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正覚ノ門 徒然帖 https://blog.goo.ne.jp/shogakujivihara

正覚者の言葉の書き写しをメインに、仏教の話題、折々の出来事、日々の雑感など。<br>自他法界同利益 倶生極楽成仏道

正覚寺住職 千葉県東葛地区在住 ハンドルネームは「クリームコロッケ」又は「えびちゃん」 ※正しく覚った先人方の言葉の書き写しをメインテーマに、日々の小さな出来事や写真、雑記等のご紹介をして行きたいと考えています。自他共に、このブログが覚りの機縁となり、正覚に至ることを祈念いたします。

クリームコロッケ
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2020/01/15

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  • 金剛般若経 三十二a (最終回)

    おはようございます。三十二aさらに、また、スブーティよ、実に、求道者・すぐれた人が、計り知れず、数えきれないほどの世界を、七つの宝で満たして、諸の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。また他方では、立派な若者や立派な娘が、この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、そのことによって、計り知れず、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ。現象界というものは、星や眼の翳(かげ)、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、夢や、電光や、雲のよう、そのようなものと、見るがよ...金剛般若経三十二a(最終回)

  • 金剛般若経 三十一b

    おはようございます。三十一b師は言われた―「スブーティよ、実に、その通りだ。求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いではない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、<ことがらという思い>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌71(説法とは)ただ"世俗のことば"(に従った)に過ぎないことを(知らない)から、"愚かな"ものたちは、(真意からは)異なって理解(し執着)する。(如来が自我についての見解を説いたというのも、世...金剛般若経三十一b

  • 金剛般若経 三十一a

    おはようございます。三十一aそれはなぜかというと、スブーティよ、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。生きているものについての見解、個体についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。スブーティよ、その人は正しく説いたということになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。幸ある人よ、そうではありません。その人は正しく説いたことになりません。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれたかの自我に対する見解は、見解ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、<自我についての見解>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経三十一a

  • 金剛般若経 三十b

    おはようございます。三十bまた、『如来が説かれた果てしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、<はてしない宇宙>と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、<全一体という執着>があることになりましょう。しかも、『如来の説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、<全一体という執着>と言われるのです。」師は言われた―「スブーティよ、<全一体に対する執着>は、言葉では表現できないもの、口では言えないものだ。それはものではないし、<ものでないもの>でもない。それは、愚かな一般の人々が執着するものなのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌69世界を塵の粉末にするというのは、上述(の法界における仏身のあり方)を明らかにし...金剛般若経三十b

  • 金剛般若経 三十a

    おはようございます。三十aさらにまた、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、たとえば、この果てしなく広い宇宙にあるかぎりの大地の埃の数だけの世界を、無数の努力によって、原子の集合体のような粉にした場合に、スブーティよ、どう思うか、その原子の集合体は、多いであろうか。スブーティよは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。その原子の集合体は多いのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、原子の集合体が実有であったとすれば、師は、<原子の集合体>と説かれなかったであろうからです。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれたかの原子の集合体は、集合体ではない』と如来が説いておられるからです。それだからこそ、<原子の集合体>と言われるのです。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経三十a

  • 金剛般若経 二十九

    おはようございます。二十九さらに、また、スブーティよ、実に、もしも、誰かが『如来は去り、あるいは来たり、あるいは住し、あるいは座り、あるいは床に臥す』と、このように説くとすると、その人は、スブーティよ、わたしが語った言葉の意味を理解していないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来といわれるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、<如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌67彼ら(諸仏)の功徳には、結果としての化身(というはたらき)があって、衆生を導くのである。諸仏は、このようなはたらき(業)をあらゆる場面で(特別の)努力もなく自然に行なっている。頌68化身によっては"去る"こと("くる"こと)などがあるが、し...金剛般若経二十九

  • 金剛般若経 二十八

    おはようございます。ラスト七回になりました。二十八さらに、また、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、ガンジス河の砂の数だけの世界を七つの宝で満たして、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。他方では、求道者が、<法は自我というものがなく、生ずることもない>と認容しえたとすれば、この方がそのことによって、計り知れず数えきれないほどさらに多くの功徳を積んだことになるだろう。けれども、また、実に、スブーティよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」スブーティ長老は訊ねた―「師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」師は答えられた―「スブーティよ、自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない。そういう意味を込めて、<自分のも...金剛般若経二十八

  • 金剛般若経 二十七

    おはようございます。二十七「スブーティよ、どう思うか。特徴をそなえていることによって、如来は、この上ない正しい覚りを現に覚ったのか。けれども、スブーティよ、あなたはそのように見てはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、特徴をそなえていることによって、如来が、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことはないからだ。さらに、また、スブーティよ、実に、誰かが、『求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、断ち切られたりするようになっている。』と、このように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかというと、求道者の道に向かう者には、いかなるものも滅びたり、断ち切られたりするようになってはいないからだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経二十七

  • 金剛般若経 二十六a

    おはようございます。二十六aスブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものであると見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。わたくしが師の仰せられたところを理解しているところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです。」師は言われた―「まことに、まことに、スブーティよ、その通りだ。スブーティよ、あなたの言う通り、その通りだ。スブーティよ、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも、如来が特徴をそなえたものであると見られるようであるならば、転輪聖王もまた如来であるということになるだろう。それだから、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。」スブーティ長老は、師に向かって次のように言った-「師よ、わた...金剛般若経二十六a

  • 金剛般若経 二十五

    おはようございます。二十五スブーティよ、どう思うか。<わたしは生きているものどもを救った>というような考えが、如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである。また、スブーティよ、如来が救ったというような生きものが、なにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着があることになるだろう。スブーティよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。スブーティよ、『<愚かな一般の人たち>というのは、愚かな一般の人たちではないにほかならぬ』と如来は説いた。それだからこそ<愚かな一般の人たち>と言われるの...金剛般若経二十五

  • 金剛般若経 二十四

    おはようございます。二十四さらにまた、スブーティよ、実に、一人の女あるいは一人の男が、このはてしなく広い宇宙にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの七つの宝を集めて持っていて、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、また他方で、立派な若者やあるいは立派な娘がねこの智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々に説いたとすれば、スブーティよ、前の方の功徳の積み方は、こちらの方の功徳の積み方に比べると、その百分の一にも及ばないし、乃至、類似にも耐えることができない。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌58(法を)説くことは、(善でもなく悪でもなく)無記なるものではあるけれども、それが(さとりを)獲得するためのものでないとは考えられない。(また単に善でも悪でもなく無記だというのは正確で...金剛般若経二十四

