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救済先行 信仰後続 https://user2018.hatenablog.com/

神は、世界の基が据えられる前から(中略)みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:4~5)

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2019/04/28

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  • 絶対主・聖霊エホバ

    「神は靈なれば、拜する者も靈と眞とをもて拜すべきなり」(ヨハネ4:24) 肝要なるは、現実に自分自身が置かれている「(対)神関係」の自覚である。人間に内在するといわれる「神」は、「神」御自身というより「父の霊」(マタイ10:20)と解することもできる。前述のとおり「父(なる神)」と「父の霊」とは「不可分」ですが「不可同・不可逆」なのだ。「神は霊なり」(ヨハネ4:24)という言葉は、神を物体などのように対象化する(=偶像化する)ことの誤りを戒める主旨であり、「神」本体とその「霊」とを混同して示しているのではない。それを単純に直解すると対象性そのものを否定する言葉とみなされてしまう。 旧約聖書では…

  • 聖霊他力による救い ~「絶対」と「他者」とを分かつ高柳氏と小田垣氏~

    宗教に関して、学者はとかく個人主義的傾向をまるで劣等コンプレックスのように嫌って、社会主義的であるべきだ、本来は共同体主義的であるのだ…といった趣旨のことを言いたがります。「こころの時代」の「無宗教からの扉(6)慈悲の実践」(2022年)における阿満氏の解説にもそのような傾向が感じられました。高木顕明師の思想は宗教社会主義というか念仏社会主義といったものであったにせよ、それが真宗ないしは宗教の唯一の見方とか生き方というわけではないはずです。同じ浄土真宗においても、結果的には本願寺派(西本願寺)のスローガンでもある「御同朋の社会をめざす運動」の推進ということにはなるにせよ、そこに至る過程が、道が…

  • 聖書的精神療法・・・対人関係だけを前提とする「認知・行動療法」を媒介して、対人関係だけではなく対神関係を第一の前提とする「聖霊感知・行動療法」へ

    「認知・行動療法」ならぬ「聖霊感知・行動療法」について書きます。結論から言えば、当然のことながら対人関係だけを前提とする「認知・行動療法」によっては人間の精神的な問題は根本的な解決を得られないし、患者の究極的救済は望み得ないということです。それはいわゆる「精神療法」全体に対して言えることであり、ケースバイケースにおいて、せいぜい局所的救済にとどまるということです。とは言え、無論、「認知・行動療法」というものを全否定するものではなく、むしろ受害体験の省察…それこそ認知の点では大いに参考になり、宗教的観点から研究し霊的療法を現実的・実践的に確立するうえではその媒体として有益だと思います。しかし重要…

  • 聖霊のはたらきとメンタルヘルス セロトニン分泌促進、信仰的認知行動療法

    「私は知った。神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。」(共同訳 コヘレト3:14) 「神の前に言葉を注ぎ出そうと焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。言葉を控えよ。」(同上 5:1) 「見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。」(同上 5:17) 「人は人生の日々をあまり思い返す必要はない。神がその心に喜びをもって応えてくれる。」(同上 …

  • 矢内原氏の「キリスト教入門」批判

    自分は日本のキリスト教指導者の中でも思弁の巧みさという点では北森嘉蔵氏と並んで矢内原忠雄氏の著述にも関心を持ってきました。従って批判対象としての価値もその分高いと思います。ここでは矢内原氏の『キリスト教入門』を批判してみたいと思います。 矢内原忠雄 キリスト教入門 (aozora.gr.jp) 「新たにキリストを学ぼうとする人々は、導かれるままに教会に行ってもよいが、しかしまた教会で洗礼を受けなくてもキリストを信ずる道のあることを、知っておくことが有益であろう。それによって教会の不当な束縛から解放される人々も少なくないであろう。」という点は「無教会」の良いところだが、自分は基本的にカルヴィニズ…

  • メンタルヘルスと神観…コヘレトの神…非人格神、「創造的空」の自己限定…自己対象化、聖定信仰の捉え直し、認知行動療法的宗教論

    神信仰はメンタルヘルスにおいて自己治療(self healing)になる(一般的な「信仰治療」…特にオカルティックな療法などとは無関係。信仰治療 ― どのような効き目がありますか — ものみの塔 オンライン・ライブラリー (jw.org) )。それが最も現実的な神信仰の実効性である。心理療法でも認知行動療法(CBT)などある程度は自分でやれるようだし、とにかく脳内のセロトニン分泌を増やすことが肝要。日光を浴びての朝散歩励行。 「セロトニンの分泌には日光を浴びることが欠かせません。運動に関しては一定のリズムで行う運動がセロトニンの分泌を高めてくれます。リラックスして朝、太陽の光に当たりながら毎日…

