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クリームコロッケさんのプロフィール

住所
千葉県
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正覚寺住職 千葉県東葛地区在住 ハンドルネームは「クリームコロッケ」又は「えびちゃん」 ※正しく覚った先人方の言葉の書き写しをメインテーマに、日々の小さな出来事や写真、雑記等のご紹介をして行きたいと考えています。自他共に、このブログが覚りの機縁となり、正覚に至ることを祈念いたします。

ブログタイトル
正覚ノ門 徒然帖
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/shogakujivihara
ブログ紹介文
正覚者の言葉の書き写しをメインに、仏教の話題、折々の出来事、日々の雑感など。<br>自他法界同利益 倶生極楽成仏道
更新頻度(1年)

130回 / 365日(平均2.5回/週)

ブログ村参加:2020/01/15

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クリームコロッケさん
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正覚ノ門 徒然帖
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クリームコロッケさんの新着記事

1件〜30件

  • 金剛般若経 三十二a (最終回)

    おはようございます。三十二aさらに、また、スブーティよ、実に、求道者・すぐれた人が、計り知れず、数えきれないほどの世界を、七つの宝で満たして、諸の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。また他方では、立派な若者や立派な娘が、この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、そのことによって、計り知れず、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ。現象界というものは、星や眼の翳(かげ)、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、夢や、電光や、雲のよう、そのようなものと、見るがよ...金剛般若経三十二a(最終回)

  • 金剛般若経 三十一b

    おはようございます。三十一b師は言われた―「スブーティよ、実に、その通りだ。求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いではない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、<ことがらという思い>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌71(説法とは)ただ"世俗のことば"(に従った)に過ぎないことを(知らない)から、"愚かな"ものたちは、(真意からは)異なって理解(し執着)する。(如来が自我についての見解を説いたというのも、世...金剛般若経三十一b

  • 金剛般若経 三十一a

    おはようございます。三十一aそれはなぜかというと、スブーティよ、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。生きているものについての見解、個体についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。スブーティよ、その人は正しく説いたということになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。幸ある人よ、そうではありません。その人は正しく説いたことになりません。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれたかの自我に対する見解は、見解ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、<自我についての見解>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経三十一a

  • 金剛般若経 三十b

    おはようございます。三十bまた、『如来が説かれた果てしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、<はてしない宇宙>と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、<全一体という執着>があることになりましょう。しかも、『如来の説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、<全一体という執着>と言われるのです。」師は言われた―「スブーティよ、<全一体に対する執着>は、言葉では表現できないもの、口では言えないものだ。それはものではないし、<ものでないもの>でもない。それは、愚かな一般の人々が執着するものなのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌69世界を塵の粉末にするというのは、上述(の法界における仏身のあり方)を明らかにし...金剛般若経三十b

  • 金剛般若経 三十a

    おはようございます。三十aさらにまた、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、たとえば、この果てしなく広い宇宙にあるかぎりの大地の埃の数だけの世界を、無数の努力によって、原子の集合体のような粉にした場合に、スブーティよ、どう思うか、その原子の集合体は、多いであろうか。スブーティよは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。その原子の集合体は多いのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、原子の集合体が実有であったとすれば、師は、<原子の集合体>と説かれなかったであろうからです。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれたかの原子の集合体は、集合体ではない』と如来が説いておられるからです。それだからこそ、<原子の集合体>と言われるのです。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経三十a

  • 金剛般若経 二十九

    おはようございます。二十九さらに、また、スブーティよ、実に、もしも、誰かが『如来は去り、あるいは来たり、あるいは住し、あるいは座り、あるいは床に臥す』と、このように説くとすると、その人は、スブーティよ、わたしが語った言葉の意味を理解していないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来といわれるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、<如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌67彼ら(諸仏)の功徳には、結果としての化身(というはたらき)があって、衆生を導くのである。諸仏は、このようなはたらき(業)をあらゆる場面で(特別の)努力もなく自然に行なっている。頌68化身によっては"去る"こと("くる"こと)などがあるが、し...金剛般若経二十九

