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救済先行 信仰後続 https://user2018.hatenablog.com/

神は、世界の基が据えられる前から(中略)みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:4~5)

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2019/04/28

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  • 救いは観念ではなくはたらき

    Ⅰ.ことばを超える力、観念を超える救済。 「神の国は、ことばではなく力にあるのです。」(新改訳 コリント一4:20) 直訳すれば、「神の国はことばのうちにではなく、むしろ力のうちに」であり、「ある」という意味の語は省略されています(~川端由喜男訳の『日本語対訳ギリシア語新約聖書 6 ローマ人への手紙・コリント人への手紙』〔教文館〕)。 「神の国=神の支配」とは「神のはたらき」であって、「聖定」も「予定」もそこに含まれます。問題は、その「神のはたらき」が、「神のはたらき」という観念ではなく現実として体験されるか否かです。それが「救い」になります。「神の国」が「ことばのうち」ではなく「力のうち」に…

  • 幸福志向と救済志向

    「禍福は糾える縄の如し」と云いますが、現実世界は相対世界でいろんな二項対立があるとは言え、人は「不幸」の無い「幸福」だけの人生を望みます。苦難の経験にも成長的意義があるなどと言える者は余裕があるのです。 いかに、聖書の宗教はいわゆる御利益宗教といわれる日本の新興宗教の如き低俗なものではないなどと言っても、たしかに「福」を信心の目的とはしないとは言え「禍」が続くと神への不信感が生じることはあります。 たとえ聖書が示す神の対世関係は、直接的摂理ではなく、自然法則を用いた間接摂理であり、理神論的観方にも一理あるとするにせよ、また、希望という事はそもそも絶望的状況あってのことだから、個人的にも終末(論…

  • 聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?

    コロナ禍の時代に在ってこそ聖書が示す「神」の「愛」と「怒り」の二重性が理解できるし、キリストとの内在論的区別もある程度はわかるという皮肉な事情があります。すなわち、コロナ禍において「神」は救う愛の神であると同時に怒りの神でもあることがあらためて認識されるのです。もちろん死者はたくさん出ていますが犠牲者であり、来世で救われるのかも知れません。コロナ禍も震災などと同様に、「個」のレベルではなく「種・類」のレベルでの神の懲らしめであると言えます。 宗教改革者マルティン・ルターは、「神に逆らって神へと逃れる」と言ったそうです(~北森嘉蔵著『聖書百話』)。ただ、ルターが自分も経験した疫病に対して神学的に…

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