  • 創造的空(超「意味ー無意味」)と世界の現実(戦争と平和)と「倫理と理論と直観」

    世界宗教について、一般的には一神教は好戦的であり多神教は平和的であるかの如く云われますね。私はそこに多くの誤解や誤謬が混じっていると思っているのですが、それはともかく。ところで、チャンネル桜の【討論】戦後日本と宗教[桜R5/12/20]の中で、乙骨正生氏が言われた宗教の多元主義的なあり方というのは、世界史の現実が自分で言っておられるとおり、「世界宗教者平和会議」(WCRP)のバチカンにおける祈りとか決め事とは違う結果になっているとおりで、「神」の御意は成るべくして成るわけで、人間が自発的に何を言い、何を行おうとも、それが神の定めに一致していな限り実現しないのです。いくらその場で乙骨氏が感動した…

  • 救われた者としての余裕によるアガペー実践

    人は倫理的にどうであって、そこからどうならねばならないか…といった話は、仏教僧侶の説法であれ、キリスト教司祭 , 牧師の説教であれ、大要は全部聴かずともわかりきっているものです。問題となることはそれをいかにしてなし得るのか…?という方法です。宗教は理論・教説に傾いて、実践の方が弱いのです。曖昧であり、ケースバイケースの面があるにせよ具体性を欠くのです。だから説法者や説教者は実際的な質問を嫌がるのです。人が自己中心的な状態から他者と協調してゆく状態へと変わることが大切だとか、世間的な量的価値観から実存的な質的価値観へと変わることが大切だとか、そういった趣旨の話は、宗教関係者は特に、もうさんざん耳…

  • 救済福音として要請される、「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」である「絶対的な霊的実体」としての神

    ">遠藤周作氏がエッセイ『私にとって神とは』で述べているような「神」は、私見では「自我の中に吸収され解消される神」です。遠藤氏にとって「神」は人格でもなければ実体でもなく、存在とも言えないような「はたらき」であるとのことですが八木誠一氏が指摘しておられるように単に「はたらき」と言っても現実にはその「主(ぬし)」があって三分節されるわけです。< 神ご自身とは、「神のはたらき」(作用的一)の主(ぬし)のことである。「はたらき」にはその「主」がある、とわれわれは考える。それはこういうことである。言表は必ず主語と述語とから成っていて、主語だけ、述語だけでは文にならない。だから、われわれは作用を述べると…

  • 救拯学入門 ―救い(生前、死後)、「聖定」信仰、 信仰共同体主義(脱個人主義)、神の自己限定(啓示)、人の自己限定(聖書のみ、啓示内神認識)

    (※ 以下は、noteとmimemoに投稿している「救拯学入門」とは内容が異なります!) 「救拯学」という言葉は聞きなれませんが、下リンクの、アメルマン著, 井深梶之助訳『救拯学』(出版:明治学院)を垣間見ますと、これは「~学」と言うより「~論」と称するべきものであり、キリスト教(の新教の)神学における「救拯論(=救済論)」にほかなりません。救拯学 - 国立国会図書館デジタルコレクション 私はそのような意味での「救拯論(=救済論)」ではなく、さりとて宗教全般に共通する「救拯論(=救済論)」といったことでもなく、以下、キリスト教(の新教)の福音主義という特殊性に徹することを通して宗教的普遍性へと…

  • 「従属的三一神信仰」の再発見 ―「キリスト中心主義」を乗り越えて―

    ">「キリスト教」という名称からして、すでに従属的関係を表しています。「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味です。すなわち、「イエス・キリスト」とは、イエスは油を注がれた者であるということです。「聖書にはイエスキリストは福音を広め、罪に囚われた人々を解放するために、神によって聖霊をもって油注がれた者であると書いてあります(ルカ4:18-19; 使徒10:38)。」油を注ぐとはどういう事?油注がれた者とは? (gotquestions.org)「キリスト教」とは、イエスという人物が「キリスト」すなわち「油を注がれた者」であるという信仰を告白する宗教です。そして、イエスに「油を注いだ者」は「…

  • 聖定論的人生観 ―― 「絶対」と「絶体(絶命)」…拝一神教では神にも不可能が存在している(~深津容伸氏)、絶対性は普遍性を含意する(~八木誠一氏)。メンタル問題から終末、聖書と死後生(来世)――

