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2019/02/03

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  • すみません

    直接このサイトからお読み頂いているみなさんへ。 シェア先のフェイスブックにこのはてなブログがシェア出来ず、理由のわからないまま時間が過ぎています。 しばらくは下記の note にて文章作成を続けます。 下記URLから移ってください。 勝手申しますがよろしくお願いします。 お願いついでに note 右下にある白抜きのハートマークにポチッとお願い出来れば幸いです。 https://note.com/mhideki1234

  • 年齢による変化、またの名を経年劣化

    一昨日の晩からこのブログをFacebookにシェア出来なくなった。 なんとかしなければならない、と思いつつなんだか時間が無く、少し見たがわからないのでほかってある。 まぁ、いいか というカンジである。 以前ならそれが出来なかった。 それを出来るようになったのが歳を取ったということなんだろうか。 考えれば以前は甘いものなど見向きもしなかった。 というより食べたくなかった。 食の好みが変わったのも歳を取ったせいだろうか。 人間ばかりでないだろう。 なんでも歳を取るというであろう。 まぁ、スマートホンも休みたいのかも知れない。 だからしばらく休ませてやろう。

  • 東京から見た富士山(3/20投稿)

    温かい空気の中、電車で移動中。 窓が開けられているが、今日は誰も手をかけようとしない。 この気温で不思議だが暖房が入っている。 以前と違うJRには我々の知らぬなか、厳しい掟があるのかも知れない。 二十年ほど前の大阪環状線は夏場、暑がりのこの私でも「おかしいんじゃないか」と思えるほど冷房が効いていた。 先頭車両で運転手に暑いから温度を下げてくれ、とジェスチャーですると冷房を強めてくれた。 わがままな乗車客であるが、満員電車内の暑さと臭さはたまらなかった。 そんな融通は効かない管理された会社に変わっていることと思う。 車内にはダウン姿もいれば半袖Tシャツもいる。 しばらくは何を着ればよいのか悩む時…

  • 稽古の夜

    これから稽古である。 まだまだコロナ禍は続くのであろうが、何も無かったかのような日常がある。 皆がマスクをしているかどうかの違いだけのような気がする。 でも、水面下では苦しみ助けを求めている人がたくさんいるんだと思う。 それも考えてみればコロナ禍関係無くそんな人はたくさんいただろう。 てなことを考え出したらキリは無い。 とりあえずこの心地良い夜を楽しみブラブラ帰ろうと思う。 もちろん稽古が終わってからであるが、、

  • この一年を振り返って

    まだまだ終息を迎える事の無い新型コロナウイルスである。 初めての制限のある生活にも慣れてしまえばなんてことはないような気がしているのだが、為政者たちはリバウンドを心配しているようである。 いろんな人間がいるから厳しい強制でもかけなければ、なるようにしかならないと私は思う。 そして、私はこの期間を悪い事ばかりではなかった、と思いたい。 普段以上に家メシだった。 三食家のことも多かった。 たいてい朝はトーストかサンドイッチ、歳のせいか朝のご飯が胃に重くなってきた。 そして昼は麺類、もしくはチャーハン。 夜はいろいろ、時間があるからいろいろ作った。 厳しい寒さを耐えた白菜は甘く、水餃子の日が続いた。…

  • 八尾の洋食屋さん

    八尾にもある街の洋食屋さん、家内と時々行く。 もう冬の上着は必要ない陽気のなか、自転車で開店時間をめがけて行った。 新型コロナで休業も制約もあり、売り上げは落ちて大変だったに違いない。 でも、今日は様子が違っていた。 人気のある店ではあるが、開店前から行列ができていたのは初めてのことであった。 これが本来の姿なのかと家内と話ししながら並んでいると、前の四人組のおばちゃんの声がよく聞こえてきた。 以前はサービスでコーヒーが出たが、今は出なくなったとか、聞き様によっては店の悪口とも取れるような内容だった。 そして、まぁ、よく喋るおばちゃん達で店に入ってもお構いなしであった。 四人の口に蓋をするわけ…

  • 京都で過ごした時間 番外編

    ここ最近ずっと昔のことばかり思い出していた。 思い出せばあまりにいろんなことがあり、全てをここに並べることは出来そうにない。 そんな中、どうしても紹介したいナイスガイがいる。 過去ここで登場してもらったかも知れない。 私が大阪支店営業部にいた頃だ。 その時、会社は気まぐれに発注者の業種別に担当替えをした。 生産施設グループ、教育施設グループのようにだ。 私は商業施設グループに入れられて、いつも会社にいるのが好きな部長の下についた。 スーパーマーケットが相手だった。 私は会社のメインバンクの息がかりの大阪で一番大きなスーパーと、以前から付き合いだけのあった亀岡のスーパーがメインの担当で、あとは初…

