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  • 2004年東京大学本試 第1問16-18世紀の世界の一体化と銀経済

    2004年東京大学本試第1問16-18世紀世界の一体化と銀経済1985年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。1997年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。19世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。19世紀に西欧諸国が金本位制に移行するなかで、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、1930年代に、中国が最終的に流通を禁止するまで続いた。以上を念頭におきながら、16-18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、解答欄(イ)を使用して、16行以内とし、下記の8...2004年東京大学本試第1問16-18世紀の世界の一体化と銀経済

  • ピューリタン革命は特権階級の分裂

    ピューリタン革命は特権階級の分裂

  • イギリス革命の全体像

    イギリス革命の全体像

  • ENG重商主義政策の失敗

    ENG重商主義政策の失敗

  • 重商主義政策の種類

    重商主義政策の種類

  • ジョン=ロックの「抵抗権」

    ジョン=ロックは「同意」に基づいて政府が成立していると考えました。「同意」に基づいて成立している政府にはどのような力があるのでしょうか。ロックによれば、人々は「自然状態」から離れて政府を作ったのは「自然状態」には不都合が生じるからだと考えます。「自然状態」で「自然法」が犯されたとき、人々は自分自身で問題を解決しなければならなくなる。そのとき人々は冷静に問題を処理できないので、第3者に影響するなどといった過剰に反応してしまう。そのため「自然状態」を維持することが難しくなる。そこで人々は不都合が生じてしまう「自然状態」から脱するために「同意」をする。同じようにに考える人々と「同意」するわけです。人々は「自然権」を放棄して多数決に「同意」し、政府を作ることに「同意」します。しかし、たとえ民主主義的解決法や政府の立法権...ジョン=ロックの「抵抗権」

  • 15-16世紀 ENGとオランダとプロイセンの関係

    15世紀にジェノヴァの商人によって地中海経済圏と北海バルト海経済圏が大西洋航路で結ばれました。これによって陸路でこの2つの経済圏を結んでいた中仏のシャンパーニュ地方は衰退します。かわって北ネーデルラント(のちのオランダ)が羽石升。16世紀になると第2次大交易時代が始まり、フランドル地方の毛織物工業が躍進します。本国(ネーデルラントがスペイン領になったのは1556年フェリペ2世の時)が中南米高地を結ばれ、その地に移住した人々が毛織物を欲したからです。フランドル地方の毛織物業者は毛織物を本国の大商人に売り、彼らが中南米に毛織物を売る仕組みです。これに呼応してENGでは羊毛の増産が始まりました。15-16世紀の羊毛増産を第1次エンクロージャといいます。暴力的に囲い込みを行った地主によって追い出されたヨーマンは失業した...15-16世紀ENGとオランダとプロイセンの関係

  • 近代主権国家

    近代主権国家の特徴イギリス国教会の成立、すなわち1534年首長令から1549年一般祈祷書さらに10年後の1559年統一令に至る政治状況は、ENGが絶対王政に向かっていく過程を示している。国教会の成立の歴史的意義は近代主権国家へ移行していく過程に位置づけることができる点です。ENG絶対王政は国教会の成立で完成したわけではありません。つまり「主権者が外(この場合は教皇)から完全に自立した状態」になってという点で主権の確立と言えますが、「国内に主権を制限する勢力」がまだ残っているからです。その勢力とは13世紀に成立した「身分制議会」を支持する勢力です。ENGではスチュアート朝ジェームズ1世の時代に一時的に議会が開催されなかった時期があり、国王によって側近政治が行われました。その時期をもってENGの絶対王政の確立と言え...近代主権国家

  • 2012年一橋大学本試 第1問 ナントの勅令

    2012年一橋大学本試第1問ナントの勅令1598年のナント勅令(王令)の公布は,16世紀後半のフランスで30年以上にわたって続いていた長い戦乱を終結させた出来事として有名である。では,この勅令(王令)公布に至るまでの経緯はどのようなものであったのか,またその目的は何であったのかを,当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てながら説明しなさい。(400字以内)解き方:書くべきポイント①公布に至るまでの経緯②公布の目的この2点について「当時の政治状況」・「当時の宗教問題」に焦点を当てながら記述する。①の経緯については「当時の政治状況」・「当時の宗教問題」に触れて記述するのは分かりやすいが、②目的についておの2点を意識することが、この出題のポイントになっている。当時の政治状況からナントの勅令を出したのだ、当時の宗教問題...2012年一橋大学本試第1問ナントの勅令

