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正覚ノ門 徒然帖 https://blog.goo.ne.jp/shogakujivihara

正覚者の言葉の書き写しをメインに、仏教の話題、折々の出来事、日々の雑感など。<br>自他法界同利益 倶生極楽成仏道

正覚寺住職 千葉県東葛地区在住 ハンドルネームは「クリームコロッケ」又は「えびちゃん」 ※正しく覚った先人方の言葉の書き写しをメインテーマに、日々の小さな出来事や写真、雑記等のご紹介をして行きたいと考えています。自他共に、このブログが覚りの機縁となり、正覚に至ることを祈念いたします。

クリームコロッケ
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2020/01/15

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  • 金剛般若経 二十三

    おはようございます。二十三 さらにまた、スブーティよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。それだからこそ、<この上ない正しい覚り>と言われるのだ。この、この上ない正しい覚りは、自我がないということにより、生きているものがないということにより、個体がないということにより、個人がないということによって、平等であり、あらゆる善の法によって現に覚られるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<善の法><善の法>というのは法ではない』と如来が説いているからだ。それだからこそ、<善の法>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌56さとりは、"この上もない"(無上)のである。そのことは、(それ以上には、さとりの対象としての)"法が...金剛般若経二十三

  • 金剛般若経 二十二

    おはようございます。二十二 スブーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りを覚ったというようなことが何かあるだろうか。」スブーティ長老は答えた―「師よ、そういうことはありません。如来が、この上ない正しい覚りを覚られたというようなことは、なにもありません。」師は言われた―「その通りだ。スブーティよ、その通りだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、<この上ない正しい覚り>と言われるのだ。」金剛般若経二十二

  • 金剛般若経 二十一b

    おはようございます。二十一b このように言われたときに、スブーティ長老は師に向かって次のように問うた―「師よ、これから先、後の世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような法を聞いて信じるような人々が果たしているでありましょうか。」師は答えられた―「スブーティよ、かれらは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。それはなぜかというと、スブーティよ、『<生きているもの><生きているもの>というものは、すべて、生きているものでないということだ』と如来が説かれているからだ。それだからこそ、<生きているもの>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌55説かれるもの(法)と、説く人(説法者)とについて、(それらがともに非...金剛般若経二十一b

  • 金剛般若経 二十一a

    おはようございます。二十一a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。<わたしが法を教え示した>というような考えが如来におこるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。<わたしが法を教え示した>というような考えが如来におこることはありません。」師は言われた―「スブーティよ、『如来は法を教え示した』と、このように説くものがあるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スブーティよ、かれは、真実でないものに執着して、わたしを謗るものだ。それはなぜかというと、スブーティよ、<法の教示><法の教示>というけれども、法の教示として認められるような事柄はなにも存在しないからだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌54仏(には、その身がないの)と同様に...金剛般若経二十一a

  • 金剛般若経 二十b

    おはようございます。二十b師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来は特徴をそなえたものであるとみなしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来が説かれたことは、実はそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ<特徴をそなえている>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌52法身の完成が、(付随的な身体的特徴である80の)随好(の完成、すなわち"物質的な身の完備")であるとは言われない。また(主要な身体的特徴である32の)相を具備することでもない。そう考えられるわけは、(法身は)無身だか...金剛般若経二十b

  • 金剛般若経 二十

    おはようございます。二十aスブーティよ、どう思うか。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。それはなぜかというと、師よ、『<端麗な身体を完成している><端麗な身体を完成している>というのは、実はそなえていないということなのだ。』と、如来が説かれているからです。それだからこそ<端麗な身体を完成している>と言われるのです。金剛般若経二十

  • 金剛般若経 十九

    おはようございます。十九スブーティよ、どう思うか。立派な若者や立派な娘が、この果てしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの福徳を積んだことになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、多いですとも、幸ある人よ、多いですとも。」師は言われた「その通りだ、スブーティよ、その通りだ。立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<功徳を積む><功徳を積む>ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ<功徳を積む>と言われるのだ。スブーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は<功徳を積む><功徳を積む...金剛般若経十九

