正覚者の言葉の書き写しをメインに、仏教の話題、折々の出来事、日々の雑感など。<br>自他法界同利益 倶生極楽成仏道
正覚寺住職 千葉県東葛地区在住 ハンドルネームは「クリームコロッケ」又は「えびちゃん」 ※正しく覚った先人方の言葉の書き写しをメインテーマに、日々の小さな出来事や写真、雑記等のご紹介をして行きたいと考えています。自他共に、このブログが覚りの機縁となり、正覚に至ることを祈念いたします。
おはようございます。生まれ(血統)の良い駿馬が,たてがみをなびかせながら、尾を振りながら、苦渋しないで駆けるように、汚れなき安楽が得られた時には、わが昼夜は苦難なく過ぎゆく。ベーラッタ長老(中村元 訳)長老偈経一つの詩句16
おはようございます。五つ(の下位の束縛)を断て。五つ(の上位の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のすぐれたはたらき)を修めよ。五つの執着を超えた修行者は、激流を渡った者とよばれる。クンダダーナ長老(中村元 訳)※この偈はダンマパダ370にも同様のものがあります。「五つの」の表現が四箇所あります。これに関してはnoritunyorai様がブログで詳しい解説をされています。興味のある方は下記リンクをご覧ください。https://76263383.at.webry.info/201301/article_31.html長老偈経一つの詩句15
おはようございます。我が師はわたくしに言われた、「シーヴァカよ。ここから去ろう」と。わたくしの体は村に住んでいるが、わたくしの心は森に行ってしまった。わたくしは疲れて臥しているけれども、そこへ行こう。ヴァナヴァッチャ長老の新参の弟子シーヴァカ(中村元 訳)長老偈経一つの詩句14
おはようございます。碧(あお)き雲の色を帯び、麗しく、冷ややかな水あり、清き流れありインダゴーパカ草に覆われたこれらの岩山は、わたしを楽しませる。ヴァナヴァツチャ長老(中村元 訳)※インダゴーパカ帝釈天の牛の群れを守るものの意長老偈経一つの詩句13
おはようございます。智慧の力あり、戒めと誓いを身に具現し、心が安定し、瞑想を楽しみ、落ち着いて気をつけていって、適当な食物を食する人は、貪りを離れて、この世で死ぬべき時を待つべきである。マハーガバッチャ長老(中村元訳 )長老偈経一つの詩句12
おはようございます。仏の説かれた真理を歓喜する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽なる静けさの境地に達するであろう。チューラガヴァッチャ長老(中村元 訳)※形成作用あれをしたい(したくない)これもしたい(したくない)という意識・無意識下の、現れては消えていく心のエネルギー。十二縁起の行(サンカーラ)。※世相はざわついています。静かになすべきことをなして参りましょう。長老偈経一つの詩句11
おはようございます。智慧をそなえて、心やすまり、自らを制し、この世においても、かの世においても求める心なく、、あらゆることがらに汚されることのない人は、世の中の興亡盛衰を知るであろう。プンナマーサ長老(中村元 訳)※ニュースではロックダウンの可能性を報じています。興亡盛衰の中にいて、とらわれることなく、ざわつくことなく、安穏でおりましょう。備え怠らずに。長老偈経一つの詩句10
おはようございます。無風。少し肌寒い朝です。それは来り、それは去らなかった、それは私にとっては悪しき忠告ではなかった。人々がわかち持っていることがらのうちで、最上のものがやって来た。ピリンダヴァッチャ長老(中村元 訳)長老偈経一つの詩句9
おはようございます。かつては制御しがたったが、今や自制によつて制御されているヴィーラ(勇者)は、満足し、疑惑を超え、勝利者となって、恐怖を抱くことはない。かれヴィーラま、完全に安らぎを得て、自ら安立している。ヴィーラ長老(中村元 訳)長老偈経一つの詩句8
おはようございます。大きな激流が弱い葦の堤を壊すように、死王(魔王)の軍勢を破るものは、恐れることのない勝利者である。なぜならは、かれは自己を制し、完全な安らぎに達し、自己を安立させているからである。バッリヤ長老(中村元 訳)長老偈経一つの詩句7
おはようございます。(屍体を遺棄する)寒林におもむいた修行者は、ひとりいて、満足し、心を安定させている勝利者であり、身の毛もよだつこともなく、身体について専念し続けている剛毅な人である。シータヴァニヤ(寒林に住むもの)長老(中村元 訳)長老偈経一つの詩句6
おはようございます。かつては制御し難かったが、今や自制によって制御されているダッバは満足し、疑惑をこえ、勝利者となって、恐怖をいだくことがない。なぜならば、このダッパは、善良であって、完全に安らぎを得て、自ら安立しているからである。ダッパ長老(中村元 訳)長老偈経一つの詩句4
おはようございます。善人で賢者であり道理を見る人々とだけ交れ。怠らずに勤め、洞察をなす諸々の賢者は、(深淵にして見難く、精妙にして微細である大いなる道理)を体得する。プンナ長老(中村元 訳)テーラーガーター4
おはようございます。(完き人=如来)たちのこの智慧を見よ。暗夜に燃える火の如に、光明を与え、眼をさずけ(かれらのもとに)北れる人々の疑いわ除く。カンカーレーヴァタ長老(中村元訳)テーラーガーター3
おはようございます。半欠けの月が空にぽっかり浮かんでいます。静かな朝です。かれは、心が静まり、(欲望が)止み、思慮して語り、ざわざわすることなく、悪い事柄を吹き払う。風が木の葉を吹き払うように。マハーコーティカ長老(中村元 訳)テーラーガーター2
おはようございます。晴天です、久しぶりに霜がおりました。冷たくキラキラした朝です。1私の庵はよく葺(ふ)かれ、風も入らず、快適である。天の神よ、思うがままに、雨を降らせ。私の心はよく安定し、解脱している。私は努力を続けている。天の神よ、雨を降らせ。スブーティ長老(中村元訳岩波文庫)テーラーガーター1
