごい奴」谷津嘉明が「師匠の背中」をじっと見つめています。その奴の視線に刺激されたのか猪木はいきなりヘッドバッドナックルパートショルダー・アーム・ブリーカーと大ハッスルしかしダンカンも急所攻撃からバックブリーカーで反撃しますが猪木は華麗なドロップキックで再び逆転最後はアリキック、延髄からのギロチンドロップで完勝に終わり、敵地防衛を果たしたのです。ハンセンと風貌が似ているばかりか大学の先輩であったダンカンですが翌年の新日リングで...A猪木対B・ダンカン(1980.12.26)

  • A猪木 対 P・オンドーフ(1980.10.30)

    A猪木 対 P・オンドーフ(1980.10.30)

    まだ見ぬ強豪として、来日前から注目されていた「鋼鉄男」P・オンド―フが初登場したのは昭和55年秋の闘魂シリーズの事でした。終盤に差し掛かった10月30日、日の国・熊本大会に於いてA猪木と一騎討ちを行ったのであります。リング内に入った猪木めがけて花束を投げつけるオンド―フこの暴挙に猪木が睨み返しました。しかし開始早々、持ち前のパワーで猪木を捕え、ベアハッグで締めつけます。5分過ぎには、ネックブリーカー気味のラリアット更にはパイル・ドライバーを畳み掛け早い勝負を仕掛けますが逆に延髄斬りを食らい卍固めの餌食となり7分34秒で、ギブアップ個人的な事を申しますと・・・この前シリーズから何となく「ワープロ」を観始めていた当時小6の私にしたらこれがTVで初めて観た猪木の卍固めでした。それはともかく・・・この前週の沖縄大会でシ...A猪木対P・オンドーフ(1980.10.30)

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