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キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ 聖書・キリスト教・プロテスタント関係

糸田十八
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2019/08/17

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  • 神殿再建と城壁の再建

    ちょっとした基礎知識でありますが、このカテゴリーでお願いしたいと思います。バビロン捕囚の後、クロス王の勅令でユダヤ人の勇士たちがエルサレムに帰還して、神殿の再建をします。そのことは、主にエズラ記によって確認できます。神殿の基部が紀元前年535年頃に据えられ、紀元前517年頃に奉献が行われました。クロス王の元年に許可が出され、ダリヨス王の6年に完成し、約18年の歳月がかかったことになります。私達の印象では、ともすると、エルサレムの城壁の修復も直後に行われたように思われるかもしれませんが、ネヘミアの指導によって修復が始まるのは、約70年後です。その様子は、ネヘミア記で確認できます。六章十五節では、五十二日かけて修復されたと記録されています。大まかな年表が出ているブログページのリンクにほんブログ村にほんブログ村神殿再建と城壁の再建

  • 可愛さ余って憎さ百倍?

    イエスのエルサレム入城の時と、ピラトの官邸での裁判の時では、群衆の対応が正反対で、その変わり身の早さ、掌返しには驚かされます。私の読み込みが浅く、また、きちんとした解説も聞いたことがなかったため、群衆心理のいい加減さ、節操の無さのように理解していました。しかし、よく考えてみると、それは無理もない部分が有ったことが見えてきました。先ず、エルサレム入城の時の反応です。群衆はイエスを王と認めて、上着を道に敷いたり、道を平にするために枝を切ってきて敷いたりしました。また、メシアだと認めて、メシアを歓迎する詩編と考えられる詩編百十八編二十五節、二十六節の言葉を叫び続けました。ところが、ピラトの官邸での裁判の時になると、バラバを釈放し、イエスを十字架に着けよと叫びます。マタイ二十七章の記述によると、パリサイ人たちが群...可愛さ余って憎さ百倍?

  • 基本と応用?二つの湖上の嵐

    イエスの弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭う場面は、奥義書では二回有ったことになると考えられます。一度目は、マタイ八章、マルコ四章、ルカ八章に記録が有ります。イエスが「向こう岸に行こう。」と言われて、弟子たちと一緒に船に乗って出かけました。向こう岸というのは、ガダラ地方ということです。この時は、イエスがご一緒に船に乗っていましたが、嵐の中でも眠っておられたということです。ここでは、弟子たちは、イエスが向こう岸に行こうと言われ、また、共におられるのだから、嵐の中でも信仰を持って、恐れずにいることを学んだことになります。因みに、マタイとルカの記述では、昼間に船に乗ったのではないかと思われる記述になっていますが、マルコだけは夕方であったと記録しています。ガリラヤ湖は夕方から夜にかけて強い風が吹き、嵐になるので、わざわ...基本と応用?二つの湖上の嵐

  • 父なる神、子なる神という呼称と関係性

    イスラム教徒はキリスト教を無効とする論法として、神は子を生むことはないから、イエス・キリストが神の御子である、子なる神であるということは有り得ないという主張を持ち出します。しかし、それは、私たち忍者の方からすると、奥義書の預言及び、父、子という表現の意味するところをきちんと理解していないことを表していることになります。私たち忍者は、どのような理解、説明ができなければならないのかを述べてみようと思います。このことを最も明らかに示しているのは、第二サムエル記七章の記述であると思います。ここには、神殿を建立したいというダビデ王に、預言者ナタンが伝えた神の言葉が記録されています。直接的には、十三節で、神殿を建てるのはダビデではなく彼の子孫だと述べています。しかし、我々にとってそれよりも重要なのは、十二節から十六節...父なる神、子なる神という呼称と関係性

  • あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない

    インターネット上の記事で、自分の好きなことを仕事にすれば万事楽しく働くことができるということはないというものを読みました。自分の好きなことをしていても、煩雑な人との交渉や金銭のやり繰り、書類の処理など、楽しくない、むしろ煩わしいことが必ずつきまとってくるからだというのです。ですから、現在の仕事が楽しくないと思っても、好きなことを仕事にしたからと言って、その煩わしさはたいして変わらないということも考えなければならないという指摘でした。そこで思い浮かんだことが有りました。創世記三章には、堕落後のアダムに対する神の呪いの罰となる言葉が記されています。『17また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは...あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない

  • 従順の二重奏 ーアブラハムとイサクー

    講解という程の内容ではないのかもしれませんが、このカテゴリーでお願いします。神がアブラハムに、愛する一人子であるイサクを全焼の生贄にするように命じられた箇所の話です。アブラハムは神に何も尋ねたり言い返したりしせず、翌朝早く準備をして、指定されたモリヤの山の方に向かって旅に出ます。そして、指定された場所に祭壇を築いて、イサクを縛って薪の上に置き、刃物でほふろうとするのです。そこで神のみ使いが来て彼を止め、彼の信仰の従順が義とされました。ここにアブラハムの従順を見ることができます。へブル十一章十九節は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」と述べて、彼の従順の土台となる信仰の有様を解説しています。さて、奥義書には言及が有りませんが、我々忍者は更に理解しておかなければならない...従順の二重奏ーアブラハムとイサクー

  • 聖書翻訳事業の記事から思ったこと

    世界宣教関連の広報誌を見ていましたら、下記のような記述に目が留まりました。1917年に、ウイリアム・キャメロン・タウンセントは、グアテマラのある部族に聖書の配布を始めました。(スペイン語訳だと思われます。)ある日、その部族の男性が、「お前の神が全知全能なら、何故神が我々の言語で語らないのか。」という質問をしてきたということです。ウイリアムは回答に窮しましたが、このことをきっかけに、ウィクリフ聖書翻訳協会が始まったということです。この働きに、私個人も敬意を払い、関係者との交流も少し有るのですが、今回は、この部族の男性の質問に対して思ったことを述べておきたいと思います。神が全知全能であるという信仰的事実と、神が彼らにその部族の言語で語られないことは、どういう関係になっているかということは、直ぐに思いつかなけれ...聖書翻訳事業の記事から思ったこと

  • 恥ずかしくない裸、恥ずかしい裸

    アダムとエバの裸の状態の記述についてです。恥ずかしくない裸(創世記二章二十五節)人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。恥ずかしい裸(創世記三章七節)すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。二章の方の裸を表す語は、アロームというような発音になる語で、三章の方の裸を表す語は、エロームというような発音になる語です。旧約聖書のヘブル語の辞典を確認しますと、定義はどちらも同じで、単に裸の状態を表しているだけのように見えます。それでは、一体この二つにはどんな区別が有るのでしょうか。コンコーダンスを見ても、いずれの用例も、人間が裸の状態であることをあらわしているだけで、どこに区別が有るのかよくわかりません。そこで、他の大忍の...恥ずかしくない裸、恥ずかしい裸

