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  • 神秘主義(オカルティズム)

    身を慎み 言動を慎み 平和に在れしかして 過ちを改むるに憚る事なかれ 迷信と無知とに覆われた暗黒時代を抜け出しても尚、神秘主義(オカルティズム)という盲目的な観念から解放される事が出来ないのは、カルティズムの語源でもある[隠れてる力]が天地自然の理法に反することを証明しようとする時、不毛な悪魔の証明(~項目参照)に迷い込んでしまうからなのです…例えば.有るという証明は眼前に事実を実証すれば良いだけの話なのですが、本当には無い妄想的なものでも.有るという主張を否定して無い事を証明する為に.世界中探し.全宇宙を探して何処にも無かったとしても[隠れている力]を見つけられなかっただけに過ぎないという詭…

  • 学者と修行者

    [向上一路 千聖不伝 学者労形 如猿捉影] 中国中唐の人 盤山宝積禅師(解説は下段) 何事につけ.知識や情報や観念を幾ら蓄積したとしても.決して覚ることも.大悟することも.まして涅槃(ニルヴァーナ)を体現することも叶わず、幾ら知識や情報や観念を蓄積しても無明の闇を晴らす事もなく煩悩と渇望に翻弄されながら盲目的に彷徨いながら輪廻の理法に流されてゆくのです…知識や情報や観念を蓄積して.アーダ.コーダと見解を宣うのは.修養者でも菩薩(ボディ.サットバー・真理へと向かう者)でもなく、それは学者か評論家かお宅の仕事でしかないのです…知っているという事と、理解しているという事は違うのですが.自分は知識とし…

  • 信仰と宗教

    世の中では.宗教と信仰とは混同され.宗教も信仰も同じ類のものだと受け止められています…宗教と信仰には確かに重なる面は有るのですが、本質的には信仰と宗教とは真逆な性質のものだと言えるのです…世界には宗教に分類されている幾多の信仰が存在していますが、その中にあって.得体の知れない神仏や精霊およびその使徒などから啓示を受けた存在であるとか自分は聖人の生まれ変わりである特別な存在だと主張しなかった唯一無二のマトモな人間が釈迦尊(ブッダ)なのです…つまりは信仰とは[一切衆生を救う]とか[大宇宙の意志]とか耳障りの良い言葉を並べたてながら、人々の無明の闇を深めさせ盲目的に酔生夢死させてゆく麻薬のようなもの…

  • 吝嗇(もの惜しみ)

    倹約.節約と吝嗇(もの惜しみ)とは似て非なるものであり、無駄を省くのが倹約.節約であるならば.吝嗇(もの惜しみ)とは.無明な無駄や身の丈を違えた生活による不満や怒りを活力として生じるものなのです…吝嗇(もの惜しみ)を戒めるのは.それが良い悪いと言うのではなく、心を貧しくさせてゆく事.つまりは人を欲深くさせて不満や怒りや嫉妬などドゥッカ(本質苦)の中を生きてゆく事となるからなのです…何故、吝嗇(もの惜しみ)になるのかと言えば、それは煩悩(存在欲)によって現れる自我意識.は幸せになりたいと所有欲を貪ろうとするのですが、所有欲とは真に満たされる事がないものですから、一時の小さな[快感]と引き換えに.…

  • 勝儀諦(時空の諦観)

    世の中には世俗諦(人間存在の諦観)を説くアビダルマ(教説)やドグマ(教義)は溢れ返るほど在るのですが、釈迦尊(ブッダ)が到達された勝儀諦(涅槃.ニルヴァーナ)への道は.その難解さ故か.歴史の中に埋ずもれ、各部派.各宗派ともが世俗諦を以って涅槃(ニルヴァーナ)の完成だと錯覚して今日を迎えているのです…(もし世俗諦が涅槃への到達であるのならば、仏の教え(大悟)は別段に難解でも.微妙でも.深淵でもないのですから…それに気付き嘆いた龍樹(ナーガルジュナ)は、世俗諦と言う[人間の存在性]と大宇宙との関係性と、[大宇宙の存在性]から導かれる生命の存在性(勝儀諦)の存在を見出したのではないでしょうか…仏教で…

  • 脳内快楽物質

    釈迦尊(ブッダ)は仰っています…「愚かなる者達は、日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいる。本当の美味なる御馳走に気付くことなく、雑草を美味しいと食べている家畜の如き存在に過ぎず、彼らの満足は真理を実践する智者のそれとは比ぶべくもない。」人は皆んな喜びや幸福を求めて生きている。一部の偏屈な嘘つきを除いて、喜びや幸福を求めずに生きている者など一人も居ないのであるが、本当に愚かな人とは自分が愚かで無明だとは思わず自惚れているから、喜びも幸せも外世界から与えられるものだと錯覚して外世界に意識を盲目的に向かわせるが、思うように得られないと愚痴ったり怒ったり不満を感じて、外世界にその原因や責任を転化す…

  • 相対的幸福と絶対的幸福

    幸福には[相対的な幸福]と[絶対的な幸福]とがあります…多くの人は幸福は所有(所有の次元の事物)の所有量に依ると勘違いしてますが、真の幸福とはその愚かさや無明さ(無知)を捨てていった先に在るものなのです… 相対的な幸福とは.他と比較して自分のほうが優れているとか.今のほうが恵まれているというような主観的.感覚的.感情的.記憶.情報.知識.妄想による喜び.快感.幸福感などを味わう本質的には無常な苦(ドゥッカ)が.喜びや幸せという姿や形をとって現れる一時的なものに誑かされているに過ぎない短命な幸福であり、苦(ドゥッカ)という本質から逃れている訳ではなく、相対的である限り楽苦の間を振れ動きながら苦(…

  • 施与の功徳

    高度に発達して快適な生活をもたらすはずの現代社会は、却って人々に苦しみや哀しみや怒りや欲望を増やしたのではないでしょうか? 凡そ全ての苦しみの原因は自分(自我意識)への捉われ.拘り.執着であり、存在欲.所有欲など汎ゆる欲望に煽られ、社会も人々の欲望を刺激しながら自意識を高めさせ取り込もうと大きな口を開いて待ち構えているのですから… ​施与の功徳①施与の功徳②托鉢行③運 気④心が軽くなってゆく詩⑤福徳を招き寄せる唱文①施与の功徳「一切の生きとし生けるものは.幸福であれ.安泰であれ.安楽であれ」邪道が蔓延る世の中に.如来は.憐れみ辻に立つ邪法が蔓延る世の中に.如来は憐れみ辻に立つ衆生…心.浄めたも…

  • 無常の劫火

    世界は何処も堅固ではない…どの方向もすべて動揺している…私は自分が依るべき処を求めたが、既に死や苦しみなどに取り憑かれていない処を見つけられなかった… これはスッタニパータに遺されたブッダの御言葉であり、自分の依るべき処(つまり帰依すべき真理を伝える教え)を求めたが、真に苦悩や心痛(ドゥッカ)から脱出させて平安と幸せへ導いてくれる処を見つけ出せなかった…という無常の劫火に苛まれたブッダご自身が、自ら悟りの道へと踏み出された所縁であり、ブッダの教えとは.つまりは生存苦.無明苦.欲望苦を種火とする無常の劫火に焼き尽くされている人間という存在にとっての唯一無二の脱出法(解き放たれ解放される道)なので…

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