  • 金剛般若経 二十三

    おはようございます。二十三さらにまた、スブーティよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。それだからこそ、<この上ない正しい覚り>と言われるのだ。この、この上ない正しい覚りは、自我がないということにより、生きているものがないということにより、個体がないということにより、個人がないということによって、平等であり、あらゆる善の法によって現に覚られるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<善の法><善の法>というのは法ではない』と如来が説いているからだ。それだからこそ、<善の法>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌56さとりは、"この上もない"(無上)のである。そのことは、(それ以上には、さとりの対象としての)"法が塵ほどもない"こと、(絶対的な)法界においては(さとりによって...金剛般若経二十三

  • 金剛般若経 二十二

    おはようございます。二十二スブーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りを覚ったというようなことが何かあるだろうか。」スブーティ長老は答えた―「師よ、そういうことはありません。如来が、この上ない正しい覚りを覚られたというようなことは、なにもありません。」師は言われた―「その通りだ。スブーティよ、その通りだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、<この上ない正しい覚り>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経二十二

  • 金剛般若経 二十一b

    おはようございます。今日は一日雨です。二十一bこのように言われたときに、スブーティ長老は師に向かって次のように問うた―「師よ、これから先、後の世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような法を聞いて信じるような人々が果たしているでありましょうか。」師は答えられた―「スブーティよ、かれらは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。それはなぜかというと、スブーティよ、『<生きているもの><生きているもの>というものは、すべて、生きているものでないということだ』と如来が説かれているからだ。それだからこそ、<生きているもの>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌55説かれるもの(法)と、説く人(説法者)とについて、(それらがともに非存在であるという)このような深い意味を信じう...金剛般若経二十一b

  • 金剛般若経 二十一a

    おはようございます。二十一a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。<わたしが法を教え示した>というような考えが如来におこるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。<わたしが法を教え示した>というような考えが如来におこることはありません。」師は言われた―「スブーティよ、『如来は法を教え示した』と、このように説くものがあるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スブーティよ、かれは、真実でないものに執着して、わたしを謗るものだ。それはなぜかというと、スブーティよ、<法の教示><法の教示>というけれども、法の教示として認められるような事柄はなにも存在しないからだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌54仏(には、その身がないの)と同様に"説法"もまた存在するのではなく、(文字とその意味との)二者...金剛般若経二十一a

  • 金剛般若経 二十b

    おはようございます。二十b師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来は特徴をそなえたものであるとみなしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来が説かれたことは、実はそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ<特徴をそなえている>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌52法身の完成が、(付随的な身体的特徴である80の)随好(の完成、すなわち"物質的な身の完備")であるとは言われない。また(主要な身体的特徴である32の)相を具備することでもない。そう考えられるわけは、(法身は)無身だからである。頌53(しかし、相の具備と、随好の完備との)この両...金剛般若経二十b

  • 金剛般若経 二十a

    おはようございます。二十aスブーティよ、どう思うか。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。それはなぜかというと、師よ、『<端麗な身体を完成している><端麗な身体を完成している>というのは、実はそなえていないということなのだ。』と、如来が説かれているからです。それだからこそ<端麗な身体を完成している>と言われるのです。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経二十a

  • 金剛般若経 十九

    おはようございます。十九スブーティよ、どう思うか。立派な若者や立派な娘が、この果てしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの福徳を積んだことになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、多いですとも、幸ある人よ、多いですとも。」師は言われた「その通りだ、スブーティよ、その通りだ。立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<功徳を積む><功徳を積む>ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ<功徳を積む>と言われるのだ。スブーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は<功徳を積む><功徳を積む...金剛般若経十九

  • 金剛般若経 十九

    おはようございます。十九スブーティよ、どう思うか。立派な若者や立派な娘が、この果てしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの福徳を積んだことになるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、多いですとも、幸ある人よ、多いですとも。」師は言われた「その通りだ、スブーティよ、その通りだ。立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『<功徳を積む><功徳を積む>ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ<功徳を積む>と言われるのだ。スブーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は<功徳を積む><功徳を積む...金剛般若経十九

  • 金剛般若経 十八b

    おはようございます。十八b師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にある限りの砂、その砂を如来は説いたであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。如来はその砂を説かれました。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にある限りの砂の数だけ、ガンジス河があり、そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、その世界は多いであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。幸ある人よ、その通りです。それらの世界は多いでありましょう。」師は言われた―「スブーティよ、これらの世界にある限りの生きものたちの、種々様々な心の流れをわたしは知っているのだ。」それはなぜかというと、スブーティよ、『<心の流れ><心の流れ>というのは流れではない』と、...金剛般若経十八b

  • 金剛般若経 十八a

    おはようございます。十八a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」師は問われた―「スブーティどう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」師は問われた―「如来には目ざめた人の眼が(仏眼)があるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、その通りです。如来には目ざめた人...金剛般若経十八a

  • 金剛般若経 十七h

    おはようございます。十七hスブーティよ、もしも、求道者が、<ものには自我がない。ものには自我がない。>と信じて理解するとすれば、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、その人を求道者・すぐれたものであると説くのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌47法界(の真のすがた)がわからないままで、衆生を涅槃に導こうと考えたり、国土を清浄ならしめようと考えたりするならば、それは倒錯(いつわり)に他ならない(そのような彼は菩薩ではありえない)。頌48衆生たち、菩薩たちのものである法を、すべて実体がない(すなわち"自我がない"法無我である)とさとり、あるいは"信じ理解する"ならば、そのような彼こそは、聖者ではない(ただ信ずるのみの凡夫)にせよ、聖者(として自らさとる)にせよ、ともに知恵あるもの(すなわち菩薩)と呼ばれるのであ...金剛般若経十七h

  • 金剛般若経 十七g

    おはようございます。十七gスブーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、この人もまた同様に、(求道者ではない)と言わなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、『<国土の建設>、<国土の建設>というのは、建設でないことだ』と説いているからだ。それだからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十七g