  • イタリア戦争

    仏王シャルル8世のイタリア戦争(1494-95年):メディチ家独裁に対する不満を利用して軍事介入した。仏王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世のイタリア戦争(1521-59年):仏ヴァロワ家VSハプスブルク家がイタリアを舞台に長期的な戦争に発展した。クレピーの和約(1544年)で両者は一時講和。1559年カトー・カンブレジ条約で最終講和。イタリア戦争の意義【重要】:①主権国家の成立②イタリア・ルネサンスの衰退1.王に従う騎士の戦争から鉄砲や大砲を用いた歩兵を中心とする組織的な戦争に変わる「軍事革命」が起こった。その結果、軍事と製鉄などの工業とが結びつき各国の工業力が軍事力に直結する時代が始まる一方、騎士階級が没落した。2.長期間戦争、軍事革命によって軍事力を維持するために国王が「常備軍」を設立した。3.軍隊...イタリア戦争

  • 王政復古~名誉革命期のオランダ・長老派議会との関係

    王政復古~名誉革命期のオランダ・長老派議会との関係

  • 2004年一橋大学本試 第1問ドイツとイギリスの宗教改革の相違

    2004年一橋大学本試第1問ドイツとイギリスの宗教改革宗教改革は、ルターにより神学上の議論として始められたが、その影響は広範囲に及び、近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした。ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較し、その政治的帰結について述べなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)アウグスブルクの和議首長法解き方:書くべきポイントは①ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較する。②その政治的帰結の違いを比較する。400字以内なので①をドイツに100字、イギリスに100字を配当して、②を200字で記述する。②もドイツとイギリスを100字ずつ記述するほうが書きやすい。次に細かいことだが、②政治的帰結とは何かを考えたい。リード文に「近代ヨー...2004年一橋大学本試第1問ドイツとイギリスの宗教改革の相違

  • 絶対王政

    絶対王政

  • スペインによる新大陸経営 1996年東大本試第2問から

    1996年東大本試第2問世界史における異文化の出会いについて、下記のA・Bを読み、設問(1)~(6)に答えよ。解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(6)の符号を付して記せ。Aコロンブスは1492年にカリブ海に到達した。これがいわゆる「新大陸の発見」であるが、先住民の側からすれば、それはヨーロッパあるいはキリスト教文明の「発見」でもあった。次の文章は、コロンブスの航海を後援していたスペイン王室に向けて、彼が書き残した日誌の一部である。奥地には王が居て、連れてきた男達が手真似でいうところによれば、王はこの近辺の島々を領有しており、衣服をまとい、その自らの身体にたくさんの黄金を身につけているということであります。それで夜が明けたなら、集落の見つかるところまで行って、その王に会うなり、話をするなりした...スペインによる新大陸経営1996年東大本試第2問から

  • 第2次大交易時代

    「第2次大交易時代」では西欧商人の交易活動によってそれまで分立していた地域が地球規模で結び付けられ、相互に影響を与える時代が始まったわけです。16世紀後半に武装化したポルトガル商人が大西洋からアジアの海域で活躍しました。南シナ海や東シナ海では中継貿易に参加しています。しかし紅海を遮断できなかったためマムルーク朝の交易活動を抑えることができなかったといえます。南米ボリビアのポトシ銀山(1545年発見)やメキシコのサカテカス銀山(1548年発見)を発見したスペインはメキシコのアカプルコ港から太平洋を横断してフィリピンのマニラ市(1571年建設)経由で明に銀を持ち込みました。日本銀と合わせてメキシコ銀が世界に銀本位制経済をもたらしました。17世紀アジア海域における「第2次大交易時代」の主役はオランダ商人です。1619...第2次大交易時代

  • 第2次大交易時代

    「第2次大交易時代」では西欧商人の交易活動によってそれまで分立していた地域が地球規模で結び付けられ、相互に影響を与える時代が始まったわけです。16世紀後半に武装化したポルトガル商人が大西洋からアジアの海域で活躍しました。南シナ海や東シナ海では中継貿易に参加しています。しかし紅海を遮断できなかったためマムルーク朝の交易活動を抑えることができなかったといえます。南米ボリビアのポトシ銀山(1545年発見)やメキシコのサカテカス銀山(1548年発見)を発見したスペインはメキシコのアカプルコ港から太平洋を横断してフィリピンのマニラ市(1571年建設)経由で明に銀を持ち込みました。日本銀と合わせてメキシコ銀が世界に銀本位制経済をもたらしました。17世紀アジア海域における「第2次大交易時代」の主役はオランダ商人です。1619...第2次大交易時代