  • 京都で過ごした時間 その10

    営業所長は途中から和歌山営業所長の兼務もするようになった。 どちらも営業マンからしたら特殊な地域である。 所長は京都を離れていることもあり、一人で行動する事が多かった。 報告はほぼ口頭だったと思う。 大阪支店では、なんでもかんでも報告書であった。 私には最後まで理解出来なかったのだが、同じ会社で求める利益は同じ財布の中に入っていくのにナワバリ意識みたいなを持っている先輩方がたくさんいた。 同年代にもいた。 仮にも一部上場の会社に入って来ている連中が、その経緯を明らかにすれば誰がその受注に貢献したかは白日のもととなると思っていたがそうでない人間の方が多かった。 だから、簡単に言えば金にならない事…

  • 京都で過ごした時間 その8

    この所長には多くのことを教えてもらい、多くの人に会わせてもらった。 発注者、受注への協力者、協力業者(下請業者)、そして発注者となるかもしれない人たちに会わせてもらった。 一つ仕事を受注するのに登場人物は多い。 仕事を受注するたびに付き合いは増えていくのである。 所長の大阪支店での噂は良くなかった。 仕事は出来るが、、、 と言うのが多かった。 しかし付き合ってよくわかった。 余計なことは喋らないのである。 言い訳もしない、だから勘違いされる。 それ以前の営業マン、特に役所相手の営業マンにこんなタイプの人はいたようだ。 どうしても、官公庁の人間と付き合うとややこしい問題が持ち上がりやすい。 だか…

  • 京都で過ごした時間 その7

    京都でのマンション建設の地元対応の話は続く。 法務局で調べれば誰でも確認できるからここに書くが、当時の高瀬川沿いの土地のほとんどが京都市の所有であった。 担当課できくと、第二次大戦直後に市が救済措置で人が住む事を認めてしまい今に続くのだと言う。 それが既得権となって立ち退きは難しいのだとも。 補償費支払いの相手の多くはそういう方々だった。 未だ若かった私は不思議を感じながらも一軒、一軒交渉は進めていった。 自治会長さんが親身になって動いてくれた。 「あんた達は建築基準法に則って、間違ったことは何もやっとらん」と口にするような方だった。 会長さんの力は大きく順調に全ては進んだ。 しかし、最後に残…

  • 京都で過ごした時間 その6

    二度目の京都入りまで大阪支店営業部に5年くらいいただろうか。 まだまだ若い営業マンを置かない時代に移動した私は部内で可愛がってももらったが、力を持った部長同士の戦略のはざまに置かれて物のように部内での移動をさせられたり、ここでも嫌われたりして弾き出されるような形で再び京都に行くのだが、ここでは本当にたくさんのいろんな人と出会うことが出来た。 それはその後の私のためになり、ここまで生きてくるための糧となっていると思う。 大阪支店でもいろんな事があったのだが、今回は京都編、先を急ぐこととする。 三十代半ば過ぎでの移動であった。 当時の営業所長の杉村さんは土木屋出身でありながら、官庁営業ばかりでなく…

  • 京都で過ごした時間 その5

    京田辺では着工から竣工まで、そして二期工事も時間をおいて行われて延二年間ほどいた。 他の工事も京都北部の舞鶴や日吉町、京都市内を飛ばして京都の端っこに近い現場の兼務が続いた。 これも事務課長に嫌われたことも関係した。 ペーパードライバーだった私は通勤のために車を買った。 現場の大小関係無く、事務屋のルーチン作業は同じ手間であった。 そして当然、締切の期日は同じだった。 電車で移動していたら全ての担当現場のそれを間に合わせることは出来なかった。 毎月二晩徹夜した。 車の中でよく寝た。 はじめてのマイカーは金も無く、軽自動車を買おうと中古車屋で探した。 あらかじめ、赤色はやめよう、オートマにしよう…

  • 京都で過ごした時間 その4

    『京都での私の時間』の第一期は営業所での事務と現場での事務であった。 事務課長に嫌われて現場に出され、ある意味気楽になったが誰も仕事を教えてくれない、現場所長に教えてもらいながら見よう見まねで書類を作り毎月のルーチンを必死にこなした。 事務課長に嫌われたのにはキチンとした理由がある。 当時の営業所には婚期を逃した女性が二人いた。 そのうちのおとなしい女性を事務課長は目の敵にしていじめていたのだ。 少しドンくさい女性だったが気は悪くない、真剣にやって間違えたなら仕方ないから許してやればいいのにその女性に対してだけ厳しかった。 まわりが気分悪くなるような罵り方を平気でした。 誰もいない時にその事を…