  • 炊き立てご飯のような? 詩編三十三編三節

    新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。(新改訳第三版)新しい歌をという勧めになっています。しかし、私たち皆が歌を作ることができるわけではありません。作曲が専門であるような人物でも、毎日きちんと作曲して仕上げることは難しいと思います。注解書を見ると、日々新たな心構えで、という説明になっています。そうしますと、私たちの日々の祈り、主を求め、信頼する心の告白が、新しい歌になると思います。その新しさを考えてみました。私たちは、多くの場合米飯を主食としています。いつも米のご飯を食べます。同様に、私たちは、絶えず祈り、主に感謝と賛美を捧げます。しかし、それは、同じ内容でも、どこかに保存しておいたものではなく、炊き立てのご飯のように、いつも新たなものなのではないでしょうか。これから、日々...炊き立てご飯のような?詩編三十三編三節

  • 930年間の傷

    タイトルの930年は、アダムの寿命です。創世記五章五節の記述による数字です。傷というのは、エバの心の傷のことです。アダムとエバは、堕落した後、神に問い詰められる経験をします。神がアダムにどうして善悪を知る木の実を食べたのかと尋ねた時、アダムは、エバが与えたからだと答えました。エバがどうしてアダムに善悪を知る木の実を与えたのかは、想像するしかありませんが、とにかく、自分のことを「私の肉の肉、骨の骨」と言い表して喜んでくれたアダムが、この反逆行為をエバのせいにする言葉を聞いた時には大きな衝撃、絶望を味わったに違いありません。この後、聖書に記録されている息子たちの名前から考察すると、アダムとエバは約束のメシアが自分達から生まれないかと期待していた様子がうかがえます。その救いを待ち焦がれるエバの心の中で、いつまで...930年間の傷

  • 誰が全焼のいけにえを捧げたのか (サムエル記Ⅰ十三章九節)

    イスラエルの初代の王、サウルが、サムエルの到着を待たずに全焼のいけにえをささげた記事についての解釈です。実際に全焼のいけにえをささげた、執り行ったのは誰かということです。考え方は二分されているようです。1)サウルが執り行った。2)同行の祭司、アヒアが執り行った。私は1)の立場から教えられてきました。しかし、2)の立場の方が現実的であると思うのです。いくらサウルが切羽詰まっていたとしても、自分で動物を処理し、石の祭壇を築いて全焼のいけにえをささげる確率は低いと思います。律法を守る者を体現することが使命の一つであるはずの王が、そのようなことをすることは考えにくいと思います。サウルがそんなことをしようとしたら、兵士たちや同行の祭司やレビ人たちが必ずや止めたであろうと思います。2)の立場であれば、サウルがレビ系の...誰が全焼のいけにえを捧げたのか(サムエル記Ⅰ十三章九節)

  • 神とイエス・キリストの平安

    パウロの手紙の挨拶文には、神の恵みと平安を祈る定型文が用いられていたりします。今回は、平安に着目して考えたことが有りました。私たちは、このような定型文を、機械的に読んでいることが多いように思います。具体的な神とイエス・キリストの平安のイメージを持っていることは有意義であると思います。神の与えてくださる平安の具体的なイメージの一つは、山上の垂訓に有ると思います。神は私たちに衣食住を守ってくださる方です。私たちを野の草花や鳥よりも大事に思っていてくださる、その神を信じることによっていただく平安を私たちが持っていることを意識することは意義が有ります。イエス・キリストの平安のイメージは、罪の赦しと神の国に生きる永遠の命の希望に有ります。イエス・キリストの執り成しにより、父なる神と和解し、父なるの神の怒りと裁きを受...神とイエス・キリストの平安

  • 箴言十章一節

    箴言十章一節に、次のような記述が有ります。「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。」(新改訳第三版)読んだ瞬間に、思い浮かぶことが有りました。知恵のある子は父を喜ばせるが、母の喜びではないのか?愚かな子は母の悲しみであるが、父は悲しまないのか?実際にはそんなこはずはありません。父が子供のことを喜べば、母も同様に喜びことでしょう。逆に、母が子供のことで悲しんでいれば、父も同様に悲しいはずです。この一節は、父と母は夫婦であり、一体であることを前提として書かれていると考えられます。創世記二章二十四節には、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と述べられています。私たち忍者は、この奥義書の言葉の通りに考えることに決めた者たちであります。そして、この親子関係を思う...箴言十章一節

  • 「罪」の考察 ーアカンの場合ー

    ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、エリコを陥落させた後に、アイという町を攻めましたが、敗走することになりました。アカンという人物が神の命令を破ってしまったからです。神の導きによるくじ引きで、アカンが取り出されると、彼は、「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。」と告白しています。(ヨシュア記七章二十節)彼のしたことは何だったのでしょうか。彼の告白では、シヌアルの美しい外套一枚、銀二百シェケル(二千ドルぐらいか)と五十シェケルの金の延べ棒を着服したということです。度量衡は、資料によって異なります。銀の方が金より価値が高かった時代が有るという指摘も見受けられます。金の延べ棒についての資料が見つけられませんでした。ここで大事なのは、アカンが告白した通り、「主に対して」罪を犯したと言う部分...「罪」の考察ーアカンの場合ー

  • 若い忍者も信仰の弁証の学びをするべきこと

    自分の反省を含めて思うことでありますが、若い忍者も、高校生になったぐらいの時点から、様々な信仰の弁証の学びをしておくべきであると思います。例えば、高校の世界史の授業では、十字軍の話が出て来たりする時に、当時のヨーロッパ社会がどのようなものであったとか、ローマ法王をめぐる状況がどうであったかという知識と、聖書の命じるている内容が乖離していることなどを理解していることは有益であると思います。また、進化論と創造論は同列に扱えない理由や、進化論に立たなくても研究に支障がないと言える視点などの知識が有ると良いと思います。日本史においては、旧里の動きで、日本人も奴隷にされたとか、植民地にする目論見が有ったという事なども理解しておく必要がありますが、同時に、それが、私たち新里に所属する忍者とは異なった立場であることなど...若い忍者も信仰の弁証の学びをするべきこと