  • 1980年東大本試第1問 地理上の発見の世界史的意義

    1980年東大本試第1問いわゆる「地理上の発見」にともなうヨーロッパ人の海外進出は、世界の諸地域における変化・変動のきっかけとなったとみられている。このできごとの意義を世界史の観点からとらえ、進出をおこなったヨーロッパ、およびそれを受けたアメリカ、アジア等の諸地域における、16世紀末までの変化・変動について、650字以内で述べよ。解き方最初に、この問題が求めている問いを問題文から判断します。①世界史の観点からみた地理上の発見の意義②1492年~16世紀末のヨーロッパにおける変化・変動③1492年~16世紀末のアメリカにおける変化・変動④1492年~16世紀末のアジア等における変化・変動ただし、②は「ヨーロッパ」とあるので西欧と東欧、③はアメリカとあるので北米と中年米・南米、④アジアなどとあるのでアフリカ、につい...1980年東大本試第1問地理上の発見の世界史的意義

  • 第1次大交易時代

    世界の交易ははじめそれぞれの文化圏とその周辺海域に限られていました。その中でローマ帝国と漢王朝、アッバース朝と唐王朝が東西で繁栄した時期にインド洋と南シナ海を結ぶ「海のシルクロード」が存在しました。この時期の特徴は東西の文化圏が相互に影響しあう側面は小さく、物流が中心といえます。「海のシルクロード」が発展的に完成したのは「第1次大交易時代」です。モンゴル帝国によってユーラシア大陸とその南方海域が一つの交易路として成立しました。ただし、この時期の交易活動は陸路ではジャムチが整備されていたものの、海路はアレクサンドリアやカイロのカーリミー商人がダウ船を利用して紅海からアラビア海で活躍し、ベンガル湾から南シナ海ではジャンク船を使った中国民間商人が活躍した。しかしこの「第1次大交易時代」はモンゴル帝国の分裂と前期倭寇に...第1次大交易時代

  • 2009年東大本試第2問 北イタリア諸都市

    2009年東大本試第2問人口集中地としての都市は、古来、一定地域の中心として人々の活動の重要な場であり続けてきた。それらの都市は、周囲の都市や農村との関係に応じて、都市ごとに異なる機能を果たしてきたが、ある特定の地域や時代に共通する外観や特徴を示す場合もある。以上の点をふまえて、次の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。問(3)西ヨーロッパでは、11世紀ころから商業活動が活発化し、さびれていた古い都市が復活するとともに、新しい都市も生まれた。(a)地中海沿岸や北海・バルト海沿岸の都市のいくつかは、遠隔地交易によって莫大な富を蓄積し、経済的繁栄を享受することになった。(b)また、強い政治力をもち独立した都市のなかには、その安全と利益を...2009年東大本試第2問北イタリア諸都市

  • 西欧近代史(3)教皇のルネサンス ミケランジェロとラファエロ

    西欧近代史(3)教皇のルネサンスミケランジェロとラファエロダ=ヴィンチ同様に初期のミケランジェロも「人間中心」の絵を描いています。ダ=ヴィンチは人体実験など「解剖学的観察」を行いましたが、それはキリスト教の教えから離れていくことを意味します。しかし少し後の時代に活躍したラファエロは「美人を何人並べても、その手足の良いものを集めても美しくない。自分の中にあるイデアで描いたほうが美しい。」という言葉を残しているそうです。ダ=ヴィンチとラファエロとの間には大きな違いが存在します。目の前にある「人間」を忠実に表現しようとしたダ=ヴィンチに対して、自分の中にある「美のイデア」に忠実であろうとするラファエロとの違いです。18世紀までの西洋美術にもっとも影響を与えたのはラファエロでした。見たものに忠実に描く時代から美しく見え...西欧近代史(3)教皇のルネサンスミケランジェロとラファエロ

