シベリア鉄道チタ駅2019.9.19憶う
12月撮影疲れた人は、暫し路傍の草に腰をおろして道行く人を眺めれがよい人は決してそう遠くは行くまいイワン・ツルゲーネフ路傍の花4
体感温度、というのがある実際の温度とは違って、身体で感じる温度この体感温度と同じように、体感時間というものがあるような気がしてならない少年時代に味わった時間は、ゆるやかで、とても長かったように思う夏休みの一日など朝早く目覚めて日没の夕暮れ時まで遊ぶ時間は一日という時間範囲を超えて、小さな身体をくたくたにしてくれたところが今はどうだろう夏だと思っている矢先に、もう窓の外は秋の訪れを感じさせる陽光が揺らいでいる刹那的で場当たり的な人生を歩んできたが、ここ一、二年、時間のことを真剣に考えるようになった体感時間が、もうお前の残された時間き少ないのだよ、と教えてくれるのだ命の火のことではなく、自分の為すべきことのできる時間その時間容量のことだ命の火は閻魔さんに任せている後、二十年生き永らえるかも知れないたが、この寺の始末...時間
この季節、線路内に花はない除草剤が撒かれるからだしかし線路際には婆さん達の花園がある種を蒔き雨が降らなければ水をやる草臥れれば肥料をやる寒ければ藁を被せてやる四季の移ろいに呼応して咲く花を絶やさぬように花が主役に思えるがそうではないと思う婆さん達こそ主役ではないか花から元気を貰うとは良く聞くが婆さん達の元気で花は咲くのだお互い様なのだろう「様」のつく言葉はお陰様、お世話様、お疲れ様、ご苦労様・・・これらは自分が先に得をしたり楽をする時には使われない路傍の花鉄路3
木枯らしに飛ばされた雲から時折、ほろ時雨が落ちている弱々しい冬の短い日差しの中鮮やかな橙黄色の花を開く冬中咲き続けるその姿を「冬知らず」利休の最期を看取った花歴史に翻弄され金盞の二文字を水仙に譲った金盞花唐から来た、キンセンカは年中咲くから「時知らず」華道では季節感がないことから禁花とされたしかし時知らずは園芸で持て囃され、本来の冬知らずは廃れた凛と咲く小さな花には、落ちぶれても我こそ黄金の盞という意地が見える境内の金盞花冬不知
お寺へ帰る道すがら知り合いの婆さんの家から妙な蟹が覗いていた火焔を思わせる橙色の花冠そして花びらに毛が生え綿を着せたように見えるから、火焔被綿と呼ぶらしい毛蟹の足に見えるが・・・南アフリカの岩の隙間に咲いていたのになぜ連れてきたのだろうか現地ではライオンの耳と呼ぶらしいそれでも毛蟹の足に見えるが・・・花は上へ、上へと、天を目指して踊り咲くようだ近くによるとほのかな香りしかし、その香りは花からではなく茎と葉であった直感で、どこか怪しい香りだと思ったこの時季、庭に色が乏しいから植えてみたという婆さん調べてみると、微妙に怪しい花だったお前も随分と遠くから連れて来られたな寒ぃ~か?害獣扱いされてさ、つれぇ~よなお前は勝手に飛んで来たんだろうがリアクションボタンは閉じさせていただいております。火焔被綿
お洒落が遊びかどうかというのは、微妙なところだろう人によっては遊びであっても、人によっては深刻な問題かも知れないお洒落は外面のことだけではないと思っているそして、お洒落というのはある程度、やせ我慢だとも思っている小衲はステテコとか股引きというズボン下の類は絶対に穿かない着座する時に、白衣の裾からチラリと覗くのだあれがどうにも堪えられない穿いていればこれからの季節を快適に過ごせるのかも知れないが・・・師僧はお洒落だと思う自分で決めたことは、如何なることがあっても緩めないのだそんな師僧から、坊主だからこうあるべきではなくその前に人としてどうあるべきかだ、と言われた確かにそう思えたしかしどうも・・・ま、鶏が先か卵が先かと同じだが常に坊主でありたいと思っている坊主のあり方のようなものその一点について、お洒落でありたい自...洒落