  • 京都で過ごした時間 その3

    私がお世話になった京都営業所長の話をもう少し続けたい。 当時の会社には各営業所にこんな個性的な所長や営業部長がいた。 そして、当時の大阪支店の営業部は管理の立場として困っていたようである。 そんな事があってある時各営業所の扱いにくいこれらの所長、部長を大阪支店の営業部、開発部、営業事務部に無理矢理移動させたのである。 こんなやり方が利潤の追求を考える企業の行なう正しいことなのか私は疑問であった。 それでも、所長は会社を辞めることなく大阪支店の開発部長となった。 社有車か、株の配当金で買ったジャガーで通勤していた所長が阪急電車と京阪を乗り継いで通勤したのである。(配当金で買った話は本人から聞いた…

  • 京都で過ごした時間 その2

    京都ではたくさんの個性的な方と出会い、たくさん勉強させてもらい、たくさん迷惑をかけて、たくさん世話になった。 中でも当時の京都営業所長は個性的だった。 当時の私のいたゼネコンは外回りを始めたら多くのお客さんたちから『あんたの会社の営業マンは野武士の集団だ』と称されていて驚いた事がある。 それくらい個性が強く、ガンガン前に進む営業マンが多かった。 でもそれくらいでなければ仕事など受注できるものではなかった。 バブル手前にゼネコン業界で一番に一兆円の受注を超えた時代はそんな先輩方によって作り上げられたものだったのである。 とりわけこの営業所長は別格な個性の塊の人間だった。 会社の創業家の一つの出身…

  • 京都で過ごした時間 その1

    ゼネコン時代、京都で長い時間を過ごした。 大きく分けて三期になる。 一期、入社したばかり、生まれて初めての土地京都、初めて足をおろしたのは京阪線藤森の駅であった。 テレビでの知識しかなかった私には八坂神社あたりや鴨川の流れる景色が京都だった。 降り立った伏見区深草西浦町はあまりに普通の町で、私を大阪支店まで引き取りに来てくれた事務主任の土本さんにここが京都かと聞くと「そうだ」と言葉少なに答えてくれた。 京都営業所は田舎の町の自社ビルだった。 どんな生活も平気であったが、四階建ての三、四階が寮でその下が事務所だった。 今の世とは違い、社員に金をかける場所が違った。 寮はただ寝泊まりだけの場所、管…

  • 人類の歴史を変えた発明、人の人生を変えた道具

    20世紀最大の発明って何だかご存知ですか? ひょっとしたらいくつもあるのかも知れませんが『コンテナ』がその一つだそうです。 貨物列車やトレーラーに積まれているあの鉄の箱です。 私の生まれたほんの少し前、1956年にアメリカで登場しました。 それまでは、人力に頼りバラバラの品物を船に積み、到着港でまた人力で降ろして貨物列車やトラックに積むという手間も時間も金もかかる作業で運送、物流は成り立っていたのです。 それを世界中で統一された規格のコンテナに変えたのです。 それまでの慣習を変えたコンテナの導入は既得権との闘いもあり簡単なものではなかったはずです。 しかし、コンテナごと移動可能になった荷物は安…

  • 時代の波に乗りながら忘れたくないもの

    台湾の母、黄絢絢さんにハガキを書くことにした。 以前は毎月一通ほどの手紙を書いていた。 それがいつからかLINEで近況が送られてくるようになり、今は電話になっている。 93歳というご高齢にはさすがの絢絢さんも勝てないようで、電話は自身が生活する老人ホームの職員さんにかけてもっている。 着信したスマートホンの受話が自分で出来ないと言う。 私はいつも受けれるわけではないのですれ違いとなり、心配をおかけする事となる。 そんなわけでまた手紙を書こうと思ったわけだが、なんとなく気になりハガキだといくらで届くのかを調べたら、なんと定型のハガキならば世界中70円で送れるのである。 70円のハガキは世界旅行を…