  • 金剛般若経 十七f

    おはようございます。十七f師は言われた―「スブーティよ、そのとおりだ。もしも、ある求道者が『わたしは生きとし生けるものどもを永遠の平安に導くだろう』と、このように言ったとすれば、その人は求道者であると言うことはできない。それはなぜかというと、スブーティよ、一体、かの求道者と名づけられるようなものが何かあるのだろうか。」スブーティよは答えた―「師よ、そうではありません。かの求道者と名付けられるようなものは何もありません。」師は言われた―スブーティよ、『<生きているもの><生きているもの>というのは、実は生きているものではない。』と如来は言っている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから、如来は、『すべてのものには自我というものはない。すべてのものには、生きているものというものはない。個体というもの...金剛般若経十七f

  • 金剛般若経 十七e

    おはようございます。十七eたとえば、スブーティよ、身が整い、身の大きな人があるというようなものだ。」スブーティ長老は言った-「師よ、如来が、<身が整い身の大きな人>と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、<身が整い身の大きな人>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌45法身をそなえたものとして考えられる点で、仏陀が、かの(欠陥のない巨大な体を持つ)人にたとえられている。(なぜならば、仏陀の法)身は(煩悩障や所知障によって)障(さえ)ぎられることなく(すなわち"欠陥のない体をそなえ")あらゆる場所に遍在するのであるから。頌46かつその属性は(功徳)が広大であるから、まさに"巨大な体"なのである。またそれは、「存在しない体の存在」に他ならないから、"体の持ち...金剛般若経十七e

  • 金剛般若経 十七d

    おはようございます。十七dスブーティよ、もしも誰かが、『如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りを覚られた』と、このように言ったとすると、そのひとは誤りを言ったことになる。すると、かれは、真実でないことに執着して、わたしを謗っていることになるだろう。それはなぜかというと、すると、如来がこの上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらはなにもないからだ。また、すると、如来が現に覚り示された法には真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ、<あらゆる法>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌43c-d(...金剛般若経十七d

  • 金剛般若経 十七c

    おはようございます。十七cそれはなぜかというと、スブーティよ、<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。〔スブーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌43-a-bのちに(さとりを得る、というように)予言が与えられたのであるから、ディーパンカラ如来のもとでの、(如来の)行は、最高なるものではなかった。(だから、"「菩薩の道に歩みを進めた」と言われるようなものは、何も存在しない<十七節a>。")(無著造世親釈長尾雅...金剛般若経十七c

  • 金剛般若経 十七b

    おはようございます。十七bスブーティよ、どう思うか如来がディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらがなにかあるだろうか。」―「師よ、わたしが師の仰せられた言葉の意味を理解している限りでは、如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもありません。」このようにいわれたとき、師はスブーティ長老に向かってこのように言われた―「そのとおりだ、スブーティよ、そのとおりだ。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもないのだ。スブーティよ、もしも如来が現に覚られた法が何かあるとするならば、ディーパンカラ...金剛般若経十七b

  • 金剛般若経 十七a

    おはようございます。十七aそのとき、スブーティ長老は、師に向かって次のように問うた―「師よ、求道者の道に進んだものは、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」師は答えられた―「スブーティよ、ここに、求道者の道に進んだものは次のような心をおこすべきだ。すなわち、『わたしは生きとし生けるものを、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはいないのだ。』と。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が<生存するもの>という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至個人という思いなどをおこしたりするものは、求道者...金剛般若経十七a

  • 金剛般若経 十六c

    おはようございます。十六cまた、スブーティよ、もしもわたしが、これらの立派な若者たちや、立派な娘たちの積む福徳について説明するとしたならば、その際にこれらの立派な若者たちや立派な娘たちが、どれだけ福徳を積んだり、身に着けたりするかを聞くに及んで、人々は気が変になったり、心が錯乱したりするようになるだろう。さて、また、スブーティよ、実に、この法門は不可思議であると、如来は説かれたが、その酬いも不可思議であると期待されるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌40c-d(人々に"軽蔑される"ことによって)あらゆる障りが浄化され、(過去の諸仏につかえた功徳として)速やかに神通性を得るということがある。頌41また("報いもまた思議を超えたもの"であって)さまざまなる世間的な繁栄という、大きな果報(も予期されるもの)である。...金剛般若経十六c

  • 金剛般若経 十六b

    おはようございます。昨夜はエアコンなしに眠れました。夜風が心地よい晩でした。それはなぜかというと、スブーティよ、わたしはありありと思い出す。数えきれないほど無限の昔に、ディーパンカラ(然燈)という如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人がおられ、それよりも以前、もっと以前に、数限りもない目ざめた人々がおられた。わたしは、これらの人々に仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせてやめることがなかった。スブーティよ、わたしはこれらの目ざめた人々・世尊がたに仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせるのを休むことはなかったけれども、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃になって、このような経典を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があるとすれば、スブーティよ、また、実に、こちらの方の福徳の積み方に比べると、前...金剛般若経十六b

  • 金剛般若経 十六a

    おはようございます。十六aけれども、スブーティよ、立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱められたり、また甚だしく辱められたりすることがあるかも知れない。これはなぜかというと、こういう人たちは、前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱められることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十六a

  • 金剛般若経 十五c

    おはようございます。朝晩、随分と涼しくなってきました。明日から処暑(暑さが落ち着き始める)。虫の声も変わってきました。十五cけれども、さらにまた、スブーティよ、実に、どのような地方でも、この経が説かれる地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界が供養すべきことになるだろう。その地方は、右廻りに礼拝されることとなるだろう。その地方は塔廟にもひとしいものとなるだろう。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十五c

  • 金剛般若経 十五b

    おはようございます。十五bさらにまた、スブーティよ、実に、この法門は不可思議で、比べるものがない。スブーティよ、如来はこの法門を、この上ない道に向かう人々のために、もっとも勝れた道に向かう人々のために説かれた。ある人々は、この法門を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるだろう。スブーティよ、如来は、目ざめた人の智慧によってこういう人々を知っている。スブーティよ、如来は、目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スブーティよ、如来は、こういう人々を覚っている。これらすべての人々は、計り知れない福徳を積んだことになるだろう。不可思議で、比べるものがなく、限りなく、無限の福徳を積んだことになるだろう。スブーティよ、これらすべての人々は、みずから目ざめに与る(あずかる)ようになるだろう。それはなぜ...金剛般若経十五b