  • 西欧近代史(3)教皇のルネサンス 人間を表現する

    西欧近代史(3)教皇のルネサンス人間を表現するルネサンス期には人間を描いたり彫刻する場合、「人体」に目が向けられました。マザッチオ『楽園追放』では当時の倫理観が影響し、アダムは男性モデルを裸体にして描いたのに対し、イヴ用の女性モデルを手配することができませんでした。その結果、アダムに比べてイヴは写実性に欠けてしまいました。マザッチオは当時のアプロディーテー像から描いたそうです。ちなみにボッティチェリが『ヴィーナスの誕生」を描いた際もメディチ家が所有するアプロディーテー像もとに描いています。ダ=ヴィンチの偉大さはたくさんあります。それをキリスト教の自然観という面から考えたい。ルネサンス期には「神中心から人間中心へ」という人文主義が生まれました。神にのみ注目していた社会から人間に着目する社会への転換でもあります。そ...西欧近代史(3)教皇のルネサンス人間を表現する

  • 西欧近代史(2)ルネサンス 遠近法と中世の終焉

    西欧近代史(2)ルネサンス①フィレンツェ遠近法ルネサンス期の発明の中で重要なものの一つに「遠近法」があります。遠近法には『モナリザ』にも用いられた空気遠近法、『最後の晩餐』で知られる『線遠近法』など多様にあります。しかしルネサンス期に遠近法が大いに用いられたことは人々がキリスト教への考え方を変えつつあったことを示しています。下の写真はマサッチョ(マザッチオ)『イエスの磔』です。この絵は非常に挑戦的な絵といえるでしょう。それはイエスのサイズと前にいる人間のサイズの問題です。遠近法を用いているので後ろにいるイエスの方が前方の人間よりも小さく描かれています。このような描き方は中世キリスト教社会では考えられないものです。イエスが人間より小さい?西欧近代史(2)ルネサンス遠近法と中世の終焉

  • 西欧近代史(2)ルネサンス①フィレンツェ 『聖フランチェスコの生涯』

    西欧近代史(2)ルネサンス①フィレンツェ『聖フランチェスコの生涯』ジヨット『聖フランチェスコの生涯』「小鳥に説教する聖フランチェスコ」1990年一橋大学がキリスト教の自然観を出題しました。その中でルネサンスを考えるに必要なポイントがあります。ジヨットの「小鳥に説教する聖フランチェスコ」は人間と同じように小鳥に説教をする聖フランチェスコを描いています。これは小鳥も人間同様に神の言葉を聞くことができる存在、すなわち小鳥を人間と対等に位置づけています。本来キリスト教の『聖書』には、神の似姿としての人間は神の創造物ではあるが他の自然物とは別格であると考えていました。聖フランチェスコはその意味でコペルニクス的転換を実践した人物でしょう。それまでのキリスト教の自然観を転換させたことは、それ以降のルネサンスから宗教改革に至る...西欧近代史(2)ルネサンス①フィレンツェ『聖フランチェスコの生涯』

  • 2018年一橋大学第1問 西欧の膨張とその影響

    2018年一橋大学第1問西欧の膨張第1問次の文章を読んで、問いに答えない。人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまな生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。(中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待って...2018年一橋大学第1問西欧の膨張とその影響

  • 2018年一橋大学第1問 問題 西欧の膨張

    Ⅰ次の文章を読んで、問いに答えない。人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまな生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。(中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって...2018年一橋大学第1問問題西欧の膨張

  • 2020年東大世界史第1問冊封体制解説(2)史料の読み取り方と使い方

    2020年東大世界史第1問冊封体制解説(2)史料の読み取り方想像ですが、この問題は2019年10月31日に首里城が焼失したことから作問されたのかもしれません。琉球王国の存在意義を考えるとき琉球王国が「万国津梁」すなわちバンコク保架け橋になることで繁栄を謳歌したことが重要でしょう。高校世界史でその点を考えるには冊封体制と朝貢貿易に関する知識が必要でしょう。(1)史料A~Cの使い方を考えます。3つの史料は時代が異なります。順に並べると史料C(15世紀~17世紀)・史料A(1780年)・史料B(1875~78年)です。近代に属するのは史料Bだと整理できます。「歴史学」的には史料から読み取るべきことはそこに書かれていることだけです。書かれていない関連事項を記述するべきではありません。「歴史学」では史料に忠実であることが...2020年東大世界史第1問冊封体制解説(2)史料の読み取り方と使い方

  • 2020年 東大世界史第1問冊封体制の解き方(1)