  • 長かった休み明けのかんじ

    三月一日月曜日 六十回目の三月である。 この調子ならばあと二十回ほど三月を迎えることが出来るのであろう。 そう考えてみると人生は短い。 振り返るとあっと言う前に時間は過ぎてしまった。 深く考えると自己嫌悪に陥ってしまう。 やって来たことに間違いは無かったとは言わない。 間違いだらけである。 しかし、人間だから当たり前だろうとも思う。 思い通りに進んでしまった人生なんて面白くないんじゃないかと個人的に思っている。 アクシデントが人間を成長させてくれるとも思う。 そして目の前に壁がある限りボケるわけにはいかない。 合気道の稽古の無かったコロナ休暇中、稽古のことはほとんど忘れて金、日は自在であった。…

  • 稽古はじめます

    緊急事態宣言が前倒しで解除と決まった。 三月から稽古を始めます。 まだまだ不可測なことはあるでしょう。 しかし、コロナも自然、私たちも自然界に生を授かっている仲間です。 必要なことはしましょう。 マスク、手洗い、消毒を。 帰ったらまた繰り返し、うがいもしてね。 稽古場のジョインさんまで、たどり着けるか心配で、ひさ〜しぶりに天王寺までやって来ました。 まだ解除前なのに人はまあまあいましたよ。 皆さんフライングですかね。 せっかくなので、私も一杯だけ飲んで帰ります。 風通しの良い立ち飲みですよ。 消毒、検温、以前ならば考えれないルーチンが当たり前の作業となっており驚きます。 消毒代も体温計代も飲み…

  • 台北の母をたずねて

    昼下がり、私の台湾の母黄絢絢さんから電話がきた。 母の親友である絢絢さん、今年で93歳になる。 いつも私の身を案じて電話をくれる。 日本の統治下で日本語の教育を受けた絢絢さんはいまだに日本語の読み書きは達者である。 ひょっとしたら私よりも。 日本を敬愛してやまない絢絢さんであるが、日本の教育を受けたがために母国語の北京語が出来ないと私が子どもの頃こぼしていたのを憶えている。 そして定年退職後、夜学で勉強していると聞いていた。 でも、そのあと中途半端で終わらせてしまったと聞いた。 お母さまの看護・介護に時間が取られるようになったのだ。 今絢絢さんがいる台北淡水の大きな大きな老人ホームはお母さまが…

  • ビューティーサロン タイガー

    最近引越したわが家の近所にこんな建物がある。 初めて見た時には立ち止まり、しばらく眺めていた。 右側には色あせた女性の絵、たぶん極彩色のペインティングがなされていたのではなかろうか。 ネーミングもさることながら、建物の妻壁の多くを使っての手書きの大きな女性の絵にはなんだか銭湯の富士山を彷彿させられる。 通り過ぎる人たちには馴染みの風景で、空気のような存在なんだろうが、私は何度通りかかってもしばらく見てしまう。 怖いもの見たさにも似ている。 そして気が付いた。 写真を指で拡大して、窓の鉄枠を見て欲しい。 なんと、富士山の装飾がされている。 長く建設業に携わって来たがこんなのは初めてみた。 やっぱ…

  • 兼題は『春の夕焼け』だった

    遅くに帰り、一人パソコンに向かい『俳句ポスト365』 の発表の週であることを思い出した。お便りコーナーをみて「あぁ、」と声が出た。 もともと俳句のたしなみは無く、ねずみ男こと寝たきり親父先輩に誘われて始めたのだ。いまだに先輩方の言葉に逆らうことは出来ない。 この先輩にはずいぶん世話になり義理がある、 10年も前に脳梗塞で寝たきりとなり動く指だけで器用にipad を扱い私に指示を飛ばしてくる。企業戦士として闘い癒えることのない傷を負った。出来る限り、手足となろうと思っている。 二週間に一度の投稿であるがいつも締切り当日の締切り一時間くら い前から俳句とこの文章を考える。夜中はダメである、暗い文章…

  • 情け無い遠い国の話

    もう三月がそこに見えてきた。 一年が過ぎるのが早い。 年度が変わりゆくこの頃、新しい生活を始める若者は希望を胸に、転勤の辞令をもらったサラリーマンは新たな覚悟を胸に悲喜こもごもで今日の休みを準備で過ごされた方も多いのではないだろうか。 ニュースを耳にすると呆れて物も言えない事件が起きたりしている。 そんな時は音楽に切り替えるべきである。 ただ、聞いておかなければならない事も少なからずある。 どこかの国の首長が息子の営業の手伝いをしていたなんてのは、言語道断で詳しい事情は知らないが、いや、出来るならば詳らかにして欲しい。 自分の立場が分かっているならば自分の影がどれだけの影響力があるか分からない…