  • 金剛般若経 十五a

    おはようございます。十五aまた、実に、スブーティよ、女なり男なりがあって、午前中にガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、同じように昼間にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、夕刻にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、この方法によって、無限に長い間、体を捧げるとしても、この法門を聞いて謗ったりしないならば、こちらの方が、このことのために、さらに多くの、計り知れず、数えきれない福徳を積むことになるのだ。況や、書き写してから学び、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があれば、なおさらのことだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十五a

  • 金剛般若経 十四h

    おはようございます。本日は頌から始めます。頌36教えにおいて、どのように修行することにより、どのような功徳が得られるのか、また修行にはどのような作用(業)があるのかーこれらのことが(以下の経典において)説かれている。(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)(本文)十四hさて、スブーティよ、実に、立派な若者たちや立派な娘たちが、この法門を取り上げ、記憶し、誦え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるとしよう。スブーティよ、如来は、目ざめた人の智慧でこういう人々を知っている。スブーティよ、如来は目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スブーティよ、これらすべての人々は、計り知れず、数えきれない功徳を積んで、自分のものとするようになるに違いないのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌37文字に関する(修行)には、三種ある。教...金剛般若経十四h

  • 金剛般若経 十四g

    おはようございます。十四gさらにまた、スブーティよ、実に、如来が現に覚られ、示され、思いめぐらされた法の中には、真理もなければ、虚妄もない。スブーティよ、これをたとえて言うと、〔たとい眼があっても〕闇の中に入った人がなにものも見ないようなものだ。物事の中に堕ち込んだ求道者もそのように見なすべきである。かれは物事の中に堕ち込んで施しをするのだ。スブーティよ、また、これをたとえて言うと、眼を持った人は、夜が明けて太陽が昇ったときに、いろいろな彩をみることができるようなものだ。物事の中に堕ち込まない求道者もそのように見なさるべきである。かれらは物事の中に堕ち込まないで施しを与えるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌33(説法は、ものの真相には)到達し得ない(不可得)のであるが、しかしまた、(ものの真相に)かなっている...金剛般若経十四g

  • 金剛般若経 十四 f

    おはようございます。十四fさらに、また、スブーティよ、実に、求道者は、生きとし生けるもののために、このような施しを与えなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、この生きものという思いは、『思いでないということに他ならないからだ。このように如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものどもは、実は、生きものではない。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語るものであり、ありのままに語るものであり、あやまりなく語るものであるからだ。如来はいつわりを語るものではないのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌29(菩薩の)実践修行とは、それが原因となって"生きとし生けるもののため"になることであると知らなければならない。しかし(衆生のためであっても、そこに)衆生という事物の相は(見られてはいない)、捨離...金剛般若経十四f

  • 金剛般若経 十四e

    おはようございます。十四eけれども、さらにまた、スブーティよ、実に、如来における忍耐の完成は、実は完成ではないのだ。されはなぜかというと、スブーティよ、かつて或る悪王がわたしの体や手足から肉を切り取ったその時にさえも、わたしには、自己という思いも、生きものという思いも、個体という思いも、個人という思いもなかったからである。それはなぜかというと、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、一切の思いを捨ててこの上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。法にとらわれた心をおこしてはならない。法でないものにとらわれた心をおこしてはならない。どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない。それはなぜかと...金剛般若経十四e

  • 金剛般若経 十四d

    おはようございます。十四dこのように言われたとき、師はスブーティに向かってこのように言われた―「その通りだ。スブーティよ、その通りだ。この経が説かれるときに、驚かず、恐れず、恐怖に陥らない人々は、この上ないすばらしい性質を具えた人々である。それはなぜかというと、スブーティよ、如来の説かれたこの最上の完成は、実は完成ではないからだ。また、スブーティよ、如来が、最上の完成であると説いたそのことを、無量の、目ざめた人である世尊らがまた説いているからだ。それだからこそ、<最上の完成者>と言われるのだ。(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌25b-d("最高の完成"が説かれるこの経は)他の経典よりもすぐれたものであり、(無数の諸仏によってもそれが説かれているという点では)偉大にして清浄なる(諸仏世尊の)あとを継ぐものであるから、...金剛般若経十四d

  • 金剛般若経 十四c

    おはようございます。十四cけれども、また、師よ、実にそれらの人々には、自己という思いはおこらないし、生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いもおこらないでありましょう。また、それらの人たちには、思うということも、思わないということもおこりません。それはなぜかというと、師よ、自己という思いは思わないということにほかなりませんし、生きているものという思いも、個体という思いも、個人という思いも、思わないということに他ならないからです。それはなぜかというと、みほとけである世尊らは、一切の思いを遠く離れていられるからです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌25a(客観的な面で"自我という観念は起こらない"といい、主観的には"観念も観念ではない"と否定される。このようにこの教えは)底にまで達するような深い...金剛般若経十四c

  • 金剛般若経 十四b

    おはようございます。十四bしかし、師よ、この法門が説かれているときに、わたくしがそれを受け入れ、理解するということは、それほど難しいことではありません。しかし、師よ、これから先、のちの世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、ある人々がこの法門をとりあげて、記憶し、誦え、研究し、他の人々のために、詳しく説明するでありましょうが、その人々はもっともすばらしい性質を具えた者ということになることでありましょう。(中村元紀野一義訳岩波文庫)金剛般若経十四b

  • 金剛般若経 十四a

    おはようございます。十四aそのとき、スブーティ長老は、法に感動して涙を流した。かれは涙を拭ってから、師に向かってこのように言った。―「師よ、すばらしいことです。幸ある人よ、まったくすばらしいことです。《この上ない道に向かう人々》のために、《もっとも勝れた道に向かう人々》のために、この法門を如来が説かれたということは。そして、師よ、それによって、わたくしに智が生じたということは。師よ、わたくしは、このような種類の法門をいまだかつて聞いたことがありません。師よ、この経が説かれるのを聞いて、真実だという思いを生ずる求道者は、この上ない、すばらしい性質を具えた人々でありましょう。それはなぜかというと、師よ、真実だという思いは、真実でないという思いだからです。それだからこそ、<真実だという思い、真実だという思い>と説かれ...金剛般若経十四a