  • 金剛般若経 二十八

    おはようございます。ラスト七回になりました。二十八さらに、また、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、ガンジス河の砂の数だけの世界を七つの宝で満たして、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。他方では、求道者が、<法は自我というものがなく、生ずることもない>と認容しえたとすれば、この方がそのことによって、計り知れず数えきれないほどさらに多くの功徳を積んだことになるだろう。けれども、また、実に、スブーティよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」スブーティ長老は訊ねた―「師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」師は答えられた―「スブーティよ、自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない。そういう意味を込めて、<自分のも...金剛般若経二十八

  • 金剛般若経 二十七

    おはようございます。二十七「スブーティよ、どう思うか。特徴をそなえていることによって、如来は、この上ない正しい覚りを現に覚ったのか。けれども、スブーティよ、あなたはそのように見てはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、特徴をそなえていることによって、如来が、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことはないからだ。さらに、また、スブーティよ、実に、誰かが、『求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、断ち切られたりするようになっている。』と、このように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかというと、求道者の道に向かう者には、いかなるものも滅びたり、断ち切られたりするようになってはいないからだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経二十七

  • 金剛般若経 二十六a

    おはようございます。二十六aスブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものであると見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。わたくしが師の仰せられたところを理解しているところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです。」師は言われた―「まことに、まことに、スブーティよ、その通りだ。スブーティよ、あなたの言う通り、その通りだ。スブーティよ、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも、如来が特徴をそなえたものであると見られるようであるならば、転輪聖王もまた如来であるということになるだろう。それだから、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。」スブーティ長老は、師に向かって次のように言った-「師よ、わた...金剛般若経二十六a

  • 金剛般若経 二十五

    おはようございます。二十五スブーティよ、どう思うか。<わたしは生きているものどもを救った>というような考えが、如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである。また、スブーティよ、如来が救ったというような生きものが、なにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着があることになるだろう。スブーティよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。スブーティよ、『<愚かな一般の人たち>というのは、愚かな一般の人たちではないにほかならぬ』と如来は説いた。それだからこそ<愚かな一般の人たち>と言われるの...金剛般若経二十五

  • 金剛般若経 二十四

    おはようございます。二十四さらにまた、スブーティよ、実に、一人の女あるいは一人の男が、このはてしなく広い宇宙にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの七つの宝を集めて持っていて、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、また他方で、立派な若者やあるいは立派な娘がねこの智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々に説いたとすれば、スブーティよ、前の方の功徳の積み方は、こちらの方の功徳の積み方に比べると、その百分の一にも及ばないし、乃至、類似にも耐えることができない。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌58(法を)説くことは、(善でもなく悪でもなく)無記なるものではあるけれども、それが(さとりを)獲得するためのものでないとは考えられない。(また単に善でも悪でもなく無記だというのは正確で...金剛般若経二十四

  • 金剛般若経 二十三

    おはようございます。二十三さらにまた、スブーティよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。それだからこそ、<この上ない正しい覚り>と言われるのだ。この、この上ない正しい覚りは、自我がないということにより、生きているものがないということにより、個体がないということにより、個人がないということによって、平等であり、あらゆる善の法によって現に覚られるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<善の法><善の法>というのは法ではない』と如来が説いているからだ。それだからこそ、<善の法>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌56さとりは、"この上もない"(無上)のである。そのことは、(それ以上には、さとりの対象としての)"法が塵ほどもない"こと、(絶対的な)法界においては(さとりによって...金剛般若経二十三

  • 金剛般若経 二十二

    おはようございます。二十二スブーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りを覚ったというようなことが何かあるだろうか。」スブーティ長老は答えた―「師よ、そういうことはありません。如来が、この上ない正しい覚りを覚られたというようなことは、なにもありません。」師は言われた―「その通りだ。スブーティよ、その通りだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、<この上ない正しい覚り>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経二十二

  • 金剛般若経 二十一b

    おはようございます。今日は一日雨です。二十一bこのように言われたときに、スブーティ長老は師に向かって次のように問うた―「師よ、これから先、後の世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような法を聞いて信じるような人々が果たしているでありましょうか。」師は答えられた―「スブーティよ、かれらは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。それはなぜかというと、スブーティよ、『<生きているもの><生きているもの>というものは、すべて、生きているものでないということだ』と如来が説かれているからだ。それだからこそ、<生きているもの>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌55説かれるもの(法)と、説く人(説法者)とについて、(それらがともに非存在であるという)このような深い意味を信じう...金剛般若経二十一b