  • 金剛般若経 十八b

    おはようございます。十八b師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にある限りの砂、その砂を如来は説いたであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。如来はその砂を説かれました。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にある限りの砂の数だけ、ガンジス河があり、そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、その世界は多いであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。それらの世界は多いでありましょう。」師は言われた―「スブーティよ、これらの世界にある限りの生きものたちの、種々様々な心の流れをわたしは知っているのだ。」それはなぜかというと、スブーティよ、『<心の流れ><心の流れ>というのは流れではない』と、...金剛般若経十八b

  • 金剛般若経 十八a

    おはようございます。十八a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」師は問われた―「スブーティどう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」師は問われた―「如来には目ざめた人の眼が(仏眼)があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には目ざめた人...金剛般若経十八a

  • 金剛般若経 十七 h

    おはようございます。十七hスブーティよ、もしも、求道者が、<ものには自我がない。ものには自我がない。>と信じて理解するとすれ、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、その人を求道者・すぐれたものであると説くのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌47 法界(の真のすがた)がわからないままで、衆生を涅槃に導こうと考えたり、国土を清浄ならしめようと考えたりするならば、それは倒錯(いつわり)に他ならない(そのような彼は菩薩ではありえない)。頌48 衆生たち、菩薩たちのものである法を、すべて実体がない(すなわち"自我がない"法無我である)とさとり、あるいは"信じ理解する"ならば、そのような彼こそは、聖者ではない(ただ信ずるのみの凡夫)にせよ、聖者(として自らさと...金剛般若経十七h

  • 金剛般若経 十七g

    おはようございます。十七gスブーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、この人もまた同様に、(求道者ではない)と言わなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、『<国土の建設>、<国土の建設>というのは、建設でないことだ』と説いているからだ。それだからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十七g

  • 金剛般若経 十七f

    おはようございます。十七f師は言われた―「スブーティよ、そのとおりだ。もしも、ある求道者が『わたしは生きとし生けるものどもを永遠の平安に導くだろう』と、このように言ったとすれば、その人は求道者であると言うことはできない。それはなぜかというと、スブーティよ、一体、かの求道者と名づけられるようなものが何かあるのだろうか。」 スブーティよは答えた―「師よ、そうではありません。かの求道者と名付けられるようなものは何もありません。」師は言われた―スブーティよ、『<生きているもの><生きているもの>というのは、実は生きているものではない。』と如来は言っている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから、如来は、『すべてのものには自我というものはない。すべてのものには、生きているものというものはない。個体というも...金剛般若経十七f

  • 金剛般若経 十七e

    おはようございます。雨は上がり、やさしい空気になっています。それでは始めましょう。十七eたとえば、スブーティよ、身が整い、身の大きな人があるというようなものだ。」スブーティ長老は言った-「師よ、如来が、<身が整い身の大きな人>と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、<身が整い身の大きな人>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌45法身をそなえたものとして考えられる点で、仏陀が、かの(欠陥のない巨大な体を持つ)人にたとえられている。(なぜならば、仏陀の法)身は(煩悩障や所知障によって)障(さえ)ぎられることなく(すなわち"欠陥のない体をそなえ")あらゆる場所に遍在するのであるから。頌46 かつその...金剛般若経十七e

  • 金剛般若経 十七d

    おはようございます。十七dスブーティよ、もしも誰かが、『如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りを覚られた』と、このように言ったとすると、そのひとは誤りを言ったことになる。すると、かれは、真実でないことに執着して、わたしを謗っていることになるだろう。それはなぜかというと、すると、如来がこの上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらはなにもないからだ。また、すると、如来が現に覚り示された法には真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだららこそ、<あらゆる法>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引...金剛般若経十七d

  • 金剛般若経 十七c

    おはようございます。中天には明るい半月が灯っています。今朝もよろしくお願いします。十七cそれはなぜかというと、スブーティよ、<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。〔スブーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌43-a-b のちに(さとりを得る、というように)予言が与えられたのであるから、ディーパンカラ如来のもとでの、(如来の)行は、最高なるものでは...金剛般若経十七c

  • 金剛般若経 十七b

    おはようございます。十七b スブーティよ、どう思うか如来がディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらがなにかあるだろうか。」―「師よ、わたしが師の仰せられた言葉の意味を理解している限りでは、如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもありません。」このようにいわれたとき、師はスブーティ長老に向かってこのように言われた―「そのとおりだ、スブーティよ、そのとおりだ。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもないのだ。スブーティよ、もしも如来が現に覚られた法が何かあるとするならば、ディーパンカ...金剛般若経十七b