  • 金剛般若経 十三e

    おはようございます。十三e師は言われた―「また、実に、スブーティよ、ひとりの女、または男が、毎日、ガンジス河の砂の数だけの体を捧げ、捧げ続けて、ガンジス河の砂の数ほどの無限の時間の間、その体を捧げ続けたとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために教え示し、説いて聞かせる者があるとすれば、こちらの方が、一層多くの計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるであろう。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌24a(自らを捧げ供養し)その結果(として享ける身体)は最もすぐれたものであるが、(同時にその身体を無限に捨てることは)苦に満ちたものであるから(その功徳は劣っている。説法の功徳はそれに比して、はるかにすぐれている)。(無著造世親釈長尾雅人訳中公文庫)金剛般若経十三e

  • 金剛般若経 十三d

    おはようございます。十三d師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人は、偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人は、偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるものではありません。それはなぜかというと、実に、師よ、『如来によって説かれた、偉大な人物に具わる三十二の特徴は特徴ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ<偉大な人物に具わる三十二の特徴>、といわれるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23d(七種の宝の功徳よりも三十二相の功徳はまさり、それよりも説法の功徳はさらにまさる、このように順次に)劣ったものよりもまさっているから(説法の功徳は最も...金剛般若経十三d

  • 金剛般若経 十三c

    おはようございます。十三c師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。この果てしなく広い宇宙の大地の塵は多いであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、それは多いですとも、幸ある人よ、それは多いですとも。それはなぜかというと、師よ、『如来によって説かれた大地の塵は、大地の塵ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ、大地の塵と言われるのです。また、『如来によって説かれたこの世界は、世界ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ<世界>と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23c(七種の宝の供養が煩悩の原因となるのに対して、土の塵も世界も煩悩の原因ではない。まして説法は)よごれの原因とはならないから(その功徳はきわめて大きい)。(無著造世親釈長尾雅人訳中公文庫)金剛般若経十三c

  • 金剛般若経 十三b

    おはようございます。立秋です。彼方此方、見えないところで秋が始まっています。十三bスブーティよ、どう思うか、如来によって説かれた法というものがなにかあるだろうか。スブーティは答えた―「師よ、そういうものはありません。如来によって説かれた法というものはなにもありません。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23b(説法は、個人の作為ではなく、世界の真実のすがたとしての法界から自然に)流れ出たものとしての偉大さがあるから(説法の功徳はすぐれたものである)。(無著造世親釈長尾雅人訳中公文庫)金剛般若経十三b

  • 金剛般若経 十三a

    おはようございます。十三aこのように言われたときに、スブーティ長老は師に向かって次のように問うた―「師よ、この法門の名はなんと申しますか。また、これをどのように記憶したらよいでしょうか。」このように問われたときに、師はスブーティ長老に向かって次のように答えられた。―「スブーティよ、この法門は《智慧の完成》と名付けられる。そのように記憶するがよい。それはなぜかというと、スブーティよ、『如来によって説かれた《智慧の完成》は智慧の完成ではない』と如来によって説かれているからだ。それだからこそ、<智慧の完成>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※この法門ーこの経典、この世尊の法金剛般若経十三a

  • 金剛般若経 十二

    おはようございます。十二さらにまた、スブーティよ、どのような地方でも、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、話したり、説いたりして聞かせたりされるとすれば、その地方は、神々と人間と、アスラたちを含む世界にとって、塔廟にもひとしいものとなるだろう。ましてや、この法門を余すところなく記憶し、読み、研究し、他の人々のために詳しく説いて聞かせる者どもがあるとすれば、スブーティよ、かれらは《最高の奇瑞をそなえた者》となるに違いない。スブーティよ、そういう地方には師と仰がれる者が住み、また、さまざまな《聡明なる師の地位にある者》が住むのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌23a(説法の行われている土地と説法する人々と)両者ともに、尊敬されるものとなる(という奇瑞がある)から(説法の功徳はすぐれている)。(無著造世親釈長尾...金剛般若経十二

  • 金剛般若経 十一

    おはようございます。まだ昨日の暑さが残っています。今日も猛暑。蝉も忙しく鳴いています。十一師は問われた―「スブーティよ、どう思うか、ガンジス大河の砂の数だけガンジス河があるとしよう。それらの河の砂は多いであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、それらのガンジス河でさえも、おびただしい数にのぼりましょう。まして、それらのガンジス河にある砂の数にいたってはなおさらのことです。」師は言われた―「わたしはあなたに告げよう。スブーティよ、あなたによく理解させよう。それらのガンジス河にある砂の数だけの世界を、ある女なり、あるいは男なりが、七つの宝で満たして、如来・尊敬すべき人、・正しく目ざめた人々に施したとしよう。スブーティよ、どう思うか、その女なり、あるいは男なりは、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるであろう...金剛般若経十一

  • 金剛般若経 十c

    おはようございます。十・c「それだから、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、とらわれない心をおこさなければならない。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない。形にとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。スブーティよ、たとえば、ここにひとりの人がいて、その体は整っていて大きく、山の王スメール山のようであったとするならば、スブーティよ、どう思うか、かれの体は大きいであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、それは大きいですとも、幸ある人よ、その体は大きいですとも。それはなぜかというと、師よ、如来は『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ、<体>といわれるのです。師よ、それは有でもなく、また無でもないのです。...金剛般若経十c

  • 金剛般若経 十b

    おはようございます。十・b師は言われた―「スブーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、かれは間違ったことを言ったことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は<国土の建設、国土の建設というのは、国土の建設でないことだ>ととかれているからだ。だからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌20(浄土というのは、仏陀の)知から流れ出たもの、ただ表象としてのみあるもの(唯識性)である。それゆえに、国土(の光輝)は捉えられるものではない。それは個別的な形状の限りではないから、(光輝ではないのであり)しかも最もすぐれた(教えによって飾られた)ものであるから、光輝ではないものが光輝であると言われるのである。(無著造世親釈長尾...金剛般若経十b