おはようございます。金剛般若経つながりでスブーティ長老の詩句から始まる経典をみなさまとともに読んで参りたいと思います。かの尊き師、尊敬さるべき人、覚れる人に、敬礼したてまつる。一山窟にひそみ、咆哮する、牙ある獅子どもの声を聞くように、自己を修養した修行者たちの、自らに言及する詩句を聞け。二智慧ある人々が、その名にふさわしく、その姓にふさわしく、定められたきまりのとおりに暮らし、信受したとおりに、怠ることなく、日々を送っていた。三かれらは、ここかしこに真理を観じ、不死の境地(ニルバーナ)を体得し、成し遂げた成果を省察しながら、次の事柄を説いた。(テーラーガーター中村元 訳 岩波文庫)・明日はスブーティ長老の詩句です。これからは「ほぼ日」で更新していきたいと思います。・コメントなど、お気軽にしていただければと思いま...スブーティ長老つながり
おはようございます。三十二a さらに、また、スブーティよ、実に、求道者・すぐれた人が、計り知れず、数えきれないほどの世界を、七つの宝で満たして、諸の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。また他方では、立派な若者や立派な娘が、この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、そのことによって、計り知れず、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ。現象界というものは、星や眼の翳(かげ)、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、夢や、電光や、雲のよう、そのようなものと、見るが...金剛般若経三十二a
おはようございます。三十一b 師は言われた―「スブーティよ、実に、その通りだ。求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いではない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、<ことがらという思い>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※この節に関する頌(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)頌71(説法とは)ただ"世俗のことば"(に従った)に過ぎないことを(知らない)から、"愚かな"ものたちは、(真意からは)異なって理解(し執着...金剛般若経三十一b
おはようございます。三十一a それはなぜかというと、スブーティよ、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。生きているものについての見解、個体についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。スブーティよ、その人は正しく説いたということになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。幸ある人よ、そうではありません。その人は正しく説いたことになりません。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれたかの自我に対する見解は、見解ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、<自我についての見解>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経三十一a
おはようございます。三十b また、『如来が説かれた果てしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、<はてしない宇宙>と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、<全一体という執着>があることになりましょう。しかも、『如来の説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、<全一体という執着>と言われるのです。」師は言われた―「スブーティよ、<全一体に対する執着>は、言葉では表現できないもの、口では言えないものだ。それはものではないし、<ものでないもの>でもない。それは、愚かな一般の人々が執着するものなのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※この節に関する頌(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)頌69世界を塵の粉末にすると...金剛般若経三十b
おはようございます。三十aさらにまた、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、たとえば、この果てしなく広い宇宙にあるかぎりの大地の埃の数だけの世界を、無数の努力によって、原子の集合体のような粉にした場合に、スブーティよ、どう思うか、その原子の集合体は、多いであろうか。スブーティよは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。その原子の集合体は多いのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、原子の集合体が実有であったとすれば、師は、<原子の集合体>と説かれなかったであろうからです。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれたかの原子の集合体は、集合体ではない』と如来が説いておられるからです。それだからこそ、<原子の集合体>と言われるのです。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経三十a