  • ヤコブの鏡の例話を実感する

    ヤコブの手紙の1章には、鏡を見る男の例話が出て来ます。23みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。24自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。25ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(新改訳第三版)私には、この例話は長い間ピンと来ないものでした。実際に私たちが鏡を使う場面とその目的を考えると、この例話の雰囲気が実感できるようになりました。私たちが鏡を用いるのは、どういう時でしょか。自分の顔を鏡に映し、寝ぐせがないか、目ヤニはついていないか等を確認して直します。また、化粧をする時に...ヤコブの鏡の例話を実感する

  • 「み国を来たらせたまえ」の一面

    注解書を読んでおりましたら、直接文脈や内容に関係は無かったのですが、「み国を来たらせたまえ」という、主の祈りの一節への言及が有りました。み国というのは、神の支配する領域という理解になります。そして、私たち忍者の日常において、毎日求める神の支配の中には、聖霊の臨在が含まれるという記述でした。当然そうなのではありますが、私、糸田十八は、心の板に書き記される神のみ言葉の方にいつも意識が有り、聖霊の臨在を求める方には目が向いていなかったことを反省した次第です。にほんブログ村にほんブログ村「み国を来たらせたまえ」の一面

  • 心を尽くして主に拠り頼め 箴言三章五節

    箴言三章五節の全文は、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(新改訳第三版より)となっています。主に拠り頼むこと、完全に信頼して生きることが奥義書全体を通して忍者たちには要求されています。心を尽くして、という部分は、心を総動員してという意味合いが有ります。そして、心というのは、知性、理性、理由付けをする思考の座という考え方がされています。神はこういうご存在だから、神はこう約束されたから、神は過去にこのように私と関わってくださったから、というように、様々なありったけの理由づけをして、だから神に拠り頼むだと自分に言い聞かせる生活をすることが求められています。その有様は、パウロがよく例えにした、競技者が栄冠を得るために気合を入れて訓練し、競技で戦う有様に似ていると思います。俗な表現をすれば、気合を...心を尽くして主に拠り頼め箴言三章五節

  • ラクダが針の穴を通る方がやさしい

    マタイ十九章二十四節に出て来る表現です。直接的な意味は、不可能だ、ということです。そして、そのような不可能なことができるのは、神だけであると理解する場面です。そのことは承知していたのですが、最近読んだ注解書には、そこから更に、自分が、イエス・キリストを通して救われるという稀有な奇跡を体験することができたということを喜ぶ読み方が勧められていました。自分が見落としていた視点であったと思ったので、ここにお分かちさせていただく次第です。にほんブログ村にほんブログ村ラクダが針の穴を通る方がやさしい

  • 忍者は、天国に凱旋するのか

    数十年前にお世話になった人のことが、ふと思い出されることがあります。それで、ネット検索をしますと、10年程前に天に召されていたことがわかったりします。その報告の文面を読んでいると、天国に凱旋しました、と記されていることがよくあります。私、糸田十八は、この表現には違和感が有るのです。使徒パウロは、死を覚悟してテモテに書き送った手紙で、次のように述べています。7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。(第二テモテ四章七節、八節新改訳第三版より引用)パウロは普段から、競技場で競争する走者の例えを用いました。競技が終わると、チャンピオンに月桂冠が与えられたりします。市民マラソンの完走者賞のようなものが有ったかどうかは知りませんが、天国...忍者は、天国に凱旋するのか

  • 忍者や里が、ぶどう、いちじくに例えられることの意味

    奥義書を読むと、旧約においても新約においても、イスラエル、もしくは神の民がぶどうやいちじくに例えられる場面が出て来ます。それぞれの箇所にそれぞれの意味が有るのですが、その中から共通点を一つ確認したいと思います。そのことがよくわかるのは、エゼキエル15章の記述です。2人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、他の木よりどれだけすぐれているのか。3その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。4見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。5見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして、焦がせば、もう、そ...忍者や里が、ぶどう、いちじくに例えられることの意味

  • 聖書通読の目安

    かなり前に、中国か北朝鮮の忍者の体験談を読んだ時、取り調べをした人物が、「私は一日かけて聖書を全部読んだが、実にくだらない書物だった。」というようなことを言ったという記述が有りました。その言葉を聞いて、その忍者は、この人は実際に聖書を読んでいない、一日で読み切れるはずがない、と思ったということです。実際どうなのか、私にはわかりません。というのは、中国語の聖書ですと、新旧約六十六巻全部収録されているものでも、かなり薄い本になるのです。私は、一度サンプルを手に取った時、新約しかないと思いました。よく見たら、旧約も入っていて驚いた経験が有ります。しかし、朝鮮・韓国語や日本語では、一日で読み切るのは難しいと思います。英語の聖書を一年に五回読むという大忍の話を聞いたことはありますが、やはり、1日で読むのは無理だと思...聖書通読の目安

  • 十字架の部屋

    先日、中里の会議に出席しました。議長が議事進行の前に奨励をしたのですが、その中で出て来た例話が面白いと思ったので、残しておきたいと思います。ある人が、自分の十字架と思える環境、境遇、課題などに悩んでいました。これは自分が担いきれるものではない、自分が担うべきものではないとさえ思ったということです。そんなある日、彼は夢を見ました。自分には担いきれない、自分には合わないと思っている十字架を背負い、苦しんで道を進んで行くと、大聖堂にたどり着きました。中に入ると、礼拝堂の横にも大きな扉が有って、その上に「十字架の部屋」という看板がかかっていました。気に入らない十字架を背負ってここまで来たので、他にどんな十字架が有るのか、もしかして、今の十字架よりももっと自分に適した十字架が有るのではないかという期待の気持ちをもっ...十字架の部屋

  • 努力してイエスを訪ね求める

    ルカによる福音書を通して、ルカは、「努力して」イエスとの関係を探り求め続けることを強調している面が有ると思いました。使徒パウロと行動を共にし、多くの人からイエスに関する証言を集めた結果、彼がたどり着いた一つの原則なのではないかと思います。直接的に努力に言及しているのは、十三章二十四節のイエスの言葉です。努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。イエスはご自身のことを門に例えられたことがあります。(ヨハネ十章七節、十節参照)また、狭い門というのは、個人宅の入り口を意味します。個人的な交流をする努力が必要だということになります。イエスとの個人的な交流をすることに努力しなさいという指示になっています。もう一つの、イエスとの交流に努力をする必要...努力してイエスを訪ね求める