    「古代イスラエルでは、拝一神教(神々の中で、一つの神のみを自分の神とする)であったので、存在自体も、力においても、超越性は高いものであったが、それは相対的なものであって、絶対的なものではなかったと考えられる。つまり、神にも不可能が存在していることは、人々も知っていたのである。むしろ、彼らにとって、神は人間に常に目を注ぎ、関わり続け、人の喜び、悲しみを自らのものとして受けとめ、ともに歩む存在なのである。」(~深津容伸氏の論文「全能の神」)ja (jst.go.jp) 上記の内容には異論がある。拝一神教だから神の全能性や絶対性を否定することにはならないからだ。要は、真に絶対なる神においては全能性は…

  • 「言」(ダーバール)よりも「出来事」(ダーバール)を求める。与えたまへ 救いたまへ (テナー ウゼカー ヴェホーシーアー)

    その「主のみわざ」(The works of the LORD)は、アッシリア帝国に対するユダ王国の…すなはち総合力がず~っと上の相手に対する奇跡的な勝利‼その点では、👑#森保ジャパン 👑#SAMURAIBLUE ⚽️🇯🇵🏃‍♂️🏃‍♂️🥇🏆のW杯でのブラジルとスペインに対する勝利と一致してます😆✌️🙆🙋😸🐰🐻🐶そしてさらに…勝つ‼ https://t.co/cIgr9EdQYH — 福音SAMURAI (@kourakudou) 2023年2月9日 主よ、大きなみわざを、見せとくれやす‼⚽️🇯🇵🏃‍♂️サッカー日本代表をドン底から引き上げ、死の組と云われたグループを1位で突破させた奇跡的な力…

  • 聖書の体験的読み、現在的救済、他力信仰

    聖書の体験的読み、現在的救済、他力信仰

  • 聖書の「神の国第一希求」なしにはメンタルヘルスも何も無い!

    やれ、メンタルヘルスや、レジリエンスや、セロトニン神経活性化や、などいろいろ言うても、わてらクリスチャン(基督者)は何よりもまずキリストの神の国を求める輩だす! そのことをよう頭に入れたうえでこのブログ読んでもらわんと、大きな誤解を招きます。 ほな、あんじょうよろしゅう、おたの申します。しおし!しおし!(以下、twitterより引用) 誰もが求めている「幸せ」。 その実現のために誰もが抱えている「悩み」。 その解決のために誰にも伝えられる「福音」。 その中心はキリストによる罪の贖い。 「まず神の国と神の義を求めよ」 (マタイ6:33/ルカ12:31参照) 神の国(=神の支配)における霊魂救済な…

  • 聖定信仰と諦観

    五木寛之氏は、「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると述べておられます(~『人間の覚悟』新潮社)。 まさに、キリスト教の聖定信仰も、自分の人生を「明らかに究める」こと、諦観として実践されると言ってもよいと思います。 その点で、下に引用する説教では、この点が「あきらめる」という言葉を消極的意味でしか理解できないことが現われています。 日本の、神学者を兼務した牧師には、ドイツ語ができても日本語があまりできない人が珍しくないのです。 < 運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対…

  • 聖書の実践的解釈(1) 捨てても失われない自分

    結論から先に言います。主イエスは、自分を捨てて自分の十字架を負って自分に従えと言いました。自分を捨ててるのに自分の十字架を負うことはできません。自分の十字架を負う者は自分以外にはあり得ないからです。 自分を捨てるというのは、自分自身すべてを捨てるという意味ではもちろんありません。あくまでも過剰な自尊心とか承認欲求なんかに囚われている自分を捨てろ…ということです。そうでないと人はへり下れないからです。へり下らなければ、人と人との間に「シャーローム」…すなわち真の平和・キリストの平和を実現することはできません。平和の関係がないところでは心の平安などありません。心の平安なくして魂の安らぎもないのです…

  • 聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察④

    ここで扱うテーマは自分にとってメンタルヘルスにおける主要な問題であり、キモとも言えるところです。すなわち自他の優劣比較という問題です。 紫苑先生は、レオン・フェスティンガーという一般には知られていないアメリカの心理学者の言葉「人間は他人と比較してしまう生き物である。」を引用しています。 自分などは、そんな言葉を引用するまでもなく、人間が他人との比較なしに生き得ないことは他でもなく自分自身および周囲の人間を見ていれば明らかすぎることです。実際、へたな心理学者の話なんかより、自分自身と周囲の人間を観察してるほうが、よっぽど生きた現実の人間の心もようを知ることができると思います。 ではなぜ、人はそれ…

  • 聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察➂

    朝散歩の効果については、紫苑先生は動画でもよく言っておられます。 <私は25年間以上、精神科医として、メンタル疾患が治りやすい人と治りにくい人の特徴を観察してきました。メンタル疾患が治りにくい人の特徴は、「昼まで寝ている」ことです。>(p36) 特に疾患がなくてもメンタルが弱い人は早起きが苦手だと感じます。かつての自分もそうでした。現実逃避願望があるとなおさらフトンの中が居心地よいのです。 <実際に「昼まで寝ている」という患者さんが、「朝散歩」をはじめた途端に、症状が急激に改善する事例を多数観察し>云々。 その「朝散歩」の効能は…?と言うと、「(1)セロトニンの活性化」、「(2)体内時計のリセ…