  • 金剛般若経 10a

    おはようございます。長い梅雨がやっと開けました。空の青さが心地よく感じられます。十・a師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来が、尊敬さるべき人、正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで得られたものがなにかあるだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとでえられたものはなにもありません。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌19実に、ディーパンカラ仏のもとで、(世尊に)言葉による証悟の把握があったのではない。それゆえにさとりにおいて、"(法は)とらえられないもの"、"表現すべからざるもの"であることが証明された。(無著造世親釈長尾雅人訳注中公文庫)※ディーパンカラ如来(仏)ー燃燈仏(ねんとうぶつ)。釈尊以前に...金剛般若経10a

  • 金剛般若経 九e

    おはようございます。九・eそれはなぜかというと、師よ、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、わたくしのことを《争いのない境地を楽しむ第一人者》と仰せられました。師よ、わたくしは、尊敬さるべき人であり、欲望を離れています。しかし、師よ、わたくしは、<わたしは尊敬さるべき人であり、欲望を離れている>というような考えはおこしません。師よ、もしも、わたくしが、<わたしは尊敬さるべき人という状態に達している>というような考えをおこしていたとするならば、如来がわたくしのことを、『立派な若者であるスブーティは、争いを離れた境地を楽しむ第一人者であり、どこにもとらわれないから、争いを離れたものである。争いを離れたものである。』などと断言したりはなさらなかったでありましょう。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)頌18(預流、一来、...金剛般若経九e

  • 金剛般若経 九d

    おはようございます。九・d師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が<わたしは尊敬さるべき人になった>とういうような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人が、<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、尊敬さるべき人といわれるようなものははなにもないからです。それだからこそ、《尊敬さるべき人》と言われるのです。師よ、もしも、尊敬そるべき人が<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」(中村元紀野一義訳岩波...金剛般若経九d

  • 金剛般若経 九c

    おはようございます。まだまだ梅雨は続きます。九・c師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。《もう決して生まれ変わって来ないもの》が、<わたしは、もう決して生まれ変わって来ないものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。もう決して生まれ変わって来ないものが、<わたしは、もう決して生まれ変わって来ないものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、もう決して生まれ変わって来ないものになったといっても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、《もう決して生まれ変わって来ないもの》と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※もう決して生まれ変わって来ない...金剛般若経九c

  • 金剛般若経 九b

    おはようございます。九・b師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。《もう一度だけ生まれ変わって覚るもの》が、<わたしは、もう一度だけ生まれ変わって覚るものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。もう一度だけ生まれ変わって覚るものが、<わたしは、もう一度だけ生まれ変わって覚るものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、もう一度だけ生まれ変わって覚るものになったといつても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、《もう一度だけ生まれ変わって覚るもの》と言われるのです。」(中村元紀野一義訳岩波文庫)※もう一度だけ生まれ変わって覚るものー斯陀含(しだごん)、一来、サカ...金剛般若経九b

  • 金剛般若経 九a

    おはようございます。九・a(世尊が言われた―)「スブーティよ、どう思うか。《永遠の平安の流れに乗ったもの》が、<わたしは、永遠の流れに乗ったものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすだろうか」。スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。永遠の平安の流れに乗ったものが、<わたしは、永遠の流れに乗ったものという成果に達しているのだ>というような考えをおこすはずはありません。それはなぜかというと、師よ、実に、彼はなにものも得ているわけではないからです。それだからこそ、《永遠の流れに乗ったもの》と言われるのです。彼は、かたちを得たのでもなく、声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象、を得たわけでもありません。それだからこそ、《永遠の流れに乗ったもの》と言われるのです。師よ、もしも、永遠の...金剛般若経九a

  • 金剛般若経 八

    おはようございます。八師は問われた―「スブーティよどう思うか。立派な若者や、あるいは立派な娘が。この《果てしなく広い宇宙》を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施ししたとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるであろうか。」スブーティは答えた―「師よ、幸ある人よ、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの、多くの功徳を積んだことになるのです。それはなぜかというと、師よ<如来によって説かれた、功徳を積むということは、功徳を積まないということだ>と如来が説かれるからです。それだから、如来は、<功徳を積む、功徳を積む>と説かれるのです。」師は言われた―「そこで、また、スブーティよ立派に若者や立派な娘があって、このはてしなく広い宇宙を七つの宝...金剛般若経八

  • 金剛般若経 七

    おはようございます。昨日は豪雨で雨水路が溢れ、道路が冠水していました。知っている土地でしたので低い場所を避けて帰ってきました。知らない土地の場合は、焦らずに水が引くのを待って動くのが良いと思いました。皆様のところは大丈夫でしょうか。今日も注意が必要です。さて、はじめましよう。七さらに、また、師はスブーティに向かってこのように問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来が、このうえない正しい覚りであるとして現に覚っている法がなにかあるだろうか。また、如来によって示された法がなにかあるのだろうか。」こう問われたときに、スブーティ長老は師に向かってこのように答えた―「師よ、私が師の説かれたところの意味を理解したところによると、如来が、このうえない正しい覚りであるとして現に覚っておられる法というものはなにもありません。ま...金剛般若経七

  • 金剛般若経 六

    おはようございます。六このように答えられたとき、スブーティ長老は師に向かって次のように訊ねた―「師よ、これから先、のちの時世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びるころには、このような経典の言葉が説かれても、それが真実だと思う人が誰かいるでしょうか。」師は答えられた―「スブーティよ、あなたはそういう風に言ってはならない。これから先、のちの時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような経典の言葉が説かれるとき、それが真実だと思う人が誰かいるに違いない。スブーティよ、また、これから先、のちの時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、徳高く、戒律を守り、知恵深い求道者・すぐれた人々は、このような経典の言葉が説かれるとき、それは真実だと思うに違いない。スブーティよ、また、かれら求道者。す...金剛般若経六

  • 金剛般若経 五

    おはようございます。五「スブーティよ、どう思うか、如来は特徴をそなえたものとして見るべきだあろうか。」スブーティは答えた。「師よ、そう見るべきではありません。如来は特徴を備えたものとして見てはならないのです。されはなぜかというと、師よ<特徴をそなえているということは、特徴を備えていないということだ>と如来が仰せられたからです。」このように答えられた時、師は、スブーティに向かって次のように言われた。「スブーティよ、特徴をそなえているといえば、それはいつわりであり、特徴をそなえていないといえば、それはいつわりではない。だから、特徴があるということと、特徴がないということとその両方から如来を見なければならないのだ。」(中村元紀野一義訳岩波文庫〜)頌6(供養・布施の対象である如来を、その徳が原因となって)因果的な作られ...金剛般若経五