  • 金剛般若経 十七a

    おはようございます。寒さがだいぶ緩んできました。静かな朝です。月は隠れ、微かな微かな風がそっと流れています。本日も宜しくお願いします。十七aそのとき、スブーティ長老は、師に向かって次のように問うた―「師よ、求道者の道に進んだものは、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」師は答えられた―「スブーティよ、ここに、求道者の道に進んだものは次のような心をおこすべきだ。すなわち、『わたしは生きとし生けるものを、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはいないのだ。』と。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が<生存するもの>という思いをおこすとすれ...金剛般若経十七a

  • 金剛般若経 十六c

    おはようございます。十六cまた、スブーティよ、もしもわたしが、これらの立派な若者たちや、立派な娘たちの積む福徳について説明するとしたならば、その際にこれらの立派な若者たちや立派な娘たちが、どれだけ福徳を積んだり、身に着けたりするかを聞くに及んで、人々は気が変になったり、心が錯乱したりするようになるだろう。さて、また、スブーティよ、実に、この法門は不可思議であると、如来は説かれたが、その酬いも不可思議であると期待されるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌40c-d (人々に"軽蔑される"ことによって)あらゆる障りが浄化され、(過去の諸仏につかえた功徳として)速やかに神通性を得るということがある。頌41 また("報いもまた思議を超えたもの"であって)さまざ...金剛般若経十六c

  • 金剛般若経 十六b

    おはようございます。西の空に明るい月が出ています。少し寝坊しました。今日も宜しくお願いします。十六bそれはなぜかというと、スブーティよ、わたしはありありと思い出す。数えきれないほど無限の昔に、ディーパンカラ(然燈)という如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人がおられ、それよりも以前、もっと以前に、数限りもない目ざめた人々がおられた。わたしは、これらの人々に仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせてやめることがなかった。スブーティよ、わたしはこれらの目ざめた人々・世尊がたに仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせるのを休むことはなかったけれども、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃になって、このような経典を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があるとすれば、スブーティよ、また、実に、こちらの方の福...金剛般若経十六b

  • 金剛般若経 十六a

    おはようございます。十六aけれども、スブーティよ、立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱められたり、また甚だしく辱められたりすることがあるかも知れない。これはなぜかというと、こういう人たちは、前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱められることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。金剛般若経十六a

  • 金剛般若経 十五c

    おはようございます。十五cけれども、さらにまた、スブーティよ、実に、どのような地方でも、この経が説かれる地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界が供養すべきことになるだろう。その地方は、右廻りに礼拝されることとなるだろう。その地方は塔廟にもひとしいものとなるだろう。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌39(この法門は、"思議することのできないもの"、すなわち)一般的な知の対象ではなく、("比較を絶したもの"であるから、大乗に)独自なものである。そのようにして、("至高の道に入った")偉大な人格の拠り所となるのであり、("劣った考えに信を置く人々"にとっては)これを聞くことは困難であり、しかも("無量の功徳の集積"の)要因を最高に成長せしめるのものである。頌4...金剛般若経十五c

  • 金剛般若経 十五b

    おはようございます。十五bさらにまた、スブーティよ、実に、この法門は不可思議で、比べるものがない。スブーティよ、如来はこの法門を、この上ない道に向かう人々のために、もっとも勝れた道に向かう人々のために説かれた。ある人々は、この法門を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるだろう。スブーティよ、如来は、目ざめた人の智慧によってこういう人々を知っている。スブーティよ、如来は、目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スブーティよ、如来は、こういう人々を覚っている。これらすべての人々は、計り知れない福徳を積んだことになるだろう。不可思議で、比べるものがなく、限りなく、無限の福徳を積んだことになるだろう。スブーティよ、これらすべての人々は、みずから目ざめに与るようになるだろう。それはなぜかというと、...金剛般若経十五b

  • 金剛般若経 十五a

    おはようございます。十五aまた、実に、スブーティよ、女なり男なりがあって、午前中にガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、同じように昼間にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、夕刻にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、この方法によって、無限に長い間、体を捧げるとしても、この法門を聞いて謗ったりしないならば、こちらの方が、このことのために、さらに多くの、計り知れず、数えきれない福徳を積むことになるのだ。況や、書き写してから学び、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があれば、なおさらのことだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌37 文字に関する(修行)には、三種ある。教えを(把握・記憶するなどして)保つこと、(多くを)聞いて(読誦することと)、詳...金剛般若経十五a