  • 聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察➁

    「悩み」については、聖書においてイエスご自身も人として悩んでおられます。 「そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、」(マルコ14:33 新改訳2017) 「そこで彼は、ペトロとヤコブとヨハネとを自分と共に連れて行く。するとイエスは、ひどく肝をつぶして、悩み始めた。」(同上 岩波版 佐藤研訳) ここで「悩み」と訳されている動詞は「アデーモネオー」で「苦悩」だけではなく「不安」や「当惑」も表わします。従って対訳(川端由喜男訳)では、「悩み始めた」ではなく「不安になり始めた」となっています。 さて、紫苑説では、「悩み」とは「ある問題について、苦しみ、思い…

  • 聖書の実践的解釈(2) 紫苑説の宗教的批判的考察

    何故、私がキリスト教の福音主義信仰の立場でメンタルヘルスの問題を考えるうえで、科学的なストレス対策を参考にするのか…?と言えば、聖書は、現実的で実際的な内容を持つ仏典などと比べて理想的かつ観念的な面が多く、実践的なことは書かれていても具体的な方法論が非常に弱いために、現代人がメンタルヘルス対策として使える直接的な言葉は(当然のことながら)皆無に近いので、聖書から現代人がメンタルヘルスのことで実際的な知恵を得ようとするなら、非聖書的知識を宗教的見地から批判することを通して追求するという、否定的媒介の手法を用いるしかないと思ったからです。 以下、樺沢紫苑著『精神科医が教えるストレスフリー超大全』(…

  • 手島郁郎師の言葉(1)原始福音信仰双書『カリスマ的信仰』(キリスト聖書塾 発行/初版:1967.10.20 第4版:1994.12.25))より

    著者・手島郁郎師について・・・1910(明治43)年8月26日に生まれ、1973(昭和48)年12月25日に昇天。 以下、書き写しにあたっては、改行は無視。頁数は文末に( )に入れて表記。聖書箇所の章節は漢数字の場合数字に換える。カギカッコ(「 」)は二重カギカッコ(『 』)に換え、二重カギカッコは他のカッコ(< >その他)に換える。ルビ、傍点は通常は省略。読みにくいものや必要と思われるものに限り〔 〕に入れ、また、その旨を書いて当該文字の直後に表記し、ギリシャ文字などはカタカタに換えて[ ]に入れて表記する。その他、表記困難な文字等は割愛する。 1.「友よ、あなたも超人格力という無形の資産を…

  • 雑記(Ⅰ)

    万軍の主の御名によって人生を戦う闘魂注入の信心なしには、メンタルヘルスも何も無い! 「YHWHは生きておられる」旧約の民の宣誓句、いわば決まり文句は「YHWH(主)は生きておられる」である。これをヘブライ語で「ハイ アドーナーイ」という。「ハイ」〔hay〕は形容詞なので、直訳すれば「生きているYHWH」。この生かす力(活力)こそ、ヤハウェの御霊、イエスの父の御霊である「聖霊」なり。民数記14章21節のヤハウェの言葉「わたしは生きている。」について、岩波版の注では次のとおり。<誓いや発言の絶対的確実性を強調する際に唱えられる定型句。申三二40、イザ四九18等参照。人間の口で語られる場合は「ヤハウ…

  • 雑記(Ⅱ)

    (以下、Twitterより引用。) わてのような者は、神に愛されることまでは望みませんが、マタイ10:28などから、自分の真の主であるおかた以外は、いかなる人間もわての自由は絶対に奪えないゆう福音を聴けてます。それにしても先生のように人も羨むような履歴をお持ちの方でさえ、メンタルヘルスには御苦労されてるんだすなあ…。 — 福音堂 (@kourakudou) 2022年6月2日 太宰氏は聖句について「この場合の『懼る』は、『畏敬』の意にちかいようです。」と書き添えた。他人の言動が自分の人生に決定的影響を及ぼすかの如く思い込んでしまう時、恐れは世間に対してある。自分の絶対主権者への畏れと生きる勇気…