蝋細工のように光っている実、葉、根様々な薬用にしてきたクコ抜群の生命力を持つ枸杞数々の不老長寿伝説の必需品なかでも飛行術を習得した久米仙人は百八十六歳まで枸杞の実を常食としていたらしいしかし空を飛んでいた時に、川で洗濯する娘の足に目が眩み、墜落したとか・・・その後、どうなったかは知らないそしてこの国でも昭和の時代には持て囃され、波に乗り、ひどく流行した枸杞今では深紅の実が、これ見よがしに垂れ下がっているのに顧みられることはなくなった流行りものの廃れもの・・・霊薬山茱萸の実枸杞
四国霊場の札所に役僧(住職ではない坊主)として出仕していたことがあるそして一人の遍路として徒歩で幾度か巡らせていただいた遍路の目的は人それぞれで、心に願うこと、自分探し、病気平癒、先祖供養など様々しかしお寺を巡るだけでそれらが成就するとは思えない遍路の旅は気づきの旅だからだその道中で気づいたことを日常で実践し、人として成長するその結果としては、成就するかも知れない人として成長すれば、新しい自分を見つけることが出来るだろうご先祖様も安心するだろう、病気に対しては前向きになれるだろうだから遍路は人としての成長が目的であり、そのキッカケに過ぎないと思っているだが「それほど真剣には、観光半分だから、車だから」とは良く聞くしかし気持ちはどうあれ、巡るということは同じなのだ同じ巡るのであれば、と思うただ徒歩遍路に比べると車...遍路
常緑を常に変わらぬ心にたとえ、縁起を担ぐ葉はこの木特有の形で他にない針のような葉これが二本ずつ対をなして、枯れ落ちても決して離れないこれが夫婦円満の印で目出度し、目出度しとなる身近な存在でもある松そして何よりも、この国から松を取り去ったら、風景は台無しになるだろうところで、毎年、山から赤松の新芽を少しばかり頂戴する長寿霊薬の松葉酒を造るためである果実酒のようにお酒に漬け込まなくても松葉、水、三温糖、そして太陽の力を借りて松葉に付着している酵母を一か月ほど発酵させれば松の香りとねっとりとした口当たりのアルコール度数20%の松葉酒が出来上がるしかしこれは厳密に言わなくても完璧な密造酒であるだからお供えにいただいた日本酒に漬け込むことにしている仙人だけでなく、昔の山伏も松葉を食べて空腹を凌いだ随分と効能はあるらしいが...松葉
午前四時三千回の礼拝を終え、雨戸を明けるオリオンが端正な姿を見せているオリオンの三ツ星が日暮れから東の地平に現れ翌朝太陽が昇る前に西に沈むのを「夜渡し」という麦踏みの季節だそして明日は冬至明日から光が必ず春を約束するそして海では、新しい潮が入る太陽と海が生まれ変わる、冬至一陽来複お寺でも明日より星供養を開白し、二月三日春の節分の結願まで、毎日拝むこととなるしかしロシアでは冬眠中の熊が寝返りを打つだけ、と言われているらしいこれから冬晴れの日には、美しい夕日が見られる季節冬至の夕日は、南インド洋マダガスカル島東海上より日本列島の空を斜めに照らし、西空を赤く染めるだろう冬至
来年、睦月のおまじないです最初は初夢です初夢を見るには手順があります七福神さんが乗られた宝船の絵、もしくは「獏」と書かれた紙を大晦日、元旦、二日に枕の下へ入れておきますこれで、一富士、二鷹、三茄子が出てくるかも知れませんしかし出て来なくても上記の紙を川に流せば「縁起直し」となり覚えていないだけで、見たことになりますそして一月七日、五節句の一つ「人日の節句」ですこの日は江戸幕府公式行事の「七草がゆ」をいただき、厄除け、身体健康を祈りますただ七草がゆを作る時にも手順がありますまずは刃物の背でまな板を七回叩きますそして「七草ばやし」を歌いながらトントンと叩いて刻むことです※購入時に刻まれていても、今一度刻んで下さい一種につき七回、合計四十九回刻みます※「七草ばやし」については動画サイト等で検索をお願いします尚、平安時...おまじない睦月