  • 呪われたいちじくの木の教訓

    イエスがいちじくの木を呪われた記事は、マタイとマルコが記録しています。空腹をおぼえたイエスが、とあるいちじくの木に近づいたのですが、実が生っていなかったために、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言われると、自然では有り得ない短期間のうちに枯れてしまったというものです。ここで二つのことが問題になると思います。一つ目は、実が生っていなかったのは、その季節ではなかったからだというマルコの説明です(新改訳)。実がなるはずがない季節であったならば、イエスの行いは、理に適っておらず、神の御子の御性質に反するように思われます。二つ目は、このような奇跡に、どのような意味、意義が有るかということです。では、一つ目の問題を調べてみます。この地方には、ベテパゲ(いちじくの家)という地名が有るぐらい...呪われたいちじくの木の教訓

  • 献花 8

    この献花を観察し、瞑想を始めた時、あまり強く訴えかけて来るものは無いように感じていました。いつものように、赤い花からは、イエス・キリストの贖いの血と、救いの恵みを思いました。白い花は、イエスの義を着せられた聖徒達を思わせました。ピンクの花は、赤と白の中間色ですが、イエスの恵みとイエスからいただいた義の両方を心に留め続ける態度を表したもののように思いました。あまり強い印象が無く、ここまでの思索で終わりかなと思って観察を続けますと、突然はっと気づくものが有りました。緑色の何かが突き出ているなと思ったのですが、それが麦の穂だということに気付いたのです。聖書では、イエスは、よみがえる者たちの初穂だと表現されています。麦の穂はこの献花から四方八方に伸びています。イエスの血の恵みと、イエスの義を着せられた恵みを受けた...献花8

  • 聖霊を消す

    1テサロニケ5:19には、「御霊を消してはなりません」という表現が出て来ます。御霊は聖霊で、それを火になぞらえて、消してはいけませんと戒めています。聖霊を消すというのは、具体的にはどのような行為なのかということは、いろいろな考察が可能です。しかし、この聖書箇所の文脈から考える時、それが直接的に示しているいるのは、直前の16節ー18節の戒めに関係が有ると考えられると思います。「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」という内容になっています。喜びは、御霊の実の一つです。祈りは聖霊の導きによってするものです。詩編を見れば、感謝することが勧められており、詩編の記者はそれを聖霊の導きによって書留ました。すると、これらの戒めに従わな...聖霊を消す

  • 傲慢だという指摘

    私、糸田十八は、いくつかのネット上の忍者コミュニティーに参加した経験が有ります。その中で、信仰を持たない参加者が、忍者の信仰の在り方を、傲慢だと指摘しているのを目にすることが有りました。同様なことは、立場の異なる忍者同士の対話の中にも出て来ることが有りました。私は、忍者が一定の信仰の方向性を見いだして、それを保持、または表明することは、傲慢という表現で退けられてはならないと思っています。キリシタン忍者は真理を目指します。真理は普遍で絶対です。しかし、人間の能力は限られているので、様々な理解に分かれてしまうのは致し方ないことです。様々な家(教団)が成立していることからも、それは明らかです。それでも、その真理を保持することを奥義書(聖書)は促しますから、自分の理解の範囲でこれが奥義書(聖書)的真理という線を引...傲慢だという指摘

  • 違うと言ってるじゃないの、ホッホ~

    講義所に入る前にしていた仕事で、出張旅行中の自由時間に、余興で中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」の替え歌を歌った人がいました。「ウナギじゃないのよドジョウは」というタイトルで、一行はかなり笑わせられたように記憶しています。その歌詞の中に、「違うと言ってるじゃないの、ホッホ~」という一節が有ったのです。私は「あれれ?な奥義書(聖書)引用」というカテゴリーを設定していますが、そこで取り上げたものが、比較的頻繁に目に着く時が有ります。最近も、「新しい皮袋」という表現が、新しい教会運営の方式に関連付けて用いられていて、表題のように、「違うと言ってるじゃないの、ホッホ~」というような気持ちになりました。イエス・キリストが言われた、新しいブドウ酒とは、イエス・キリストの神の御国の福音であり、新しい革袋は、その原則を反...違うと言ってるじゃないの、ホッホ~

  • 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実だから、何事にも几帳面に? ルカ伝十六章十節

    このような表現は、マタイ伝とルカ伝に出て来ます。『その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ伝二十五章二十一節、二十三節)『小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』(ルカ伝十六章十節)これらの奥義書の言葉を検索してみますと、このことを根拠にして、私たちの日常の生活態度が忠実で几帳面なものでなければならないかのような説明がされている記事が見つかることが有ります。実際に、私の母や、お世話になった単里の方から同様な勧めをされたことが有り、私も長い間そのような原則をこれらの言葉の示すもののように考えていました。私が講義所で学んでか...小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実だから、何事にも几帳面に?ルカ伝十六章十節

  • Pro-Life の思考

    米国での中絶についての判決にいろいろな反応が出ていますが、中には、pro-choiceの立場を推したいだけで、実際には判決に関係無いことまで持ち出してデモをしてたいする様子が見受けられます。そういうデモにおいては、元来中絶は、母体の健康を損ない、命の危険が有る場合に求められるものであったはずですが、単に新しい家族は要らないという理由からなされるものも、女性の権利だという主張になっているように見受けられます。Pro-Lifeを持ち出すと、忍界のような、特定の宗教の影響だと考える方もいますが、実際には無宗教の立場で運動されている方々もいます。そういう場合の思考も知られているべきではないかと思います。このような思考において土台となっているのは、生命倫理です。命は尊く、場合によっては、地球よりも重いなどと表現され...Pro-Lifeの思考

  • 政教分離原則の逆襲

    政教分離原則をどのようにとらえていらっしゃるでしょうか。日本の感覚では、特定の宗教が政治に関与してはいけないという原則として見る人が多いように思います。しかし、最初にこの原則が主張されるようになった西欧では、違った成り立ちでした。キリスト教が国教であったりした歴史の有る西欧では、為政者たちが、自分の都合と政治的な理由だけで、教会や信徒の意向を一切考慮せずに、監督や牧師を任命するということがよく有りました。それに反対する立場として、国や政治が監督や牧師の任命に関与するべきではないという主張が出て来ました。それが政教分離原則の成り立ちです。改家の教会史で取り扱う事例としては、1843年、スコットランド教会の大分裂が挙げられます。450人の牧師がスコットランド教会を辞したということです。論争は10年程続き、市民の生活...政教分離原則の逆襲

  • 蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい (マタイによる福音書 十章十六節)

    イエスが十二弟子を遣わされる前の訓話に出てくる表現です。実際にその意味するところは曖昧だと思われます。どういう理解が可能なのかを掘り下げてみたいと思います。先ず、この訓話は何に結び付けられているかを確認します。この箇所で、イエスは、弟子たちが迫害されて命を落とすことも視野に入れた表現で教えています。そのような厳しい状況において、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであることの、具体的な内容は何だろうかということを知らなければ、何となく文学的だ雰囲気の良い表現を聞いただけになってしまいます。蛇のイメージは、エデンでアダムとエバを騙したサタンに結び付きやすいものです。そこから、さとい、賢いというイメージも出て来ます。しかし、迫害に合った時に、どうすることが蛇のようにさといことなのかは、直接的には示されていない、判り辛...蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい(マタイによる福音書十章十六節)