  • 金剛般若経 二十一a

    おはようございます。二十一a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。<わたしが法を教え示した>というような考えが如来におこるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。<わたしが法を教え示した>というような考えが如来におこることはありません。」師は言われた―「スブーティよ、『如来は法を教え示した』と、このように説くものがあるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スブーティよ、かれは、真実でないものに執着して、わたしを謗るものだ。それはなぜかというと、スブーティよ、<法の教示><法の教示>というけれども、法の教示として認められるような事柄はなにも存在しないからだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌54仏(には、その身がないの)と同様に"説法"もまた存在するのではなく、(文字とその意味との)二者...金剛般若経二十一a

  • 金剛般若経 二十b

    おはようございます。二十b師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来は特徴をそなえたものであるとみなしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来が説かれたことは、実はそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ<特徴をそなえている>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌52法身の完成が、(付随的な身体的特徴である80の)随好(の完成、すなわち"物質的な身の完備")であるとは言われない。また(主要な身体的特徴である32の)相を具備することでもない。そう考えられるわけは、(法身は)無身だからである。頌53(しかし、相の具備と、随好の完備との)この両...金剛般若経二十b

  • 金剛般若経 二十a

    おはようございます。二十aスブーティよ、どう思うか。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。それはなぜかというと、師よ、『<端麗な身体を完成している><端麗な身体を完成している>というのは、実はそなえていないということなのだ。』と、如来が説かれているからです。それだからこそ<端麗な身体を完成している>と言われるのです。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経二十a

  • 金剛般若経 十九

    おはようございます。十九スブーティよ、どう思うか。立派な若者や立派な娘が、この果てしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの福徳を積んだことになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、多いですとも、幸ある人よ、多いですとも。」師は言われた「その通りだ、スブーティよ、その通りだ。立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<功徳を積む><功徳を積む>ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ<功徳を積む>と言われるのだ。スブーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は<功徳を積む><功徳を積む...金剛般若経十九

  • 金剛般若経 十九

    おはようございます。十九スブーティよ、どう思うか。立派な若者や立派な娘が、この果てしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの福徳を積んだことになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、多いですとも、幸ある人よ、多いですとも。」師は言われた「その通りだ、スブーティよ、その通りだ。立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<功徳を積む><功徳を積む>ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ<功徳を積む>と言われるのだ。スブーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は<功徳を積む><功徳を積む...金剛般若経十九

  • 金剛般若経 十八b

    おはようございます。十八b師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にある限りの砂、その砂を如来は説いたであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。如来はその砂を説かれました。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にある限りの砂の数だけ、ガンジス河があり、そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、その世界は多いであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。それらの世界は多いでありましょう。」師は言われた―「スブーティよ、これらの世界にある限りの生きものたちの、種々様々な心の流れをわたしは知っているのだ。」それはなぜかというと、スブーティよ、『<心の流れ><心の流れ>というのは流れではない』と、...金剛般若経十八b

  • 金剛般若経 十八a 

    おはようございます。十八a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」師は問われた―「スブーティどう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」師は問われた―「如来には目ざめた人の眼が(仏眼)があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には目ざめた人...金剛般若経十八a

  • 金剛般若経 十七h

    おはようございます。十七hスブーティよ、もしも、求道者が、<ものには自我がない。ものには自我がない。>と信じて理解するとすれば、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、その人を求道者・すぐれたものであると説くのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌47法界(の真のすがた)がわからないままで、衆生を涅槃に導こうと考えたり、国土を清浄ならしめようと考えたりするならば、それは倒錯(いつわり)に他ならない(そのような彼は菩薩ではありえない)。頌48衆生たち、菩薩たちのものである法を、すべて実体がない(すなわち"自我がない"法無我である)とさとり、あるいは"信じ理解する"ならば、そのような彼こそは、聖者ではない(ただ信ずるのみの凡夫)にせよ、聖者(として自らさとる)にせよ、ともに知恵あるもの(すなわち菩薩)と呼ばれるのであ...金剛般若経十七h

  • 金剛般若経 十七g

    おはようございます。十七gスブーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、この人もまた同様に、(求道者ではない)と言わなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、『<国土の建設>、<国土の建設>というのは、建設でないことだ』と説いているからだ。それだからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十七g