人は誰でも頭の中に筆記箱を持っているような気がするそして、筆記箱の中には消しゴムも一つ入っている日記やブログを書くというのも、たぶん筆記箱があるからだ落書きをしたくなるのもそうだろうその一方で、筆記箱のなかの消しゴムを使いたくなる衝動に駆られた人もいるだろうあの想い出だけは消し去りたい一生の不覚だったなんて・・・歯ぎしりした覚えがあるかも知れない小衲など過ちだらけの人生だから消しゴムひとつでは用が足りないしかし、消しゴムが効力を発揮することはまずない忘れたい過去というのは、消しゴムでこすればこするほど鮮明になって蘇ってしまう人間は過去からの延長線上にしか生きることの叶わぬ動物なのだしかし、過ちを犯す動物であってもそれを許す心もある筆記箱
下の算数を暗算で・・・1たす2たす3ひく4たす5頭の中の数字が9になった人答えは9ではないでは、もう一度1たす2たす3ひく4たす5今度は答えが7になるはずいつもと違うところに「間(ま)」が入ると、簡単な計算も間違うものだ間抜け、間が延びる、間が悪い、間を置く、間に合わせの投稿(これは自分か)・・・空間の間、時間の間、人と人の間、体内の間「間」もさまざまだ目に見えない「間」無いものをただの「無」とせず、そこに気を配った時に生まれるのが「間」「間」を意識することは、想像力を働かせて目に見えないモノやコトを感じとろうとすること「間」をつくるということは神仏か魔物が宿る空間をつくることなのかも知れない間
先日、家族について御託を並べていたら同じように友人というのは、どこまでの人間関係を言うのだろうかと思った戦争を肯定する意味ではなく戦友という言葉の響きにはどこか心を打つものがある生死を共にした人間関係は、相性とか好き嫌いを超越して成立しているからだろう友人関係を解消したという話は聞くが戦友関係を・・・とは聞かない解消出来るような関係は、そもそもが友人関係と呼ぶものではなかったのではないだろうか真の友人というのは、同世代で同じ空気を吸った仲間でないと成立しないと思っているロクデナシのお前に真の友人と呼べる友はいるのかねと問われれば、迷わずひとりだけいる真の友人とは、自分より先に逝ってほしくない友それ以外にはない、と思っている霧笛が響く、瀬戸の朝12/16友人
水辺に立つ仙人が寒風に誘われ、霜に促され、花をつける葉の先が尖らず丸みをおびているこれが奥ゆかしさを感じさせるその間からすらりと花芽を伸ばす横向きつけた花は俯き、やや淋しげだ花は一重がいい白い花蓋が平らに開き、その上に小さい山吹色の盞(さかずき)を乗せているそれ故、金盞とも呼ばれるらしい香りは芳香馥郁、透明感の香り金盞
家族葬だと、どこまで(人を)呼べばよいのか、と聞かれたはて、家族とは何ぞや?血のつながり、共に暮らすなど様々あるしかし家族の定義というものは存在しないようだならば人生において最も多く食事をした人ではないかと、ふと思ったあくまでも「最も多く」だ「最も多く」となると家族以外には考えられないからだ何かと気を使う人や反りが合わない人とは食事をしたことがないだろうつまり人間が生きていくためには食べなければならない生きることの最大の関心は食べることに尽きるだから食事を共にするということは、人間が生きて行く上での根底に通じる人と人が親しくなるには、まずは食事からだ同じ釜のメシってヤツかも知れないだから一緒に食事をとらない家族は家族ではないのかも知れない同じ釜のメシで結ばれる「おむすび」だと思う家族