    2020年東京大学本試第1問解き方これまでの東大世界史は「グローバルヒストリー」の立場に立って作問されていました。「グローバルヒストリー」は個々に国や地域の通史にこだわらずに大陸間とか地域間あるいは地球全体を歴史の舞台として捉える立場の世界史を指します。したがって「グローバルヒストリー」では時代区分も超えて人類に共通する歴史を見ていきます。たとえば、2018年には女性とジェンダー差別を扱った問題がありました。女性の地位向上という地球規模のテーマを扱った意欲的な問題でした。一方、2021年から始まる共通テスト世界史の問題は「歴史学」に軸を置いている感じがします。「歴史学」は「史料」から歴史を読み解く立場です。これまでセンター試験日本史などで多く出題されています。世界史ではあまり「史料」は重視されてきませんでした。...2020年東大世界史第1問冊封体制の解き方(1)

  • 2020年東大本試世界史第1問 冊封体制

    2020年東京大学第1問国際関係にはさまざまな形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接に関りを持ってる。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだg、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれの関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づけられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。以上のことを踏まえて、15世紀ころから19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代...2020年東大本試世界史第1問冊封体制

  • 2017年 東大プレ第1問 第2次大交易時代 問題

    14世紀にモンゴル帝国が解体すると、海上交易の掌握に努める新たな帝国が東アジアおよびイスラーム世界において台頭した。またこの時期にはヨーロッパ世界のいても外部世界へ向けて進出する気運が生じ、それは15世紀末以降本格化していったが、それにともなって世界各地を結ぶ交易の構造も大きく変化していった。以上のことを踏まえて、14世紀から16世紀前半における世界の交易構造の変容について、ユーラシア地域で台頭した国々の対外政策を中心に論じなさい。解答は、20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に河川を付しなさい。国土回復運動マラッカ紅海朝貢体制インド洋大西洋プレヴェザの海戦カリカット2017年東大プレ第1問第2次大交易時代問題

  • 2017代ゼミ東大プレ第1問 解説 第1次大交易時代

    何を書く書くかを考えることが若干難しい問題対外政策を中心に世界の交易構造の変容を書くのだが、実際に何を書くかが判断しづらい各国の対外政策が影響して、世界の交易構造に変化が生じていった、というふうに判断するのがいい世界の交易構造の変容に影響した対外政策を考えていくでは各国とはどの国か東アジアは明イスラーム世界は、マムルーク朝とオスマン帝国。西アジアとせずにイスラーム世界といっていることがヒントになる。オスマン帝国は西アジアとは言い切れないからヨーロッパ世界はポルトガルは問題なく判断できるが、スペインを書くべきか?この判断が難しい問題文に判断材料があるはず文中のこの時期とは14世紀。スペインは成立していない。また14世紀から外部世界に進出する機運を持っていたのはポルトガル。それが本格化したとは、ポルトガルが1415...2017代ゼミ東大プレ第1問解説第1次大交易時代

  • 大航海時代 西南学院大学

    15世紀頃から世界の諸地域は,新航路を開拓した西ヨーロッパ諸国の進出によって結びつけられるようになりました。そして16世紀は,まさに地球的な規模で近代の幕開けを告げる大転換の時代といえます。先頭を切ったのは,早くから大西洋に進出したポルトガルでした。15世紀前半,【エンリケ航海王子】が,インド航路の開拓をめざして,アフリカ西沿岸の探検を王室の本格的事業として行った。まず大西洋の島々に植民して牧畜と砂糖きびの生産が行われ,続いてアフリカ西岸に航海と商業の拠点が築かれた。航海事業は国王【ジョアン2世】の時に活発になり,彼の援助のもと,【1488】年に【バルトロメウ=ディアス】がアフリカ南端の【喜望峰】に達した。ついで国王【マヌエル1世】の命を受けた【ヴァスコ=ダ=ガマ】は,喜望峰を回り,海岸沿いに進んで,【マリンデ...大航海時代西南学院大学