  • 金剛般若経 十七f

    おはようございます。十七f師は言われた―「スブーティよ、そのとおりだ。もしも、ある求道者が『わたしは生きとし生けるものどもを永遠の平安に導くだろう』と、このように言ったとすれば、その人は求道者であると言うことはできない。それはなぜかというと、スブーティよ、一体、かの求道者と名づけられるようなものが何かあるのだろうか。」スブーティよは答えた―「師よ、そうではありません。かの求道者と名付けられるようなものは何もありません。」師は言われた―スブーティよ、『<生きているもの><生きているもの>というのは、実は生きているものではない。』と如来は言っている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから、如来は、『すべてのものには自我というものはない。すべてのものには、生きているものというものはない。個体というもの...金剛般若経十七f

  • 金剛般若経 十七e

    おはようございます。十七eたとえば、スブーティよ、身が整い、身の大きな人があるというようなものだ。」スブーティ長老は言った-「師よ、如来が、<身が整い身の大きな人>と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、<身が整い身の大きな人>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌45法身をそなえたものとして考えられる点で、仏陀が、かの(欠陥のない巨大な体を持つ)人にたとえられている。(なぜならば、仏陀の法)身は(煩悩障や所知障によって)障(さえ)ぎられることなく(すなわち"欠陥のない体をそなえ")あらゆる場所に遍在するのであるから。頌46かつその属性は(功徳)が広大であるから、まさに"巨大な体"なのである。またそれは、「存在しない体の存在」に他ならないから、"体の持ち...金剛般若経十七e

  •  金剛般若経 十七d

    おはようございます。十七dスブーティよ、もしも誰かが、『如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りを覚られた』と、このように言ったとすると、そのひとは誤りを言ったことになる。すると、かれは、真実でないことに執着して、わたしを謗っていることになるだろう。それはなぜかというと、すると、如来がこの上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらはなにもないからだ。また、すると、如来が現に覚り示された法には真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ、<あらゆる法>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌43c-d(...金剛般若経十七d

  • 金剛般若経 十七c

    おはようございます。十七cそれはなぜかというと、スブーティよ、<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。〔スブーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌43-a-bのちに(さとりを得る、というように)予言が与えられたのであるから、ディーパンカラ如来のもとでの、(如来の)行は、最高なるものではなかった。(だから、"「菩薩の道に歩みを進めた」と言われるようなものは、何も存在しない<十七節a>。")(無著造世親釈長尾雅...金剛般若経十七c

  • 金剛般若経 十七b

    おはようございます。十七bスブーティよ、どう思うか如来がディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらがなにかあるだろうか。」―「師よ、わたしが師の仰せられた言葉の意味を理解している限りでは、如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもありません。」このようにいわれたとき、師はスブーティ長老に向かってこのように言われた―「そのとおりだ、スブーティよ、そのとおりだ。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもないのだ。スブーティよ、もしも如来が現に覚られた法が何かあるとするならば、ディーパンカラ...金剛般若経十七b

  • 金剛般若経 十七a

    おはようございます。十七aそのとき、スブーティ長老は、師に向かって次のように問うた―「師よ、求道者の道に進んだものは、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」師は答えられた―「スブーティよ、ここに、求道者の道に進んだものは次のような心をおこすべきだ。すなわち、『わたしは生きとし生けるものを、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはいないのだ。』と。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が<生存するもの>という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至個人という思いなどをおこしたりするものは、求道者...金剛般若経十七a

  • 金剛般若経 十六c

    おはようございます。十六cまた、スブーティよ、もしもわたしが、これらの立派な若者たちや、立派な娘たちの積む福徳について説明するとしたならば、その際にこれらの立派な若者たちや立派な娘たちが、どれだけ福徳を積んだり、身に着けたりするかを聞くに及んで、人々は気が変になったり、心が錯乱したりするようになるだろう。さて、また、スブーティよ、実に、この法門は不可思議であると、如来は説かれたが、その酬いも不可思議であると期待されるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌40c-d(人々に"軽蔑される"ことによって)あらゆる障りが浄化され、(過去の諸仏につかえた功徳として)速やかに神通性を得るということがある。頌41また("報いもまた思議を超えたもの"であって)さまざまなる世間的な繁栄という、大きな果報(も予期されるもの)である。...金剛般若経十六c

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