椿と茶の木の雑種利休がこよなく愛した白侘助藪椿はまだ固い蕾の中早々だが慎ましやかに咲く葉の上にこれ見よがしに全開して咲く花もあるしかし葉の中に隠れるようにして咲く侘助内なるものを秘め、楚々として咲く自己を見せないその姿が、侘び落ちざまに虻を伏せたる椿かな(漱石)だが、伏せている落椿は滅多に見掛けない侘助
初産なのだろう不安そうな眼差しで腹帯を差し出す奥さん少々退屈そうなご主人どうしたことか安産のご祈祷が今月二回目だこれといった取り柄のない寺なのに・・・衣に着替え、お堂に入る奥さんは正座、ご主人は胡坐だったが、慌てて正座にするのを見て「楽にしていて構いませんよ。罰ゲームではないですから」と言ったら渡りに船とばかりにご主人は胡坐に戻した密教で安産のご祈祷とは腹帯をお加持することだそして拝む仏様は烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)さんだ手洗い所の仏様でお馴染みであるこれを女性に話すと「うそー」「なんでー」となる当然である不浄な場所と安産が同じというのは、女性に失礼だと思うしかし医学というものが存在しない時代には不気味だったのかも知れないご祈祷を終え、振り向くとご主人は正座していた祈祷札を渡す奥さんからお札をお祀りする...安産
先月、蕎麦を収穫した晋山(着任)した年から休耕田を借りて、種蒔きから収穫まで一人で行っている・・・と言っても、種を蒔いて放置しているだけだ大晦日、除夜の鐘を突くために二十名ほどが訪れるその方々に年越しそばをお接待するからだそれに余った蕎麦粉は貴重な食糧にもなる脱穀は済ませた残るは風選と臼引きであるが、この風選だけは一人の婆さんにお願いするムシロを敷き、両の手で蕎麦を掬い、差し上げては落とすこれを繰り返し、風の力を借りてゴミやホコリ飛ばすのだが小衲(私)がやると、ちっとも風が吹いてくれないかと思えば突風が吹いて蕎麦まで吹き飛ばされてしまう心合いの風が吹かないのだしかし婆さんが「ヒュー」と風を呼ぶと子犬が一目散に駆け寄るように風が吹き、ゴミだけを吹き飛ばす祭祀をつかさどるかのような威厳婆さんではなく、媼である鳥達と...風選
来年の干支はネズミネズミの天敵はネコだが、ネコが干支に入っていないのには諸説あるネズミに騙されたとか、お釈迦様に呼ばれていたのに寝坊して遅れ顔を洗って出直せと叱られたからネコが顔を洗うようになったとか・・・しかしネコは日本の仏教に大変貢献している仏教とネコは同時に海を渡り日本へやって来た仏教経典をネズミから守るため遣唐使船に乗り込んだのだ日本に限らず世界中の船にネコは乗り込み、船荷をネズミから守ったのだ言わば、船乗りネコだこの船乗りネコが港、港で下船してネコが世界中に広まったらしいひょっとすると、フランスの港町などではシャンソンを聞きながら雄ネコと雌ネコの粋な別れということもあったのかも知れない船乗りネコは居なくなったが、現在でも船舶にはもやい綱にラットガードと呼ばれるネズミ除けが設置されているとかそうしてみる...干支
香風が微かに乗せてくる鰯の頭の相方、柊の花の香り鰯の臭いと柊の葉の刺で鬼を退散させる、節分でお馴染みのおまじないところが鰯を置き去りにして柊だけで、いつの間にか海を渡り、アメリカへ魔除けに植えられているというから愉快だアメリカでも魔物の目を突いているのだろうこの葉の刺は老木になるとしだいに減少し、ついには全くなくなるこうなると魔除けにはならないどうしてそうなるのか不思議だが、人間と同じで歳を重ねると角がとれて丸くなるということなのか・・・近くによると木犀のような香り高い花ひっそり、目立たぬ白い花柊木
