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2020/01/29

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  • 心学校 九の三

    ドイツのウイルヘルム=コンラートーが不透明体を透過するX線を発見し、一九〇一年、最初のノーベル物理学賞を受賞し、以後彼のラストネーム・レントゲンにちなんでレントゲン線と呼ばれるようになりました。救済の光も障害物で遮られては成り立ちません。どのような物でも突き抜ける能力が必要で、しかも救済する力と働きを伴わなくてはなりません。それが十二の光の総合的な救済力であり、障碍を問題にしない力が無碍光なのです。心学校九の三

  • 心学校 九の二

    最も無力の者を必ず救うというためには、その救いの働きに限りがあっては出来ないことです。そこで阿弥陀如来の救いの働きを光に例えます。まず無量光です。さらに救いの働きは、辺(ほとり)無しでなくてはならないのです。先日東京へ送ってもらいたい物を買いに行ったのですが、そのお店ではお届けは北陸地区だけということであきらめました。でも宗教の救いは届かないところがあってはならないのです。そこで無辺光といわれるのです。心学校九の二

  • 心学校 九の一

    太陽とは何とすごいエネルギーを持っているのでしょう。光球の表面温度は摂氏約六千度、外側のコロナでは百万度にも及ぶと聞きます。さらに光の性格は正直ではありませんか。野球やボウリングの選手はフックするボールを計算して投じます。しかし光は直進します。ですから障碍があると光はそこで閉ざされて、その向こうへは進むことができません。ところで太陽の光はいつまで放ちつづける容量があり、またその光と熱はどこまで届いているのでしょうか。限りがあるのではないでしょうか?太陽は無限なのかどうか、詳しくは知りません。しかし如来の救いは無量でなくては意味をなさないのです。心学校九の一

  • 心学校 八の四

    私が子どもの時の思い出です。夜、怖い夢を見ました。墓場で骸骨がガチャガチャと踊っている夢です。歯をむき出して襲いかかってくる、逃げようにも足が動かない、こんな夢でした。びっしょり汗をかいて目覚めるとわんわん泣きました。すると田舎ですから本当に漆黒の暗さの中で、「お母ちゃんだよ」という声が聞こえてきました。その瞬間は見えないし、さわれなかったが、お母ちゃんという名前を聞いたときにどれほど安心したことだったと思いますか。私を透明な存在にするはずがない「母」という名、届いたそのままが安心の世界ではないでしょうか。その母はすでにお浄土へ。今は心に名前が届いています。心学校八の四

  • 心学校 八の三

    さて法蔵菩薩は永い思惟の後、必ず救うためには無力の相手方にたやすい行しか求めることは出来ないと結論して、信ずることひとつでの救いを成就したのです。ところがどんな素晴らしい事柄があっても、相手に伝わらなくてはどうすることもできません。情報伝達の手段は五感すなわち視覚・触覚・聴覚・嗅覚・味覚と、第六感によります。確かなのは見れる、触れる、聞けるということです。しかし先ほど述べましたように、最も弱い者を救うというためには目が見えない方も、耳が聞こえない方も、手で触れない方も、においをかぐことが出来ない方も、味を知ることが出来ない方も考慮しなければなりません。そこで法蔵菩薩は、南無阿弥陀仏という仏の名と成り、その名前がわかることで安らぐことができるだけで救いの力が届くという願いを誓い、力となって成就したのです。そして重...心学校八の三

  • 心学校 八の二

    思惟といえば弥勒菩薩も半跏思惟像(はんかしゆいぞう)として有名です。結跏趺坐(けっかふざ)の半分という意味で半跏といいます。「跏」は足の裏、「趺」は足の背を表します。結跏趺坐とは両膝を曲げて両足の裏を上向けにする坐り方で、如来坐・仏坐ともいいます。先に右脚を曲げ、その上に左足を乗せるのを降魔坐(ごうまざ)、その逆を吉祥坐(きちじょうざ)といいます。降魔とはお釈迦さまが悟りを完成しようとして菩提道場に坐っていたとき、欲界の第六天が悪魔の姿を借りて現れ、あるいは誘惑し、あるいは脅迫して悟りの妨害をしたが、お釈迦さまはこれをことごとく退けられました。この時の坐法です。悟りは吉祥ですから、これから仏像にお会いする度に、修行中のお姿か、悟り後のお姿かを知る参考にしてください。左足が右脚の下に隠れ、右足裏だけが上向くのを半...心学校八の二