  • 私の「キリストの再発見」と再臨信仰

    高倉徳太郎牧師は『福音的基督教』において、聖書無謬説に関して「…時として誤りがあるとしても、その故に聖書は『神の言葉』としての権威を失うものではない。」と批判しておられますが、私見では、聖書には正しいか誤りかを論じ得るような客観的な面だけではなく、それより以上に個々人の解釈に委ねられるべき主観的な面があって、それでも信仰の共同体として成立するためには個々バラバラの多様なだけではダメなので、共感ということが必要になってくるわけです。 高倉徳太郎牧師は前掲書にて教義のキリスト教ではなく聖書のキリスト教を説き、聖書の主人公であり聖書が示す真の神は、主イエス・キリストではなく、その聖なる父であると明言…

  • 雑記(Ⅲ)

    (以下、twitterからの引用も含めて編集) 誰もが求めている「幸せ」。 その実現のために誰もが抱えている「悩み」。 その解決のために誰にも伝えられる「福音」。 その中心はキリストによる罪の贖い。 「まず神の国と神の義を求めよ」 (マタイ6:33/ルカ12:31参照) 神の国(=神の支配)における霊魂救済なしには 心身健康もありえへん。 年をとるともの憶えが悪うなり、長ったらしい文を読むのはますます煩わしくなるので、聖書も要約して簡略化した言葉にとどめたい。 それは「まず彼(神)の国を求めよ」(マタイでは「[神の]国」。 「まず」はマタイで、ルカでは「むしろ」。 「彼(神)の義」はマタイには…

  • コロナ禍と聖定信仰

    世界がパンデミックの苦難にある時にこそ、キリスト者は「聖定」の信仰をあらたにすべきです。…って言うか、パンデミックだろうが大地震であろうが隕石落下であろうが何であろうが……それがどんなに悲惨で大規模な災害であっても、この世に起きることはすべて創造主なる神の聖なる定めの内であり、支配下なのであって、サタンのはたらきさえも神の許可なしには起こり得ない……というのが旧新約聖書66巻から示されることです(神義論無用!)。 所謂「主の祈り」では、「あなたの御意が天になるごとく、地においても」(thy will be done on earth as it is in heaven.)と祈りますが、その「…

  • コロナ禍と聖定信仰

    世界がパンデミックの苦難にある時にこそ、キリスト者は「聖定」の信仰をあらたにすべきです。…って言うか、パンデミックだろうが大地震であろうが隕石落下であろうが何であろうが……それがどんなに悲惨で大規模な災害であっても、この世に起きることはすべて創造主なる神の聖なる定めの内であり、支配下なのであって、サタンのはたらきさえも神の許可なしには起こり得ない……というのが旧新約聖書66巻から示されることです(神義論無用!)。 組織教会に所属するキリスト者は「ウェストミンスター信仰基準」(「ウ・信・基」)に立脚するに如くはなく、あくまでも神への頌栄の心から、苦難の中にあっても、この「聖定」(decree)の…

  • 救いは観念ではなくはたらき

    Ⅰ.ことばを超える力、観念を超える救済。 「神の国は、ことばではなく力にあるのです。」(新改訳 コリント一4:20) 直訳すれば、「神の国はことばのうちにではなく、むしろ力のうちに」であり、「ある」という意味の語は省略されています(~川端由喜男訳の『日本語対訳ギリシア語新約聖書 6 ローマ人への手紙・コリント人への手紙』〔教文館〕)。 「神の国=神の支配」とは「神のはたらき」であって、「聖定」も「予定」もそこに含まれます。問題は、その「神のはたらき」が、「神のはたらき」という観念ではなく現実として体験されるか否かです。それが「救い」になります。「神の国」が「ことばのうち」ではなく「力のうち」に…

  • 幸福志向と救済志向

    「禍福は糾える縄の如し」と云いますが、現実世界は相対世界でいろんな二項対立があるとは言え、人は「不幸」の無い「幸福」だけの人生を望みます。苦難の経験にも成長的意義があるなどと言える者は余裕があるのです。 いかに、聖書の宗教はいわゆる御利益宗教といわれる日本の新興宗教の如き低俗なものではないなどと言っても、たしかに「福」を信心の目的とはしないとは言え「禍」が続くと神への不信感が生じることはあります。 たとえ聖書が示す神の対世関係は、直接的摂理ではなく、自然法則を用いた間接摂理であり、理神論的観方にも一理あるとするにせよ、また、希望という事はそもそも絶望的状況あってのことだから、個人的にも終末(論…

  • 聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?

    コロナ禍の時代に在ってこそ聖書が示す「神」の「愛」と「怒り」の二重性が理解できるし、キリストとの内在論的区別もある程度はわかるという皮肉な事情があります。すなわち、コロナ禍において「神」は救う愛の神であると同時に怒りの神でもあることがあらためて認識されるのです。もちろん死者はたくさん出ていますが犠牲者であり、来世で救われるのかも知れません。コロナ禍も震災などと同様に、「個」のレベルではなく「種・類」のレベルでの神の懲らしめであると言えます。 宗教改革者マルティン・ルターは、「神に逆らって神へと逃れる」と言ったそうです(~北森嘉蔵著『聖書百話』)。ただ、ルターが自分も経験した疫病に対して神学的に…

  • 聖書が示す「神」に「体」はあるか?