先日、法事の席で極楽はあるのか、と聞かれ困ってしまった極楽について考えたこともないし、行ったことがないそれに行きたいとも思っていないのだ想像する極楽と言えば、お花畑に囲まれ、甘露のような小川が流れ住む人も善人ばかり、楽しく歌ったり、踊ったり、こんな感じかも知れないしかし毎日これでは退屈千万やりきれない地獄へ行きたいとも思わないが、もう少し苦労のある所へ行きたい例えば寒い北風の中、凍えながら歩いて家に着くそしてストーブの部屋に入ったら暖かいと感じるまたすれ違いも困難な狭い道路から広い道路に出るとホッとするこれが小さな極楽ではないかと思う何かを乗り越えてこそ味わうことが出来る極楽地理的な極楽ではない、心の極楽今宵は婆さんからもらった温泉の回数券で束の間の極楽へ行こうしかし原付バイクなので帰りは地獄極楽の後には地獄が...極楽
今日は成道会(じょうどうえ)、お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれた日時に、お釈迦様三十五歳朝勤行とは別に一座修し、乳粥をお供えしてからいただいたスジャータという女性がお釈迦様に乳粥を差し出し、その後悟りを開かれたと言われているからだ※乳粥とは基本的に牛乳へお米を入れてトロトロになるまで煮込む料理※コーヒーに入れる褐色の恋人スジャータはこの女性の名前が由来どこで聞くのか知らないが、時折体験修行を希望する若者がやって来る体験修行と言えば写経、瞑想、滝行などが定番の内容で何かのキッカケになればそれで良いと思っているしかし何かあるから、何もないボロ寺に足を運ぶのだ彼等が求めていることは夫々で、それを十把一絡げには出来ないだから夫々に応じて出来る限りの内容を考えている場合によっては何もせず、お堂で昼寝ということもあれば般...若者
路傍の草や木が実をつけている中にははじけ始めた実もある仏様へのお供えは果物にお饅頭というのは良く見かけるこれを坊主言葉で木菓子と田菓子という木菓子とは木で実ったもの、即ち果物田菓子とは田で実ったもの、即ちお餅とか小麦+小豆=お饅頭となるからださて、そもそも地球上には木というものは存在せず、草が進化して木になったらしい草は発芽すると細胞を何倍にも膨らませると、すぐに枯れるしかし木は膨らみを抑制し、寿命を延ばそうとするまさに知恵を絞った進化だ草の実であるスイカやメロンは栄養を与えれば巨大に膨らむが木の実であるリンゴやブドウが大きさに限界があるのはこのためだとか・・・長生きするには抑制が必要なのかも知れない実に実りのない話だ・・・木の実・草の実
真言宗の各本山には嵯峨御流を始めとして華道の流派がある小衲はかじる程度、いや、香りを嗅ぐ程度で止めた枝を曲げたり、切ったりすることに抵抗を感じたからだ・・・というのは下手な言い訳で要はかざつなのだお供えの花は境内か近所の山からいただいて来る菊や百合が年中お供えされているのが、何となく不自然に思えるからだ販売されている花は綺麗で立派だが、この地で咲いている花をお供えするのが自然だと思う・・・というのは下手な言い訳で、貧乏なのだところで花の少ないこの時季にしては境内が花盛りだ返り花の珍珠梅、庭梅、百合、緋合歓、金鎖、連翹・・・返って来たくて、返って来たわけではないのだが・・・花が咲くには一定の条件が要るその条件を乱されたために咲かされているのだろう受け身の花にとって甚だ迷惑なだけなのかも知れないしかし生きることに命...乱花
境内の落葉が少しずつ減り始めた坊主になった頃、落葉はゴミだった舞い落ちる落葉に風情は感じていても、いざ作務となれば落葉を仕事の対象としてとらえていたからだしかしある時、子供達が落葉を拾っていた一枚一枚違う色の葉を面白がって拾う子供達が「きれい」と叫んでいたきけいなものをきれいと思う心がきれいなのだ何気ないものをきけいだと思う心がきれいなのだ美しいと思う気持ちが心を豊かに育てる落葉は人の心を豊かにしてくれる落葉をかき集めていると、その子供達に感謝したことを思い出したそして焚き火の香りが懐かしい香りと感じた、冬の夕暮れ・・・落葉