  • ネコの日の今日

    今日は『猫の日』だそうである。 朝から家内にそんなふうに聞く。 語呂合わせなんかで、毎日が記念日だ。 それで経済活動が活発になり、家でじっとしているお年寄りが外出したり良い事も少なからずあるのだろう。 父が他界した六年ほど前から我が家は毎日猫の日となった。 飼い主のいなくなった二匹のネコを引き取った。 愛知ではずっと家、外を行き来できる自由ネコであったが大阪では外での事故を考えて家ネコとなってもらった。 狭い家の中では不自由かとも思ったが、年齢もあってか慣れてくれた。 ネコのかわいさは何と言ってもその『自由さ』にあるのだが。 私はずっとネコとの仲は『お互い空気の感じ』を保ってきた。 しかし昨年…

  • 朝、感じたこと

    白々と明ける朝は美しい。 もう何度見たことか、あと何度見れるのか。 朝陽は勇気と力をくれる。 夕陽は安らぎといたわりをくれる。 何度この朝陽に向かってハンドルを握ったことか、ついた先には年老いた両親が待ち、動けぬ兄がソファで私を待っていた。 これが反対に朝陽を背にして進み、夕陽から逃げるように帰っていたらきっと途中で投げ出していたかも知れない。 毎日繰り返される日の出と日没、当たり前で、意識などすることのない自然の営みが実は私の人生に大きな影響を与えていたと今日の日の出を見てそう思った。 自分の中の何かが変わるのが感じられた。

  • エビチリが好きだ

    中華料理が好きである。 最近よくこのFBの中の『街の中華屋』愛好グループのサイトを眺めている。 やはり人口の多い関東圏のほうが店も多く、たくさんの美味そうな写真が登場する。 今住む八尾の近所で心当たりは無く、阿倍野あたりでもたくさんは無かった。 家でボケっと眺めているのが楽しいのである。 サイト内の登場ベスト3はラーメン、餃子、炒飯である。 リーズナブルでハズレの少なさそうなモノばかりである。 私はその次くらいに多い餡かけモノに目がいく。 餡かけ焼きそばや中華丼が好きだということもあるが、どれを見ても美味そうに撮していて、食欲をそそる。 スマートホンのカメラの性能が向上しているのは間違いない。…

  • コタツの無い生活

    寒の戻り、きれいな日本語だと思う。 風は頬を刺すまで冷たくない、やはり春はそこまでやって来ている。 コタツの無い生活を送るようになってずいぶん経つ。 学生時代の下宿生活では必需品だった。 春夏秋はテーブル代わりになり、物を持たない生活にはちょうどよいものであった。 しかし、子どもの頃ダラダラと生活するのにはコタツは本当に重宝だった。 コタツにいればそばを通り過ぎる母に用事を言うことが許され、インスタントコーヒーも持ってきてもらえ、横になってウトウトしても叱られる事はなく、毛布まで掛けてもらえた。 猫の冬の定宿にもなり、私は先に陣取る猫に遠慮して足を伸ばさなければならなかった。 コタツを置いて暖…

  • マッチ、ミスマッチの話

    今日のお昼、近鉄八尾駅の高架下のうどん屋で食べた『カツカレーうどん』 前から気になっていたテーブル・椅子のある立ち食いうどん屋である。 私的にはミスマッチだと思い、機会があってもなかなか口にすることは無かった。 しかしながら、朝方八尾でも雪がチラつきとても寒い一日だった。 さすが高架下の店、550円というリーズナブルな値段も背中を押して生まれて初めての『カツカレーうどん』を注文した。 と、言っても券売機が2台並び、そこでのチケット購入となる。 家内は肉うどん、カツカレーうどんの方が時間がかかった。 どうも先に揚げていたカツを二度揚げしているようであった。 ご覧の通りのカツカレーうどん、熱く美味…

  • 歳を感じる時

    自分の歳を感じてしまう事がいろいろある。 ここでも書いたと思うが、我が家を代表してスーパーに時々行く。 そして、買った品物を収めるさいにロールになったペラペラのビニール袋を使う。 一枚破り取るまではいいのだが、そこからがいけない。 袋の口が開けれないのだ、指がカサつき舐めるわけにもいかず、ましてやまだ続くコロナ騒ぎ渦中で置いてくれている濡れタオルも触りたくない。 いつもマイバッグに指示された獲得品を収納するのに格闘時間がかかっている。 同じく指の魔力が切れつつあるのが回転寿司のタッチパネル。 年寄りは入場禁止なのかと思ってしまう。 風呂上がりに頭髪が乾きやすくなったとか、他にも身体的に感じる年…

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