  • ネーデルラントの宗教分布

    北部ネーデルラント(現在のオランダ)には【ハンザ都市】があり、領主階級から独立を果たした都市市民が政治や経済を担っています。一方、南部ネーデルラントでは【】領主が支配している【農村】で【毛織物工業】が発達していました。南部を【フランドル】地方ともいい、現在の【】ベルギーに当たります。北部ネーデルラントでは毛織物工業は発達しませんでした。その理由は、中世都市には【ギルド規制】があり、新しい産業が生まれにくい環境にあったためと説明できます。農村にはギルドはありませんから、農村部のフランドル地方で新しい「工業(【農村マニュファクチュア】)」がヨーロッパで始めて成立したのです。しかし、【1517】年に【ルター】の宗教改革が始まり、カトリックと新教との対立激しくなると、ネーデルラントもこの対立に巻き込まれていきました。も...ネーデルラントの宗教分布

  • 大航海時代 ポルトガルとスペインの時代 青山学院大学より

    ヨーロッパが中世から近代へと移行する転換点の一つは,15世紀後半に本格化する大航海時代にあった。【1453】年に【ビザンティン帝国】を滅ぼしたオスマン帝国は,地中海東部を軍事的・政治的に制圧しつつあり,経済面でも南アジアとの貿易ルートを独占する勢いであった。こうしたイスラム教徒の攻勢を前にし,彼らに対抗しうる富を手に入れるとともに,キリスト教を布教するという二重の目的から大西洋という新たなフロンティアに乗り出したのが,ヨーロッパの西端に位置するポルトガルとスペインであった。ポルトガルはすでに15世紀初頭から,王室の主導下にアフリカ西海岸への探検航海に着手しており,【1488】年,【バーソロミュー=ディアス】はアフリカ最南端の【喜望峰】に到達した。そして,【1498】年には【ヴァスコ・ダ・ガマ】が喜望峰を経由して...大航海時代ポルトガルとスペインの時代青山学院大学より

  • 大航海時代

    15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ世界は,政治,経済,社会,文化にわたる大きな変動を経験した。ドイツ(神聖ローマ帝国)では,15世紀半ばに【グーテンベルク】により【活版印刷術】が発明され,大量の書物や版画などが印刷され,流布するようになった。15世紀はまた,イベリア半島の諸国が海外発展を開始した大航海時代の幕開けでもあった。まず,ポルトガルが海外進出政策をとり,【エンリケ航海王子】や,【ジョアン2世】によって,西アフリカの【ヴェルデ岬】からアフリカ南端の【喜望峰】への探険航海が行われた。そして【1498】年には,【ヴァスコ・ダ・ガマ】が,喜望峰を回ってインド洋へ入り,東アフリカの港でムスリムの水先案内人を得て,インドの【カリカット】に到着した。ヨーロッパにとって初めてのインド航路が開かれたのである。その後...大航海時代

  • 北イタリア諸都市

    【1202】年に教皇【インノケンティウス3世】により組織された【第4回十字軍遠征】は、新興都市【ヴェネツィア】が運命を掛けた戦いでした。十字軍はヴェネツィアの求めに応じてコンスタンティノープルを攻略し、【1204】年に【ラテン帝国】を建設して終了しました。教皇インノケンティウス3世は激怒したということです。これにより、【レパント貿易】(地中海貿易)を独占していたコンスタンティノープルのギリシア商人はレパント貿易から排除され、代わってヴェネツィアやジェノヴァなどの北イタリア諸都市の商人が、レパント貿易を独占するようになったのです。このレパント貿易の利益は莫大でした。北イタリア商人は地中海で【マムルーク朝】のムスリム商人から香辛料を買い付けて、西欧の商人に売り渡します。彼らはいわゆる中継貿易を行って利益を上げていま...北イタリア諸都市

  • ルターの宗教改革とその波及

    16世紀前半期に西ヨーロッパに起こった宗教改革運動は,ルネサンスとともにヨーロッパ近代を開いたという歴史的意義を持つ。この反カトリックの改革運動は,【1517】年,ドイツ北東部【ザクセン】の【ヴィッテンベルク】大学神学教授【マルティン=ルター】が,【贖宥状】を攻撃する文章を教会の扉に貼り付けたことに始まる。当時の教皇【レオ10世】は,ローマの【サン=ピエトロ大聖堂】の建築資金を調達するために,贖宥状を大々的に売り出した。贖宥状は,教会に献金するなどの善行を積めば,信者の犯した過去の罪が赦されるとするものである。カトリック教会には古くから献金によって罪を赦す制度があった。教会にはキリストおよび聖者たちの善行が蓄積されており,献金をする信者には贖宥状を通じてその功徳が分与され,罪が赦されるとする理屈である。11世紀...ルターの宗教改革とその波及

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