  • 金剛般若経 四

    おはようございます。四ところでまたスブーティよ、求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。何かにとらわれて施しをしてはならない。形にとらわれて施しをしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない。このように、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、跡を残したいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすくは計り知れないほどになるからだ。スブーティよ、どう思うか、東の方の虚空の量は容易にはかり知られるだろうか。」スブーティは答えた。「師よ計り知られません。」師は問われた。「これと同じように、南や西や北や下や上の方角など、あまねく十方の虚空...金剛般若経四

  • 金剛般若経 三

    おはようございます。三師はこのように話し出された「スブーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。すなわち、スブーティよ『およそ生きもののなかまに含められるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自から生まれ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなく無いのでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入...金剛般若経三

  • 金剛般若経 二

    おはようございます。今日まで梅雨の一休み。明日からはまた長雨です。今朝は外回りの粗大ゴミを整理しました。スッキリしました。二ちょうどそのとき、スブーティ長老もまた、その同じ集まりに来合わせて坐っていた。さて、スブーティ長老は座から起ちあがって、上衣を一方の肩にかけ、右の膝を地につけ、師の居られる方に合掌して次のように言った。「師よ、すばらしいことです。幸ある人よ、まったくすばらしいことです、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人によって、求道者・すぐれた人々が《最上の恵み》につつまれているということは。師よ、すばらしいことです。如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人によって、求道者・すぐれた人々が《最上の委嘱》をあたえられているということは。ところで、師よ、求道者の道に向かう(菩薩の乗り物で進んで行く)立派な若...金剛般若経二

  • 金剛般若経 一

    おはようございます。まだまだ梅雨は明けませんが、今日の午前中は晴れ。お洗濯日和です。今回からは再度、金剛般若経を掲載します。前回は無著の頌を途中から入れたので、今回は未掲載のものを補完してアップしていきます。金剛般若経(金剛般若波羅蜜経)邦訳尊ぶべき、神聖な、智慧の完成に帰命したてまつる一わたくしが聞いたところによると、あるとき師は、千二百五十人もの多くの修行僧たちと、多くの求道者・すぐれた人々とともに、シュラーヴァスティー市のジェータ林、孤独な人々に食を給する長者の園に滞在しておられた。さて師は、朝の中に、下衣をつけ、鉢と上衣とをとって、シュラーヴァスティー大市街を食物を乞うて歩かれた。師はシュラーヴァスティー大市街を食物を乞うために歩かれ、食事を終えられた。食事が終ると、行乞から帰られ、鉢と上衣とをかたづけ...金剛般若経一

  • 長老偈経 一つの詩句 120

    おはようございます。生存を構成する五つの要素(五蘊)をすっかり知り終えて、その根は絶たれたままである。わたしは苦しみの消滅に到達し、汚れの消滅を体得した。イシダッタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句120

  • 長老偈経 一つの詩句 119

    おはようございます。樹木の根本の茂みの中に進み入って、心のうちに安らぎを落ち着けて、瞑想せよ。ゴータマよ。怠ることなかれ。がやがやおしゃべりすることが、そなたに何の用があろうか。ヴァッジプッタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句119

  • 長老偈経 一つの詩句 119

    おはようございます。老齢は、命ぜられているかのごとくに迫ってくる。形は同じであるにもかかわらず、異なっているかのごとくになる。わたしは同一であって立ち去ることはないのに、他のものであるかのごとくに自己を想い起こす。キンビラ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句119

  • 長老偈経 一つの詩句 117

    おはようございます。今日も昨日も一昨日も、明日も明後日も、よく降ります。草木の色は濃くなります。よく化粧し、美しい衣服をまとい、あらゆる装飾具で飾られた(世俗の人であったが)、わたしは三つの明知を体得した。仏の教えは、なしとげた。ヤサ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句117

  • 長老偈経 一つの詩句 116

    (頭上、木の枝に孔雀がとまっておりました。梅雨の候、雨引観音にて。)おはようございます。六つの接触の場(五つの感官と意)を捨てて、感官の門を譲り、よく自らを制し、罪悪の根本を抜き去って、わたしは汚れの消滅に達した。パーラーパリヤ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句116

  • 長老偈経 一つの詩句 115

    おはようございます。藪と樹木の多い山岳、木や草に覆われている名高いネーダーサカ山によって、そなたは見下されているのである。マハーナーマ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句115

  • 長老偈経 一つの詩句 114

    おはようございます。命は消耗していくのに、体はでっぷりと肥って重く、体の快楽のみ貪る修行者に(道の人たる)善き特性がどうしてありえようか。アディムッタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句114

  • 長老偈経 一つの詩句 113

    おはようございます。清く澄んだ水あり、ひろぴろとした岩盤があり、黒面の猿と鹿がいて、水と苔で覆われている岩山は、わたしを楽しませる。ヴァナヴァッチャ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句113

  • 長老偈経 一つの詩句 112

    おはようございます。わたしは三つの明知をそなえている。偉大な瞑想者であり、心の静まりを究めている。わたしは真の目的を達成した。ブッダの教えを成し遂げた。ヴァッチャゴッダ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句112

  • 長老偈経 一つの詩句 111

    おはようございます。出家することは難しい。種々の家にあって生活することも忍び難い。教えは深遠である。財産は取得し難い。機縁に応じて得られたものだけで生活するのも難渋する。それ故に無常のことわりを思念するのがふさわしい。ジェーンタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句111

  • 長老偈経 一つの詩句 110

    おはようございます。山々の頂にある樹木は、むらむらと起こる新しい雨雲に水を灌がれて、よく繁茂している。人々から遠ざかり離れようと欲し、森を想うているウサバには、ますます良いことが起こる。ウサバ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句110

  • 長老偈経 一つの詩句 109

    おはようございます。今日はこれから大雨。今はシトシト降っています。夏草が元気そうです。いまやこの人は、ひとり隠れた処にいて、最高の意義あることのため人々を憫み給う方(ブッダ)の教えを顧みない。森の中にいる野獣のように、本能のままに暮らしている。サンガラッキタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句109