  • 終末について

    ロシアのウクライナ侵攻に伴って、世界の終わりが近づいたのではないかと論じる人たちがいます。そのことについて、二三述べておきたいことが有ります。確かに、イエスは世の終わりの前兆に地震や戦争の噂を取り上げています。しかし、それは前兆であって、産婦の陣痛のようなものだということです。ですから、直ぐにでも世の終わりが来るかのような受け取り方は、イエスの意図を読み違えていると思います。次に、忍者であるにも関わらず、世の終わりが来ることを恐れる人がいます。忍者はイエスへの信仰によって神の国に入れていただく備えが整った者ですから、恐れるこことなく終末を迎えれば良いだけのことです。終末の様相を私たちが変えることはできません。また、それは神の壮大なる計画の一部ですから、甘んじて受け入れるしか有りません。たとえどのような艱難に合っ...終末について

  • ご理解いただけなかった絆

    且つて、私がお仕えする単里に、養護老人ホームから週日も含めて頻繁に来られるご婦人がいらっしゃいました。日曜日には二回の礼拝の両方に出席することも多く、帰りに私が自動車で施設までお送りすることが度々ありました。そのうち、だんだん足が弱ったりしてくるのがわかりました。里に来られるようになって10年目ぐらいになったころ、体力の低下が目立ってきて、私も何度か施設にお見舞いに行きました。お年のせいもあって、なかなか良くならず、違う施設に移りました。そこにも二度程お見舞いに行きましたが、呼吸が荒く、話が殆どできないようになっていました。妹さんがいろいろな調整や決定をしておられました。もう回復の望みは無く、臨終が近い時には、電話口で泣いておられました。告別式は、妹さんの関係する里の大忍が司式をされ、私には奥義書朗読を一つ割り...ご理解いただけなかった絆

  • 意義が異なる五千人の給食と四千人の給食

    講解と言うほどの内容ではないかもしれませんが、このカテゴリーでお願いいたします。五千人の給食は四つの福音書が記録していますが、四千人の給食はマタイとマルコだけが記録しています。どちらも似たような内容に思えますが、その意義は異なります。五千人の給食この奇跡は、イスラエル人の領地内でなされました。季節は春であったと思われます。その意義は、イエスがモーセと同様に食物を民に与えることのできる、神の預言者であり、約束のメシアであることを示すことでした。食物を増やす奇跡は、預言者エリヤとエリシャも行っており、たとえモーセ程ではないと判断されたとしても、ユダヤ人にとっては、イエスが同様に神の預言者であることの十分な証明となり得ることでした。列王記上十七章では、エリヤの預言により、飢饉の間もやもめの僅かな蓄えであったはずのかめ...意義が異なる五千人の給食と四千人の給食

  • エサウとヤコブについての思索

    最近、エサウとヤコブについて考える機会が有りました。エサウの子孫はエドム人となり、ヤコブの子孫はイスラエル人となりました。エドム人はイスラエル人にいつも敵対心を持っていて、意地悪や危害を加えるようなことばかりしていました。どちらもアブラハムの孫、子孫であるにも関わらず、正統なアブラハムの子孫を呪い、敵対していたエドム人は、「あなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪うものを呪う」と言われた神様の約束に従って、ついには絶滅してしまいました。しかも、皮肉なことに、それは、ローマ軍によるエルサレム神殿破壊の時と重なりました。彼らはこの時も、イスラエル人に危害を加えようとしてエルサレムに乗り込み、略奪や殺人の狼藉を働いたそうです。ローマ軍に加勢したことになりますから、ローマ軍には歓迎されても良さそうなものですが、少しも顧...エサウとヤコブについての思索

  • ヤベツの祈りに倣う (歴代誌前四章九節、十節)

    導入)西暦二千年出版の「ヤベツの祈り」という本は、これまでに一千万部以上売れたということです。一方、この本におけるヤベツの祈りの取り上げ方は、繁栄の神学に結び付けられているという批判も出ました。真面目に聖書的福音的信仰を目指す忍者として、この箇所はどのように理解できるのか見てみましょう。本論)歴代誌は、バビロン捕囚から帰還した人たちに、先祖に恵みを施された神に信頼するように奨励するために書かれたと考えられています。二章からは、ユダ族の人たちの系図が記録されています。四章からは、あまり注目されていない系図の本流から外れた人たちが記録されているように思われます。ところが、その中で、記者は突然ヤベツという人物を、父親の名前の紹介も無しに記録したばかりか、この人物の説明のためだけに2節も費やしています。それだけヤベツは...ヤベツの祈りに倣う(歴代誌前四章九節、十節)

  • 意訳ヤベツの祈りと適用

    以前、ヤベツの祈りに関しては、「繁栄の神学とは関係ない(ヤベツの祈りから)」、「ヤベツの祈りから考えたこと」というエントリーをさせていただきました。そこで確認したこと等に基づいて、ヤベツの祈りの意訳をし、適用を考えてみました。意訳ヤベツの祈りヤベツはイスラエルと祝福の契約を交わされた真の神にのみ信頼して祈って言った。「神よ、あなたが約束された祝福がことごとく私に成就しますように。今住んでいる土地だけではなく、私と、私の属するユダ族に割り当てられた約束の土地を、全て獲得することができるようにしてください。出エジプトの時に、イスラエルの民を導き守られた力強い御手を、私に添えてください。あらゆる種類のわざわいから私を守って、私が肉体的にも精神的にも苦しむことがなく、あなたへの信仰が妨げられることのないようにしてくださ...意訳ヤベツの祈りと適用

  • イエスは彼らをベタニヤまで連れて行き(ルカ伝二十四章五十節)

    それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。ルカはイエスの昇天の記述の直前にこのように記しています。ルカの記述に従えば、イエスはベタニヤから昇天されたと考えられます。このような大事な出来事のために、どうしてイエスはベタニヤを選ばれたのでしょうか。ベタニヤが、復活を象徴する大事な町であったからだと考えられます。ベタニヤでは、復活に関わる出来事が二回記録さいれています。一つ目は、ラザロの復活です。イエスは、神の栄光が表されるために、知らせが届いても、病に倒れたラザロが完全に死ぬまでベタニヤを訪れませんでした。死んで四日になるまで待たれたのは、ユダヤ人の理解では、死後四日経てば、生き返る望みは無いと考えたからです。ベタニヤに着くと、イエスは姉のマルタと言葉を交わし、イエスを信じる者は死んで...イエスは彼らをベタニヤまで連れて行き(ルカ伝二十四章五十節)