おはようございます。二十九さらに、また、スブーティよ、実に、もしも、誰かが『如来は去り、あるいは来たり、あるいは住し、あるいは座り、あるいは床に臥す』と、このように説くとすると、その人は、スブーティよ、わたしが語った言葉の意味を理解していないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来といわれるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、<如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※この節に関する頌(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)頌67彼ら(諸仏)の功徳には、結果としての化身(というはたらき)があって、衆生を導くのである。諸仏は、このようなはたらき(業)をあらゆる場面で(特別の)努力もなく自然に行なっている。頌68化身...金剛般若経二十九
おはようございます。今日は良いお天気になりそうです。ラスト七回になりました。よろくお願いします。二十八さらに、また、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、ガンジス河の砂の数だけの世界を七つの宝で満たして、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。他方では、求道者が、<法は自我というものがなく、生ずることもない>と認容しえたとすれば、この方がそのことによって、計り知れず数えきれないほどさらに多くの功徳を積んだことになるだろう。けれども、また、実に、スブーティよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」スブーティ長老は訊ねた―「師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」師は答えられた―「スブーティよ、自分のものにすべきであるけれども、...金剛般若経二十八
おはようございます。二十七「スブーティよ、どう思うか。特徴をそなえていることによって、如来は、この上ない正しい覚りを現に覚ったのか。けれども、スブーティよ、あなたはそのように見てはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、特徴をそなえていることによって、如来が、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことはないからだ。さらに、また、スブーティよ、実に、誰かが、『求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、断ち切られたりするようになっている。』と、このように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかというと、求道者の道に向かう者には、いかなるものも滅びたり、断ち切られたりするようになってはいないからだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経二十七
おはようございます。二十六a スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものであると見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。わたくしが師の仰せられたところを理解しているところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです。」師は言われた―「まことに、まことに、スブーティよ、その通りだ。スブーティよ、あなたの言う通り、その通りだ。スブーティよ、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも、如来が特徴をそなえたものであると見られるようであるならば、転輪聖王もまた如来であるということになるだろう。それだから、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。」スブーティ長老は、師に向かって次のように言った-「師よ、わ...金剛般若経二十六a
おはようございます。二十五スブーティよ、どう思うか。<わたしは生きているものどもを救った>というような考えが、如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである。また、スブーティよ、如来が救ったというような生きものが、なにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着があることになるだろう。スブーティよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。スブーティよ、『<愚かな一般の人たち>というのは、愚かな一般の人たちではないにほかならぬ』と如来は説いた。それだからこそ<愚かな一般の人たち>と言われるの...金剛般若経二十五
おはようございます。二十四さらにまた、スブーティよ、実に、一人の女あるいは一人の男が、このはてしなく広い宇宙にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの七つの宝を集めて持っていて、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、また他方で、立派な若者やあるいは立派な娘がねこの智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々に説いたとすれば、スブーティよ、前の方の功徳の積み方は、こちらの方の功徳の積み方に比べると、その百分の一にも及ばないし、乃至、類似にも耐えることができない。(中村元紀野一義訳岩波文庫)※無著の頌を引用します(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)。頌58(法を)説くことは、(善でもなく悪でもなく)無記なるものではあるけれども、それが(さとりを)獲得するためのものでないとは考...金剛般若経二十四
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