    聖書の再神話化においては、例えば、「神を始めに、すべて存在する物は皆形体があると聖書が示しているのを信じます。」と告白しているアデルフィアン派の『聖書基本知識』が提示している1つの教義(神話)も参考になります。http://www.christadelphia.net/languages/japanese/Japanese_Bible_Basics.pdf 「本来から“神は霊です”(ヨハ.4:24)。神が形態的身体をもっているけれども、それは肉と血によるのでなく、“霊”による身体です。キリストが肉性を持っていたのは彼が神の本性を持っていなかったのを示しています。」 クリスタデルフィアンはエホバ…

  • 救いの先行理由と「信仰治療」

    「君は知らないか、聞かないか、ヤハヴェは永遠〔とこしえ〕の神、地の果ての創造者、疲れることなく、倦むことなく、その悟りはきわめがたい。/疲れた者に力を与え、力なき者に強さを加える。/若き者も疲れて倦み、壮者も躓き倒れる。/だがヤハヴェを待ち望む者は力を得、わしのように翼を張る。走ることも倦まず歩むとも疲れない。」(関根正雄著『(新訳) 旧約聖書』イザヤ書 40:28〜31)※「ヤハヴェ」の「ハ」は、ここでは半角大文字だが原文では全角小文字。ルビ入りの〔 〕は原文には無く私が付けた。 「あなたは知らないのか、聞いたことがないのか。永久〔とこしえ〕の神こそヤハウェ、地の果てまで創造された方。疲れる…

  • 必要は信仰の母?

    たまたまyoutubeで救世軍士官学校の紹介動画を見たところ、テロップで次の文言が流れました。https://www.youtube.com/watch?v=zGGS0iZyMjA 「わたしたちは/特別になにかができるから/召されたのではありません/日々わたしたちには/全知全能なる神様が必要です/すべて必要なものは/神様が備えてくださることを/学びと訓練を通して教えられています/そして自分の力に頼ることを捨て/自分の罪に向き合い、すべてを神様に明け渡し/委ねることを繰り返し学んでいます」云々。 そうです、実感的表現として、我々は人間らしく自分らしく生きるために「神を必要とする」のであって、信仰…

  • 神は「愛」のみに非ず。「神の愛」とは「空」なり。

    確認すべきは、ヨハネの手紙(Ⅰ. 4:8, 16)で「神は愛なり」(DEUS CARITAS EST)と言われているからと言って、これを転倒させて「愛は神なり」( CARITAS DEUS EST)と言うことは、信仰の上では誤りであるということです。 なぜなら伝統的なキリスト教信仰においては、「神」は父と子と聖霊の三位一体の人格神ということになっており、「愛」は人格的働きではあっても人格的存在を意味しないからです。ちなみにエバーハルト・ユンゲルは次のように述べています。 「神がご自身を同一化したあのひとりの人間の人間存在が犠牲のカテゴリーを通して解釈されたとき、神と人間の関係のより深い理解が現…

  • 神は乗り越えられる試練しか与えない?

    「神は乗り越えられる試練しか与えない」とか「神は乗り越えられない試練は与えない」といった言葉が引用されるのをよく見聞きします。これは聖書に由来する言葉であり、聖書は信仰によって書かれたものですから、クリスチャンであるか否かはともかく、対神関係に入っていない者が一般的な格言か何かのように引用しても、それは誤解の拡散になるだけです。 私は昔、ある女優さんがテレビ番組でこの言葉を得意げに引用するのを見て訝しく思いました。その女優さんがふだんから聖書に示された「神」を信仰する人であるならよいのですが、そのような情報は見聞きしたことがなかったので、その番組用に使ったのであれば言わば御言葉(聖句)の安売り…

  • 聖書が示す「神」は「三位一体」ってホント?