  • セカンド・チャンスの根拠にはならない(ペテロ前書三章) 補足

    該当の奥義書の記述が、セカンド・チャンスの根拠にはならないことを、文脈と時制の視点から補足説明してみます。意味のまとまりは下記のように十八節~二十二節と考えられます。引用は、新改訳聖書です。18キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。19その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。20昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟で、水を通って救われたのです。21そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れ...セカンド・チャンスの根拠にはならない(ペテロ前書三章)補足

  • 永遠と復活(幻冬舎刊)の忍者的問題

    知り合いの忍者が参考にということで、永遠と復活(大川従道著幻冬舎刊)という本を貸してくれました。読んでみて、忍者、もしくは大忍として、二点問題と思う部分が有るので述べておこうと思います。第一に、忍界においては、すべての里で、「自死した人間は地獄に行く」という考えがなされているかのような書き方が良くないと思いました。私の属する改家におきましては、死後人が天国に行くか地獄に行くかは神の選びの問題であると考えますので、そのような判断はしておりません。ですから、どの家でも、どの里でもそのような考え方なのだという印象を忍者でない方々に与える記述は不正確で、迷惑であると思いました。なお、自死に関する私の立場についても保管してありますので、よろしければ御覧いただきたいと思います。第二に、信仰を持たないで死んだ人が、死後にイエ...永遠と復活(幻冬舎刊)の忍者的問題

  • 「信じる」という動詞の意味するところを考える

    ヨハネによる福音書四章には、信じる・信じたという語が七回出てきます。信じるという言葉の意味合いは、案外誤解されている部分が有ると思います。私は、盲信であったり、主体性なく何かに流されたり影響されたりしているイメージで捉えている方が多いという印象を持っています。新約聖書で「信じる」と訳されている語は、信頼に値するという意味も含んでいますので、何等かの確証を伴っていることが解ります。それは、現代人の信頼する科学的証明というものに限定されません。言い換えれば、科学的に証明されなくても、個人が信頼に値すると判断する材料をもって、伝えられた事柄が真実であると考えることを選択するという主体的な心の動作です。今回取り上げるヨハネによる福音書四章の例を幾つか取り上げて確認してみたいと思います。二十一節で、イエスはサマリアの女に...「信じる」という動詞の意味するところを考える

  • ありのままで受け入れられることの意味

    忍者の中には、「私たちはありのままで神に受け入れられている。」という理由で、自分の日々の振る舞いへの批判や指導を拒絶する者が出て来て問題になることが有ります。このような忍者は、「ありのままで受け入れらえる」ということの意味や範囲を誤解しているか、悪い場合は、自己弁護のために利用しているかのいずれかになるのではないかと思います。ありのままで受け入れられるというのは、どういうことを指しているのでしょうか。それは、人間には神に受け入れられる資質も能力も皆無であるからこそ、ありのままで神の前に出るしか方法が無いということです。人間は無力で、神に対して何の貢献もできない存在です。ヤコブのような神に選ばれた契約の人物であっても、奥義書(聖書)では「虫けらのヤコブ」と呼びかけられています。(イザヤ書四十二章十四節参照)私たち...ありのままで受け入れられることの意味

  • サマリアの女はふしだらだった?(ヨハネ四章十八節)

    まとまった段落を扱ったものではなく、特定の人物のキャラクター・スタディにあたりますが、このカテゴリーでお願いします。該当の箇所で、サマリアの女には過去に五人の夫を持ったことが有り、且つ、現在同居している男性は夫ではないというイエスの指摘が出てきます。このことをもって、サマリアの女をふしだらで身持ちが悪いような印象で語る人がいますが、果たしてそういう理解で良いのでしょうか。当時の風習では、女性の方から離婚を申し出ることはほとんどできませんでした。何かが気に入らないと理由をつければ、夫の方から簡単に離婚を言い渡すことができた時代です。十四歳ぐらいから結婚適齢期と考えられていましたから、私たちが結婚適齢期と考える二十四歳までに限定しても、複数回の離婚歴が有ってもおかしくなかったのです。それでも、五人の男性が妻にしたの...サマリアの女はふしだらだった?(ヨハネ四章十八節)

  • 大忍・中忍(牧師)を先生と呼んではいけないのか (マタイ二十三章八節)

    マタイ二十三章八節を根拠にして、大忍・中忍(牧師)は先生と呼ばれてはならないと主張する人たちがいますが、果たしてそういう理解になる聖書箇所なのでしょうか。このことを、聖書箇所の文脈、ギリシャ語辞書による定義、新約聖書全体から判る理解を通して確認してみたいと思います。聖書箇所の文脈この箇所は、イエスが律法学者やパリサイ人たちの有様を非難し、弟子たちがそのような有様に倣わないようにという戒めを与えている箇所です。すると、これは、七節に示されているように、彼らが「先生」と呼ばれることを好み、自尊心を満足させようとする態度を問題にしていることになります。それは、この部分のまとめである十一節、十二節からも判ります。先生と呼ばれることで、自分を偉い者のように考えて振る舞い、高慢な態度を示すことが戒められていることになります...大忍・中忍(牧師)を先生と呼んではいけないのか(マタイ二十三章八節)

  • 「聖戦をふれよ」それは神の民の戦いなのか?(ヨエル書三章九節~十二節)

    この奥義書の表現を引用して書かれたワーシップソングが英語にも日本語にも見いだされます。しかし、これは私たち忍者への語りかけとして書かれた言葉なのでしょうか。聖戦をふれよ、という表現が有るために、神の民が戦いに出て行くように招集され、激励されているかのように誤解してしまいますが、少し注意を払って文脈を確認すれば、そうではないことがわかります。順を追って見てみましょう。先ず、一節から八節までの内容を確認します。ここでは、ユダの人々にした悪行の故に、神が諸国の民を裁く、罰するという宣言が理由と共に述べられています。ヨシャパテの谷というのは、実際には存在せず、ヨシャパテという語の「神は裁く」という意味に注目するべきところです。神が諸国の民を裁くという前提を確認した後で、該当の箇所を見ますと、九節に「諸国の民の間で、こう...「聖戦をふれよ」それは神の民の戦いなのか?(ヨエル書三章九節~十二節)