  • 長老偈経 一つの詩句 108

    おはようございます。百二十歳でわたしは家を出て、出家した。三つの明知を体得した。ブッダの教えを成し遂げた。ダンマサヴァの父である長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句108

  • 長老偈経 一つの詩句 107

    おはようございます。慎重に熟慮してみて、わたしは在家の生活から出て、家なきものとなった。三つの明知を体得した。ブッダの教えをなしとげた。ダンマサヴァ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句107

  • 長老偈経 一つの詩句 106

    おはようございます。ある目標となるものが百の特相あり、百の特徴を持っている時に、ただ一つの部分(特相ないし特徴)のみを見る人は愚者であり、百を見る人は賢者である。スヘーマンタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句106

  • 長老偈経 一つの詩句 105

    おはようございます。もしも満足しないのであるとしても、とどまって住んではならない。もしも楽しんでいるのであるにしても、立ち去らねばならない。明眼の人は(自己完成の)ためにならない住居に住んではならない。マリタヴァンバ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句105

  • 長老偈経 一つの詩句 104

    おはようございます。わたしの身体は、崇高な喜びと楽しみに触れ、軽やかです。わたしの身体は、風に吹かれた綿のように、浮かんで跳びます。キタカ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句104

  • 長老偈経 一つの詩句 103

    おはようございます。わたくしはこれを必要としない。わたくしは楽しい、わたくしは最高の極上の味を飲んで、教えの妙味に満足している。わたくしは、毒と親交を結ぶことはいたしますまい。パンドゥラ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句103

  • 長老偈経 一つの詩句 102

    おはようございます。今朝は晴れです。御来光を拝んで参りました。たかぶりのために欺かれ、諸々の形成された事物に汚され、いろいろの所得によって心の乱れている人々は、心の統一安定を得ることができない。セートゥッチャ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句102

  • 長老偈経 一つの詩句 101

    おはようございます。在家の生活を捨てて(出家しても)、堅固な決心がなくて、口先を鋤として大食らいをして、怠けている愚鈍な人は、大きな豚のように糧を得て肥り、繰り返して母胎に入って(迷いの生存を続ける)。ベーラッタカーニ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句101

  • 長老偈経 一つの詩句 100

    おはようございます。正しい努力をそなえ、四つの専念(四念処)をその境地とし、解脱の花に覆われている人は、汚れのないものとなり、完全な安らぎに達するであろう。デーヴァサパ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句100

  • 長老偈経 一つの詩句 99

    おはようございます。美しい声を聞いては、愛らしいすがたに心を向け、心の落ち着きは失われる。愛執に染まった心を持ってそれを感受し、それに執着したままでいる。迷いの生存の根元にみちびくかれの諸々の汚れは増大する。ウッティャ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句99

  • 長老偈経 一つの詩句 98

    おはようございます。静かな雨が降っています。少し肌寒い梅雨冷えの朝です。今日は長袖で出掛けます。容色を見ては、愛らしい姿に心を向け、心の落ち着きは失われる。愛染の心を持ってそれを感受し、それに執着したままでいる。迷いの生存の根元にみちびくかれの諸々の汚れは増大する。アバヤ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句98

  • 長老偈経 一つの詩句 97

    おはようございます。高価な真鍮製の鉢と百両もする黄金製の鉢とを捨てて、わたしは土製の鉢を執った。これはわたしの第二の灌頂である。ティッサ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句97

  • 長老偈経 一つの詩句 96

    おはようございます。一輪の花を献じて、わたくしは八億年のあいだ天の諸々の世界をへめぐって、(さらにその)余福によって安らぎに達しました。カンダスマナ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句96

  • 長老偈経 一つの詩句 95

    おはようございます。わたしは、盲で、眼を害っていました。荒野の旅路を歩んで来ました。たとい(路傍に)臥すとも、悪い道連れとはともに行きますまい。チャックパーラ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句95

  • 長老偈経 一つの詩句 94

    おはようございます。かつ尊き師、釈迦族の子にしてめでたき方に敬礼したてまつる。最上の境地に達したこの方は、最上の真理をよく説き示して下さいました。メッタジ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句94

  • 長老偈経 一つの詩句 93

    おはようございます。諸々の欲望は苦しみである。エーラカよ諸々の欲望は安楽ではない。エーラカよ諸々の欲望を求める人は、(実は)苦しみを求めるのである。エーラカよ諸々の欲望を求めない人、かれは苦しみを求めないのである。エーラカ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句93

  • 長老偈経 一つの詩句 92

    おはようございます。その人の汚れは消え失せ、食物を貪らず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、彼の足跡は見出し難い。空飛ぶ鳥の迹が知り難いように。ヴィッジャヤ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句92

  • 長老偈経 一つの詩句 91

    おはようございます。(神々の召し上がる)百味ある甘露の食物も、今日わたしが頂いた食物には及ばない。(その食物とは)無限の見通す力のあるゴータマ・ブッダによって解かれた真理のことである。パリプンナカ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句91

  • 長老偈経 一つの詩句 90

    おはようございます。個人存在を構成する五つの要素(五蘊)は、完全に知られて、根絶やしにされて存続している。生まれることを繰り返す迷いの生存が滅びてしまった。今や迷いの生存を再び繰り返すことはない。サーミダッタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句90

  • 長老偈経 一つの詩句 89

    おはようございます。汚泥やぬかるみを超え終わった。深淵は避けることができた。激流や縛めからは解放された。あらゆる高ぶりは根絶やしにされた。デーヴァサバ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句89

  • 長老偈経 一つの詩句 88

    おはようございます。わたしは実に水中から陸上に、自分を引き上げることができた。大きな水流に流されていたごときわたしは、四つの真理を体得することができた。アッジュナ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句88

  • 長老偈経 一つの詩句 87

    おはようございます。個体の(五つの)構成要素はありのままに見られた。迷いの生存は全て打ち破られた。生まれることを繰り返す迷いの生存は滅びている。いまや迷いの生存を再び繰り返すことはない。パヴィッタ長老(中村元訳)長老偈経一つの詩句87

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