  • 心学校 八の一

    仏教の時間論として宇宙法界の天体が一周する単位によるはかり方があります。地球の公転が一年ですが、太陽から遠く離れた星で地球の十年分の時間が公転にかかっても、その惑星では一年だと考えるのです。「劫」とはきわめて長い時間のことをいい、盤石劫とか、芥子劫と例えられています。それは四方一由旬の大盤石を百年に一度天人の衣でなでて磨り減る時間、または四方一由旬の鉄城に芥子を満たし、百年毎に一粒の芥子を取り去って、無くなる時間、それでもはかることができないとも言われるほどながい時間のことです。由旬とは牛車の一日の行程距離で、約十四・四キロ、およそ四里ということです。小心に計画し、大胆に実行せよという言葉に出会ったことがあります。法蔵菩薩も理想を実現するためには計画を同じように何回も推敲し、水も漏らさないような救済の手順を思惟...心学校八の一

  • 心学校 七の五

    すべてを救い取るためには最も弱者こそを間違いなくすくい上げなければならないのです。老と少、男と女はいずれにより力があるとか能力が高いとかという序列がつくものではないでしょう。ところが善悪については、悪が善より価値が高いということは絶対にないはずです。そこで法蔵菩薩の願いは、悪しか行えない者こそをどうして救うかという点に苦労があるのです。それには悪を抑止する事が大切です。しかも難しい方法では救いを成就することは出来ないでしょう。そこで法蔵菩薩が阿弥陀仏となったときに、その力を信じることのみで、必ず救うという殊勝希有な願を本願としたのです。心学校七の五

  • 心学校 七の四

    菩薩に共通の誓願を四弘誓願といいます。衆生無辺誓願度(いっさいの生きとしいけるものすべてをさとりの彼岸へわたそうと誓う)、煩悩無量誓願段(一切の煩悩を断とうと誓う)、法門無尽誓願学(仏の教えすべてを学び知ろうと誓う)、仏道無上誓願成(この上ない悟りに至ろうと誓う)がその内容で、菩薩の総願ともいわれます。それに加えて菩薩それぞれが独自の立場から立てる誓願を別願といいます。薬師如来には十二願があり、阿弥陀如来には他の仏とは異なった内容の四十八願があるのです。願が多いのは何故かというと、様々な入り口が用意されるためです。全てを救うということは、容易なことではありません。老少男女善悪を問うていてはすべてを網羅できないのです。そのためにどのような方にも応じることが出来る四十八願なのですが、本質の願いというものがあります。心学校七の四

  • 心学校 七の三

    願には希望とか夢をも含みますが、夢や希望はあこがれでもあり、実現するかどうかは他律的なものです。ところが願を必ず成し遂げるという決意が加わると、行の意志が強固なものになります。それを「誓い」といい、願とあわせて「誓願」と表現します。私たちはこの誓いを大切にします。入学式にも代表が宣誓します。誓いもひそかに誓うよりも声に出してみんなに宣言する方が、その後の自らを律する力となり、また他からもその者の願いは如何なるものかということが明瞭になるのです。心学校七の三

  • 心学校 七の二

    仏教ではさとりが成就するのに三つのことが必要です。「信」「願」「行」の三つを具足することなのです。そしてこの三つは順次関連しているのです。法蔵菩薩は師の仏・世自在王のもとですべての存在があるがままの姿を見せてもらったとき、現状を信知して、自らが救済の主になろうと決意したのですから、信は知ることでもあり、心を決めるということでもあるのです。その上で願いを起こし、それを実現するために修行を積み重ねてゆくのです。だから願をもたない修行は意味をなしませんし、信を基礎としない願も力が弱いのです。心学校七の二