    < 三一論は、神は生きておられるという単純な真理の不可欠で、しかも必然的に困難な表現である。「神は生きておられる」との確信は、神として告知され、信じられ、告白された人間であるナザレのイエスの現実において実証されなければならないがゆえに、この単純な真理の表現は、必然的に困難になる。そしてこれはたしかに、「神は生きておられる」という確信が、神に属するこの人間において実証されなければならないことを意味する。それは、人間の生の致命的な最後がこの人間の生にも属しているからだけでなく、特に、この人間の生の致命的な最後の中に、すべての人間の新しい神関係の開始が基礎づけられているからである!しかしイエスの死に…

  • 自由主義キリスト教について

    自由主義神学の大家としてアドルフ・フォン・ハルナックが有名です。彼は古代キリスト教史に対して「福音のギリシャ化」ということを言いました。以下、引用します。 <バーフィンクは、「教義学の歴史と文献」の議論を始める。すなわち、聖書は、ただちに教義でなく、教義の材料であり、教会が聖書の内容を教義として形成していくが、この教義形成そのものを、どのように評価するかという問題がある。具体的には、教義形成を過小評価する立場と過大評価する両極端がある。そして、教義形成を過小評価した代表者は、ハルナックと言える。ハルナックは、イエスは、神の父としての愛と霊魂の無限の価値のこの二つを、福音として、単純素朴に教えた…

  • 聖書と無教会主義と実験的信仰

    太宰治の掌編『一問一答』では、「あなたは、クリスチャンですか。」という問いに対して「教会には行きませんが、聖書は読みます。世界中で、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思っています。キリスト教に於いても、日本は、これから世界の中心になるのではないかと思っています。最近の欧米人のキリスト教は実に、いい加減のものです。」と答えています。 太宰が、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思った理由は何かわかりませんが、おそらく無教会主義のキリスト教徒を見てのことだろうと推察します。 ちなみに彼は『苦悩の年鑑』という短い作品の中で「何某先生」という表現で…

  • 「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?

    キリスト教神学の中心は救済論であって神論ではなく、ましてや三位一体論でもないのです。ということは、神について絶対だの遍在だのと論じること自体が見当違いであり、思弁を弄して知的満足を得ようとすることは程々にしないといけない、ということになります。考えること自体は大切だし必然的ですが、その内容は神論であるより以上に救済論でなければなりません。観念的であるより以上に実際的でなければならないのです。すると神は、「絶対ー相対」とか「有ー無」とか…あらゆる二項対立を超えていると諦められて然りです。以下はボンヘッファーの言葉です。 「神を非宗教的に語ろうとする時には、世界の無神性が何らかの仕方で覆われるので…

  • キリスト教を戻ってイエス教へ

    上村静氏はその著書『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』(岩波書店)の終章1・1「<覇権主義>と<セクト主義>」の冒頭で、預言者の神観すなわち「イスラエルの民族神ヤハウェが世界の神であるという神観の発展形として生み出されてきたもの」を「普遍主義」と称することで肯定的な(…その「肯定的」という意味は「その救済はイスラエルの民に限定されるのではなく、世界の諸民族に遍く広くもたらされ、こうして世界平和が実現されるだろうという希望の表現として…)評価を有するものであるかのように見せかけているのであって、それは欺瞞であり、実態は「民族主義に基づく普遍主義=<覇権主義>」であるのだと述べておられる。…

  • キリスト教を戻ってイエス教へ(2)

    そもそも、聖書はなぜ「聖」なる書物だと言えるのでしょうか? そこで、上村静著『旧約聖書と新約聖書 ー「聖書」とはなにか』(新教出版社)の「はじめに」より引用します。注は〔※〕で挿入。 (以下、引用) 「聖」とは「神聖」ということであり、要するに神の属性である。つまり、「聖書」とは神に由来するものだという主張がこの表現に含まれている。〔※Ⅰテモ三16 「(旧約)聖書全体は神の霊によるもの」参照。〕 聖書は「神の言葉」であると言われる由縁である。それが「神の言葉」であるがゆえに、規範的なもの、拘束力を持つものとされる。ところで、現在「旧約聖書」に入れられている書物と相前後して、「神の言葉」として書…

  • キリスト教を戻ってイエス教へ(3)

    太宰治が先輩と慕った山岸外史の『人間キリスト記』は太宰自身、『「人間キリスト記」その他』という掌編で推奨していることもあり、私が読んでみたいイエス本の一つですが未読です。太宰は『駆込み訴え』でユダの口を介してイエスを「美しい」などと書いていますが、ああいった感覚には私は耐えられないので、基本的に太宰のイエス観に自分は共感しないと感じており、太宰が絶賛するイエス本はあまり読む気にはならないのです。そもそも男が男を「美しい」などということ自体が大いに嫌です。ましてやその男がイエスともなるとなおさらであり、ドストエフスキーだろうが椎名麟三だろうが太宰治だろうが…誰であろうと、そういうイエス観を持つ人…

  • 神話と歴史

  • イエスの「神の王国」ってユートピア?