  • 恵と平安が有るように

    奥義書には様々な箇所で、恵と平安を祈る言葉が出て来ます。書簡の始まりの挨拶にも多用されています。この恵と平安に、皆さんはどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。私は、その原型と言えるものが有るのではないかと思うようになったのです。哀歌五章二十一節には、次のような言葉が記されています。「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。」(新改訳聖書)私たちの魂が、心から帰りたいと思うのは、神のみもとでありましょう。それは、有体に言えば天国だと思います。しかし、ここで記者が求めているのは、正しい神との関係に戻り、神とわだかまりなく交流、礼拝し、神の恵をいただく生活に戻りたいということです。「昔のように」という言葉が指すのはいつの頃のことでしょうか。...恵と平安が有るように

  • ギデオンの祈りよりヨナタンの祈りを

    ギデオンは、ミデヤン人との闘いに出かける前に、神に印を求めて祈りました。(士師記六章三十六節~四十節)奥義書に出てくる実践であり、神がお答えくださっているので、模範的な祈りのように考えて、同じように印を求めて祈る忍者の話をよく耳にします。しかし、ギデオンの祈りは好ましい祈りでは有りません。なぜならば、神は既に御心を明確に示しておられ、それが御心であることに疑いの余地は無かったからです。彼が印を求めて祈ったのは、不信仰の故でした。しかも、一度ならず二度もそうしたのです。また、求めた印は、単に奇跡的なだけであって、ギデオンが取り組まなければならないことに何ら関わりの無い事柄でした。神が答えてくださったのは、ご計画を遂行するためであり、ギデオンに対する憐みの故であったと考えられます。ヨナタンは、ペリシテ人との闘いにで...ギデオンの祈りよりヨナタンの祈りを

  • 主の日を早めるとは?(2ペテロ三章十二節)

    踏み込んだ聖書講解ではありませんが、このカテゴリーでお願いします。「主の日を早めなければなりません」という表現が出てきます。そこで、どうすれば主の日を早めることができるのかという疑問がわくのではないかと思います。十一節の表現を見ると、聖く、敬虔な生き方をすることがその方法であるようにも思えます。しかし、イエスは使徒行伝一章で、神の国が実現する日、すなわち主の日は、「父がご自身の権威をもってお定めになっています。(英語では完了形が使われます)」と仰ったのです。父なる神がお定めになったというなら、人間の努力で早くすることができる性質のことではありません。そうすると、主の日を早めるということの意味を、別の面に見出ださなければならないことになります。ヒントになるのは、同じ十二節にある、「待ち望み」という表現であると考え...主の日を早めるとは?(2ペテロ三章十二節)

  • セカンド・チャンスの根拠にはならない

    1ペテロの手紙には、死んだ人に福音を聞く機会が有る、所謂セカンド・チャンスを示すのではないかと考えられる箇所が有ります。しかし、他の聖書箇所にはそれを補強する材料は見当たりません。ペテロはパウロに比べると、論述の手順が整理されていなくてわかりにくい場合が有りますが、きちんと背景、文脈、時制、目的語等を詳細に確認するとセカンド・チャンスの根拠に成り得ないことがわかります。順番に確認をしてみましょう。一つ目は三章十九節、二十節です。『その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。(新改訳)』先ず、時制に注目してみます。「行った、宣べられた」の部分は過去時制です。過去に限定され...セカンド・チャンスの根拠にはならない

  • 適用は聖霊の導きと忍者本人の責任による

    大忍の奥義書講解(説教)において、その適用が聞く忍者の世代や生活感覚から乖離しているから、大忍にもそれなりの社会生活の経験を積んで欲しいというような要望を聞くことが有ります。大忍が高齢化のために、感覚がずれている場合も有るという指摘も聞こえます。確かに、大忍に任じられる者は見識が広いに越したことは有りません。しかし、社会全般に渡ってもれなく見識を持つことは不可能ですし、世代による認識の違いは確実に有ります。また、分類すれば16以上有るとされる性格プロフィールの中には相性の悪い組み合わせも有り、大忍と忍者の組み合わせがそれに当てはまっていたりすると、奥義書講解も把握しずらいということも出てきます。そこからよく考えると、大忍の示す適用が忍者達に合うようにするというのは、中心的な要素ではないと思われます。奥義書から神...適用は聖霊の導きと忍者本人の責任による

  • 心・霊の目を開いてください

    「心の目を今開いてください」というような歌詞のワーシップ・ソングが有ります。この願いと祈りは、私たちが常日頃ささげているものでなければなりません。奥義書の詩編百十九編十八節には「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」という告白が有ります。また、エペソ書一章十八、十九節には、使徒パウロはの祈りとして、「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」という言葉が記されています。これらの告白、願い、祈りのように...心・霊の目を開いてください

  • 映画を上映しない映画館は

    「彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。」詩編八十四編四節(新改訳三版)この箇所を読んだ時の瞑想です。同時に、コリント書の記述が思い出されました。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。コリント前書六章十九、二十節(新改訳三版)神殿もしくは宮は、祭儀や礼拝が行われる場所です。律法においては毎日の礼拝が規定されていました。神殿で礼拝が行われていなければ、そこに存在する意味が有りません。そう思った時、映画館なのに、映画が上映されなかったら、その映画館は存在する意味が無いという考えが思い浮かびました。自分自身...映画を上映しない映画館は

  • 忍者の用語は世間とニュアンスが異なる部分

    先日の礼拝でも説明させていただいたのですが、忍者の用語は世間のニュアンスとことなっていて、誤解が生じる、もしくは印象が違いすぎると思う点があります。時には忍者までもそのニュアンスの違いをきちんと把握してないように見受けられることがあります。先ず、多くの指摘がなされてきたものではありますが、代表的なのは「罪」とか「罪人(びと)」であろうかと思います。罪は倫理的に悪いことという印象が有り、里の子供の教室でもそういう言い方をしてしまう部分が有りますが、それは実際とは異なっています。忍者の言う罪というのは、神から断絶していることであります。神から断絶している、関係が無いということがその本質ですから、倫理的、道徳的に悪いか否かは関係ありません。「信仰によらないものはすべて罪である。」(ローマ14:23)と奥義書は述べてい...忍者の用語は世間とニュアンスが異なる部分

  • バテ・シェバ考

    ダビデ王の妻、ソロモン王の母であるバテ・シェバの印象は、人によってかなり違うものになっています。ある人にとっては良家のお嬢さん育ちで、弱々しく情勢に翻弄される女性という印象になります。またある人にとっては、良家の出ではありますが、少し世間知らずで頭が足りない印象になったりします。一方で、三浦綾子女史などは、比較的計算ずくな人ではなかったかと疑っている様子が有ったりします。私のこれまでの印象は、どちらかと言いますと、ちょっと世間知らずで頭が足りないという立場に寄ったものでした。そして、列王記上二章に出てくるエピソードもそういう背景で理解していました。そのエピソードというのは、ソロモン王が王位に就いた後、兄のアドニヤが義母であるバテ・シェバの所に来て、シュネム人のアビシャグを妻にしてもらいたいという願いをソロモン王...バテ・シェバ考