  • 心学校 七の一

    物事が成就するための要素として、人・物・金とか、金よりも情報が必要とかいう風に様々なことがいわれます。私も何かを企画実行するためには三つの要素があると考えています。それは図面とデータと文書です。たとえば学園の創立記念式典を企画実行しようというとき、まず会場を考える人がいます。厚生年金会館か、金沢市観光会館か、はたまた本校の講堂かと考えます。しかしデータから考え始める人もいます。過去の式典はどのくらいの規模であったか、決算はどうであったか、参加人数はどれほどで、携わる係りが何名必要であったかと考えます。さらに文章や企画書から考え始める方もあります。式の流れはどうか、誰の祝辞をいただくか、それには何分かかるかなどと考えます。ところがこの三つはどれが欠けても企画が十分に成立しませんし、実行してもうまくいきません。心学校七の一

  • 心学校 六の四

    法蔵菩薩は苦悩からの救済には苦悩の現実を見極めるとともに、自分のほかにもこのような願いを持って苦悩を救済しようとした先輩方の浄土を知ることから、師の仏・世自在王のもとで、すべてを救うという大いなる願いの出発をされたのです。私たちの情況は「田が有れば田に憂い、田が無ければ田に憂う」といわれ、有無を大きな悩みとしているのです。しかし「独り生まれ独り死に、独り去り独り来たる」ともいわれるように、自分の人生は自分しか生き得ないのです。先輩方の浄土とは私たちが通常考える極楽のことです。人間の欲望が満足される世界、~酒はうまいし姉ちゃんはキレイだ~と歌ったグループがありましたが、いわゆる天国という考え方です。利便性とか満足感を重視したものに使用しています。難しいことは人に替わりたいし、楽しいことは自分のものにしたいのです。...心学校六の四

  • 心学校 六の三

    苦悩から我々を必ず救済するという世界から、私たちに認識できる表現として現れてこられたのが「法蔵菩薩」です。現実かどうかということは問題にはなりません。真如といっても私たちにとっては想像することさえできないのですから、擬人化とか象徴化とかの方策を講じて、菩薩が修行して間違いなくすくい取る力を持つ仏となったと私たちが考え得る、私たちがうなずくことができる表現をしなければ、まことの世界を私たちには考えにくいのです。菩薩が願いを持ち修行して仏になるという人格性を帯びた物語が、私たちに無味乾燥した哲理ではなく、温かな情の世界としてうなずけるのではないでしょうか。心学校六の三

  • 心学校 六の二

    救済とは私たちが困ったことを取り除く、安心を与えるということです。困ったことを「苦」といいますが数種あります。まず「苦労」です。しかし苦労は努力で報われることもあるのではないでしょうか。若いときの苦労は買ってでもしろ、といわれるくらいです。次に「苦痛」があります。これはある程度医療で治癒できるものだと思います。しかし苦労も苦痛もそれが解決できなくなってくると「苦悩」に変わります。苦悩は「自分だけがなぜ」とか、「なぜ自分が?」という自分の心の悩みなのです。クラスで友人をさがして明るく心地よい毎日を送りたいと生徒は考えます。しかし現実には溶け込もうとする努力を苦労して重ねてみても報われないことが続くと悩みとなります。ガンなどの難病に冒されたとき、その苦痛が治癒できないとき、死への不安も伴って心の悩みとなってくるので...心学校六の二

  • 心学校 六の一

    救済するということは、力がなければ出来ないことです。川で溺れている人を見つけたとき、その人を救おうとすぐに飛び込んだとしても、泳ぐことが出来ない人には救助する能力がありませんから、二人とも沈んでしまう結果になるでしょう。では救うためにはどうするのかというと、救助できるだけの能力を身につけるか、あるいは救助する道具を有効に使用することです。少し荒っぽい言い方ですが、力を身につけた位を「仏」といい、道具を使用する位を「菩薩」というのだと考えてください。仏像の姿からでも、菩薩はおおむね手に何かを持っています。あるいは救いに何か限定的なものがあります。たとえば地蔵菩薩は左手に蓮華、右手に月の輪を持ち、童児の救済者としての働きが有名です。ただ薬師如来についてはあまりにも病気平癒を願う民間信仰からの期待が強く、手に薬壺を乗...心学校六の一

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