    「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3:15) 聖歌 キリストの平和 塩田泉 作詞作曲 歌 いけだみつほ ご視聴ありがとうございます - YouTube 「キリストの平和」をお題目のように言うだけでは、現実の生活の中でそれを自分の心に得ることはできません。キリスト教では祈りと聖句黙想(devotion)を通して聖霊他力のはたらきを待ちますが、それはいいとしても人間の心のあり方としてもう少し具体的かつ実際的に把握できないと、その「平和」が「心を支配する」程度も…

  • 私にとってのセルフ(・マインド・)コントロール

    神を信仰して何の得があるか?と問われたら、自分は何よりも精神衛生上の効用を言います。 すなわち、人はいろんな苦悩を抱えることで自分を苦しめるものですが、その苦悩を緩和する効果が神信仰にはあるのです。 特に聖書が示す「神」は絶対他者であり、それを信仰することによって自分自身を苦悩もろとも相対化し去ることができるからです。苦しんでいる自分は「神」との関係においてのみ実体を得られるのであり、この世の価値(財産や名誉や美しい容姿など人に羨ましがられるもの)を持たない貧しき者たちは、「神」との関係なしには、この世では風に吹き飛ぶ塵芥のようなものにすぎず、なにかにつけ自死を考えるほどに弱き者です。 すなわ…

  • 日本人はなぜ、聖書の絶対者たる創造神を理解できないのか?

    まずは、八木誠一先生の論文「キリスト教の『神』ー 新約聖書を中心として ー」を熟読してください。 http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1987_14_hikaku_03_yagi.pdf#search=%27%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9+%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%8E%A5%E8%A7%A6%27 すくなくとも自分が見聞きする範囲では、日本人には、大学教授などのインテリまでもが、キリスト教と言えば一神教、一神教と言えば排他的で絶対主義の、自分たちの価値観を他…

  • 「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?

    「神を非宗教的に語ろうとする時には、世界の無神性が何らかの仕方で覆われるのではなく、むしろ暴露され、まさにそれゆえに驚くべき光が世界を照らすように、神を語らねばならない。成人した世界は、成人していない世界よりもその無神性はもっと深いが、まさにそのゆえにこそ、成人していない世界より神に近いであろう」(D.Bonhoeffer:Letters and Papers from Prison.p.362) 「神」について語る場合、形而上学的に実体的対象としては順理的に語り得るが、非実体的対象として実存的に語る場合は逆理的にしか語り得ません。特に聖書に示される神の「絶対」性を言うなら自己限定による特別啓…

  • コヘレト、五木寛之、高倉徳太郎、有島武郎、他

    1:8 いっさいの事柄は物憂く、 誰も語り尽くせはしない。 目は見て、飽きたりることなく、 耳は聞いて、満たされることはない。 9 かつて起こったことは、いずれまた起こり かつてなされたことは、いずれまたなされる。 日の下に、新しいことは何一つ存在しない。 西村氏の注解では、8節が「すべての現象は解体的である。何人もこれを諺に表現することはできない。目は見ても満足せず、耳は聞いても満たされない。」、9節は「起こっていることは、また起こるであろう、なされていることは、またなされるであろう。日の下に何一つ新しいことない。」と訳されている(※「ことない」は「ことはない」だろう)。 月本訳の8節の注で…

  • 聖書が示す「神」に「体」はあるか?

    一般的に聖書が示す神ひいてはキリスト教の神は「全能」であると云われています。使徒信条では「全能の父なる神を信ず」と、三位格の中でも「父」との関係で「全能」と言われています。しかしそもそもヘブライ人には「全能」という概念は無く、聖書用語と言ってもヘブライ語聖書がギリシャ語に訳されることによって出て来たものであって、ヘレニズム化なしにはあり得なかったということのようです。問題はそこではなく、そもそもヘブライ人の言語は名詞も動詞から派生しているということです。つまりヘブライ人にはものごとを対象化して客観する思考形式がなかったということで、そうなると「神」をどのようにイメージしたかが問題となります。J…

  • 聖書は万人救済説や転生説を認めているの?

    結論から言えば、聖書に万人救済を読み込み得る箇所はあっても、輪廻転生を読み込み得る箇所はありません。それでも無理に無理して読み込んでいる神学者のひとりが野呂芳男氏です。 神学的には以前としてバルトやモルトマンなど、民衆の視点が極めて弱い、その意味で面白みに欠ける神学がメインの日本基督教団の中でも、とてもユニークというか異端的でさえあると思って私が関心を持っていた牧師兼神学者が野呂氏ですが、かつて私は書簡を通して個人的に学びを得たことがあります。そのことが野呂氏のエッセイ論文の中で紹介されているので、以下、引用します。改行箇所は詰めて、特に注意すべき部分を赤くしました。 (以下、引用) 最近のこ…

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