  • シェーヴィングで失敗

    カテゴリーがおかしいと思われるかもしれませんが、奉樂に関わった事件?でしたので、こちらでお願いしたいと思います。楽器の割り当てが有った日曜日の朝、さあ、里に行くぞと思いながらヒゲを剃っていました。当時割合気に入っていた二枚刃のものを使っていました。何も考えずに鼻の下のヒゲを剃っていまいたら、勢い余って上唇の突き出ている部分にザクッと刃が入ってしまいました。想像以上に深く入ってしまったので、止血に大変時間がかかりました。里には出かけましたが、奉樂のご奉仕にはとうてい間に合わず、担当の中忍に電話をして失礼させていただきました。唇のへりは微妙に盛り上がっていたり、角張っていたり突き出ていたりする場合があるように思います。少し慎重に、ゆっくり気を付けながら剃るのが良いのでしょうね。日常でもそうですが、忍者としては、里で...シェーヴィングで失敗

  • 私の失敗談

    数年前にした私の失敗を思い出しましたので、書いておこうと思います。聖餐式の有る日曜日でした。パンの分餐、ブドウジュースの分餐と進み、講壇に戻った時に、何かおかしいと感じたのです。そして、しまった!と思いました。私の後頭部には、サングラスが収まっていたのです。その日は、日差しが強かったので、里に出かける時にサングラスをかけて行きました。里の建物に着いたのですが、清掃等での出入りが予想されましたので、サングラスをしまわないで、グラスが後ろ向きになるようにして耳にかけました。しかし、その感触があまりに自然といいますか、負担が無かったものですから、そうやってサングラスを後ろ向きにつけていることをすっかり忘れてしまったのでした。パンやブドウジュースの分餐をして献卓に戻る度に、里の会衆は私の後頭部にくっついているサングラス...私の失敗談

  • 正教師学科

    私、糸田十八は、一応大忍として働いてはおりますが、現在の里の規定ではまだ中忍のような立場でありまして、何とは申しませんが、四つの学科の学習を修了しなければ正式には大忍となりません。二科目は修了しているのですが、三科目目が手強く、課題量も多くて苦労しております。中里の書記からは一月中にその科目を終わらせるようにという努力目標を与えられましたが、七割ほどまでしか進みませんでした。ということで、二月一日の本日これをご報告している次第であります。なんとか二週間程の内に課題を済ませて、こちらの講義所の師匠に提出し、四科目目の指示をいただきたいものだと思っております。お読みくださった仲間の皆様がお祈りしてくださいますれば幸いであります。にほんブログ村にほんブログ村↑応援の意味でクリックしていただければ幸いです。正教師学科

  • 説教という捧げもの

    礼拝における説教については、以前も触れたことが有ると思いますが、再度書いておこうと思います。説教は、牧師が教えて礼拝者が学ぶような感覚でとらえられることが有ると思います。勿論、そういう要素が全く無いわけではありませんが、私たちにはいつも心掛けておくべきもう一つの面を覚えておかなければならないと思います。それは、表題にも示しましたように、説教の時間に行われていることは、神への捧げものであるということです。礼拝に出席している忍者たちは、その時間と場所を礼拝所に限定し、聖別して神の前にいます。そこに身を置く間は他のことはできません。それで、そのこと自体が捧げものであるという部分が有ります。そして、説教の時には、そこに「傾注して聞く」という態度の捧げものが加わるのです。旧約聖書でも「聞け」という命令が度々記録されていま...説教という捧げもの

  • 説教者とストロー

    私が説教のご奉仕の機会をいただくと、時々礼拝後に「素晴らしい説教でした。」と言いに来られる忍者がいます。私はそういう時には心掛けて、「ありがとうございます。でも、素晴らしいのはみ言葉です。」ということをお伝えしています。その聖書の意味が説き明かされて、傾聴するという捧げものをした忍者が、聖霊の働きによって何等かの恵みを感じた、開かれたことが有ったという事実が大事なのであって、取り次いだ説教者はその勤めを全うしたにすぎません。司会者や説教者が説教の直前の祈りで、「通り良き管としてお用いください。」という表現をすることが有ります。そういう歌詞が含まれる讃美歌等も有ります。説教者も礼拝に出席する忍者も、説教者はその管であるという認識が必要であると思います。皆さんいかがでしょうか。例えば、1992年に四国で食べたカツオ...説教者とストロー

  • 昔から聞いたこともない (ヨハネによる福音書九章三十二節)

    特にまとまった講解ということではないのですが、この箇所を理解する背景として明確にしておくと良いことだと思いましたので、このカテゴリーでお願いしたいと思います。ヨハネによる福音書九章は、生まれつき盲目だった人についての話が記録されています。この人がそういう状態で生まれたのは、神の栄光を現すためであるとイエス・キリストは明言されました。そして、この人の目がイエス・キリストの神としての権威によって癒され、正に神の栄光を現すためにこの人は用いられたということになります。イエスがこの人を癒したのが安息日であるということで、敵対するパリサイ人たちはイエスに難癖をつけるばかりでなく、この人の両親を尋問したり、この人を再三尋問したりということをしました。それだけ、この状況は強烈な部分が有ったと言えます。それは、メシア預言とみな...昔から聞いたこともない(ヨハネによる福音書九章三十二節)

  • 良心なのに邪悪? (へブル書十章二十二節)

    私、糸田十八の父親は現在は隠居しておりますが、大忍でありました。過去の説教の動画を見ましたら、この箇所についての言及が私には考えたことがない内容でした。そこから思ったことなどを書き留めておきたいと思います。父が言うには、ここで「邪悪な良心」という表現に行き当たった時、印刷の間違いではないかと感じて何度か読み返したということでした。「良心」なわけですから、良いものに決まっていると思うのに、そこに「邪悪な」という悪い様子を表す言葉が着いていることに違和感を持ったということでした。人間は皆アダムとエバの堕落を継承しています。故に、原罪を持つ身となりました。改家は人間は完全に神の基準を離れて堕落したとことを奥義書から読み取るものです。すると、良心と言えど、神と断絶し、信仰と神の霊に導かれていないならば、「良い」という評...良心なのに邪悪?(へブル書十章二十二節)

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