裏山の少しばかり暗い場所毎年、木枯らしが吹くころになるとこずえの先から花茎が伸びて、そこから白い灯りをともしたような花が咲く寒い季節に向かうというのに、その姿はたくましくもあり、たのもしくもある葉は常緑の落ち着きはらった感じで、天狗様の持ち物として誠にふさわしいしかしなぜ天狗様は扇子ではなく団扇を持っているのだろうかまた妙なことが気になった便利さから考えれば、舞ったり、唸ったりすることも出来る器用な扇子だろうそれに比べると強い風を起こすことは出来るが他に用途がない不器用な団扇どちらに軍配を上げるわけではないが、天狗の羽団扇との別名を持つ八ツ手の葉が魔を払ってくれるからだとか・・・因みに夏になると奈良の渋団扇を長い間使っている世間に媚びぬその姿が気に入っているからだ八ツ手
世界中におまじないというものはあります日本の厄年と似た風習は小衲が知る限り、オーストラリア大陸を除く四大陸にありますどこからか伝わったものでなく、それぞれの民族で独自に編み出されたものです風習や文化は異なっても「人」という共通した根っこがあるからかも知れません(厄年はおまじないで、寺や神社が便乗して祈祷を行っているものです)生活様式が多様化され、日本古来より伝わるおまじないだけでなく魔法も活用出来るのではないかと思っていますそこで今回はイギリスの魔法指南書に記されている魔法の中から三つをご紹介しますまずは心に迷いが生じた時は胸の上で指輪を三度回します指輪は小さな魔法の円なので、迷いや病が入ってくるのを防いでくれると伝わっていますお金に困らない魔法一日のうちで最初にもらったお釣りの硬貨に唾をつけて、三度ひっくり返...魔法
運び雨が降ってる、月曜日寒の入りには少し早いが寒九の雨になれば良いのだか・・・昨日、境内の子福桜の横にある長椅子で二十代半ばのお母さんが娘を膝に抱いて童話を読んで聞かせていたそれを子福桜がじっと見守っている子供が言葉を覚えるのに文法は必要ない糸を紡ぐように成長期の細胞に組み込まれてゆく喜怒哀楽の人間の感情も同じだろうしかし何かがおかしい徐々に人間の何かが変化している先日、「恥」について投稿している時に気づいたが昔は喜怒哀楽の四つの感情は有機的に絡み合っていたと思う喜びの裏に哀しみがあり、哀しみの裏には怒りがあったしかし今はどれもがバラバラに孤立して存在しているように思う刹那的に一つの感情だけが突出して表れているように思う理解不能な人間の行動には「無」という五つ目の感情が存在するのではないか或いは喜怒哀楽の中で「...子福桜
今日から師走となり、お正月の準備を考えられているご家庭もおありかと思います今日はおまじないではありませんがお正月について記させていただきます新年を迎えるにあたり、門松、鏡餅、しめ縄(しめ飾り)、お雑煮、おせちを準備されると思いますいやいや、全部は無理とおっしゃる方もいるでしょうこの準備は全て歳徳神さん(年神様)をお迎えするためのものです年末に大掃除を行い、しめ飾りで魔が入らぬように住まいを清浄な場にしますそして門松はお越しいただくための目印、鏡餅は依り代、おせちはお供えですまたおせちは釜土の神様(大黒天さん)にお休みいただくという意味もあります※おせちの数の子や田作りなどの料理の意味は全ておまじないですお雑煮は歳徳神さんから福をいただくためですこのように新年を迎えるとは、歳徳神さんを迎えるということです令和二年...元旦
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