  • 金剛般若経 十四h

    おはようございます。本日は頌から始めます。※頌36 教えにおいて、どのように修行することにより、どのような功徳が得られるのか、また修行にはどのような作用(業)があるのかーこれらのことが(以下の経典において)説かれている。(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)十四hさて、スブーティよ、実に、立派な若者たちや立派な娘たちが、この法門を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるとしよう。スブーティよ、如来は、目ざめた人の智慧でこういう人々を知っている。スブーティよ、如来は目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スブーティよ、これらすべての人々は、計り知れず、数えきれない功徳を積んで、自分のものとするようになるに違いないのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十四h

  • 金剛般若経 十四 g

    おはようございます。十四gさらにまた、スブーティよ、実に、如来が現に覚られ、示され、思いめぐらされた法の中には、真理もなければ、虚妄もない。スブーティよ、これをたとえて言うと、〔たとい眼があっても〕闇の中に入った人がなにものも見ないようなものだ。物事の中に堕ち込んだ求道者もそのように見なすべきである。かれは物事の中に堕ち込んで施しをするのだ。スブーティよ、また、これをたとえて言うと、目を持った人は、夜が明けて太陽が昇ったときに、いろいろな彩をみることができるようなものだ。物事の中に堕ち込まない求道者もそのように見なさるべきである。かれらは物事の中に堕ち込まないで施しを与えるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌33 (説方は、ものの真相には)到達し得ない...金剛般若経十四g

  • 金剛般若経 十四

    おはようございます。立春です。八十八夜の一日目となりました。※昨日の十四eで引用すべき頌が一つ不足していました。頌28を2月3日のブログ末に追記しました。十四f さらに、また、スブーティよ、実に、求道者は、生きとし生けるもののために、このような施しを与えなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、この生きものという思いは、『思いでないということに他ならないからだ。このように如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものどもは、実は、生きものではない。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語るものであり、ありのままに語るものであり、あやまりなく語るものであるからだ。如来はいつわりを語るものではないのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌2...金剛般若経十四

  • 金剛般若経 十四e

    おはようございます。十四e  けれども、さらにまた、スブーティよ、実に、如来における忍耐の完成は、実は完成ではないのだ。されはなぜかというと、スブーティよ、かつて或る悪王がわたしの体や手足から肉を切り取ったその時にさえも、わたしには、自己という思いも、生きものという思いも、個体という思いも、個人という思いもなかったからである。それはなぜかというと、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、一切の思いを捨ててこの上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。法にとらわれた心をおこしてはならない。法でないものにとらわれた心をおこしてはならない。どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない。それはなぜ...金剛般若経十四e

  • 金剛般若経 十四d

    おはようございます。また寒さが戻ってきました。皆様ご自愛くださいませ。十四dこのように言われたとき、師はスブーティに向かってこのように言われた―「その通りだ。スブーティよ、その通りだ。この経が説かれるときに、驚かず、恐れず、恐怖に陥らない人々は、この上ないすばらしい性質を具えた人々である。それはなぜかというと、スブーティよ、如来の説かれたこの最上の完成は、実は完成ではないからだ。また、スブーティよ、如来が、最上の完成であると説いたそのことを、無量の、目ざめ人である世尊らがまた説いているからだ。それだからこそ、<最上の完成者>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌25b-d ("最高の完成"が説かれるこの経は)他の経典よりもすぐれたものであり、(...金剛般若経十四d

  • 金剛般若経 十四 c

    おはようございます。十四cけれども、また、師よ、実にそれらの人々には、自己という思いはおこらないし、生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いもおこらないでありましょう。また、それらの人たちには、思うということも、思わないということもおこりません。それはなぜかというと、師よ、自己という思いは思わないということにほかなりませんし、生きているものという思いも、個体という思いも、個人という思いも、思わないということに他ならないからです。それはなぜかというと、みほとけである世尊らは、一切の思いを遠く離れていられるからです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌25a (客観的な面で"自我という観念は起こらない"といい、主観的には"観念も観念ではない...金剛般若経十四c

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